追憶の泥沼

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第一章 深夜のカウンター
薄暗い照明に照らし出されるバー「ルーム28」の奥には、カウンターがぐるりと湾曲するように伸びている。その一角で、スーツを着崩した男が一人、頭を垂れるようにして座っていた。
深夜1時近く。誰もいないわけではないが、客はまばらで、すでに翌日のことを考え始めてもおかしくない時刻だ。バーテンダーは、小奇麗なシャツを着こなしながら、同じグラスを磨いている。おそらく、ほとんど作業は終わっているのだろう。
「もう一杯…頼む」
男はかすれた声で言った。焦点の定まらない瞳と舌の回らない調子から察するに、相当酔っているらしい。だが、バーテンダーは気を悪くした様子もなく、淡々と別のボトルを取り出した。
「こいつを飲めば、少しは気が楽になるかもな」
差し出されたウイスキーを、男はぐいと煽る。目を閉じると、その顔には疲労感と後悔がありありと刻まれている。

「…探さなきゃならない人がいるんだ」
ボソリとこぼれ落ちる言葉。バーテンダーが軽く眉を上げたが、男はそのまま続ける。
「昔、俺が付き合ってた人なんだが…どこに行ったんだか、もうずっと会ってなくてな」
「そうかい。探してるんだね」
バーテンダーが相槌を打つ。男はコースターを指でなぞりながら、まるで自問自答するように言った。
「もう20年近くも昔だが、まだ見つからない。いや、探す気になれなかったのかもしれない。なにしろ…あの日から記憶がおかしくなっちまって」

バーテンダーは黙っている。男はさらにつぶやく。
「俺は…俺はちゃんと謝りたかった。なのに…あいつをあんな形で…」
そこで言葉が途切れる。何か重い過去を抱えているようだ。バーテンダーが表情を伺うも、男はしゃべる気力を失ったかのように沈黙した。結局、その夜はそれきりだった。

そのまま男はふらつく足取りでバーを出る――かと思いきや、ドアの前で立ち尽くす。そしてこちらを振り返り、酷く曖昧な笑みを浮かべながらこう言った。
「また来るからな…俺はまだ…あきらめちゃいないんだ…」

第二章 断片の始まり
翌晩、同じ時間帯。男がまたしても姿を見せた。今度はスーツの上着がしわくちゃで、ネクタイはほどかれている。ニオイはかなりきつい。バーテンダーは何も言わずにグラスを用意した。
男は一杯飲み干してから、ぽつりぽつりと話し始める。
「若い頃、俺は…まぁ、それなりに幸せだったよ。恋人がいてさ。名前は…アヤコ、だったかな、いや…ユキか? そこら辺がな、どうもハッキリしないんだよな…」
男は苦笑する。だが、その表情は自分を嘲っているようにも見える。
「…いや、確かに、アヤコって名前だった気がするんだ…いや、待て…ユキは…ああ、どっちだっけ…」

バーテンダーはあえて口を挟まず、男の混乱を見守る。やがて男は続ける。
「なあ、俺は昔、あいつと河原で夜明かししたことがあるんだ。花火大会のあとで、二人して酒に酔っ払って…ああ、あの時も酒に溺れてたんだな…」
男は唇を歪めて笑う。まるで長い悪夢から抜け出せないことを自覚しているかのようだ。
「その帰り道で、大喧嘩になった。理由は覚えていないが、何かものすごく些細なことで。あいつは怒鳴り散らして、俺は言い返して…しまいには手が出そうになって、そこで止めた、はずなんだが」

そこで言葉を濁す。止まったのか、止まらなかったのか、その境界線が本人にも曖昧なのだろう。
「翌朝、あいつの姿はなかった。俺のほうは頭が痛くて、二日酔いで、どうにも探す気力が起きなかった。結局あの日以来、会ってねえんだ…」

それだけ聞くと、喧嘩別れをした恋人の話のようにも思える。だが、男の様子はそれだけで済む話じゃないと物語っていた。どこかにもっと深い“何か”があるのだと。

「俺は…俺は本当に、あの喧嘩だけが原因であいつと会えなくなったのか? それとも…その日の夜、何かがあったんじゃないか…?」
男はテーブルを見つめる。バーテンダーは手元を少し止め、息をついた。
「探しに行ったのかい?」
「行った…はずなんだ。けど、全然思い出せない。そういや警察に聞いたこともあったのかも? ただ、そこも記憶が曖昧で…」

飲み干したグラスを見下ろしながら、男は頭を掻く。
「このままじゃ俺は一生…取り返しのつかないままだ。だから、探したいんだよ、俺は。あいつがどこにいるか…いや、本当にまだ生きてるのかさえ、俺には分からねえ」

バーテンダーは何も言わない。言葉を探しあぐねているうちに、男は次の杯を注文した。まるで苦い思い出をさらに深く抉るかのように、今夜もまた酔いは進んでいく。

第三章 荒れる語り
それから数日、男は毎晩のようにバーへやってきた。来るたびに同じような話を始め、違う部分を吐き出す。最初はバーテンダーも、ただの失恋かと思っていた。だが、その内容は日を追うごとに生々しく、危ういものになっていった。

ある夜、男は完全に出来上がっていた。頰は赤く、涙目でうわごとのように語り続ける。
「俺は彼女にプロポーズしようとしてた…いや、もしかしたら結婚してたのかもしれない。いや、でも指輪なんて買った記憶はない…どうなってるんだ?」
杯を乱暴に置く。バーテンダーがグラスを取り替えようとすると、男は手を振って制した。
「触るな…大事なんだ、このグラスが…俺の記憶の…唯一の手がかりなんだ…」
意味不明なことを言っている。

しばらく黙ったかと思うと、唐突にこう言い放った。
「俺は…あの晩、誰かを殴ったんだ。いや、もしかしたら刺したのかもしれない…」
バーテンダーはさすがに血の気が引いた。周囲の客もちらりと男を見る。
「何を言ってるんだい? 誰を、何で刺したって?」
「わからん…わからねえんだ…ただ、誰かが血を流して倒れてた、そんな光景が頭に浮かぶんだよ。あいつだったのか、それとも別の誰かだったのか…」

男は両手で顔を覆った。揺れる体は、嘔吐をこらえているのか、それとも恐怖で震えているのか。バーテンダーは声をかけようか迷ったが、男は先に話し始める。
「夢なんだろう、そうに違いない。だけど…もし本当にそんな事件があったのなら、俺は…俺は警察に捕まってるはずだ。なのに、そんな形跡はどこにもないんだよ」
男は首を振る。後ろからちらりと見ていた常連客が、ひそひそと誰かと話している気配がする。
「もしかしたら、その相手がまだどこかで生きているんじゃないか? 俺はそいつを探して…謝りたいのか、殺したいのか…ああ、頭がおかしくなりそうだ…」

男の言葉に、静かなバーが一瞬にして重苦しい空気に包まれた。バーテンダーも常連客も、どうリアクションしていいか分からない。男はそのまま椅子から転げ落ちそうになりながら、再び飲み干す。

第四章 写真の裏側
そんなある夜、男がポケットから一枚の写真を取り出す場面に遭遇する。そこには若い男と女が寄り添う姿が写っていた。
「俺と…俺の恋人…のはずだ。名前はやっぱりユキ…だったかな…ああ、もう一人いたような気もする。どうして二人じゃないんだろう…」
写真には確かに、男と女が笑顔で映っている。だが、そこにはもう一つ、何か影のような存在がある――画面の端に妙にぼやけた形で写っている人影があるのだ。心霊写真のようにも見えるが、ただのピンボケかもしれない。

「これ、いつ撮ったのかは覚えてない。だけど、後ろに誰かがいたらしい。花火大会のときかな…川辺だったか、海辺だったか…でもこの写真の背景は…建物だよな…」
男は写真をじっと見つめる。バーテンダーも覗き込むが、何の建物かはわからない。
「ねえ、これって…どこだろうな。見覚えが…あるような、ないような…」
男は頭を抱える。そのまま黙り込んでしまった。

バーテンダーは気を使って言葉を選ぶ。
「いっそ、誰かに見せてみたら? もしかしたらここを知ってる人がいるかもしれない」
「そうだな…そうかもしれない…いや、でも…警察に聞かれたりしたらどうする? 俺がもし本当に何かやってたら…」
男は小さく震えながら写真をしまう。そんな風に怯える様子を見ていると、ただの失恋には到底思えない。もっと深い闇があるのは明白だ。

第五章 記憶の空白
男の語りの中には必ず“空白”がある。それは一晩なのか、一瞬なのか、あるいは数年間なのかさえ曖昧だが、とにかく“すっぽり抜け落ちている部分”があるらしい。
「その空白に、何かがあったんだ。俺は覚えてないだけで、本当は…何か取り返しのつかないことをしたんじゃないか…そんな気がするんだ」
男はそう言って、薄い髪を掻きむしる。バーテンダーは気になることを口にした。
「仮に君が誰かを傷つけたのだとして、警察は動かなかったのかい?」
「それがわからん。俺が誰かを探していた形跡はある。けど、捜索願だの遺失物届けだの、どういうわけか当時の書類は全部処分されてるんだ…いや、処分したのは俺自身かもしれんけどな…」

男は自嘲気味に笑い、またグラスを傾ける。もし本当に罪を犯していたら、こうして街をさまよっているのは不自然かもしれない。だが、一方で何か事件が起きていたのなら、どこかに証拠があるはずだ。
「誰かに聞いてみたのかい? 彼女の家族とか、友達とか…」
「昔、友人がいただろうけど、連絡先なんて覚えてない。携帯も壊れちまって…そこからだ、すべてがダメになったのは…」
男は瞼を閉じると、やり場のない苛立ちに息を吐く。

第六章 警察沙汰の影
男の話の断片をつなぎ合わせると、どうも“彼女の失踪”にまつわる噂があったようだ。警察に届けが出されたのか、あるいはそういう話が周囲で囁かれていたのか。いずれにせよ、男は不確かながらも「彼女が行方不明になった」という事実を示唆する。

「もしそうなら、俺はその失踪に関わってる可能性がある。あいつが姿を消したのは、俺と大喧嘩したあの夜…ちょうど空白の時間があるからな」
言いながら、男は氷が溶けかけたグラスを握り締める。その様子を見ながら、バーテンダーは葛藤する。どこまで踏み込んで聞いていいのか。もしかしたら、これ以上聞けば取り返しのつかないことになるかもしれない。

同じ頃、バーに出入りする常連客の一人が、こんなことを漏らしていた。
「そういえば、あいつが『昔の新聞記事を探してる』って話をちらっとしてたぞ。なんか事件が載ってたとかで…」
新聞記事。そこには彼女の写真があったのか、あるいは事件の概要が記されていたのか。いずれにせよ、男はおそらくもう何年も、こうして断続的に“彼女を探す”生活を続けているのだろう。それでも見つからないとなると、彼女は果たして本当に存在したのかすら疑わしくなってくる。

第七章 真夜中の独白
ある深夜、客がほとんどいない時間帯。男はいつものように腰を下ろし、同じ銘柄のウイスキーを頼んだ。バーテンダーが軽く混ぜたカクテルを差し出すと、男は乱暴に手で拒む。
「ストレート…今日はロックもいらない」
バーテンダーは目を丸くするが、仕方なく琥珀色の液体をそのまま注ぐ。男は一口含むと、喉を焼く刺激に眉を顰めた。しかしすぐにもう一口…そのまま独白を始める。

「俺さ…今朝、あの写真をずっと見てたんだ。そしたら気づいたんだが、あの写真の端に写ってる“誰か”は、やっぱり彼女とは別人なんだよな。でも、それが誰か思い出せない。友達なのか、兄弟なのか、まったく分からないが…なんかすげえ不安になってさ」
男は言葉を継ぐ。
「もしかしたら、その“誰か”が事件の鍵なんじゃないかって気がしてきた。俺が本当に傷つけたのは、あの写真の端にいた奴だったのかもしれない。彼女はそれを止めようとして…いなくなった…とか、もう何が何だか…」

