23 / 26
第二章
(七)長い夜
しおりを挟む
チラチラと瞬いた光があった。
ソウはわずかに眉根をよせて、薄くまぶたをひらく。
ぼんやりと開いた視界に広がるのは見慣れない天井で、そこに街灯の光がしつこく反照しているらしかった。カーテンを閉め忘れていた自分にほとほとあきれながらも、起きあがるにはけだるく、気休めに寝返りをうつ。
向かいの寝台には黒影が腰かけている。常夜灯のわずかな灯りの下で、昼間に購入した書籍をぱらぱらと読みながしているようだった。
(そっか。黒影の夜は長いんだ)
あまり長く眠らない、ということこそ知っていたが……。
―― 一人で悶々と考える時間は、抜け道のない迷路になりうる。
低く静かな声が、耳の奥でこだました。
(黒影も、そんなふうに悩んだり、考えつづけたりするんだろうか。心底楽しそうな笑い声をあげながら、魔種を狩る人間が?)
ソウはまた寝返りをうって、壁ぎわへ身を寄せた。薄い毛布を首もとまで覆うようにかけなおし、身体をまるめる。
(人なみに傷ついたり、不安に思ったりするんだろうか)
よけいな思考だ。考えたところで、本人に訊いたこともないのだから、わかるはずもないのに。もっとも、訊ねたところでこちらの意図する回答は返ってこないだろう。舌打ちか侮蔑か、殺意か。気まぐれに一回くらいは、まともな返答があるかもしれないが。
(考えて、どうするんだろう)
仮に、黒影にそんな一面があったとして。不安や苦しみを知って、それでいったい、どうするというのだろう。
(仲良くなりたいわけじゃない)
ただ、帰るまでのあいだ、仲間としてうまくやっていけたらいい。きっと黒影も……いや、黒影はソウ以上に、なれあいを望んでいないだろう。それは明らかだ。
(早く帰りたいな……)
書物の頁をめくる音を聞いているうちに、ふたたび眠気の波が思考をおおった。一枚……二枚……それらの音もわからなくなった夢うつつに、なにかが頭に触れた気がした。ぼんやりと消えて曖昧になる感覚の中で、その気配を追う。
(ああ、そうだ)
もう、ずっとずっと昔に、母がこうして頭をなでてくれた。
温かい。
(でもいったい、誰が――……)
薄い手のひらが、前髪をすくようにして、ゆるやかに触れる。そのうちに、意識はまどろみの奥へ、小さな音を立てて沈んだ。
かたすみに浮かんだなにかも、どこかへうわすべりして、消えてゆく。
――……。
母はとても美しい人だった。
口数はあまり多くなく、ひかえめで、いつもそっと父のそばに寄りそうような、そんな人だった。
目じりは凛ととがっているものの、強気な印象がないのは、きっといつもやわらかな微笑をたずさえていたからだろう。伏し目がちで、横顔にかかる髪を耳にかけるしぐさひとつさえ母が内気なようすを表していた。
ソウが正式に魔狩として働きはじめてから四年。
冬のなかでもいちばん寒い日、ソウは十八歳になった。そのころにはもう母の背丈をすっかりこえていて、しばらく前に新調した仕事着もすっかりなじんでいた。
誕生日を迎えたからといって、幼いころのように心おどることもない。外の冷気をにじませる玄関口で、ソウは厚手のコートに袖を通した。靴の調子も整え、姿見を確認する。冬の朝は、色味のうすい自分の顔がいっそう白けて見えるのが、ほんのささいな悩みだった。もし接客業にでもたずさわっていたら、もっと深刻に悩んでいただろう。コートのほこりをとって、ソウは片手に魔導武具を担いだ。――幸い魔狩は、実力と実績があれば、容姿はそれほど重視されない。
「ソウ、ちょっと待って」
玄関から出ようとしたソウを呼びとめて、母がさしだしたのは、猫の顔を造形した面だった。猫面のぴんと立つ右耳には、数日前に母が「お洗濯ついでにほつれを直すから」と持っていった、八打ちの赤い紐と鈴が、きれいに結ばれている。はりのある猫の瞳のカタチでくりぬかれた穴をわずかに見つめてから、ソウは母のおもざしをうかがった。
「どうしたの、母さん」
「遅くなっちゃったけど、四年ごしの成人のお祝い……なんてね。本当は、成人の日に渡そうと思っていたのだけれど」
母はこまったように笑った。
「瘴気症のせいで、街の外にも出られなくなって、文のやりとりも、荷物を送ることも、制限ができてしまったから。こんなに時間がかかっちゃった」
当時、世の中は、ひどく不安定で、人々は恐怖に満ち満ちていた。瘴気症が爆発的に流行していて、まだ一般的に安価な治療薬が広まっていなかったからだ。
国内外の旅行は禁止され、人と人のかかわりは事実的に断絶されていた。対策は後手に回るばかりで、生活必需品の不足や先の見えない不安と終わりのない我慢におしこめられ、最近ではそれに堪えかねた住人によって、各所で暴動が起こることもめずらしくなかった。ふたをかぶせられた街は、いつもどこか鬱屈としていた。
街の足音はどれも重く、あるいはいらいらと急いでいて、道ばたにうち捨てられたモノを見るまなざしは、嫌悪と恐怖、そして諦観さえ漂うようになっていた。
そんな中で、母はどうにかやりくりをしたという。
「知り合いの職人さんにつくってもらったの。世界でひとつ。あなたのためのものよ」
「うれしいよ、母さん」
ソウはすなおに喜んでそれを受けとった。どうして猫のお面なのか、という疑問は多少あれども、母が人よりずれているのは、いまに始まったことではない。もともと山育ちで、父との婚姻をきっかけにこうして都市部で暮らしはじめたという。内気なこともあって、まわりにうまくなじめず悩んでいることも母はたびたび口にしていた。
母が変わっていることは、ソウにとってほんの些細なことで、とくべつに気にしたことはない。物心ついたときから母は奇麗で優しくて、こうして大きくなっても、変わらず自慢の母だ。
「ありがとう」
ソウは微笑んだ。
なによりも、自分のことを思って行動してくれたことが……かけてくれた手間と時間が、うれしかった。
しかしそれと同時に、すこし申しわけなく思うところもあった。
「けど、どうして? 俺に、そんなお金使わなくても」
ソウが働きはじめていくらか生活は楽になったが、それでもまだ心もとない。お金に余裕があるわけでもない。ライはまだ六歳。これからのことを考えれば、すこしでも貯金しておきたいはずだ。
「大切な息子のことだもの。母さんはね、ライも大事。けれど、それと同じくらい、あなたのことも大事で、愛しているから」
「わかってるよ」
ソウは照れ隠しに苦笑した。
母は日常に追われていても、ライのことと同じくらいに自分を気にかけてくれている。もう十八歳なのだから、そんなに心配しなくてもいいのに、とも思うが、母はこういったことを、とても大事にしているらしかった。
お面を受けとった手に、母は水仕事で荒れた手を重ねた。
さげられた鈴が、りん、と音を立てる。
「このお面はね、あなたを守ってくれる。だからあなたは、ライを守ってあげて。ライはふつうの子だから」
「あたりまえだよ」
なにをいまさらとソウは笑った。
母は時折、寝入ったライに「ごめんね」とあやまっていることがあった。ソウはそんな母を、しばしば見てきた。母が自分たちに負い目を感じていることは、知っている。
それでも自分は、母のことが好きだった。そして、こうして大事に自分たちを育ててくれた母へ深く感謝すると同時に、深く尊敬している。
だから、そんなふうにあやまる母を見るのは、すこし悲しかった。
「ごめんね、ソウ」
「あやまらないでよ。俺は、ほかにやりたいこととか、欲しいものとか、あんまりないんだ。こうやって働いてるのも、俺がやろうと思ってやってるだけだし」
「優しいあなたが誇らしいわ。けれどね……ソウ、むりはしないでね」
「むりなんかしてないよ」
苦笑するが、母の表情は暗いままだった。
「お父さんが死んでから、ソウは……なにも言わなくなったでしょう。それが、心配なの。泣いていいし、笑っていいの。好きに生きていいの。だからね、だから……」
「母さん」
ソウは母の言葉をそっとさえぎった。――俺を信じてよ。そんな言葉を呑みこんだから、会話は途切れてしまった。
儚くて繊細な印象ばかり覚えているのは、きっと母が、いつも壊れてしまいそうだったからだ。
「じゃあさ、わがまま言っていい? こんどの休みに、母さんがつくったアップルパイが食べたいな。俺、好きなんだ。あれがいちばん好き」
たぶん、母とはすれちがっている。
母は、息子が子供らしく本音を吐露することを望んでいる。そして、抱えている負い目を許されたくて、いくらか責められることを望んでいる。
そして、自分はそれを望んでいない。いや、本当はそうしたい気持ちもあった。けれど、母が壊れてしまうことが恐ろしかった。父が亡くなって、それでも家を守ろうと懸命に微笑む母が……家族のカタチが壊れてしまうことが、ひどく恐ろしかった。
だから、こんな見えすいた我儘を言う。
「だめ、かな?」
眉じりを下げて、わずかに首をかしげてみせる。
「もう、わかったわ……そういう言いかた、本当にお父さんにそっくり。ずるい」
「息子だからね。甘え上手でしょ?」
「そういうところはちがう。あの人は無自覚だった」
「それはそれで、タチ悪いと思うんだけどなぁ」
「ふふ、」
母が小さく笑って、ソウもまた笑みをこぼした。すこし元気になった母のようすをみて、ほっとする。我儘は追及を逃れるためのわかりやすい嘘で、母もきっと、このことをわかっているだろう。けれど、母の作るアップルパイが好きだというのは本当だ。
母と、幼い弟と、三人で焼きたてを食べながら、なんてことのない話をする。
そんな小さな幸せのカタチが、なによりも大事だった。
きっと母も、こういう時間を、とても大事にしていた。しかし、このなにげない約束は、あたりまえの時間は――……。
「おかあさん!」
母の遺体を目の前に泣き狂う弟を、ソウは抱きとめた。
人の目から逃れるように外套で隠して、まだ六歳の弟を大人のちからで無理やりに路地裏へ連れていった。怒って、泣いて、叫ぶ弟を抱きしめ続けた。
母が殺された怒りよりも、弟がいっしょに殺されてしまうことのほうが恐ろしかったから。
「どうしてお兄ちゃんは、泣かないの!」
道ばたで踏み潰された林檎を気にとめる人間は、きっと誰もいない。
その日を境に幸せな家族のカタチは、あたりまえの幸福は、なくなってしまった。
ソウはわずかに眉根をよせて、薄くまぶたをひらく。
ぼんやりと開いた視界に広がるのは見慣れない天井で、そこに街灯の光がしつこく反照しているらしかった。カーテンを閉め忘れていた自分にほとほとあきれながらも、起きあがるにはけだるく、気休めに寝返りをうつ。
向かいの寝台には黒影が腰かけている。常夜灯のわずかな灯りの下で、昼間に購入した書籍をぱらぱらと読みながしているようだった。
(そっか。黒影の夜は長いんだ)
あまり長く眠らない、ということこそ知っていたが……。
―― 一人で悶々と考える時間は、抜け道のない迷路になりうる。
低く静かな声が、耳の奥でこだました。
(黒影も、そんなふうに悩んだり、考えつづけたりするんだろうか。心底楽しそうな笑い声をあげながら、魔種を狩る人間が?)
ソウはまた寝返りをうって、壁ぎわへ身を寄せた。薄い毛布を首もとまで覆うようにかけなおし、身体をまるめる。
(人なみに傷ついたり、不安に思ったりするんだろうか)
よけいな思考だ。考えたところで、本人に訊いたこともないのだから、わかるはずもないのに。もっとも、訊ねたところでこちらの意図する回答は返ってこないだろう。舌打ちか侮蔑か、殺意か。気まぐれに一回くらいは、まともな返答があるかもしれないが。
(考えて、どうするんだろう)
仮に、黒影にそんな一面があったとして。不安や苦しみを知って、それでいったい、どうするというのだろう。
(仲良くなりたいわけじゃない)
ただ、帰るまでのあいだ、仲間としてうまくやっていけたらいい。きっと黒影も……いや、黒影はソウ以上に、なれあいを望んでいないだろう。それは明らかだ。
(早く帰りたいな……)
書物の頁をめくる音を聞いているうちに、ふたたび眠気の波が思考をおおった。一枚……二枚……それらの音もわからなくなった夢うつつに、なにかが頭に触れた気がした。ぼんやりと消えて曖昧になる感覚の中で、その気配を追う。
(ああ、そうだ)
もう、ずっとずっと昔に、母がこうして頭をなでてくれた。
温かい。
(でもいったい、誰が――……)
薄い手のひらが、前髪をすくようにして、ゆるやかに触れる。そのうちに、意識はまどろみの奥へ、小さな音を立てて沈んだ。
かたすみに浮かんだなにかも、どこかへうわすべりして、消えてゆく。
――……。
母はとても美しい人だった。
口数はあまり多くなく、ひかえめで、いつもそっと父のそばに寄りそうような、そんな人だった。
目じりは凛ととがっているものの、強気な印象がないのは、きっといつもやわらかな微笑をたずさえていたからだろう。伏し目がちで、横顔にかかる髪を耳にかけるしぐさひとつさえ母が内気なようすを表していた。
ソウが正式に魔狩として働きはじめてから四年。
冬のなかでもいちばん寒い日、ソウは十八歳になった。そのころにはもう母の背丈をすっかりこえていて、しばらく前に新調した仕事着もすっかりなじんでいた。
誕生日を迎えたからといって、幼いころのように心おどることもない。外の冷気をにじませる玄関口で、ソウは厚手のコートに袖を通した。靴の調子も整え、姿見を確認する。冬の朝は、色味のうすい自分の顔がいっそう白けて見えるのが、ほんのささいな悩みだった。もし接客業にでもたずさわっていたら、もっと深刻に悩んでいただろう。コートのほこりをとって、ソウは片手に魔導武具を担いだ。――幸い魔狩は、実力と実績があれば、容姿はそれほど重視されない。
「ソウ、ちょっと待って」
玄関から出ようとしたソウを呼びとめて、母がさしだしたのは、猫の顔を造形した面だった。猫面のぴんと立つ右耳には、数日前に母が「お洗濯ついでにほつれを直すから」と持っていった、八打ちの赤い紐と鈴が、きれいに結ばれている。はりのある猫の瞳のカタチでくりぬかれた穴をわずかに見つめてから、ソウは母のおもざしをうかがった。
「どうしたの、母さん」
「遅くなっちゃったけど、四年ごしの成人のお祝い……なんてね。本当は、成人の日に渡そうと思っていたのだけれど」
母はこまったように笑った。
「瘴気症のせいで、街の外にも出られなくなって、文のやりとりも、荷物を送ることも、制限ができてしまったから。こんなに時間がかかっちゃった」
当時、世の中は、ひどく不安定で、人々は恐怖に満ち満ちていた。瘴気症が爆発的に流行していて、まだ一般的に安価な治療薬が広まっていなかったからだ。
国内外の旅行は禁止され、人と人のかかわりは事実的に断絶されていた。対策は後手に回るばかりで、生活必需品の不足や先の見えない不安と終わりのない我慢におしこめられ、最近ではそれに堪えかねた住人によって、各所で暴動が起こることもめずらしくなかった。ふたをかぶせられた街は、いつもどこか鬱屈としていた。
街の足音はどれも重く、あるいはいらいらと急いでいて、道ばたにうち捨てられたモノを見るまなざしは、嫌悪と恐怖、そして諦観さえ漂うようになっていた。
そんな中で、母はどうにかやりくりをしたという。
「知り合いの職人さんにつくってもらったの。世界でひとつ。あなたのためのものよ」
「うれしいよ、母さん」
ソウはすなおに喜んでそれを受けとった。どうして猫のお面なのか、という疑問は多少あれども、母が人よりずれているのは、いまに始まったことではない。もともと山育ちで、父との婚姻をきっかけにこうして都市部で暮らしはじめたという。内気なこともあって、まわりにうまくなじめず悩んでいることも母はたびたび口にしていた。
母が変わっていることは、ソウにとってほんの些細なことで、とくべつに気にしたことはない。物心ついたときから母は奇麗で優しくて、こうして大きくなっても、変わらず自慢の母だ。
「ありがとう」
ソウは微笑んだ。
なによりも、自分のことを思って行動してくれたことが……かけてくれた手間と時間が、うれしかった。
しかしそれと同時に、すこし申しわけなく思うところもあった。
「けど、どうして? 俺に、そんなお金使わなくても」
ソウが働きはじめていくらか生活は楽になったが、それでもまだ心もとない。お金に余裕があるわけでもない。ライはまだ六歳。これからのことを考えれば、すこしでも貯金しておきたいはずだ。
「大切な息子のことだもの。母さんはね、ライも大事。けれど、それと同じくらい、あなたのことも大事で、愛しているから」
「わかってるよ」
ソウは照れ隠しに苦笑した。
母は日常に追われていても、ライのことと同じくらいに自分を気にかけてくれている。もう十八歳なのだから、そんなに心配しなくてもいいのに、とも思うが、母はこういったことを、とても大事にしているらしかった。
お面を受けとった手に、母は水仕事で荒れた手を重ねた。
さげられた鈴が、りん、と音を立てる。
「このお面はね、あなたを守ってくれる。だからあなたは、ライを守ってあげて。ライはふつうの子だから」
「あたりまえだよ」
なにをいまさらとソウは笑った。
母は時折、寝入ったライに「ごめんね」とあやまっていることがあった。ソウはそんな母を、しばしば見てきた。母が自分たちに負い目を感じていることは、知っている。
それでも自分は、母のことが好きだった。そして、こうして大事に自分たちを育ててくれた母へ深く感謝すると同時に、深く尊敬している。
だから、そんなふうにあやまる母を見るのは、すこし悲しかった。
「ごめんね、ソウ」
「あやまらないでよ。俺は、ほかにやりたいこととか、欲しいものとか、あんまりないんだ。こうやって働いてるのも、俺がやろうと思ってやってるだけだし」
「優しいあなたが誇らしいわ。けれどね……ソウ、むりはしないでね」
「むりなんかしてないよ」
苦笑するが、母の表情は暗いままだった。
「お父さんが死んでから、ソウは……なにも言わなくなったでしょう。それが、心配なの。泣いていいし、笑っていいの。好きに生きていいの。だからね、だから……」
「母さん」
ソウは母の言葉をそっとさえぎった。――俺を信じてよ。そんな言葉を呑みこんだから、会話は途切れてしまった。
儚くて繊細な印象ばかり覚えているのは、きっと母が、いつも壊れてしまいそうだったからだ。
「じゃあさ、わがまま言っていい? こんどの休みに、母さんがつくったアップルパイが食べたいな。俺、好きなんだ。あれがいちばん好き」
たぶん、母とはすれちがっている。
母は、息子が子供らしく本音を吐露することを望んでいる。そして、抱えている負い目を許されたくて、いくらか責められることを望んでいる。
そして、自分はそれを望んでいない。いや、本当はそうしたい気持ちもあった。けれど、母が壊れてしまうことが恐ろしかった。父が亡くなって、それでも家を守ろうと懸命に微笑む母が……家族のカタチが壊れてしまうことが、ひどく恐ろしかった。
だから、こんな見えすいた我儘を言う。
「だめ、かな?」
眉じりを下げて、わずかに首をかしげてみせる。
「もう、わかったわ……そういう言いかた、本当にお父さんにそっくり。ずるい」
「息子だからね。甘え上手でしょ?」
「そういうところはちがう。あの人は無自覚だった」
「それはそれで、タチ悪いと思うんだけどなぁ」
「ふふ、」
母が小さく笑って、ソウもまた笑みをこぼした。すこし元気になった母のようすをみて、ほっとする。我儘は追及を逃れるためのわかりやすい嘘で、母もきっと、このことをわかっているだろう。けれど、母の作るアップルパイが好きだというのは本当だ。
母と、幼い弟と、三人で焼きたてを食べながら、なんてことのない話をする。
そんな小さな幸せのカタチが、なによりも大事だった。
きっと母も、こういう時間を、とても大事にしていた。しかし、このなにげない約束は、あたりまえの時間は――……。
「おかあさん!」
母の遺体を目の前に泣き狂う弟を、ソウは抱きとめた。
人の目から逃れるように外套で隠して、まだ六歳の弟を大人のちからで無理やりに路地裏へ連れていった。怒って、泣いて、叫ぶ弟を抱きしめ続けた。
母が殺された怒りよりも、弟がいっしょに殺されてしまうことのほうが恐ろしかったから。
「どうしてお兄ちゃんは、泣かないの!」
道ばたで踏み潰された林檎を気にとめる人間は、きっと誰もいない。
その日を境に幸せな家族のカタチは、あたりまえの幸福は、なくなってしまった。
0
あなたにおすすめの小説
ちょっと大人な物語はこちらです
神崎 未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な短編物語集です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
触手エイリアンの交配実験〜研究者、被験体になる〜
桜井ベアトリクス
恋愛
異星で触手エイリアンを研究する科学者アヴァ。 唯一観察できていなかったのは、彼らの交配儀式。
上司の制止を振り切り、禁断の儀式を覗き見たアヴァは―― 交わる触手に、抑えきれない欲望を覚える。
「私も……私も交配したい」
太く長い触手が、体の奥深くまで侵入してくる。 研究者が、快楽の実験体になる夜。
春の雨はあたたかいー家出JKがオッサンの嫁になって女子大生になるまでのお話
登夢
恋愛
春の雨の夜に出会った訳あり家出JKと真面目な独身サラリーマンの1年間の同居生活を綴ったラブストーリーです。私は家出JKで春の雨の日の夜に駅前にいたところオッサンに拾われて家に連れ帰ってもらった。家出の訳を聞いたオッサンは、自分と同じに境遇に同情して私を同居させてくれた。同居の代わりに私は家事を引き受けることにしたが、真面目なオッサンは私を抱こうとしなかった。18歳になったときオッサンにプロポーズされる。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる