1 / 1
行く春
しおりを挟む
行く春
春眠暁を覚えずとはよく言ったもので、俺も春の陽気に負けて残り少ない春休みを謳歌することもなく毎日のように惰眠を貪っていた。
意識の奥でパートに出かける母親の車のエンジン音が遠ざかる。
すると決まって俺は夢を見た。
知らぬ土地、小高い丘の一本桜。それは美しい桜の木の下で太い幹に背を預け、目眩がするような青い空を仰いでいるその背後、幹の反対側には誰かがいていつも俺に語りかけてくるのだ。
「君にはこの空が何色に見える?」
その知らぬ声が今日はそう問うた。
俺が答えるとそいつは、そうか、それは羨ましいな。と、笑った。
眼が覚めると下半身に僅かな圧迫感。またか。上半身を起こして自身の足元に目をやると、そこには年老いているが美しい毛並みをしたキジトラの猫が俺の僅かに開いた足の間で小さく寝息を立てているのだった。
「………おい!」
声を上げると、猫はビクリと全身を震わせて目を覚ます。そして、慌てて開きっぱなしの窓から外へと飛び出していくのだった。
「まったく」
窓を開けたまま眠ってしまったのだろう。あの猫は母が一度やった餌に味を占め毎度家に現れては不法侵入を繰り返す不躾な奴だった。飼っている訳ではないので勿論名はない。しかし、母に懐けばいいものの何故だか俺に異様な程に懐いていた。
そんな猫のせいか、俺は意識を覚醒させてまた何となく今日を過ごすのだった。
春休みの間、俺は何度も桜の木の下の夢を見た。
両親と言い合いした日、バイトで失敗した日、退屈な日。いつしか俺はそんな日々の悩みをその夢の主に打ち明けるようになっていた。
丘の桜はもう随分と散り始めている。
「はは、何だそんな事か」
今日もまた言いようのない日々の虚無感を吐露するとそいつはくすくすと笑いながら言った。
「俺はただ毎日息してなんの代わり映えのない日常を生きてるだけなんだよ。そんな人生虚しいだけだろ?」
「何故?」
言葉に詰まる。そんな俺にそいつはまた笑った。
「僕は君のその生き方を否定しない。生きる目的を無理に作ってまで生きる事が果たして「生きている」ということになりうるのか。否、それは死んでいる事と大差ない。誰しもが「生きたいように」生きる姿に確固たる信念や目的があるわけではない。
僕だってそうだ。生きたいように生きる、それだけだ」
「あんたは自由人だな」
「そうでもない。毎日生きるのに精一杯さ。
暖かい布団で眠っていたら怒鳴られ追い出される。ふふふ。
それでも、僕は生を謳歌していると自覚しているよ。この世界だって捨てたもんじゃない。
君は若い。この先の人生を悩んで悩んで悩みぬいたっていい。壁だって障害だって鼻歌交じりに飛び越えて人生を謳歌すればいい。
僕にない未来をどうか見つめておくれ」
「あんたはーーーーー」
振り返ろうとすると強い風と共に花びらが俺を覆った。一瞬視界が桜色に染まる。
一本桜はすっかり散っていた。
「ーーー大丈夫、君もいつか僕のように自由を愛する人になる。強く生きたまえ」
目が覚めると、外はすっかり日が暮れて帰宅の途についた母の車のエンジン音が聞こえた。
足元を見る。
窓が開いているのにいつもいる猫はいなかった。
「君も、か」
帰宅した母が騒ぎ声を上げながら桜が散る庭に穴を掘っている。
あの夢はもう見なくなっていた。
end
春眠暁を覚えずとはよく言ったもので、俺も春の陽気に負けて残り少ない春休みを謳歌することもなく毎日のように惰眠を貪っていた。
意識の奥でパートに出かける母親の車のエンジン音が遠ざかる。
すると決まって俺は夢を見た。
知らぬ土地、小高い丘の一本桜。それは美しい桜の木の下で太い幹に背を預け、目眩がするような青い空を仰いでいるその背後、幹の反対側には誰かがいていつも俺に語りかけてくるのだ。
「君にはこの空が何色に見える?」
その知らぬ声が今日はそう問うた。
俺が答えるとそいつは、そうか、それは羨ましいな。と、笑った。
眼が覚めると下半身に僅かな圧迫感。またか。上半身を起こして自身の足元に目をやると、そこには年老いているが美しい毛並みをしたキジトラの猫が俺の僅かに開いた足の間で小さく寝息を立てているのだった。
「………おい!」
声を上げると、猫はビクリと全身を震わせて目を覚ます。そして、慌てて開きっぱなしの窓から外へと飛び出していくのだった。
「まったく」
窓を開けたまま眠ってしまったのだろう。あの猫は母が一度やった餌に味を占め毎度家に現れては不法侵入を繰り返す不躾な奴だった。飼っている訳ではないので勿論名はない。しかし、母に懐けばいいものの何故だか俺に異様な程に懐いていた。
そんな猫のせいか、俺は意識を覚醒させてまた何となく今日を過ごすのだった。
春休みの間、俺は何度も桜の木の下の夢を見た。
両親と言い合いした日、バイトで失敗した日、退屈な日。いつしか俺はそんな日々の悩みをその夢の主に打ち明けるようになっていた。
丘の桜はもう随分と散り始めている。
「はは、何だそんな事か」
今日もまた言いようのない日々の虚無感を吐露するとそいつはくすくすと笑いながら言った。
「俺はただ毎日息してなんの代わり映えのない日常を生きてるだけなんだよ。そんな人生虚しいだけだろ?」
「何故?」
言葉に詰まる。そんな俺にそいつはまた笑った。
「僕は君のその生き方を否定しない。生きる目的を無理に作ってまで生きる事が果たして「生きている」ということになりうるのか。否、それは死んでいる事と大差ない。誰しもが「生きたいように」生きる姿に確固たる信念や目的があるわけではない。
僕だってそうだ。生きたいように生きる、それだけだ」
「あんたは自由人だな」
「そうでもない。毎日生きるのに精一杯さ。
暖かい布団で眠っていたら怒鳴られ追い出される。ふふふ。
それでも、僕は生を謳歌していると自覚しているよ。この世界だって捨てたもんじゃない。
君は若い。この先の人生を悩んで悩んで悩みぬいたっていい。壁だって障害だって鼻歌交じりに飛び越えて人生を謳歌すればいい。
僕にない未来をどうか見つめておくれ」
「あんたはーーーーー」
振り返ろうとすると強い風と共に花びらが俺を覆った。一瞬視界が桜色に染まる。
一本桜はすっかり散っていた。
「ーーー大丈夫、君もいつか僕のように自由を愛する人になる。強く生きたまえ」
目が覚めると、外はすっかり日が暮れて帰宅の途についた母の車のエンジン音が聞こえた。
足元を見る。
窓が開いているのにいつもいる猫はいなかった。
「君も、か」
帰宅した母が騒ぎ声を上げながら桜が散る庭に穴を掘っている。
あの夢はもう見なくなっていた。
end
0
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる