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第二十五話
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撮影は順調に進み、一日のスケジュールはほぼ予定通り遂行された。
春は念願叶って暁人が帯刀冬哉に変身する過程を見ることができて心底嬉しそうだった。
そして嬉しそうな人がここにも、二人。
「千羽さん、なんか嬉しそうだね。何かあったの?」
「嬉しそうなのはお前もだろ。ハルに褒めちぎられてよかったな」
「……ハルが褒めちぎってたのは、俺じゃないよ」
暁人は、自分にしか聞こえない音量で言った。
「それ」暁人は、千羽の荷物の上に置かれた板チョコに目をやった。「ハルにもらったの?」
「ああ。ハルのやつ、今日がバレンタインってこと忘れてたみたいで、おやつにチョコ買って失敗したんだと。今日はケータリングもチョコ祭りだったからな。で、俺がハルにチョコもらったら食べるなんて言ったから」
千羽はバレンタインらしい包装のされてないただの板チョコを、大事そうに持ち上げる。
「ふうん。よかったね」
当のハルは、緊張が解けたのか控え室の机の上に突っ伏して寝ていた。
千羽は廊下に顔を出し、近くにいたスタッフに声をかける。
「悪い、このキャリーケース引っ張ってきてくれないか? 俺はこの荷物運ばなきゃならないから」
「ハルくん、緊張が解けちゃったんですね」
「そうらしい」
千羽はチョコをキャリーケースの外ポケットにしまい、春を背負った。
「暁人、今日泊まりだったよな」
「うん。明日はハルいないのかあ。寂しいな」
「学校なんだから仕方ないだろ。俺は七時入りだから」
「はーい。じゃあね」
暁人は静かになった控え室で一人つぶやいた。
「全く、世話が焼けるんだから」
***
車に乗せる時も、エンジンをかけた時も、春はすっかり熟睡していた。
千羽は後部座席に積んだキャリーケースから、春にもらった板チョコを取り出した。
「全く、世話の焼けるやつだな」
きっと幸せな夢を見ているに違いない春の寝顔を見て、自然と笑みがこぼれる。
そして撮影現場である建物の方へ目をやった。
「暁人、演技はうまいが詰めが甘いな」
そして視線の先に板チョコを合わせる。
千羽が手に持つ板チョコの外箱には、カカオ八十パーセントの表記があった。
「ハルが自分のおやつに、こんな苦いチョコわざわざ買うわけないだろ。それに、ここに来る前はカバンにこんなもの入ってなかったよ」
千羽は板チョコの包みを解いた。
思った通り、板チョコの外箱には明らかに一度開けた跡がある。そしてチョコを取り出すと、メッセージカードのようなものと写真が一枚、一緒に飛び出してきた。
「……前言撤回」膝の上に落ちた写真を眺めながら、千羽は悪戯っぽい笑みを浮かべた。「詰めの甘さは訂正する」
『HAPPY VALENTINE』と書かれたメッセージカードの筆跡は暁人のものだ。そして写真に写っていたのは、真っ白で派手なスーツを着込んだ春。
千羽はそのスーツに見覚えがあった。確か、ホワイトデー特集の写真撮影時に暁人が着ていた衣装だ。
「ったく、こんなものいつの間に」
千羽は声を出して笑った。それでも、隣で眠る春は起きる気配がない。
慣れない撮影に緊張していたのだろうか。中途半端な笑顔をこちらに向ける春だが、それが春らしくもあった。
おそらくこれを撮ったのは、その人の自然な表情を引き出すことに長けているカメラアシスタントの内藤あたりだろう。
千羽は、春が寝ているシートを大きく後ろへずらした。それでも春は起きない。
「どんだけ爆睡してるんだよ」
力の抜けた顔をしばらく見つめ、千羽は髪にそっと触れた。その後で、なるべく音を立てないように後部座席にキャリーケースを広げた。
櫛やワックスなどを取り出し、素早く春の髪に通していく。方々に好き勝手に跳ねたくせ毛は、ものの見事にコントロールされていった。
「──い、おい、おいってばハル」
「あ、へんばはん?」
「家、ついたぞ」
「あ、あいがとー」
春はまだ寝ぼけていた。
「ハル、俺はしばらく夕方も土日も店には行けないから、しっかり働けよ。うちに来てもいいけど、遅くならないうちにちゃんと帰るんだぞ。あと、作文と面接の練習もしとけ。もうすぐだろ? 頑張れよ受験生」
「あい……」
千羽はフラフラとした足取りの春を玄関まで連れて行き、中に入ったのを確認してから帰って行った。
「ただいまあ」
玄関で一つ大あくびをしていると、風呂上がりの母親が走ってきた。
「あ、千羽さんもう行っちゃったの? もう、寝ぼけてんじゃないわよ春」
「どしたの」
「どしたの、じゃないわコラ」
母親は春の頭を軽く叩こうと手を振り上げたモーションのままストップした。
「な、なんだよ母さん」
「なんでもない」
母親はそのまま手を下ろした。そして、春に紙袋を押し付ける。
「それ、今度会った時ちゃんと返すのよ。お礼も忘れないこと。いいわね」
そう言うと母親はさっさとリビンクに引っ込んでしまった。
「なんなんだよ……あ」
紙袋の中には、昨日春が千羽に借りたマフラーが入っていた。それと、もう一つ。
「……母さんも、ちゃっかりしてんなあ」
お礼のメッセージと、チョコレートの包みが一緒に入っていた。
「あ、でも千羽さんさっき店にはしばらく来ないって……あれ、土日は来るんだっけ? まいっか、家に置いてくれば」
春は紙袋を持って自分の部屋に向かった。
部屋に入るなりまた眠気が襲ってきて、大きなあくびが出る。そのままベッドにダイブしそうになったが、それを見越していたのか、母親の声が続けざまに春の耳に入った。風呂に入れ、歯磨きをしろ、明日の支度を終わらせろ、と。
春は重い体を引きずって洗面所へ向かった。
そして、鏡を見た瞬間眠気が吹っ飛んだ。
「だ……」
──だれだ?
一瞬そう思った。
ベタだが、ほっぺたをつねって確認する。夢ではない。
いつも言うことの効かない強情な癖っ毛が、右耳の上あたりで軽く編み込まれていてボリュームダウンしている。それでも、左側からの髪の流れで不自然なアシンメトリー感はない。むしろ分け目がいつもより左側に作られたことでワイルドさが出ている気がする。左耳の上も編み込まれていたが、耳に隠れて全く目立っていない。
鏡から一歩離れて見ると、昨日今日見た暁人の髪型と同じだ、と思った。
だが、よく見ると違う。暁人の髪は編み込まれていなかった。
全体の仕上がりとして、少し離れて見ると同じに見えるが、暁人と春とでは髪質や毛色が違うので、全く同じやり方では同じ髪型にならないのだろう。
春は写真に収めようとスマートフォンを取り出した。が、すぐに画面を伏せた。
「いつか、自分でできるようになるんだ……」
春は鏡の中の自分を、しっかり目に焼き付けた。
「……なれるのかなあ……無理そうだな……あ、やっぱり……」
カシャ。
しっかり見れば見るほど弱気になった春は、結局スマートフォンを手に取るのだった。
春は念願叶って暁人が帯刀冬哉に変身する過程を見ることができて心底嬉しそうだった。
そして嬉しそうな人がここにも、二人。
「千羽さん、なんか嬉しそうだね。何かあったの?」
「嬉しそうなのはお前もだろ。ハルに褒めちぎられてよかったな」
「……ハルが褒めちぎってたのは、俺じゃないよ」
暁人は、自分にしか聞こえない音量で言った。
「それ」暁人は、千羽の荷物の上に置かれた板チョコに目をやった。「ハルにもらったの?」
「ああ。ハルのやつ、今日がバレンタインってこと忘れてたみたいで、おやつにチョコ買って失敗したんだと。今日はケータリングもチョコ祭りだったからな。で、俺がハルにチョコもらったら食べるなんて言ったから」
千羽はバレンタインらしい包装のされてないただの板チョコを、大事そうに持ち上げる。
「ふうん。よかったね」
当のハルは、緊張が解けたのか控え室の机の上に突っ伏して寝ていた。
千羽は廊下に顔を出し、近くにいたスタッフに声をかける。
「悪い、このキャリーケース引っ張ってきてくれないか? 俺はこの荷物運ばなきゃならないから」
「ハルくん、緊張が解けちゃったんですね」
「そうらしい」
千羽はチョコをキャリーケースの外ポケットにしまい、春を背負った。
「暁人、今日泊まりだったよな」
「うん。明日はハルいないのかあ。寂しいな」
「学校なんだから仕方ないだろ。俺は七時入りだから」
「はーい。じゃあね」
暁人は静かになった控え室で一人つぶやいた。
「全く、世話が焼けるんだから」
***
車に乗せる時も、エンジンをかけた時も、春はすっかり熟睡していた。
千羽は後部座席に積んだキャリーケースから、春にもらった板チョコを取り出した。
「全く、世話の焼けるやつだな」
きっと幸せな夢を見ているに違いない春の寝顔を見て、自然と笑みがこぼれる。
そして撮影現場である建物の方へ目をやった。
「暁人、演技はうまいが詰めが甘いな」
そして視線の先に板チョコを合わせる。
千羽が手に持つ板チョコの外箱には、カカオ八十パーセントの表記があった。
「ハルが自分のおやつに、こんな苦いチョコわざわざ買うわけないだろ。それに、ここに来る前はカバンにこんなもの入ってなかったよ」
千羽は板チョコの包みを解いた。
思った通り、板チョコの外箱には明らかに一度開けた跡がある。そしてチョコを取り出すと、メッセージカードのようなものと写真が一枚、一緒に飛び出してきた。
「……前言撤回」膝の上に落ちた写真を眺めながら、千羽は悪戯っぽい笑みを浮かべた。「詰めの甘さは訂正する」
『HAPPY VALENTINE』と書かれたメッセージカードの筆跡は暁人のものだ。そして写真に写っていたのは、真っ白で派手なスーツを着込んだ春。
千羽はそのスーツに見覚えがあった。確か、ホワイトデー特集の写真撮影時に暁人が着ていた衣装だ。
