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私の名は一美

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 私の名は一美。立石一美。セントローレンス高校に通ううら若き十七歳である。部活はソフトボール部に入っている。ポジションはキャチャ―である。腕をぶんぶん振って投げて込む久美子の球をものともせずに受けている。そしてセカンドへの送球が得意である。盗塁阻止率85パーセントである。強肩中の強肩である。私の「しまっていこう」の声にナインのみんなが励まされる。そのがたいの良さと根性に男子が時々わたしのことを「女番町」といって笑いものにする。一方久美子はその美貌で学園の憧れの的である。こればかりは仕方がない。親に文句を言ったところで直るものでもない。両親はいたっては標準的な体型の持ち主であるからである。もう一つ私には別のあだ名がある。「女西郷」である。クラスの子は、私のことを「せごどん、せごどん」といってからかう。せごどんとは鹿児島弁で西郷隆盛の事を指す。言い忘れていたが、私の住んでいる街は鹿児島市内の伊敷町にある。大学は当然、旧制第七高等学校、つまりは鹿児島大学の教育学部の英語科に行こうと思っている。英語の成績がいいからだ。とはいっても、この学園はクリスチャン系の学校だから、みんな英語を得意としている。何故ローレンス高校かと言えば、理事長でもあるジョセフ神父がD.H.Lawrenceの愛読者で特に辞世の詩といわれた’The pain of loving you is almost more than I can bear.’の一文が特に大好きでいつも朗読しているほどで、学校名もD. H. Lawrenceからその名をとったということである。ジョセフ神父ほど敬虔なクリスチャンはいない。私の知る限りでは。身も心も神に捧げているのだ。
「ミス・かずみ、今日は部活はしないのかね?」ジョセフ神父が厳かな声でものを言う。
「ええ、しません。だって、久美子が怪我で部活を休むから」
「それはいけないね。どこを怪我したのかね」
「右手の指です。ただの突き指だといいんですが。今頃病院で検査してもらってます」
「そうかね。それはそれは。君は付き添わなくっていいのかね」
「本人がいいって言うから」
「ふむふむ」そう言うとジョセフ神父は一美の前から消えていなくなってしまった。
 やはり変ってるー。さてと、いまからどうしようかな?せっかくだから、県立図書館にでも行ってみるか。よし、と。
 一美はそう言うと自転車にまたがって図書館へと向かった。超猛スピードで。一美は図書館が好きだ。本の匂いと奇麗に並んだ書庫に、あのシーンとした静かな雰囲気が大好きだ。それに図書館では誰も一美のころを女番町とかせごどんという人はいない。
「あれ、あの人また来てる.。この間もこのコーナーに来てたな。そういえば」
「あれ、あの子、またここに来ているぞ。俺のタイプなんだけどなー」
 今年三十になる清四郎は、現在無職中で時間潰しに図書館にやって来る。図書館は静かだし、第一金がかからない。清四郎にとってはもっとも好都合な場所だ。
よし、ちょっと声をかけてみよう、と清四郎は思った。
「あのー、すみません。時々ここで見かけますよねー。ぼくのこと憶えています?」
「ええ、まあ」
