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3章 藤枝宮子(ふじえだみやこ)
第30話 リップクロスゲーム
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今日だ、今日が最後の日だ。
この日を逃せば、男に戻れなくなる。
会長は、いったい何を願ったんだろうか。
まさか、俺みたいに元男ってことはないよな?
いや、それはないはずだ。
なぜなら会長に何かが起こったのは、去年の候補者選挙と本選挙の間だからだ。それまで、まさか女装して通学していたなんてことはあるまい。そんな変態は城ヶ崎ひとりで十分だ。
やっぱり、人の心を操るとか、そういった力を欲したのだろう。俺は操られた覚えがないのだけれど、今の周りの子達や杏子の様子を見るに、そういうことなのだろうと思う。
会長は体育館の壇上で、いつものごとく深いよく通る声を響かせていた。周りを見ると、確かにみんな一人残らずぼうっとして会長を見上げている。中には倒れた子さえいた。
今はとにかく、会長とのキスだ。他に何か問題があるのなら、そのあとで考えればいい。
じりじりする気持ちを抑えながら4時間目を終えて昼食の時間。俺は買ってきたパンを腹に詰め込んで、生徒会棟に向かった。
もう戦略も何もない。ギャルゲーはおしまいだ。これからは会長に拒まれる前にくちびるとくちびるを接触させる緻密なアクションゲームになります。コインを入れてね。
「結局こうなるのだから、デートの夜に好意を受け入れておけば良かったものを。人間は不合理だ」
鞄の中から、ネクロノミコンがため息混じりにぶつくさと話しかけてくる。
「物事には順序ってもんがあるんだよ」
「それが不合理だと言っているんだ。なぜ人間は短い人生の中に起こる苦い些事を一息に飲み込まず、バターのようにあっちこっちに塗り広げて味わい尽くそうとするのだろう。それで人生の味は苦いというのだから救えない。孔子はそれが酸いと知り、ブッダはそれを苦いと呼び、老子はそれを甘いと言った」
「うるっせえよ」
「ハルカはうるさいと言った。そう、人生はうるさい」
「お前のせいでな!」
廊下の角を曲がると、驚いたことに会長はそこにいた。
ところが、とてもくちびるを奪える状況ではない。というのも――。
「あら、ごきげんようハルカちゃん」
里奈さまは、いつものように朗らかに微笑む。俺は足を止めた。
「ごきげんよう、里奈さま……」
富永里奈――去年の生徒会選挙までは、この人が会長を抜いて全校で1番の人気を集めていたのだ。
しかし今、会長とのキスに踏み切れないのは、彼女がいるためではなかった。会長は気を失っていたのだ。長い睫毛を伏せて、長い手足をだらりと下げ、横から抱えられている。もちろん、里奈さまにではない。会長を抱えているのは、サングラスをかけた背の高い男だった。
――どういう状況?
「あの、里奈さま。会長、どうされたんですか?」
俺が尋ねると、里奈さまは笑顔のまま答えた。
「宮子、生徒会室で貧血起こしちゃったのよ。最近ちょっと疲れていたみたいね」
「この方は……?」
サングラスの男に目をやると、男は軽く会釈をした。それにあわせて、会長の長い黒髪が揺れり。俺もぺこりと頭を下げると、里奈さまが言った。
「あなたは転校してきたばかりで知らないのね。彼は我が校の保健の先生よ」
いつ行ってもいなかったクリスチナ女学園の保健の先生が、まさかこんな筋骨隆々の大男だったとは。しかもサングラスて。俺が驚いていると、里奈さまはますます笑みを深くした。
「ミミコちゃんの映画、楽しかった?」
里奈さまの口から出た「ミミコちゃん」という単語にどきりとする。姉と杏子の様子を鑑みるかぎり、よほどのミミコちゃんフリークでなければミミコちゃんと俺の関連性には気付かないようだけれど。
「はい、楽しかったです。里奈さまが予約を取って下さったって聞きました。ありがとうございます」
「いいのよ。でも、映画の内容なんて、そんなに覚えてないんじゃない?」
彼女は微笑みを湛えたまま、俺の目をまっすぐに見据えた。
「宮子とデートだもん。映画なんて見ていられなかったでしょう」
「それは……そうかもです」
どう答えたらいいかわからなくて思わず下を向くと、里奈さまはころころと笑った。
「うふふ、選んだ甲斐なかったなあ」
「すみません……」
「冗談よ。いじわる言ってごめんね」
じゃあ行くね、と里奈さまが歩き出すと、それに会長を抱えた先生がその後に続いた。里奈さまが先なんだ――。俺は奇妙な違和感を覚えながらも、そのまま引き返すのは不自然だから、来たとおりに廊下を進んだ。
「会長が早退でもしたら、また寮に忍び込むことになるぞ」
「わかってるよ」
ネクロノミコンと話しながら、突き当たりの階段を昇って教室に向かう。今保健室に行っても、里奈さまと先生がいるだろうから、こうなれば5時間目が終わったあたりに、お見舞いのふりして保健室に行くのが一番だろう。
ベッドで眠っている会長に、そっと口づけするのだ。
「ハルカ……あなた……」
「王子様のキスですわ、会長。いえ、白雪姫……」
完璧な流れじゃないか。会長の貧血は天佑だ。
教室に戻る途中、廊下で杏子に会った。
「会長のところ……行ってきたの?」
「行く途中だったんだけどさ、会長が貧血起こしたみたいで。保健室に運ばれてた」
「え!? それ、大丈夫なの? いや、会長もなんだけど、私たちも……」
杏子が心配そうに尋ねる。それはそうだ、今日中に俺が会長とキスできなければ、杏子は男になってしまう。
「大丈夫、保健室で休むみたいだったから」
「にしても、気を失って運ばれてたんでしょ?」
「うん、保健の先生に。初めて会ったよ」
ふたりで歩きながら話をしていたのだが、俺の言葉で杏子は不意に足を止めた。
「……待って、保健の吉本先生が会長を運んでたの? ひとりで?」
杏子にあわせて、俺も足を止める。
「うん。里奈さまも一緒にいたけど、会長を抱えてたのは先生だけだった。それがどうかしたのか?」
杏子は丸い目でまじまじと俺を見た。
「だってあの先生だよ。会長はスリムだけど、結構背があるじゃない」
「それはそうだけど、先生なら問題ないだろ。あんだけタッパあったらさ……」
「待って、それ本当に吉本先生?」
「名前までは知らなかったけど……」
俺はさっき出会った大男を頭に思い浮かべた。
「この学校では、珍しいタイプだよな」
「それはそうね。いつも白衣着てて」
「黒いスーツで」
「小柄で」
「ムキムキで」
「ちょっと子供っぽい顔立ちで」
「いかついサングラスかけてて」
「ちょっと待って誰よそれ、完全に別人じゃない!」
俺と杏子の吉本先生像は、まったく重なる気配がない。
「いやな予感がしてきた」
俺は踵を返し、スカートのプリーツをはためかせながら、廊下を走り階段を駆け下りる。1階の廊下に戻ったが、里奈さまたちはもういない。念のため保健室を覗いてみたが、相変わらずの無人だった。
「ちょっと待ちなさいよ!」
杏子が後ろから走ってくる。
「会長、どこいったの?」
「……わかんない」
まずい、非常にまずい。
保健室にいないとしたら、里奈さまたちはどこに向かっていたんだ?
この先にあるのは、調理実習室に、美術室、それから――。
「靴脱ぎ場……外だ!」
俺たちは走って靴箱に向かい、ローファーに履き替えて外に出た。
納入業者用の駐車場に、黒いバンが止まっている。
そこにさっきの黒服ニセ吉本先生と、気を失ったまま後部座席に連れ込まれる会長の姿が見えた。助手席には、里奈さまが乗り込もうとしている。
「会長……里奈さま!」
「………」
里奈さまはちらりとこちらに視線を送ったが、その目にいつもの笑みはない。
扉が閉まり、車が動き出した。呆然と立ち尽くす俺たちの前を横切って、校門に向かって走り去って行く。
「……誘拐じゃねえか!」
よりによって、キス期限最後の日に会長が誘拐された。しかもその犯人は里奈さま。あまりのことに状況が飲み込めない。警察? でもそんな時間は――俺たちが追うしかない。
しかし相手は車だ。いくらミミコちゃんが俊足でも車には追いつけない。俺は周囲を見渡した。駐車場の隣には駐輪場がある。走り寄ると、見覚えのあるバイクが置いてあった。
「こいつは……」
忘れもしない。薫風寮に忍び込んだあの夜、死闘を繰り広げたあのバイク。ホッケーマスクの影が脳裏に浮かんだ。
薫風寮の前に止まっていた、これは筮村さんのバイクだ。
「杏子、コレ鍵刺さってる……」
車を追うには、これを使わせて頂くしかない。筮村さんに見つかったら、確実にチェーンソーで八つ裂きにされるが、しかし四の五の言ってはいられる状況ではなかった。杏子に視線を送ると、彼女もこくりと頷いた。バイクに乗れるのは杏子だけだ。
「……わかったわ」
杏子は駐輪場から大きなバイクを出すと、細い足を高く上げて跨がった。身長2メートル近い筮村さんのバイクだから、どうにも足下が心許ない。それでも杏子はキーを回して、ローファーのつま先を伸ばしスターターをキックした。腹の底に響くようなエンジン音。
「乗って!」
言われる前に、俺は後部座席に跨がって杏子の小さな背中にしがみついた。あの夜と違って、杏子はいつもの杏子だ。
杏子がグリップを捻ると、4ストロークのエンジンが唸りを上げる。前輪がふわりと浮いたかと思うと、砂埃を巻き上げながら黒いバイクが走り出す。
「ちょっと、あなたたち! どこに行くの!?」
花壇に水をやっていた担任の先生が、大声をあげた。創立100年を越えるクリスチナ女学園の歴史の中で、盗んだバイクで走り出す生徒がいったい何人いただろう。しかも2回目。
「すいません、早退します!」
砂埃の向こうで、先生の声がかき消えた。校門に向かうと、警備員さんが慌てて詰め所から飛び出してくる。そりゃそうだ。
「君たち何やってんの!」
「すいません!」
警備員さんの横をすり抜けて、俺たちのバイクは外の道に出た。
「ああもう! お母さんにバレたら殺される!」
杏子が呻く。辺りを見渡すと、駅に続く道の向こうに黒いバンが見えた。
「ほらあそこ、曲がり角!」
俺が指さすと、杏子は頷いてグリップを捻る。
ポニーテールが風にはためいた。
この日を逃せば、男に戻れなくなる。
会長は、いったい何を願ったんだろうか。
まさか、俺みたいに元男ってことはないよな?
いや、それはないはずだ。
なぜなら会長に何かが起こったのは、去年の候補者選挙と本選挙の間だからだ。それまで、まさか女装して通学していたなんてことはあるまい。そんな変態は城ヶ崎ひとりで十分だ。
やっぱり、人の心を操るとか、そういった力を欲したのだろう。俺は操られた覚えがないのだけれど、今の周りの子達や杏子の様子を見るに、そういうことなのだろうと思う。
会長は体育館の壇上で、いつものごとく深いよく通る声を響かせていた。周りを見ると、確かにみんな一人残らずぼうっとして会長を見上げている。中には倒れた子さえいた。
今はとにかく、会長とのキスだ。他に何か問題があるのなら、そのあとで考えればいい。
じりじりする気持ちを抑えながら4時間目を終えて昼食の時間。俺は買ってきたパンを腹に詰め込んで、生徒会棟に向かった。
もう戦略も何もない。ギャルゲーはおしまいだ。これからは会長に拒まれる前にくちびるとくちびるを接触させる緻密なアクションゲームになります。コインを入れてね。
「結局こうなるのだから、デートの夜に好意を受け入れておけば良かったものを。人間は不合理だ」
鞄の中から、ネクロノミコンがため息混じりにぶつくさと話しかけてくる。
「物事には順序ってもんがあるんだよ」
「それが不合理だと言っているんだ。なぜ人間は短い人生の中に起こる苦い些事を一息に飲み込まず、バターのようにあっちこっちに塗り広げて味わい尽くそうとするのだろう。それで人生の味は苦いというのだから救えない。孔子はそれが酸いと知り、ブッダはそれを苦いと呼び、老子はそれを甘いと言った」
「うるっせえよ」
「ハルカはうるさいと言った。そう、人生はうるさい」
「お前のせいでな!」
廊下の角を曲がると、驚いたことに会長はそこにいた。
ところが、とてもくちびるを奪える状況ではない。というのも――。
「あら、ごきげんようハルカちゃん」
里奈さまは、いつものように朗らかに微笑む。俺は足を止めた。
「ごきげんよう、里奈さま……」
富永里奈――去年の生徒会選挙までは、この人が会長を抜いて全校で1番の人気を集めていたのだ。
しかし今、会長とのキスに踏み切れないのは、彼女がいるためではなかった。会長は気を失っていたのだ。長い睫毛を伏せて、長い手足をだらりと下げ、横から抱えられている。もちろん、里奈さまにではない。会長を抱えているのは、サングラスをかけた背の高い男だった。
――どういう状況?
「あの、里奈さま。会長、どうされたんですか?」
俺が尋ねると、里奈さまは笑顔のまま答えた。
「宮子、生徒会室で貧血起こしちゃったのよ。最近ちょっと疲れていたみたいね」
「この方は……?」
サングラスの男に目をやると、男は軽く会釈をした。それにあわせて、会長の長い黒髪が揺れり。俺もぺこりと頭を下げると、里奈さまが言った。
「あなたは転校してきたばかりで知らないのね。彼は我が校の保健の先生よ」
いつ行ってもいなかったクリスチナ女学園の保健の先生が、まさかこんな筋骨隆々の大男だったとは。しかもサングラスて。俺が驚いていると、里奈さまはますます笑みを深くした。
「ミミコちゃんの映画、楽しかった?」
里奈さまの口から出た「ミミコちゃん」という単語にどきりとする。姉と杏子の様子を鑑みるかぎり、よほどのミミコちゃんフリークでなければミミコちゃんと俺の関連性には気付かないようだけれど。
「はい、楽しかったです。里奈さまが予約を取って下さったって聞きました。ありがとうございます」
「いいのよ。でも、映画の内容なんて、そんなに覚えてないんじゃない?」
彼女は微笑みを湛えたまま、俺の目をまっすぐに見据えた。
「宮子とデートだもん。映画なんて見ていられなかったでしょう」
「それは……そうかもです」
どう答えたらいいかわからなくて思わず下を向くと、里奈さまはころころと笑った。
「うふふ、選んだ甲斐なかったなあ」
「すみません……」
「冗談よ。いじわる言ってごめんね」
じゃあ行くね、と里奈さまが歩き出すと、それに会長を抱えた先生がその後に続いた。里奈さまが先なんだ――。俺は奇妙な違和感を覚えながらも、そのまま引き返すのは不自然だから、来たとおりに廊下を進んだ。
「会長が早退でもしたら、また寮に忍び込むことになるぞ」
「わかってるよ」
ネクロノミコンと話しながら、突き当たりの階段を昇って教室に向かう。今保健室に行っても、里奈さまと先生がいるだろうから、こうなれば5時間目が終わったあたりに、お見舞いのふりして保健室に行くのが一番だろう。
ベッドで眠っている会長に、そっと口づけするのだ。
「ハルカ……あなた……」
「王子様のキスですわ、会長。いえ、白雪姫……」
完璧な流れじゃないか。会長の貧血は天佑だ。
教室に戻る途中、廊下で杏子に会った。
「会長のところ……行ってきたの?」
「行く途中だったんだけどさ、会長が貧血起こしたみたいで。保健室に運ばれてた」
「え!? それ、大丈夫なの? いや、会長もなんだけど、私たちも……」
杏子が心配そうに尋ねる。それはそうだ、今日中に俺が会長とキスできなければ、杏子は男になってしまう。
「大丈夫、保健室で休むみたいだったから」
「にしても、気を失って運ばれてたんでしょ?」
「うん、保健の先生に。初めて会ったよ」
ふたりで歩きながら話をしていたのだが、俺の言葉で杏子は不意に足を止めた。
「……待って、保健の吉本先生が会長を運んでたの? ひとりで?」
杏子にあわせて、俺も足を止める。
「うん。里奈さまも一緒にいたけど、会長を抱えてたのは先生だけだった。それがどうかしたのか?」
杏子は丸い目でまじまじと俺を見た。
「だってあの先生だよ。会長はスリムだけど、結構背があるじゃない」
「それはそうだけど、先生なら問題ないだろ。あんだけタッパあったらさ……」
「待って、それ本当に吉本先生?」
「名前までは知らなかったけど……」
俺はさっき出会った大男を頭に思い浮かべた。
「この学校では、珍しいタイプだよな」
「それはそうね。いつも白衣着てて」
「黒いスーツで」
「小柄で」
「ムキムキで」
「ちょっと子供っぽい顔立ちで」
「いかついサングラスかけてて」
「ちょっと待って誰よそれ、完全に別人じゃない!」
俺と杏子の吉本先生像は、まったく重なる気配がない。
「いやな予感がしてきた」
俺は踵を返し、スカートのプリーツをはためかせながら、廊下を走り階段を駆け下りる。1階の廊下に戻ったが、里奈さまたちはもういない。念のため保健室を覗いてみたが、相変わらずの無人だった。
「ちょっと待ちなさいよ!」
杏子が後ろから走ってくる。
「会長、どこいったの?」
「……わかんない」
まずい、非常にまずい。
保健室にいないとしたら、里奈さまたちはどこに向かっていたんだ?
この先にあるのは、調理実習室に、美術室、それから――。
「靴脱ぎ場……外だ!」
俺たちは走って靴箱に向かい、ローファーに履き替えて外に出た。
納入業者用の駐車場に、黒いバンが止まっている。
そこにさっきの黒服ニセ吉本先生と、気を失ったまま後部座席に連れ込まれる会長の姿が見えた。助手席には、里奈さまが乗り込もうとしている。
「会長……里奈さま!」
「………」
里奈さまはちらりとこちらに視線を送ったが、その目にいつもの笑みはない。
扉が閉まり、車が動き出した。呆然と立ち尽くす俺たちの前を横切って、校門に向かって走り去って行く。
「……誘拐じゃねえか!」
よりによって、キス期限最後の日に会長が誘拐された。しかもその犯人は里奈さま。あまりのことに状況が飲み込めない。警察? でもそんな時間は――俺たちが追うしかない。
しかし相手は車だ。いくらミミコちゃんが俊足でも車には追いつけない。俺は周囲を見渡した。駐車場の隣には駐輪場がある。走り寄ると、見覚えのあるバイクが置いてあった。
「こいつは……」
忘れもしない。薫風寮に忍び込んだあの夜、死闘を繰り広げたあのバイク。ホッケーマスクの影が脳裏に浮かんだ。
薫風寮の前に止まっていた、これは筮村さんのバイクだ。
「杏子、コレ鍵刺さってる……」
車を追うには、これを使わせて頂くしかない。筮村さんに見つかったら、確実にチェーンソーで八つ裂きにされるが、しかし四の五の言ってはいられる状況ではなかった。杏子に視線を送ると、彼女もこくりと頷いた。バイクに乗れるのは杏子だけだ。
「……わかったわ」
杏子は駐輪場から大きなバイクを出すと、細い足を高く上げて跨がった。身長2メートル近い筮村さんのバイクだから、どうにも足下が心許ない。それでも杏子はキーを回して、ローファーのつま先を伸ばしスターターをキックした。腹の底に響くようなエンジン音。
「乗って!」
言われる前に、俺は後部座席に跨がって杏子の小さな背中にしがみついた。あの夜と違って、杏子はいつもの杏子だ。
杏子がグリップを捻ると、4ストロークのエンジンが唸りを上げる。前輪がふわりと浮いたかと思うと、砂埃を巻き上げながら黒いバイクが走り出す。
「ちょっと、あなたたち! どこに行くの!?」
花壇に水をやっていた担任の先生が、大声をあげた。創立100年を越えるクリスチナ女学園の歴史の中で、盗んだバイクで走り出す生徒がいったい何人いただろう。しかも2回目。
「すいません、早退します!」
砂埃の向こうで、先生の声がかき消えた。校門に向かうと、警備員さんが慌てて詰め所から飛び出してくる。そりゃそうだ。
「君たち何やってんの!」
「すいません!」
警備員さんの横をすり抜けて、俺たちのバイクは外の道に出た。
「ああもう! お母さんにバレたら殺される!」
杏子が呻く。辺りを見渡すと、駅に続く道の向こうに黒いバンが見えた。
「ほらあそこ、曲がり角!」
俺が指さすと、杏子は頷いてグリップを捻る。
ポニーテールが風にはためいた。
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