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第一章

南楓と競争

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 翌朝、いつもより五分早く家を出ると、すでに南の姿がそこにはあった。

「ごめん。待たせた?」
「ぜんぜーん。今着いたとこ」

 あぁ、学校に行きたくない。不登校になりたいわけではない。昨日のことがあったので、今日は平穏な学校生活を送れないはずだ。だから、憂鬱なのだ。みんなの脳をイジって、昨日の記憶だけ消し去りたい。
 そんなことできるはずもないので、なんとか乗り切る方法を昨夜考えていた。質問に対する返事も楽になるのでは思い、定型文を用意しておくことを思いついた。例えば、「いつから付き合ってんの?」という質問がくれば、あれ、いつから付き合ってる設定にすればいいんだ?

「なあ、俺たちっていつから付き合ってることにすんの?」

 一昨日からで良いのだろうか?

「設定は細かいところまで決めておかないとダメだよね。矛盾点を作らないようにしないと」

 そう言って、彼女はいつものポーズで考え始めた。テスト中もそんなあからさまに考えてる、とわかるポーズをしているのだろうか?

「よし、こうしよう!私たちが付き合い始めたのは四月の三十一日。告白したのは私から。悟は小学校の頃からの友達で、高校で再会したことに。この辺りは事実も混ぜておこう。それで、久しぶりに会って、昔話をしていたら、時間を忘れて楽しんでる私たちがいて、その勢いで告白しちゃった、ということにしよ。もっと細かいところはまたいつか決めよ。もう学校着いちゃったし」

 話をしていると、いつの間にか学校に着いていた。今日は朝のホームルームまで時間に余裕がある。

「わかった。覚えとくよ。ちなみに四月は三十日までだよ」

 靴を履き替えながら、彼女は「そうだっけ?」と首を傾げていた。

 教室に入ってからが勝負だ。激しい身体の消耗が予想される。つまり、俺の身体は休息を求めるはずだ。放課後、昨日のように彼女が教室の外で待っていれば、面倒くさいことになりそうだ。すぐに学校を出るため、今日は一人で帰る許可をもらいたかった。

「今日は一人で帰ってもいいか?」
「えー、まあいいけど。なんか用事あるの?」
「まあ、そんなとこ。すぐに家に帰りたいんだ」
「なるほど。おっけー」

 すんなりと了承を得た。

 彼女とはクラスが違うので、教室の前で別れた。
 扉を開く前に、深呼吸し、息を整えた。そして、いつもと同じように扉を開く。


「あぁ~~~」

 疲労感。俺の身体は安息を求めていた。教室へ入った瞬間、クラスメイトから想像通りの質問が飛んできて、予め用意をしていた俺は難なく答えることができた。ホームルーム前の時間だけでは満足しなかったのか、昼休憩までの休憩時間は全て質問タイムに当てられた。俺はトイレに行く暇すら与えられなかった。

 昼休憩になると、やっと解放された。返答は考えていたとは言え、量が量なので、疲労感がついてきた。

「大変そうだったな」

 俺の前に座る神崎は心の底から思ってはいない口調で言った。

「助けてくれても良かっただろ」

 俺が質問攻めにあっている間、神崎はクスクス笑いながら俺を見ているだけだった。

「だってお前があれだけクラスの奴らと話してるところ見たことなかったから、面白くってさ。それにしても、あんな美少女がお前を選ぶなんてな。羨ましい限りだよ」
「俺だって不釣り合いだとは思ってるよ。でも、神崎にも可愛い彼女がいるじゃないか」

 名前は忘れたけど一度写真を見せてもらったことがある。同じ学校の生徒らしいが、直接話したことはなかった。

「まあな~」

 神崎がニヤニヤしてる。羨ましい、というのは本心ではなさそうだ。

 午後の授業は睡眠の時間となってしまった。教師には申し訳なく思いつつも、身体が言うことを聞かなかった。運良く、俺の席は窓側の最後列だったので、バレずに睡眠に耽ることができた。

 六時間目の授業が終わる頃には、疲労感は多少薄れていた。ずっと机に伏せていたため、腰が痛かった。ホームルームが終わると、伸びをして、帰り支度をし始めた。
 帰ったら何しよう。だらだらテレビを観るのも良いけど、読書も良いかもな。そんなことを考えていると、教室の外が騒がしいことに気がついた。

 頭をあげて、視線を廊下の方へ移すと、南の姿が見えた。昨日の反省を活かし、言葉は発さず、ただ廊下から俺を見ているだけだった。それにもかかわらず、彼女の存在感は圧倒的で、注目を集めていた。当然、南だけでなく、彼氏ということになっている俺の方にも視線が集まる。なんだか監視されている気分になり、今すぐ教室から逃げ出したくなった。

 教室内外から、ヒソヒソ声が聞こえてくる。なるべく、俺は教室の誰とも目を合わせず、教室を出ようとした。神崎の方をチラッと見たら、親指を立てるジェスチャーを向けていた。別に神崎は何も悪くないけれど、少し腹が立ったので、睨んでおいた。

 教室を出ると、そこに彼女はいた。腕を後ろで組み、なぜかドヤ顔で俺を待っていた。

「下駄箱でした会話忘れたのか?」

 今日は一人で帰る許可を得たはずなのに、これでは意味がないじゃないか!

「覚えてるよ! 急用があるから、早く帰りたいんだよね? じゃあ、家まで競争するのはどう?」
「は?」

 反射的に言葉が出てしまった。一体、何を言ってるんだ......。

「小学校の頃みたいに、走って帰ったらいつもより早く家に着くことができるでしょ。悟が私の歩幅に合わせてたら帰るの遅くなっちゃうもんね。だから、一人で帰りたかったんでしょ?」

 ここが廊下であることを思い出し、「違う!」と否定するのをやめておいた。走って帰ったら、さらなる疲労感に襲われることが確定している。しかし、この状況で彼女を置き去りにし、一人で帰れば、カップルと見せかける作戦が終幕を迎えてしまう。手紙を人質にとられている以上、ここは何としても彼氏として正しい振る舞いをする必要があった。

「まあ、そんなとこだな。俺も一緒に帰りたい気持ちは山々なんだが、南を付き合わせるわけにはいかない。今からだと走らないと間に合わないかもしれない。南は俺の全速力についてこれないんじゃないかと思う。今日はお互い別々に帰ることにしないか? そして、また明日から一緒に登下校しよう」

 自分でもよくわからなくなってきている。なぜか俺が走って帰ることは確定してるし。

「楓ちゃんなら足速いし、問題ないと思うよ」

 南の隣にいる女子がそう言った。

「......そうなのか?」
「うん。この前体育の時間にやったスポーツテストで短距離一位だったもん」

 小学校の頃から足は速かったけど、そこまで速いとは思っていなかった。そういえば、中学校の時、陸上部に入っていた、と以前に聞いていたことを思い出した。

「でも、これは長距離の部類に入るし、やっぱりやめた方が......」
「長距離は三位だったっけ?」
「ううん。四位」少し恥ずかしそうに南は言った。

 歩いて帰るという選択肢はない。俺が急いでいることをすでに伝えてしまっているから。
 こんなことになるなら、一人で帰りたいなんて言わなきゃ良かった! 今日は校門の前で集合にしよう、とかの方がマシだったのではないか?

 走ると決まれば、一秒でも早く家に到着することだけを考えよう。疲労感なんて知るか。

「わかった」
「女だからって手加減しないでよ」

 教室の前で自分は何をやってるんだ......。周囲もザワザワしてるし。

「じゃあ、わたしがスタートの合図するね~!」

 教室内を横目で覗くと、神崎が腹抱えて笑っていた。自分でもこの状況がよくわかっていなかったので、何となく、親指を立て、グッドポーズをしておいた。

「よ~い、ドン!」

 俺たちは同時にスタートした。友達と仲良く喋りながら歩く学生たちを追い抜いていく。けれど、南の前を走ることはできなかった。言っていた通り、彼女は速かった。俺と並んでいるか、少し先を越されている。
 なんとか前に出たいが、廊下の幅がそれほど広くないため、困難だった。

「おい、天野」

 廊下の突き当たりで曲がろうとした時、呼び止められた。俺が止まったのを見て、彼女も足を止めた。

「は、はい」

 声から誰に呼び止められたのか見当はついていた。数学を担当している犬塚だ。犬塚は生徒指導も受け持っている。この先、俺と南がどうなるのか想像することは容易だった。

「南もちょっと来い」

 俺たちは廊下を全速力で走っていた罰を受けるのだろう。犬塚に俺たちはついていくしかなかった。

 生徒指導室に連れて行かれた。俺たちは犬塚と向かい合う形で座らされた。
 あぁ、結局、帰る時間はいつもより遅くなってしまうのか。彼女の誘いに乗るべきではなかった。せめて、校内を出てから走り始めるべきだった。
 今更後悔しても遅いので、犬塚からの尋問に一つずつ答えることにしよう。


「いや~、長かったね」
「ああ、もう絶対校内で走らないよ」

 三十分以上の説教を終え、俺たちは解放された。

「犬塚怒らせると怖いね。数学の宿題忘れたらあんな感じなのかな」

 今怒られていたはずなのに、全く怖がってなさそうな口調で彼女は言う。

「どうだろうね。俺たちよりはマシなんじゃない。知らないけど」
「優等生キャラ崩しちゃったな。でもちょっと楽しくなかった? 競争するの」
「少しだけ、なんか小学校の頃に戻った感じがしてね」

 家まで競争して帰っていた小学校時代の記憶が蘇ってくる。そういえば、一度、派手にこけて南が号泣したことを思い出した。俺が家までおぶって帰った気がする。

「あの頃は楽しかったよね。何をするにしても新しいことばかりで、ワクワクしてた。最近は心を躍らせること少なくなっちゃったなー」

 まだ十五年しか生きていない俺たちが言うのもどうかと思うが、彼女の言う通り、胸が高鳴ることが減ったように思う。今では低次元だと感じる遊びもあの頃は楽しめていたはずだ。どのタイミングで俺たちは変わってしまったのだろう。

「そういえば、急用は大丈夫?」
「大した用ではなかったし、別にいいよ」

 結局、俺たちは昨日と同じように二人で歩いて帰ることになった。
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