一級品の偽物

弐式

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一.

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 亜米利加アメリカから日本に開国を迫るべく、マシュー・ペリー提督が率いる4隻の黒船が浦賀沖に出現したのは嘉永六年(1853年)のことであった。

 長年鎖国政策を敷き一部を除いて外国との交易をしてこなかった江戸幕府は、ペリーの一戦交えることも辞さずという砲艦外交の前に、成す術もなく開国へと向かっていく。

 しかし、外国人嫌いで知られた当時の孝明天皇は開国を断固拒否して勅許を出さなかった。そのため、国内は大混乱に陥った。この国の主権は誰にあるのかという根本が問われたのである。

 幕府側を支持すべきとする佐幕派、朝廷側を支持すべきという尊王派、外国勢力を断固追い払うべしという攘夷派、今戦ってもとても敵わないのだから今は開国して力を蓄えようという消極的な開国派、国を開き外国と交易を推進していくべしという積極的な開国派。

 個人レベル、藩レベルでの様々な思惑が入り乱れる中、徳川幕府はこの事態を収拾する有効な手が打てず、幕府の威信は揺らいでいった。

 ――が、その辺りの話は、他の良書に譲るとしよう。

*   *   *

 文久二年(1862年)も、残すところ一か月をきっていた。最初の黒船来航から10年近くが過ぎても、世の中は混迷の度を日々深めていた。とはいえ混乱に陥り、日々流血の惨事が絶えなかったのは、京だけでの話。遠く離れた江戸の民衆は、まだまだ泰平の世が続くと思っていたし、幕府の中心にいる幕閣の面々や徳川家を守る直参たちでさえ、そのうち何とかなるだろうと思っていた。

 もっとも、登城中の大老、井伊直弼が水戸藩士らによって白昼堂々襲撃を受け、殺害された桜田門外の変からはまだ2年も経っていなかったし、10ヶ月ほど前にも、幕府を仕切っていた老中、安藤信正が水戸藩士らの襲撃を受け負傷したばかりである。

 安藤信正が襲撃された坂下門外の変は、安藤が配下の武士たちを指揮して襲撃者を撃退し、桜田門外の変の二の舞とはならなかった。ところが、この幕府の危機の中、時流を見極めもせず前時代的な権力闘争に終始する幕閣たちに格好の攻撃材料を与えた形となり、安藤はほどなく老中を罷免され失脚してしまう。

 このままでは徳川幕府に日本国を統治することなどおぼつかなくなってしまうだろう。そうなれば待っているのはさらなる混乱。それどころか群雄割拠の戦国時代の再来となってしまうかもしれない。このまま「安穏とはしていられない」と考える者も大勢いた。

 その日、芝愛宕下日影町しばあたごしたひかげちょうに店舗を構えている刀剣商の相模屋伊助さがみやいすけが出会ったのも、そんな男の一人だった。

 それは、この時期にしては暖かい陽気の日であった。

 所用の為に朝から留守にしていた伊助が、昼前に店に戻ってきたところ、番頭から来客があった旨を伝えられたのである。

「練兵館からの紹介がありましたので一応奥の座敷に通しているのですが……」

 番頭は四十前とまだ若いながらも、この店の隅々まで知り尽くしている。伊助が全幅の信頼を置いている男だが、客を選り好みするところがある。言いにくそうにしているのはそういうことだろうと思った伊助は、先を促した。
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