バーテンダーはフロアの床を軽く拭きながら、思案顔で聞いている。客は男だけだ。こういう話は外から漏れないほうがいいかもしれないと、心のどこかで思う。
「人違いかもしれないしな。写真の影なんてものは、案外ただの通行人だったりする」
慰めにもならない言葉だが、そう返すほかなかった。男は首を振る。
「いや、絶対に知ってる奴だ。俺の胸が覚えてるんだ。こう、ザワザワするような既視感っていうのかな。記憶が戻る寸前みたいで気味が悪いんだよ…」

第八章 バーテンダーの問い
男が意識を失って帰ったあと、バーテンダーは少しだけ調べ物を始める。地元の図書館やネットの新聞アーカイブを探してみたが、“二十年前の未解決事件”なんていくらでもある。どれが該当するのか、皆目見当がつかない。そもそも男の名前さえも知らないのだ。

一方、常連客の中には、男のことを“ただのアル中”と揶揄する者もいれば、「いや、なんか昔刑務所にいたとか聞いたことがあるぞ」という噂を流す者もいた。本当のところはわからない。ただ、夜な夜な同じ話を繰り返す様子を見ていると、どうやら虚言ではないように思える。

ある晩、バーテンダーは思い切って男に切り出す。
「なあ、君は自分で調べる気はないのか? ここに来て話しているだけじゃ、何も変わらないだろう?」
男はいつになく静かな口調で言った。
「俺は…何度も調べようとした。けどそのたびに、怖くなって逃げてきたんだ。このバーに。ここに来ると、少しだけ気が紛れるから…」
寂しげな目をしている。何かを告白したがっているようにも見えるが、その一線を越えられないのだろう。

第九章 事件の日
それから数日、男の姿がぱったりと消えた。いつもなら深夜になると酔いつぶれてやってくるのに、まったく現れない。バーテンダーは少し胸騒ぎがした。もしかしたら、やっと心の整理がついて、どこかへ捜索に行ったのかもしれない。あるいは、もっと悪いことが起こったか――。

そんな不安を抱えて迎えたある晩、深夜2時を回ったころに男が戻ってきた。服は汚れ、明らかに疲労困憊の顔をしている。足を引きずるようにカウンターに腰を下ろすなり、ウイスキーを注文した。
「どうしたんだい、ずいぶん荒れてるじゃないか」
「…あの写真の場所がわかったんだ」
男の視線は虚ろだが、確かな意志を宿している。

「思い出したんだ。あれは近郊のホテルのロビーだ。たしか…シーサイドホテルとかいう名前だったはず。若い頃、俺と彼女はそこで…何かをやらかしたんだよ」
「やらかしたって?」
「わからん。いや、思い出しそうなんだが、思い出せない。とにかく、俺はそのホテルに行ってみた。そしたらもう廃業していて、廃墟みたいになってたんだが…中に入ってみたら、フロントの古い帳簿に俺の名前と…彼女らしき人のサインが残ってたんだ」

男は苦しげに瞼を閉じる。
「そこにもう一人の名前もあった。…“畑山ジュン”って名前だ。全然知らないはずなのに、どこかで聞いた覚えがある。多分、写真の端に写っていたのはこいつだ…」

第十章 廃ホテルでの記憶
男は廃ホテルを探索したときのことを語り始める。埃まみれのロビー、壊れたエレベーター、カビ臭い部屋の数々。そこでうっすらと断片的な記憶が蘇ったらしい。

「俺と…彼女と…畑山ジュンって奴は、あそこで何をしていたんだ? 旅行だったのか? それとも、式の下見か…いや、もっと別の…」
男は顔をしかめ、ウイスキーを一気にあおる。
「で、気づいたんだ。俺はあのホテルの一室で、誰かと大喧嘩した。血を見た。多分、畑山ジュン…こいつが血を流して倒れ込んでた。もしかしたら彼女が庇おうとしたのかもしれない。そこまでは…思い出せたんだ」
「そいつは…生きてるのか?」
「わからない。ホテルの廃墟にそんな記録があるわけない。俺は慌てて警察に駆け込もうとしたが、何を言えばいい? 20年前のホテルで誰かが血を流したかもしれない、なんて証言、相手にされるのか?」

男の手は震えている。明らかに恐怖と自己嫌悪にさいなまれている様子だ。
「…彼女はそこで消えたんだろうか。あの日、俺が取り返しのつかないことをしたから、彼女は俺のもとを離れた。いや、そもそも彼女は生きているのか…?」

第十一章 バーテンダーの一押し
バーテンダーは男の話を聞きながら、静かに思った。もし本当に事故や事件があったのなら、嘘か真かは別として、一度きちんと調べないとこの男は一生苦しみ続けるだろう。
「調べるかい? まだ、当時を知る人間がどこかにいるかもしれない。畑山ジュンって名前がわかったなら、手がかりになるだろう」
男は声を振り絞る。
「そうだな…俺はもう逃げたくないんだ。彼女のためにも、自分のためにも。だが、もし本当に俺が人を殺しかけていたり、殺していたのだとしたら…?」
「自首するつもりでいいんじゃないか。何があったか分からないが、まずはちゃんと知ることだよ」

男はその言葉に少し安堵したように笑みを漏らす。まるで長いトンネルの先に、一筋の光が見えたとでも言うように。

第十二章 沈黙の捜索
それからしばらく、男はバーに顔を出さなかった。周囲から「あいつどうした?」という声が上がるが、誰も行方を知らない。バーテンダーは妙な胸騒ぎを覚えつつ、静かに時を過ごす。

そんなある夜、風雨の激しい深夜2時を回ったころ、男がまたしても戻ってきた。今度は一段と憔悴している。水も滴る上着のまま、ずぶ濡れでカウンターに突っ伏すように倒れ込んだ。
「おい、大丈夫か?」
バーテンダーは急いでタオルを渡す。男はかすかに頭を上げ、か細い声で言った。
「畑山ジュンの所在がわかったんだ…もう死んでる…いや、少なくとも10年前に亡くなってる。新聞記事の訃報欄で見つけたんだ…詳しい原因は書かれてなかったが…」
そこまで言うと、また意識が朦朧としたのか、言葉を失う。

第十三章 暴かれる片鱗
男が翌日再び来店したとき、バーテンダーは昨日の続きを尋ねた。
「畑山ジュンって人は亡くなっていたんだね。その死因は分からないのかい?」
「詳しいことはわからない。ただ、“10年前に都内の病院で息を引き取った”という情報だけ。家族構成も不明。それ以上の記録は見当たらなかった」

男はしきりに頭を振る。
「ただ、一つだけ手がかりがあった。畑山ジュンの知人が、彼の死に際して“若い頃の傷がもとで病状を悪化させた”みたいなことを証言してるらしい。つまり、彼は若い頃に大怪我を負ってたってことだ」
男はグラスを持つ手に力をこめる。
「もし、それが俺のせいだとしたら…? 俺があのホテルで畑山を刺した(もしくは殴った)ことで、彼は重い後遺症を抱えて、その結果…」

その仮説は恐ろしいものだった。二十年前の事件が、十年後の死を招いたかもしれない。だとすれば、男の罪の重さは計り知れない。
「じゃあ、彼女はどうしたんだい? 畑山ジュンが亡くなっていたとして、彼女の行方は?」
「そこが全く分からない。畑山ジュンの葬儀に参列していたかもしれないが、それを調べる術がない。親族の情報も得られないし…」

男は悔しそうに拳を握り締める。やり場のない焦燥感が、また一歩彼を泥沼に引きずり込む。

第十四章 酔いどれの慟哭
この夜、男はいつになく荒れた。酔いが深く回るにつれ、カウンターを叩きながら声を上げる。
「なんでだよ! なんで俺ばっかりこんな目に遭う…違う、俺が悪いんだよな…俺が全部…」
バーテンダーや周囲の客が止めようとするが、男は続ける。
「彼女は…俺をかばって姿を消したのか、それとも俺に愛想を尽かして逃げたのか…どっちでもいい、とにかく俺は会って謝りたいんだ。もし彼女がまだ生きているなら…」
男は泣き崩れるようにして肩を震わせる。周囲も声をかけられない。

そんなとき、常連の一人がぽつりと言った。
「その写真、見せてもらえないか? もしかしたら、俺も昔そこら辺に住んでたから、記憶にあるかもしれない」
その一言に男はハッと顔を上げ、写真を差し出す。常連客はじっと覗き込んだあと、首をかしげる。
「確かにこの背景はホテルだな。でも…あれ? この影の人、なんか女の人に見えるんだが。髪が長いような感じがするし…」
「女の人…? 畑山ジュンは男だったはずだぞ」
男は愕然とする。ならば写真の端に写っているのは、畑山ジュンではなく別の女性なのか?

第十五章 もうひとつの可能性
もし写真に写っている影が“もう一人の女性”だとしたら、状況は変わってくる。畑山ジュンとは別に、その場に女性がいたのかもしれない。女二人、男一人。何か三角関係めいたものがあったのだろうか。

男は混乱する。
「俺は一体、誰を探しているんだ? アヤコ、ユキ、女の名前はいくつも浮かぶが、記憶の中で入り乱れてる。もしかして、アヤコとユキは同一人物じゃなくて、二人別々の女性だったのか?」
めちゃくちゃに入り組んできた。バーテンダーも、常連客も、もう何が何だか分からない。ただ、酔いどれの男の苦悩だけは伝わってくる。

男はふらつきながらバーテンダーに向かって言った。
「俺、近いうちに…もう一度あのホテル跡に行ってみるよ。何か…まだ見落としてるものがある気がする」
バーテンダーはうなずく以外になかった。彼がそこで何を見つけるか、それが吉と出るのか凶と出るのか。今のところ想像もできない。

第十六章 廃墟の証拠
さらに数日後、男は再び姿を消した。もしかしたら、廃ホテルへ行ったのだろう。バーのスタッフや常連客は、また何か進展があるのではと半ば興味本位で待ち構えていた。

やがて男が戻ってきたのは、2週間ほど経った夜だった。髪は伸び、髭が濃くなり、見るからに憔悴している。カウンターにどさりと古びた手帳を置き、「ウイスキー…ストレート…」とだけつぶやく。
誰もが息を飲んで、その様子を見守る。男は一杯を飲み干し、深い呼吸をして話し始めた。
「見つけたんだ。あのホテルの客室に、こんな手帳が落ちてた。中は湿気でボロボロだけど、読める部分がある。多分…これは彼女のものだと思うんだ」

手帳には走り書きのようなメモが残されていた。その内容は以下のような断片が混在しているという。

・アヤコとまた会ってしまった。どうしよう、ユキには言えない。
・ジュンはすぐカッとなる性格だから、止めなきゃ。
・あの人(←名は書かれていない)がやたら酒を飲みすぎる。怖い。
・明日の朝にはここを出る。トラブルは避けたい。

どうやら、このホテルには少なくとも4人が集まっていた可能性がある。そして“あの人”という表現が、男を指しているのかもしれない。
「ジュンは男だろう? じゃあ、アヤコもユキも女性だとしたら、四角関係…だったのか? いや、三人の女性かもしれないし、もう訳が分からねえ…」
男は頭を抱える。だが、続きがあった。

手帳の最後のページは大きく破れ、判読できないが、一部分だけ文字が残っていた。

“血……取り返しのつかない……もう戻れない”

絶望的な言葉で終わっている。いったい何があったのか。男は唇を噛む。自分が何をしたのかも分からないまま、ただ罪悪感だけが肥大化していく。

第十七章 浮かび上がる事実
男の話によると、廃ホテルの別室には古い鏡台が残っており、その鏡には黒いシミのようなものが付着していた。まるで血痕のようにも見えるが、すでに時間が経ちすぎていて、判定のしようがない。

「ただ、そこに立ったときに不思議な既視感を覚えたんだ。ああ、ここで俺は誰かを…いや、あるいは自分自身を見失ったんじゃないかって…」
男は鏡台の前に立っていた自分自身の姿を想像し、震えたと言う。もしかしたら、“あの晩の真相”は既に自分の中に眠っているのかもしれないが、思い出すのが怖くて蓋をしているだけなのではないか。

第十八章 揺れる真実
そんな話を続けるうちに、男はある一筋の結論にたどり着く。
「もしかしたら…“探している”のは恋人でもなければ、アヤコやユキやジュンでもない。俺は本当は…自分自身を探してるんじゃないか?」
彼はそう言って、苦しそうに笑う。
「俺が何者なのか、何をしてきたのか、本当に彼女を愛していたのかすら、全部分からなくなっている。だから、こうして“誰か”を探し続けるふりをして、俺が俺自身の罪と向き合う理由を探しているんじゃないかって…」

男の独白を聞いていると、周囲は何とも言えない悲壮感に包まれた。誰もが、そこにいる酔いどれ男の苦悩を理解したわけではないが、言葉を失うほどの重みがあった。

第十九章 最期の告白
深夜もとうに過ぎ、外はしとしと雨が降っている。店内には男とバーテンダーしかいない。グラスが空になるたびにウイスキーを注ぎ足し、男はついに最深部の独白を始めた。
「俺はな…たぶん、何もかも失ったんだ。その理由は、俺自身が酔った勢いで取り返しのつかないことをしたからだ。誰かを傷つけ、あるいは死に追いやり、そして彼女に逃げられた…」
男は自らを責めるように語る。
「実は、ほんの断片なんだが、あの夜…彼女が俺の名を呼んだ声を思い出すんだ。すごく悲痛な声で…。俺は自分でも驚くほど怒り狂っていて、何かを握りしめていた…刃物かもしれない。ユキ! とかアヤコ! とか、必死に言葉を発していた気がするんだ。だけど、それが誰の名前かさえはっきりしない…」

バーテンダーは静かに見守る。男は握り拳を震わせ、涙を落とす。
「知りたいんだよ。どうしても思い出したい。たとえそれが地獄のような罪でも、俺は知りたいんだ。そうしないと、先へ進めない…」

第二十章 追憶の泥沼
そして――朝の光がうっすらと差し込むころ、男は最後の力を振り絞るように言った。
「俺は、たぶんもうここには来ない。自分でけりをつける。彼女を探しに行く…いや、俺自身の罪を探しに行くんだ。もし俺が戻らなかったら、そういうことだと思ってくれ…」

バーテンダーは「待てよ」と言いかけたが、男はふらりと立ち上がり、ドアへ向かう。背中越しに、かすかな声が聞こえた。
「俺が本当に探してたのは…結局、誰だったんだろうな…」

ドアが閉まる音がして、店内には静寂が戻ってきた。闇夜から朝へと移り変わる時間帯、バーテンダーはもう使い終えたグラスを一つずつ磨きながら、床を見つめて考える。男は真相をつかむことができるのか、それとも永遠に記憶の深淵に沈んでいくのか。

その後、男が戻ってくることはなかった。彼が求めた“昔の恋人”とやらは、本当に存在したのか。あるいは“自分自身の罪”を形にした幻だったのか――。すべてが霧の中だ。ただ一つ言えるのは、彼が追い求めた記憶の断片は、泥酔による揺れ動く思い出とともに、夜毎このバーで語られたこと。そこに残された写真の微かな痕跡と、破れた手帳の走り書きだけが、何かが確かに存在していたことを示している。

そして読者は問いかけられる――「本当に探していたのは誰で、語り手にとって何が真実だったのか?」
泥酔した語り手の記憶の綾。その底にあった罪悪感が現実なのか幻影なのか、今となっては知るすべはない。ただ、彼が最期に見せた悲壮な決意だけが、夜明けの街に滲みこんでいった。
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