「そうですか、ねーどうですか?このあと一緒に近くの喫茶店にでも行きませんか?」
「えっ、わたしとですか。このわたしと・・・・・」
 一美は生まれてこのかた男性に声をかけられたことがない。ピッチャーの久美子とは正反対だ。どうしようか、と一美は思ったが、こんな千載一遇のチャンスを逃すわけにはいかない。
「いいですよ」
清四郎が興奮する。「ほんとにいいんですか?僕三十ですよ」
「年はあまり関係ないでしょう、この場合」
 少し緊張気味に返事をする一美。それでも心の中はもううきうき気分で一杯だ。
 二人は三十分ほど本を読み終えると一緒に図書館を後にした。五分ほど歩くと小さな喫茶店が見つかった。
『じゃー、中に入ろうか?』
今度は清四郎が緊張する。一美はゆっくりと首を縦に振る。
二人して喫茶店にに入ると店員が近寄ってきて、『いらっしゃいませ』と言いながらグラスに入った水をテーブルの上に置いた。
「タバコ吸ってもいい?」清四郎が控え目に訊く。「いいですよ」とだけ、一美が答える。二人で席に座ると二人とも緊張が増してきたのかしばらく黙り込んだ。店員が注文を受けにやってきた。ちょうどよかった。
「僕、ペペロンチーノにコーヒブラックで」、「きみは?」
「私、サンドイッチに紅茶」」
店員は注文表を確かめると何の不思議がらずに奥の方へと向かった。
「どうして私を誘ったのですか?」
「それはその・・・・・・タイプだから」
「私が、この私が。変なの。今までそんなこと言われた事なかったわ。あなた変わりもの?」
「そう言われればそんな気もするけど。別にマニアックじゃないつもりだけど。可笑しいかな?」
「可笑しいいけど嬉しい」
「そういわれるとこちらも嬉しいいよ」
「で、どんなところが気にいったの、この私のどんなところが」
 一美は、気になってしょうがない。十七年も男と縁がなかったから仕方がない。
「どんなところって言ったって、・・・・・・じゃあ、正直に言うよ。君の体の丸っこさ。オレぽっちゃりが好きなんだ。怒らないよねー」
「うん、おこらない。私のあだ名は、せごどんなの」
「せごどんって、あの西郷さぁーのこと?うーん、言われてみればそんな気が」
 二人は吹き出してしまった。しばらくして、ちょうど見計らったように店員が注文の品を持ってきた。
「こちらでございますね。ご注文の品は以上でよろしかったでしょうか?」
「ええ」「はい」
「ところで君真っ黒に焼けているけど、何かスポーツでもやってるの?」
「ソフトボール。ポジションはキャッチャー。これでも正捕手。去年の秋の大会で準決勝まで行ったの。すごいでしょう!あなたは何かやってた?」
「公式テニスを少し。ウィンブルドンを見るのが好きでね。でも良い選手とはいえないね。補欠だったし」
「ふうん」
清四郎と一美はお互いの名前を確かめると黙々と食事に取り掛かった。彼は彼でいろいろ心を巡らし、一美は一美でこんなに幸せでいいのかしらと思い巡らせていた。二人は食事を済ませるとその喫茶店をを後にした。
「このあとどうする?」一美が尋ねた。
「うん・・・今日はここまでにしないか。いっぺんに何もかもというわけにはいかないから。どう?」
「賛成。でも今度は?」
「次の日曜、午後から図書館に来られる?」
「いいわよ。部活も休みだし。友達の久美子は体調不良だし。あいてるわ」
「じゃあそういうことで。ばいばい」
「ばいばい」
 清四郎と一美は別々の道をたどった。自宅がそれぞれ反対方向なのだ。

 次の朝、一美が学校へ着くと隣のクラスの久美子を捜し始めた。やっとのことで久美子を見つけると久美子を廊下の端へと導いた。
「久美子、聞いてよ。私、彼氏が出来ちゃった。信じられる。信じられないでしょう。私も信じられないんだから。それがね、昨日のことなんだけど・・・・・・」
 一美の口の回りの速さについて行けない久美子は次のように言った。
「ちょっと待ってよ。あんた興奮しすぎ。もう少しゆっくり喋ってよ」
 一美は、気を落ち着かせるため、三回ほど深呼吸をしてゆっくりと昨日起こったことを久美子に話した。
「それ、もしかして詐欺かなんかじゃないの?」
「何言っているのよ。彼はそんな人じゃないわ。そんなに言うんだったら次の日曜日の午後、県立図書館に来てよ。蔭からそっと観ていて」
「いいわよ。そうする。私も右手が使えなくて、手持ち無沙汰にしているから時間潰しにいいかもね」 

 次の日曜日の正午に学校で久美子と一美は待ち合わせをして県立図書館へと向かった。図書館の五百メートル近くになると二人は別々の行動をとった。久美子が後ろから誰にも悟られずに和美を追った。
 和美は不意によく父が口にする『かぐや姫』の『二十二歳の別れ』を鼻歌交じりに口ずさんだ。別れとはかけ離れているが、“十七本目からは一緒に火をつけたのが、昨日の事のように”というフレーズが心にしみた。という事は十七歳から五年間恋愛関係にあった事になる。五年といえは、清四郎労が三十五歳で和美が二十二歳になる。ちょうどどいい年の差になるとひとりほくそ笑む一美であった。
 図書館に着くと清四郎がホールのエントランスのところで待っていた。二人は黙って図書コーナーに向かった。ともに興味のある作家を探した。三島由紀夫の本だった。
 二人が小さな声で仲むつまじくしているのを見た久美子は、何か嫉妬心とでもいうかそれとも和美が傷つくんじゃないかという思いで二人の間に入って、その男に何か言おうとしたが今一歩踏み出せなかった。
 二人が図書館を出たところで久美子は二人を捕まえるなりその男に向かって言葉を発した。
「ちょっと、そこのお兄さん。わたし、一美の友人で久美子。何か身分を証明するものを見せてよ」
 戸惑った清四郎はおもむろに運転免許証をセカンドバッグから取り出した。そしてそれを久美子に手渡した。名前と住所を確認した。岩井清四郎,郡元二丁目、それだけを確認すると久美子は免許証を清四郎に戻した。ちょうど三十歳になる。和美が話していた事と一致する。思い悩んだ久美子は、ただ「一美を傷つけないでね。いいわね。もしそういうことがあったら、バットであなたのお尻をコテンパンに打ちのめすからね。覚悟しておいてね」と言ってその場を立ち去った。
 戸惑った清四郎は、「今の何、一美ちゃん」と一美に言葉を投げかけた。
「なんでもない。わたしの友人がわたしを心配して、ちょっとここまでついて来ただけ。別にたいした事じゃないから」と一美がその場を取り繕った。
「ふうん」とだけ清四郎は言った。
 全く、久美子ったら何をしでかすか分かったものじゃないわ。ひやひやもんよ。これで二人の仲が悪くなったら久美子のやつどうしてくれるのよ。
 清四郎と一美は自動販売機でコーヒーを買うと近くの公園へと赴いた。


 そして翌年の一美の誕生日にふたりで十八本のろうそくに火をつけ二人で祝った。ソフトボールで勝利したときの喜びとは格別違う喜びだった。有頂天に昇るとはこういうことだわ、とひとり心の中でつぶやく一美だった。
 それから清四郎と一美の関係は良好だった。ところがである。恋愛に現を抜かした一美はあまり勉強をしなくなった。一美は鹿児島大学を合格するという願いは叶わなかった。涙が出て仕方なかった。久美子は順当に鹿大の法文学部に合格した。
一美と久美子は二人で泣きあった。この上もなく良い彼氏を手に入れた一美はその一方で昔から憧れていた、鹿児島大学中学校教員養成課程英語科の門を叩く事は出来なかった。
 ジョセフ神父が一美に「神は乗り超えられない試練をお与えになりません。神を信じなさい。己を知り、己を信じなさい。あなたにはまだ大きな可能性が待ち受けています。前へ、上へと進みなさい」と諭して二人の前を後にした。

 結局一美は、一浪して鹿大の英文科に見事に入学した。とても嬉しいことだった。清四郎との仲は今も続いている。清四郎は、予備校で国語の講師をしながら作家を目指して文章を書き続けている。純文学とはいえないまでも、ライトノベル程度の文章しか書けないが、自分の思いを吐露できる唯一の方法は文章を書いて世間に出すことだと信じている。
清四郎と一美は今、幸せそうに吉野公園をあるきながら、行く末の幸福に満ちた思いに耽りながら世間話をしている。

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