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行く春
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行く春
春眠暁を覚えずとはよく言ったもので、俺も春の陽気に負けて残り少ない春休みを謳歌することもなく毎日のように惰眠を貪っていた。
意識の奥でパートに出かける母親の車のエンジン音が遠ざかる。
すると決まって俺は夢を見た。
知らぬ土地、小高い丘の一本桜。それは美しい桜の木の下で太い幹に背を預け、目眩がするような青い空を仰いでいるその背後、幹の反対側には誰かがいていつも俺に語りかけてくるのだ。
「君にはこの空が何色に見える?」
その知らぬ声が今日はそう問うた。
俺が答えるとそいつは、そうか、それは羨ましいな。と、笑った。
眼が覚めると下半身に僅かな圧迫感。またか。上半身を起こして自身の足元に目をやると、そこには年老いているが美しい毛並みをしたキジトラの猫が俺の僅かに開いた足の間で小さく寝息を立てているのだった。
「………おい!」
声を上げると、猫はビクリと全身を震わせて目を覚ます。そして、慌てて開きっぱなしの窓から外へと飛び出していくのだった。
「まったく」
窓を開けたまま眠ってしまったのだろう。あの猫は母が一度やった餌に味を占め毎度家に現れては不法侵入を繰り返す不躾な奴だった。飼っている訳ではないので勿論名はない。しかし、母に懐けばいいものの何故だか俺に異様な程に懐いていた。
そんな猫のせいか、俺は意識を覚醒させてまた何となく今日を過ごすのだった。
春休みの間、俺は何度も桜の木の下の夢を見た。
両親と言い合いした日、バイトで失敗した日、退屈な日。いつしか俺はそんな日々の悩みをその夢の主に打ち明けるようになっていた。
丘の桜はもう随分と散り始めている。
「はは、何だそんな事か」
今日もまた言いようのない日々の虚無感を吐露するとそいつはくすくすと笑いながら言った。
「俺はただ毎日息してなんの代わり映えのない日常を生きてるだけなんだよ。そんな人生虚しいだけだろ?」
「何故?」
言葉に詰まる。そんな俺にそいつはまた笑った。
「僕は君のその生き方を否定しない。生きる目的を無理に作ってまで生きる事が果たして「生きている」ということになりうるのか。否、それは死んでいる事と大差ない。誰しもが「生きたいように」生きる姿に確固たる信念や目的があるわけではない。
僕だってそうだ。生きたいように生きる、それだけだ」
「あんたは自由人だな」
「そうでもない。毎日生きるのに精一杯さ。
暖かい布団で眠っていたら怒鳴られ追い出される。ふふふ。
それでも、僕は生を謳歌していると自覚しているよ。この世界だって捨てたもんじゃない。
君は若い。この先の人生を悩んで悩んで悩みぬいたっていい。壁だって障害だって鼻歌交じりに飛び越えて人生を謳歌すればいい。
僕にない未来をどうか見つめておくれ」
「あんたはーーーーー」
振り返ろうとすると強い風と共に花びらが俺を覆った。一瞬視界が桜色に染まる。
一本桜はすっかり散っていた。
「ーーー大丈夫、君もいつか僕のように自由を愛する人になる。強く生きたまえ」
目が覚めると、外はすっかり日が暮れて帰宅の途についた母の車のエンジン音が聞こえた。
足元を見る。
窓が開いているのにいつもいる猫はいなかった。
「君も、か」
帰宅した母が騒ぎ声を上げながら桜が散る庭に穴を掘っている。
あの夢はもう見なくなっていた。
end
春眠暁を覚えずとはよく言ったもので、俺も春の陽気に負けて残り少ない春休みを謳歌することもなく毎日のように惰眠を貪っていた。
意識の奥でパートに出かける母親の車のエンジン音が遠ざかる。
すると決まって俺は夢を見た。
知らぬ土地、小高い丘の一本桜。それは美しい桜の木の下で太い幹に背を預け、目眩がするような青い空を仰いでいるその背後、幹の反対側には誰かがいていつも俺に語りかけてくるのだ。
「君にはこの空が何色に見える?」
その知らぬ声が今日はそう問うた。
俺が答えるとそいつは、そうか、それは羨ましいな。と、笑った。
眼が覚めると下半身に僅かな圧迫感。またか。上半身を起こして自身の足元に目をやると、そこには年老いているが美しい毛並みをしたキジトラの猫が俺の僅かに開いた足の間で小さく寝息を立てているのだった。
「………おい!」
声を上げると、猫はビクリと全身を震わせて目を覚ます。そして、慌てて開きっぱなしの窓から外へと飛び出していくのだった。
「まったく」
窓を開けたまま眠ってしまったのだろう。あの猫は母が一度やった餌に味を占め毎度家に現れては不法侵入を繰り返す不躾な奴だった。飼っている訳ではないので勿論名はない。しかし、母に懐けばいいものの何故だか俺に異様な程に懐いていた。
そんな猫のせいか、俺は意識を覚醒させてまた何となく今日を過ごすのだった。
春休みの間、俺は何度も桜の木の下の夢を見た。
両親と言い合いした日、バイトで失敗した日、退屈な日。いつしか俺はそんな日々の悩みをその夢の主に打ち明けるようになっていた。
丘の桜はもう随分と散り始めている。
「はは、何だそんな事か」
今日もまた言いようのない日々の虚無感を吐露するとそいつはくすくすと笑いながら言った。
「俺はただ毎日息してなんの代わり映えのない日常を生きてるだけなんだよ。そんな人生虚しいだけだろ?」
「何故?」
言葉に詰まる。そんな俺にそいつはまた笑った。
「僕は君のその生き方を否定しない。生きる目的を無理に作ってまで生きる事が果たして「生きている」ということになりうるのか。否、それは死んでいる事と大差ない。誰しもが「生きたいように」生きる姿に確固たる信念や目的があるわけではない。
僕だってそうだ。生きたいように生きる、それだけだ」
「あんたは自由人だな」
「そうでもない。毎日生きるのに精一杯さ。
暖かい布団で眠っていたら怒鳴られ追い出される。ふふふ。
それでも、僕は生を謳歌していると自覚しているよ。この世界だって捨てたもんじゃない。
君は若い。この先の人生を悩んで悩んで悩みぬいたっていい。壁だって障害だって鼻歌交じりに飛び越えて人生を謳歌すればいい。
僕にない未来をどうか見つめておくれ」
「あんたはーーーーー」
振り返ろうとすると強い風と共に花びらが俺を覆った。一瞬視界が桜色に染まる。
一本桜はすっかり散っていた。
「ーーー大丈夫、君もいつか僕のように自由を愛する人になる。強く生きたまえ」
目が覚めると、外はすっかり日が暮れて帰宅の途についた母の車のエンジン音が聞こえた。
足元を見る。
窓が開いているのにいつもいる猫はいなかった。
「君も、か」
帰宅した母が騒ぎ声を上げながら桜が散る庭に穴を掘っている。
あの夢はもう見なくなっていた。
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