「ったく、こんなものいつの間に」
千羽は声を出して笑った。それでも、隣で眠る春は起きる気配がない。
慣れない撮影に緊張していたのだろうか。中途半端な笑顔をこちらに向ける春だが、それが春らしくもあった。
おそらくこれを撮ったのは、その人の自然な表情を引き出すことに長けているカメラアシスタントの内藤あたりだろう。
千羽は、春が寝ているシートを大きく後ろへずらした。それでも春は起きない。
「どんだけ爆睡してるんだよ」
力の抜けた顔をしばらく見つめ、千羽は髪にそっと触れた。その後で、なるべく音を立てないように後部座席にキャリーケースを広げた。
櫛やワックスなどを取り出し、素早く春の髪に通していく。方々に好き勝手に跳ねたくせ毛は、ものの見事にコントロールされていった。
「──い、おい、おいってばハル」
「あ、へんばはん?」
「家、ついたぞ」
「あ、あいがとー」
春はまだ寝ぼけていた。
「ハル、俺はしばらく夕方も土日も店には行けないから、しっかり働けよ。うちに来てもいいけど、遅くならないうちにちゃんと帰るんだぞ。あと、作文と面接の練習もしとけ。もうすぐだろ? 頑張れよ受験生」
「あい……」
千羽はフラフラとした足取りの春を玄関まで連れて行き、中に入ったのを確認してから帰って行った。
「ただいまあ」
玄関で一つ大あくびをしていると、風呂上がりの母親が走ってきた。
「あ、千羽さんもう行っちゃったの? もう、寝ぼけてんじゃないわよ春」
「どしたの」
「どしたの、じゃないわコラ」
母親は春の頭を軽く叩こうと手を振り上げたモーションのままストップした。
「な、なんだよ母さん」
「なんでもない」
母親はそのまま手を下ろした。そして、春に紙袋を押し付ける。
「それ、今度会った時ちゃんと返すのよ。お礼も忘れないこと。いいわね」
そう言うと母親はさっさとリビンクに引っ込んでしまった。
「なんなんだよ……あ」
紙袋の中には、昨日春が千羽に借りたマフラーが入っていた。それと、もう一つ。
「……母さんも、ちゃっかりしてんなあ」
お礼のメッセージと、チョコレートの包みが一緒に入っていた。
「あ、でも千羽さんさっき店にはしばらく来ないって……あれ、土日は来るんだっけ? まいっか、家に置いてくれば」
春は紙袋を持って自分の部屋に向かった。
部屋に入るなりまた眠気が襲ってきて、大きなあくびが出る。そのままベッドにダイブしそうになったが、それを見越していたのか、母親の声が続けざまに春の耳に入った。風呂に入れ、歯磨きをしろ、明日の支度を終わらせろ、と。
春は重い体を引きずって洗面所へ向かった。
そして、鏡を見た瞬間眠気が吹っ飛んだ。
「だ……」
──だれだ?
一瞬そう思った。
ベタだが、ほっぺたをつねって確認する。夢ではない。
いつも言うことの効かない強情な癖っ毛が、右耳の上あたりで軽く編み込まれていてボリュームダウンしている。それでも、左側からの髪の流れで不自然なアシンメトリー感はない。むしろ分け目がいつもより左側に作られたことでワイルドさが出ている気がする。左耳の上も編み込まれていたが、耳に隠れて全く目立っていない。
鏡から一歩離れて見ると、昨日今日見た暁人の髪型と同じだ、と思った。
だが、よく見ると違う。暁人の髪は編み込まれていなかった。
全体の仕上がりとして、少し離れて見ると同じに見えるが、暁人と春とでは髪質や毛色が違うので、全く同じやり方では同じ髪型にならないのだろう。
春は写真に収めようとスマートフォンを取り出した。が、すぐに画面を伏せた。
「いつか、自分でできるようになるんだ……」
春は鏡の中の自分を、しっかり目に焼き付けた。
「……なれるのかなあ……無理そうだな……あ、やっぱり……」
カシャ。
しっかり見れば見るほど弱気になった春は、結局スマートフォンを手に取るのだった。
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