41 / 54
第五章 夜のエレベーター⑧
しおりを挟む
翌日。
昼間のさくらヶ丘第一団地は、何事もなかったかのように平和だった。
中庭に響く子供の声。ベランダに揺れる洗濯物。商店街から漂う揚げ物の匂い。
けれど、ひとつだけ違ったことがある。
「エレベーター、昨夜から変な止まり方してないって」
由梨が、日誌をめくりながら言った。
「苦情票ゼロ。『夜、静かになった』って、おばあちゃんからお礼の電話があったわ」
「よかった……」
凛は、ほっと息をついた。
団地のあやかし騒動は、たいてい「人の事情」が収まると、自然と静まるものだ。
「でね」
由梨が、ちらりと凛を見た。
「さっき、三階の304から、洗濯物追加の申請が来たのよ」
「洗濯物追加?」
「『ベランダの物干し竿一本、貸してもらえませんか"』って。理由は、『妹の布団を干すスペースが足りない』」
その報告に、凛はふっと笑った。
「……いいじゃない」
「うん」
二人で、管理人棟の窓から三階のベランダを見上げた。
そこには、小さなピンクの布団と、子供用の枕カバーが仲良く並んでいた。その隣には、淡い色のタオルケット。風鈴の精が、その上を優しく鳴りながら回っている。
「元気?」
凛が窓越しに聞くと、風鈴の精が「元気」と、鈴の音で返したような気がした。
数日後の夕方。
管理人室で、凛と由梨が打ち合わせをしていると、扉を開けて健斗が顔をのぞかせた。
「あ」
由梨が手を振る。
「よ、三階の君」
「やめて、その言い方……」
健斗は苦笑しながら入ってきた。以前よりも、その足取りは軽く見える。
「こないだはありがとう。母さんとも、一応話したよ」
「どうだった?」
「泣いてた」
「だろうね」
三人で苦笑する。
「でも、『前のところに戻りたい』って言ったら、戻れない理由をちゃんと教えてくれた。前の街のアパート、もう別の人が入居してるんだって」
「めちゃくちゃ現実的だね」
「で、『今のところで、一緒にマシな暮らし方探そう』って……たぶん、母さんも限界だったんだと思う」
健斗は、少し照れくさそうに頭をかいた。その仕草には、少しだけ安心した様子が見て取れる。
「……でさ、管理人さん」
「ん?」
「なんか、ここでできること、ない?」
「できること?」
凛は眉を上げた。
「別に、団地のためとかじゃなくて……自分の居場所——って言うとダサいけど。部屋と学校以外に、どっか『行ってもいい場所』があったら、ちょっと楽かなって」
その言葉に、由梨の目がきらりと光った。
「あるわよ」
「即答!?」
「本屋のおじさん、ずっと言ってたのよ。『若い子で、手伝ってくれる子いないかなぁ。本の束は重くて、腰にくるんだよ』って」
「え、あの本屋、営業してるんだ。てっきり、つぶれてると思ってた……」
健斗の言葉に、凛は吹き出した。凜も最初はずっとそう思っていたからだ。
「お店、バイト代出せるほど余裕ないけど、『手伝ってくれたらジュース奢る』程度なら、たぶんできると思う。放課後一時間ぐらい、とか」
「それって、ただのタダ働きでは……」
「ジュースと立ち読みし放題と、おじさんのしょうもない昔話付き」
「最後の、いらない」
三人で笑った。
健斗の顔は、嬉しそうだった。その目には、以前とは違う明るさが宿っている。
「……ちょっと、考えとく。部屋と学校以外に、『サボる場所』があればうれしいから」
「『サボる場所』って言い方、やめて。せめて『息抜き場所』にしとこう」
凛が笑う。
「じゃあ、息抜き場所候補ってことで」
健斗は、軽く手を挙げて管理人室を出ていった。
その背中を見送りながら、凛は小さくつぶやいた。
「……よかったね、狐さん」
エレベーターの階数表示盤が、一瞬「3」と「◎」のような謎の記号を点滅させた。
「『サンキュー』って意味らしいわよ」
由梨が、適当な解釈をくっつける。
「エレベーター、最近スムーズよね。『様子見停車』しなくて済むようになったから」
「狐さん、完全に『過保護な安全管理主任』だね」
「そのうち名刺作ってあげようか。『さくらヶ丘第一団地A棟 階数表示盤狐・安全管理主任』って」
「やめて。人間の住人に説明できないでしょ?」
昼間のさくらヶ丘第一団地は、何事もなかったかのように平和だった。
中庭に響く子供の声。ベランダに揺れる洗濯物。商店街から漂う揚げ物の匂い。
けれど、ひとつだけ違ったことがある。
「エレベーター、昨夜から変な止まり方してないって」
由梨が、日誌をめくりながら言った。
「苦情票ゼロ。『夜、静かになった』って、おばあちゃんからお礼の電話があったわ」
「よかった……」
凛は、ほっと息をついた。
団地のあやかし騒動は、たいてい「人の事情」が収まると、自然と静まるものだ。
「でね」
由梨が、ちらりと凛を見た。
「さっき、三階の304から、洗濯物追加の申請が来たのよ」
「洗濯物追加?」
「『ベランダの物干し竿一本、貸してもらえませんか"』って。理由は、『妹の布団を干すスペースが足りない』」
その報告に、凛はふっと笑った。
「……いいじゃない」
「うん」
二人で、管理人棟の窓から三階のベランダを見上げた。
そこには、小さなピンクの布団と、子供用の枕カバーが仲良く並んでいた。その隣には、淡い色のタオルケット。風鈴の精が、その上を優しく鳴りながら回っている。
「元気?」
凛が窓越しに聞くと、風鈴の精が「元気」と、鈴の音で返したような気がした。
数日後の夕方。
管理人室で、凛と由梨が打ち合わせをしていると、扉を開けて健斗が顔をのぞかせた。
「あ」
由梨が手を振る。
「よ、三階の君」
「やめて、その言い方……」
健斗は苦笑しながら入ってきた。以前よりも、その足取りは軽く見える。
「こないだはありがとう。母さんとも、一応話したよ」
「どうだった?」
「泣いてた」
「だろうね」
三人で苦笑する。
「でも、『前のところに戻りたい』って言ったら、戻れない理由をちゃんと教えてくれた。前の街のアパート、もう別の人が入居してるんだって」
「めちゃくちゃ現実的だね」
「で、『今のところで、一緒にマシな暮らし方探そう』って……たぶん、母さんも限界だったんだと思う」
健斗は、少し照れくさそうに頭をかいた。その仕草には、少しだけ安心した様子が見て取れる。
「……でさ、管理人さん」
「ん?」
「なんか、ここでできること、ない?」
「できること?」
凛は眉を上げた。
「別に、団地のためとかじゃなくて……自分の居場所——って言うとダサいけど。部屋と学校以外に、どっか『行ってもいい場所』があったら、ちょっと楽かなって」
その言葉に、由梨の目がきらりと光った。
「あるわよ」
「即答!?」
「本屋のおじさん、ずっと言ってたのよ。『若い子で、手伝ってくれる子いないかなぁ。本の束は重くて、腰にくるんだよ』って」
「え、あの本屋、営業してるんだ。てっきり、つぶれてると思ってた……」
健斗の言葉に、凛は吹き出した。凜も最初はずっとそう思っていたからだ。
「お店、バイト代出せるほど余裕ないけど、『手伝ってくれたらジュース奢る』程度なら、たぶんできると思う。放課後一時間ぐらい、とか」
「それって、ただのタダ働きでは……」
「ジュースと立ち読みし放題と、おじさんのしょうもない昔話付き」
「最後の、いらない」
三人で笑った。
健斗の顔は、嬉しそうだった。その目には、以前とは違う明るさが宿っている。
「……ちょっと、考えとく。部屋と学校以外に、『サボる場所』があればうれしいから」
「『サボる場所』って言い方、やめて。せめて『息抜き場所』にしとこう」
凛が笑う。
「じゃあ、息抜き場所候補ってことで」
健斗は、軽く手を挙げて管理人室を出ていった。
その背中を見送りながら、凛は小さくつぶやいた。
「……よかったね、狐さん」
エレベーターの階数表示盤が、一瞬「3」と「◎」のような謎の記号を点滅させた。
「『サンキュー』って意味らしいわよ」
由梨が、適当な解釈をくっつける。
「エレベーター、最近スムーズよね。『様子見停車』しなくて済むようになったから」
「狐さん、完全に『過保護な安全管理主任』だね」
「そのうち名刺作ってあげようか。『さくらヶ丘第一団地A棟 階数表示盤狐・安全管理主任』って」
「やめて。人間の住人に説明できないでしょ?」
0
あなたにおすすめの小説
冷徹宰相様の嫁探し
菱沼あゆ
ファンタジー
あまり裕福でない公爵家の次女、マレーヌは、ある日突然、第一王子エヴァンの正妃となるよう、申し渡される。
その知らせを持って来たのは、若き宰相アルベルトだったが。
マレーヌは思う。
いやいやいやっ。
私が好きなのは、王子様じゃなくてあなたの方なんですけど~っ!?
実家が無害そう、という理由で王子の妃に選ばれたマレーヌと、冷徹宰相の恋物語。
(「小説家になろう」でも公開しています)
後宮の手かざし皇后〜盲目のお飾り皇后が持つ波動の力〜
二位関りをん
キャラ文芸
龍の国の若き皇帝・浩明に5大名家の娘である美華が皇后として嫁いできた。しかし美華は病により目が見えなくなっていた。
そんな美華を冷たくあしらう浩明。婚儀の夜、美華の目の前で彼女付きの女官が心臓発作に倒れてしまう。
その時。美華は慌てること無く駆け寄り、女官に手をかざすと女官は元気になる。
どうも美華には不思議な力があるようで…?
退屈令嬢のフィクサーな日々
ユウキ
恋愛
完璧と評される公爵令嬢のエレノアは、順風満帆な学園生活を送っていたのだが、自身の婚約者がどこぞの女生徒に夢中で有るなどと、宜しくない噂話を耳にする。
直接関わりがなければと放置していたのだが、ある日件の女生徒と遭遇することになる。
美男美女の同僚のおまけとして異世界召喚された私、ゴミ無能扱いされ王城から叩き出されるも、才能を見出してくれた隣国の王子様とスローライフ
さら
恋愛
会社では地味で目立たない、ただの事務員だった私。
ある日突然、美男美女の同僚二人のおまけとして、異世界に召喚されてしまった。
けれど、測定された“能力値”は最低。
「無能」「お荷物」「役立たず」と王たちに笑われ、王城を追い出されて――私は一人、行くあてもなく途方に暮れていた。
そんな私を拾ってくれたのは、隣国の第二王子・レオン。
優しく、誠実で、誰よりも人の心を見てくれる人だった。
彼に導かれ、私は“癒しの力”を持つことを知る。
人の心を穏やかにし、傷を癒す――それは“無能”と呼ばれた私だけが持っていた奇跡だった。
やがて、王子と共に過ごす穏やかな日々の中で芽生える、恋の予感。
不器用だけど優しい彼の言葉に、心が少しずつ満たされていく。
魔法師団長の家政婦辞めたら溺愛されました【完結】
iru
恋愛
第19回 恋愛小説大賞エントリーしています。ぜひ1票お願いします。
小説家になろうですでに完結済みの作品です。よければお気に入りブックマークなどお願いします。
両親と旅をしている途中、魔物に襲われているところを、魔法師団に助けられたティナ。
両親は亡くなってしまったが、両親が命をかけて守ってくれた自分の命を無駄にせず強く生きていこうと決めた。
しかし、肉親も家もないティナが途方に暮れていると、魔物から助けてくれ、怪我の入院まで面倒を見てくれた魔法師団の団長レオニスから彼の家政婦として住み込みで働かないと誘われた。
魔物から助けられた時から、ひどく憧れていたレオニスの誘いを、ティナはありがたく受ける事にした。
自分はただの家政婦だと強く言い聞かせて、日に日に膨らむ恋心を抑え込むティナだった。
一方、レオニスもティナにどんどん惹かれていっていた。
初めはなくなった妹のようで放っては置けないと家政婦として雇ったが、その健気な様子に強く惹かれていった。
恋人になりたいが、年上で雇い主。
もしティナも同じ気持ちでないなら仕事まで奪ってしまうのではないか。
そんな思いで一歩踏み出せないレオニスだった。
そんな中ある噂から、ティナはレオニスの家政婦を辞めて家を出る決意をする。
レオニスは思いを伝えてティナを引き止めることができるのか?
両片思いのすれ違いのお話です。
あやかし家族 〜五人の兄と愛され末妹〜
南 鈴紀
キャラ文芸
妖狩りにより両親を奪われ、囚われの身となった半妖の少女・鈴音は浄化の狐火を利用するだけの道具のように扱われていた。呪いにより成長は止まり、容姿も思考も幼いまま、感情が消え失せてもなおただ生かされるままに生きていた。
しかし妖保護部隊本部第一部隊との出会いにより、鈴音の止まっていた時間が動き出す。
掴みどころはないが頼れる氏神・雅仁、兄には厳しいが弟妹には優しい狼の妖・千里、人間嫌いだが人当たりの良い振りが得意な人間・遥杜、可愛いもの好きで元気いっぱいの猫又・鴇羽、大人しいが思いやりに溢れる猫又・瑠璃。
五人の兄と過ごす時間の中で、無いものだらけだった鈴音にもやがて大切なものが増えていく。
妖×家族の心温まる和風ファンタジー。
王宮侍女は穴に落ちる
斑猫
恋愛
婚約破棄されたうえ養家を追い出された
アニエスは王宮で運良く職を得る。
呪われた王女と呼ばれるエリザベ―ト付き
の侍女として。
忙しく働く毎日にやりがいを感じていた。
ところが、ある日ちょっとした諍いから
突き飛ばされて怪しい穴に落ちてしまう。
ちょっと、とぼけた主人公が足フェチな
俺様系騎士団長にいじめ……いや、溺愛され
るお話です。
勇者の婿取り~強面女性騎士と報奨の王子~
小西あまね
恋愛
国王が布告を出した。強大な魔物を倒した勇者に王女を与える--
クレシュは顔に大きな傷がある頑健な強面騎士。魔物討伐は職務を果たしただけだったのに、勇者として思わぬ報奨を得てしまい困惑する。
「……うちに美人がいるんです」
「知ってる。羨ましいな!」
上司にもからかわれる始末。
--クレシュが女性であったために、王女の代わりに王子ヴェルディーンを婿に与えられたのだ。
彼も彼なりに事情があり結婚に前向きで…。
勇猛果敢で生真面目な27歳強面女性騎士と、穏やかだが芯の強い美貌の24歳王子。
政争やら悪者退治やら意外と上手くいっている凸凹夫婦やらの話。
嫉妬や当て馬展開はありません。
戦闘シーンがあるので一応残酷な描写ありタグを付けますが、表現は極力残酷さを抑えた全年齢です。
全18話、予約投稿済みです。
当作品は小説家になろうにも投稿しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる