地平の月

センリリリ

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第六章

1.傍にいてくれる人

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「関戸さん」

 小野原の声に、我に返った。
 初瑠の幻影は、もう、消えている。

「関戸さん、大丈夫?」

 慎重に訊く小野原に、視線を合わせる。

「初瑠が……、あいつらを、殺したの」

「うん」

「あたしは見てた」

「うん」

「あんなの、忘れたかったの……。忘れちゃ、いけないのに。だから、初瑠は……」

「関戸さん、落ち着いて。今、全部、話さなくてもいいから」

 瑠奈にあまり刺激を与えたくないのか、囁くような声の小野原。
 その腕を縋るようにつかみ、瑠奈は黙ったまま、何度も浅い呼吸を繰り返した。

「水、汲んでこようか?」

 しばらくして、呼吸が規則正しくなってくると、小野原が尋ねる。
 無言で頷き、強張っていた手を、なんとか離す。

「なかに……、水、あるから」

 言葉をようやく絞り出し、冷蔵庫を指さす。
 小野原は立ち上がると、水切りカゴに入れっぱなしになっていたグラスに、取り出したミネラルウォーターを汲む。
 それを持ってくると、まだ床にへたりこんでいる瑠奈の脇に、自分も腰をおろし、差し出した。

「ありがとう」

 か細い声で礼を言い、ゆっくりとそれを噛むように飲む。
 その冷たさで、すこしだけ頭がすっきりした。
 そのおかげで、残りを飲み干すとなんとか立ち上がり、自分でシンクに置きに行くことができた。

「関戸さん、いったいなにがどうなってるのか、よかったら話してくれる?」

 さっきの場所に戻った瑠奈に、立ち上がりながら、穏やかに言う小野原。
 正直、迷う。
 だが、これだけ迷惑をかけていて、事情をなにも説明しないのも、申し訳ない気もする。
 ただ、内容が内容なだけに、隠しておいたほうがいいのか、話してしまったほうがいいのか、判断がつきにくい。

「さっき初瑠さんの名前、何度も呼んでたけど、お姉さんだっけ?」

「……うん……」

「さっき見えてたっていうのは、その姿?」

「……そう……」

 そんなホラー映画みたいな話、自分でもバカバカしいと思う。
 だがなぜか、小野原は疑うような素振りを見せなかった。

「それは、もしかして……。幽霊っていうより、記憶のフラッシュバックって可能性は?」

「あ……」

「僕も専門知識があるわけじゃないけど、なにかショッキングな出来事が過去にあると、そのときの記憶が蘇って、相手の幻まで見えるなんてこと……あるよね?」

 急に、語調が変わった。
 まるで……。
 そう、まるで、自分もその経験があるみたいだった。

「話せば、すこしは負荷が減るかもよ。もちろん、ここで聞いたことは、誰にも喋らない」

 真剣なまなざしで言われるが、どこまで信じていいのか、今の瑠奈にはわからない。
 すると、小野原が急に自分の袖をまくった。
 考えてみれば、スーツやシャツなど、長袖の姿しか、今までみたことはない。
 目を落とすと、腕の内側のあちこちに、黒ずんだ痕があった。

「僕は子供の頃、父親のDVに遭っててね……。これは、その、名残り」

 小野原の告白に、瑠奈は息を飲んだ。

----同じ痛みを、経験したことのある人。

----それなら、話したらわかってくれるかもしれない。

 なにより、ここまで見られてしまったのだ。
 いまさら取り繕ったってしかたない、という思いもある。
 心を決めて、改めてふたりとも椅子に座った。

「関戸さん、もちろん、話したくないなら、無理に話す必要はないよ」

「うん」

「でも、話したいんなら、いくらでも聞く」

「ありがとう」

 なにから話せばいいのか、正直、わからない。
 話の糸口が見つからなくて、心を落ち着けるためにも、いったん、コーヒーを淹れることにした。
 簡易のドリップコーヒーのパックをふたつのマグカップにセットし、やかんを火にかける。
 それが沸くのを待つあいだに、連想したことを、前後の脈絡も考えず話し始めた。

「私たちは、それを、やかん罰って呼んでた」

「やかん罰?」

 椅子に座ったまま、身体の向きだけを変えて、小野原が静かに訊き返した。

「そう。やかんの熱湯を、背中にかけるの。死なない程度にするために、ほんの短い瞬間だった。でも、…………」

 瑠奈は顔を顰め、火を止めた。
 あれを思い出すときに、見ているのは辛い。

「関戸さん、代わろうか」

 その態度に、気づいたのだろう。
 小野原が申し出てくれる。

「うん。ありがとう」

 瑠奈は素直に、ガス台の前からどいた。
 小野原と入れ替わりにテーブルに戻り、座る。
 あの頃の話を、ここまではっきり誰かに話すのは、初めてだった。
 カウンセリングに通っていた頃は、その話をするとかならずパニックになって気を失い、ろくに話をすることさえできなかった。
 さらには、母親代わりになってくれた静海も、無理に聞き出したりせず、見守ることを優先してくれていた。だから、過去に向き合うのは後回しにして、なんとか自分の生活を組み立て直すことに集中することができた。

「話すの、やめておく?」

 小野原が心配そうに訊く。

「ううん」

 瑠奈は頭を振った。
 もう、いつまでも、その頃のままではいられない。
 今、小野原にすべて話せば、引かれるかもしれない。
 だが、それならそれで、今はっきりとそうなったほうがいい。
 このまま、曖昧にして中途半端な気持ちを引きずり続けることのほうが、今の瑠奈にはもう負担にしか思えなかった。

「お待たせ」

 ミルクと砂糖をたっぷり入れてもらったコーヒーが目の前に置かれ、それを手にすると、しばらくいい匂いの湯気を嗅ぐ。
 小野原のほうはブラックコーヒーで、腰を降ろして瑠奈の様子を見つめながら、それをゆっくり飲んでいた。
 何口かすすり、温かさとほのかな苦みのおかげでなんとか心が落ちつくと、瑠奈は続きを話し始めた。

「義理の父が……決めたの、その、罰を。……最初は、すごくいい人だと思った。ずうっと荒れた生活をしてた母親を、まっとうに戻してくれて」

「うん」

「ロボットみたいに、あんまり感情なくて仕事ばっかりだった実の父より、話も聞いてくれるし、色々なアドバイスもしてくれたし……」

 あの頃の自分たちの愚かしさを振り返ることは、心が痛かったし、とてつもなく恥ずかしくもあった。
 でもそこから目を逸らせば、また記憶が飛び飛びになり、自分の存在さえ曖昧に感じる日々を送るしかなくなる。

「灯台みたいな存在の人だと、思った。あたしたちに、行くべき正しい道を、示してくれる人だって」

「うん」

 小野原は、責めもしないし、間違いを指摘したりもしなかった。
 ただ静かに、穏やかに、頷きながらそこにいてくれる。
 そう、まるで、なにもかもを受け入れてくれていた、静海のように。

「だから、そう、最初は……。理想の父親ができた、って初瑠と一緒に喜んでた」

 家族というのはこういうものなのかと、はしゃいでた自分たちの無知を思い出すと、涙が滲んできた。

「生活がおかしくなったとき、誰かに助けてもらおうとは思わなかったの。たとえば、近所の人だったり」

「そう、そうだよね。でもどうしてかな、ぜんぜん考えつかなかった。……ああ、でも、一度だけ」

「一度だけ?」

「近所の人が、訪ねてきたことがあった。叫び声みたいなのが聞こえたから心配になった、って言って」

「なにかやられてたときの声が聞こえた、ってこと?」

「たぶん。でも、あたしたちが騒ぎ過ぎたせいだから、って、すぐに追い返しちゃったみたい。それっきり」

「そうかあ……。うまくいかないもんなんだね」

「うん。しかも、それがあってからは、近所に聞こえないように、思わず声が出ちゃうような罰をするときには、口をガムテープであらかじめ塞ぐようになっちゃった」

「うわ……」

「息もしにくくなるし、最悪だった。でも、義父は言った。こんなことは、本当はしたくない。おまえらが、下品な大声をあげるのが悪いんだ。節制というものを教えるための、しかたのない処置だ。って言われてた」

「そう……。ひどいね」

「今だったら、勝手な理屈だってわかる。でもあの頃は、それが正しいことだと思ってた」

「ああ、そう思い込まされるの、なんとなくわかるな。俺も覚えがある」

 小野原が顔を顰めながら、頷いた。
 責めるでもなく、同情するでもなく、ただ、同じ感覚を知っている人間が話を聞いてくれているのが、こんなに話しやすいとは、瑠奈は今まで知らなかった。
 小野原は自分のコーヒーをひと口すすったあと、穏やかな調子で訊いた。

「前のお父さんのときには、どうだったの?」

「うーん……」

 首を捻りながら、瑠奈もコーヒーをゆっくりすする。
 こうやって、時間を気にせず話をできるのは、ありがたい。

「お母さんは遊びまわってて、今考えたら浮気みたいなこともしてたんだと思う。お父さんは仕事ばっかりで……。たまに家にいても、同居してたお祖父ちゃんやお祖母ちゃんと口論ばっかりしてた」

「口論? 仲が悪かったんだ?」

「悪いっていうか……。お母さんが落ち着かないのは、夫が悪いって、一方的に責められてた感じ。婿養子だったから、立場もあんまりよくなかったんだと思う」

 正直、父の顔は、はっきりとは思い出せない。影の薄い人だったうえ、自殺されたというショックに耐えられなかったのか、写真も全部晴海に処分されてしまっていた。
 だから覚えているのは、口論していた姿。それから、甘えて抱きつこうとしたときに、自分の娘たちを見てもなにも感じていないような、冷めた視線を向けられたことだけだった。

「そっか……。嫌だよね、家のなかで誰かと誰かが四六時中いがみ合ってるの。僕はそういうとき、よく殴られてた」

 あっさりした口調で小野原は言う。
 瑠奈には、その気持ちがなんとなくわかる。
 あっさり流すしかないのだ。もう、取り返しはつかないのだから。
 そうやって、前に進むことを、どこかのタイミングで選んだのだ。瑠奈と同じように。

「だから、よけいに義父のこと、最初の頃は話もよく聞いてくれて、いい人なんだと思っちゃった……。ホントは違ったのに。そうやって、マイナス感情を聞いておくのは、後でコントロールするときに利用するためだった」

 今こうやって冷静に人に話してみると、あの頃の自分たちが、どういう状況に追いこまれていたのか、よくわかる。

「そういうのが、上手な人だったってこと?」

「うん。たぶん、セミナーが人気あったのも、同じようなことじゃないかと思う」

 この世には、他人を巧妙に操ることに長けた人間がいるのだ。
 そしてその術中にはまってしまうと、悪魔が天使に見えるほど、目が曇ってしまうことがあるのだ。

「セミナー?」

「そう。自分でセミナーを主催してたの。一時期はけっこうな人気だったみたいだけど、結局、上っ面だけなのがバレたんだと思う。どんどん人気がなくなって、なのに体面ばっかり取り繕う為に、お母さんの財産も遣いこんで、結局破産寸前にまでなってたみたい」

「お母さん、お金持ちだったんだ」

「うん。だけど、田舎の大地主のお嬢さんで、まともに働いたこともない人だったんだんだよね。きっと、そういう世間知らずなところをつけこまれたんだと思う。育ててくれた叔母とは、真逆だった」

 夫の見当違いの管理、つまり彼らが『躾』と呼んだものから、娘を守ろうとは一度もしてくれなかった母を思い出すと、瑠奈の胸はしくしくと痛む。
 いつも気持ちに寄り添ってくれ、瑠奈の意志を尊重し、時には離れて根気強く見守ってくれた静海がいなければ、きっと人を信じられないまま、生き続けることになっていただろう。

「叔母さん、いい人だったんだね」

 小野原の言葉に、力強く頷く。

「僕もそうだった。引き取ってくれた義理の両親が、たくさんの愛情を注いでくれて……。それで、普通の生活を送る人たちの世界に、戻ってくることができた」

「うん」

 飲み物のせいだけではなく、身体がゆっくりと温まってくる気がする。
 小野原が穏やかに同調してくれるのが、本当にありがたかった。
 そうやって徐々に、心の凝りのようなものが解れていくのをせっかく感じていたのに、たった数分でそれは壊された。
 ドアベルが鳴ったのだ。
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