6 / 26
第二章
1.フリーの人
しおりを挟む
それから数日後の、ある日、自宅の最寄りの駅、改札を出たところで、いきなり知らない女性に声をかけられた。
休んでいたあいだの仕事のリカバリーもひと通り終わり、ようやく以前の仕事のテンポに戻って一週間ほどたった頃だった。
「ちょっとお話、伺えますか」
なにかの勧誘かと思い、瑠奈は首を振りながら足を速め、雑踏に紛れようとした。
しかし、女性はその程度では諦めずについてきた。
「あなた、古越瑠奈さんでしょう」
旧姓で呼ばれ、つい、振りかえってしまう。
今名乗っている関戸という姓は、静海の養女に入ったときに変えたものだった。つまりは、母の旧姓でもある。
「やっぱり」
満足気な笑みを浮かべた相手は、三十代半ばほどに見える女性だった。
カジュアルなライトグレーのパンツスーツに、襟もとの開いたネイビーブルーのブラウス。ひっつめた髪に飾りはなく、いかにも実用性重視といった雰囲気のファッションだ。
ただ、目つきがどこかこちらを値踏みしているような雰囲気で、あまり好感が持てそうにない。
関わらないほうがよさそうだ、と判断して、瑠奈はまた足を速めた。
「ちょっと待ってくださいよ」
馴れ馴れしい口調がまたも追いかけてくる。
このままだと、家にまでついてこられそうだ。
それは嫌なので、瑠奈は足を止めた。
「ついてこないでください」
きっぱりとした口調で言うと、相手はまた薄く笑いを浮かべた。
まるで、瑠奈の反応を楽しんでいるように見える。
「いきませんよ。でも、お話伺えるまで、毎日ここで待ってますから」
そう言いながら、胸元のポケットから名刺を出した。
「私、こういう者です。もし気になったら、ネットででもお調べになってください」
渡された名刺には、『フリージャーナリスト 鏑木結理』とある。
人を試すような視線なのは、職業柄だったのか。
瑠奈はなにも言わず、名刺をつき返した。
「いりません」
結理は肩をすくめ、黙って受け取っただけだった。こういう扱いには慣れているようだ。
瑠奈が歩き始めると、言葉通り、ついてはこなかった。
だがその図々しい視線がずっと追いかけてくるようで、ずっと落ち着かない。
いつも夕食を買って帰る、深夜まで営業しているスーパーに入り、ガラス越しに外を窺って彼女がいないのを確かめるまで、まるで、まともに息もできなくなってしまっているような気分だった。
そのあとなんとか買い物をすませ、マンションに帰りついても、瑠奈の動悸は止まらなかった。
まるで、自分の日常を覆っていた薄い膜が、いきなり破られたような気分だったせいだ。
でも、そもそも、その膜がなんだったのか自分でもわからない。
買ってきた冷凍のスパゲティに、パックされたシーフードサラダ、レトルトのスープといった手のかからない食事をさっさと済ませ、ようやく気持ちが落ち着いた。満腹による気分回復の効能はたいしたものだ、と自分でも呆れる。
しかしそうなってくると、がぜん、さっきの女性のことが気になりだした。
名刺こそつき返したものの、名前はしっかり覚えている。
試しに、スマートフォンで簡単に検索してみることにした。
フリージャーナリスト、鏑木結理。
姓の読みはわからなかったので、『フリージャーナリスト 結理』で調べてみるとすぐにヒットした。
姓は『かぶらぎ』で、結理という名は『ゆり』ではなく『ゆいり』と読むらしい。
一番上には広告らしき画像が出ている。本の表紙だ。タイトルは『惨地巡礼』。シリーズものらしく、第三巻とある。
クリックすると、商品ページへ誘導された。購入用ボタンの下に書かれている紹介文は、こうだ。
『惨劇の起きた地を、巡礼のように訪ねてみる。そこに残った想いを感じ、代弁者として世に伝えるために----。派手な報道や噂の陰に見過ごされた想いを、丹念に拾い集める許しを得るために……』
『連続殺人、一家惨殺事件、人はなぜ血の地獄へと分け入ってしまうのか。また、地獄のなかに否応なく引きずり込まれ、消えていった人々は、どんな想いを残しているのか』
もっともらしいことを書いているが、要は昔の凄惨な事件を再びほじくり返そうということか。
悪趣味な人間もいたものだ。
ただ、そんな本を書いている人間が、なぜ自分をターゲットにしたのか、それがわからない。
瑠奈の両親は火事で死んだはずだ。つまり、事故だ。
事件を扱うジャーナリストが取り上げようとするのはおかしい。
首をかしげているうちに、いつしか、ひどい頭痛がしてきた。
こんな体験を、前にもしたことがあるような気がする。
と思ったとたん、まるで弾丸が向かってくるように、いきなり記憶が蘇ってきた。
『日本の未成年凶悪事件 十選』
『少女による一家殺傷事件』
『当時未成年だった娘により、東京都××市に住む古越道孝さん一家の三人が刺し殺されるという凄惨な事件が起こった……』
そうだ。
いつだったかの検索で、出てきた項目だ。
こんなにインパクトのあることを、どうして今の今まで忘れていたのか……。
だが、よく考えるとおかしい。
『一家三人が』
人数が合わない。
両親、それに自分。家族は三人だったはずだ。
つまり、全員死んでいると書いてある。
頭痛が、さらにひどくなってきた。
汗が出ているのか、手のひらがやけにぬるぬるする。
スマートフォンをテーブルに置き、自分の両手をおそるおそる開いてみた。
息が止まる。
手のひらは、血まみれだった。
休んでいたあいだの仕事のリカバリーもひと通り終わり、ようやく以前の仕事のテンポに戻って一週間ほどたった頃だった。
「ちょっとお話、伺えますか」
なにかの勧誘かと思い、瑠奈は首を振りながら足を速め、雑踏に紛れようとした。
しかし、女性はその程度では諦めずについてきた。
「あなた、古越瑠奈さんでしょう」
旧姓で呼ばれ、つい、振りかえってしまう。
今名乗っている関戸という姓は、静海の養女に入ったときに変えたものだった。つまりは、母の旧姓でもある。
「やっぱり」
満足気な笑みを浮かべた相手は、三十代半ばほどに見える女性だった。
カジュアルなライトグレーのパンツスーツに、襟もとの開いたネイビーブルーのブラウス。ひっつめた髪に飾りはなく、いかにも実用性重視といった雰囲気のファッションだ。
ただ、目つきがどこかこちらを値踏みしているような雰囲気で、あまり好感が持てそうにない。
関わらないほうがよさそうだ、と判断して、瑠奈はまた足を速めた。
「ちょっと待ってくださいよ」
馴れ馴れしい口調がまたも追いかけてくる。
このままだと、家にまでついてこられそうだ。
それは嫌なので、瑠奈は足を止めた。
「ついてこないでください」
きっぱりとした口調で言うと、相手はまた薄く笑いを浮かべた。
まるで、瑠奈の反応を楽しんでいるように見える。
「いきませんよ。でも、お話伺えるまで、毎日ここで待ってますから」
そう言いながら、胸元のポケットから名刺を出した。
「私、こういう者です。もし気になったら、ネットででもお調べになってください」
渡された名刺には、『フリージャーナリスト 鏑木結理』とある。
人を試すような視線なのは、職業柄だったのか。
瑠奈はなにも言わず、名刺をつき返した。
「いりません」
結理は肩をすくめ、黙って受け取っただけだった。こういう扱いには慣れているようだ。
瑠奈が歩き始めると、言葉通り、ついてはこなかった。
だがその図々しい視線がずっと追いかけてくるようで、ずっと落ち着かない。
いつも夕食を買って帰る、深夜まで営業しているスーパーに入り、ガラス越しに外を窺って彼女がいないのを確かめるまで、まるで、まともに息もできなくなってしまっているような気分だった。
そのあとなんとか買い物をすませ、マンションに帰りついても、瑠奈の動悸は止まらなかった。
まるで、自分の日常を覆っていた薄い膜が、いきなり破られたような気分だったせいだ。
でも、そもそも、その膜がなんだったのか自分でもわからない。
買ってきた冷凍のスパゲティに、パックされたシーフードサラダ、レトルトのスープといった手のかからない食事をさっさと済ませ、ようやく気持ちが落ち着いた。満腹による気分回復の効能はたいしたものだ、と自分でも呆れる。
しかしそうなってくると、がぜん、さっきの女性のことが気になりだした。
名刺こそつき返したものの、名前はしっかり覚えている。
試しに、スマートフォンで簡単に検索してみることにした。
フリージャーナリスト、鏑木結理。
姓の読みはわからなかったので、『フリージャーナリスト 結理』で調べてみるとすぐにヒットした。
姓は『かぶらぎ』で、結理という名は『ゆり』ではなく『ゆいり』と読むらしい。
一番上には広告らしき画像が出ている。本の表紙だ。タイトルは『惨地巡礼』。シリーズものらしく、第三巻とある。
クリックすると、商品ページへ誘導された。購入用ボタンの下に書かれている紹介文は、こうだ。
『惨劇の起きた地を、巡礼のように訪ねてみる。そこに残った想いを感じ、代弁者として世に伝えるために----。派手な報道や噂の陰に見過ごされた想いを、丹念に拾い集める許しを得るために……』
『連続殺人、一家惨殺事件、人はなぜ血の地獄へと分け入ってしまうのか。また、地獄のなかに否応なく引きずり込まれ、消えていった人々は、どんな想いを残しているのか』
もっともらしいことを書いているが、要は昔の凄惨な事件を再びほじくり返そうということか。
悪趣味な人間もいたものだ。
ただ、そんな本を書いている人間が、なぜ自分をターゲットにしたのか、それがわからない。
瑠奈の両親は火事で死んだはずだ。つまり、事故だ。
事件を扱うジャーナリストが取り上げようとするのはおかしい。
首をかしげているうちに、いつしか、ひどい頭痛がしてきた。
こんな体験を、前にもしたことがあるような気がする。
と思ったとたん、まるで弾丸が向かってくるように、いきなり記憶が蘇ってきた。
『日本の未成年凶悪事件 十選』
『少女による一家殺傷事件』
『当時未成年だった娘により、東京都××市に住む古越道孝さん一家の三人が刺し殺されるという凄惨な事件が起こった……』
そうだ。
いつだったかの検索で、出てきた項目だ。
こんなにインパクトのあることを、どうして今の今まで忘れていたのか……。
だが、よく考えるとおかしい。
『一家三人が』
人数が合わない。
両親、それに自分。家族は三人だったはずだ。
つまり、全員死んでいると書いてある。
頭痛が、さらにひどくなってきた。
汗が出ているのか、手のひらがやけにぬるぬるする。
スマートフォンをテーブルに置き、自分の両手をおそるおそる開いてみた。
息が止まる。
手のひらは、血まみれだった。
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
0
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる