80年と300年の恋

阿東ぼん

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重要なのは長さではなく密度なのだろう

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 真っ白な病室はそれこそ目が眩むほど眩く外から射し込む陽射しを乱反射し、目覚めたばかりの僕にはいささか辛さを覚えるほどだった。鳥の鳴き声、葉の擦れる音、遠くに聞こえる自動車のエンジン音。微風に揺れるカーテンがふわふわと波打ち、ベッドの傍らにあるテーブルには見舞いの果物がバスケットに入れて置いてある。どれを取っても絵に描いたような病室だった。

 異物といえば、異常といえば、僕くらいのものだろうか。年齢の割に皺の目立つ肌に枯れ木のような細腕と縫い糸じみた白髪を持った男が横たわっていたところで誰も喜びはしない。これが美しい少女であるならば人の心を打つだろう。そのドラマティックな人生はバラエティ番組の御涙頂戴ムービーに組み込まれるかもしれない。タイトルはーー【最後まで諦めなかった少女】なんてのはどうかな。

 安直すぎるネーミングに口角があがる。我ながら酷いセンスだ。芸術家にはなれそうもない。

「何を笑っているの?」

 寂しそうに尋ねる女性は、僕の恋人だ。綺麗な黒髪と艶やかな肌はまるっきり僕とは正反対。腕は細いけれど、それは女性特有の美しい細さだ。強く握ればへし折れしまいそうな、ガラス細工みたいな繊細さを秘めたもの。シャツの袖から覗く肌は今の僕には明るすぎる。

「いや、なに、少し可笑しなことを考えてしまってね。話すようなことでもないから忘れてほしい」

 できる限りの笑みを返す。表情筋が震えているのがわかる。笑うのにこんな苦労をするなんて思いもしなかった。笑顔って素敵で、素晴らしくて、力に満ち溢れたものだと思う。

「久々にあなたが笑ったところを見たわ。病気が発覚してからずっと暗い表情ばかりだったから、少し安心した」

「そうだったかい?    そんなつもりはなかったけど……君が言うのならきっとそうなんだろう」

 僕は彼女を信頼している。信用している。病気が本格化し、入院を余儀なくされた今もまだこうして顔を見せてくれるのは彼女だけだ。友達が来たのは最初だけ。家族だって段々来なくなって、最近はめっきりだ。今度顔を合わせるのは僕が死んだ時に違いない。元々あまり仲の良い家庭ではなかったけど、ちょっと薄情なんじゃないかと文句のひとつも言ってやりたい気分だ。

 死ぬことは別に怖くない。いや、怖いな。本当は怖い。本当に怖い。死にたくない。まだ生きていたい。……でも、この願いは何処にも聞き届けられることはなく。

 だから諦めた。生きること、死ぬまいと頑張ることを。すると、多少気持ちは楽になった。病は気からというし、生への執着が却って僕を苦しめていたのだろう。死を認識し、死を許容し、死を待望する。そうするだけで余命幾ばくかの命にかかる負担は随分と軽くなるのだ。少なくとも、僕は。

 後悔はない。大それたことのない平凡な人生だったけど、そこにはありきたりの幸せがあった。何より彼女と出逢えたことは僕の人生にとって最大の奇跡だ。その代償がこの病なら過ぎるほど納得できてしまう。それくらい僕は彼女からたくさんのものをもらい、たくさんの幸福を得てきた。何も返せないのは心苦しいが、せめて彼女が寄り添ってくれたこの人生が幸せだったと言い張らなければ全部ウソになる。

 ああ、でも。
 ひとつだけ心残りが……。

「ねぇ、僕のお願いを聞いてくれるかい?」

 彼女は何も言わず静かに僕を見つめた。少し潤んでいる。どうか、そのまま聞いてほしい。

「君は優しいひとだ。こんな僕を愛してくれた。君は本当に美しい。見た目もそうだけど、何よりその心が美しい。僕は君の心に一番恋していた。そう断言できる」

「面と向かって言われると恥ずかしいわ」

「そんなふうに照れてる姿も可愛いよ。でもね、だからこそ、君には言っておかなくちゃいけないことがあるんだ」

 僕が何を口にするのか。多分、彼女はそれを予想して下唇を噛み締めたのだ。まるで叱られた子供のように俯いて肩を震わせている。

「嫌だ……いやだ……イヤだ!   あなたを忘れたくない!    恋していたのは私も同じよ!    あなたの優しさにずっと恋い焦がれていた!」

 涙と言葉は止まらず。

「優しい眼差しが好き。優しい声が好き。笑いかけてくれたときの安心感が好き。キスするとき、すごく大切に扱ってくれるのが好き。好き。好き。大好き。私は世界で一番あなたを愛している!」

 僕の乾いた体を抱きしめて泣きじゃくる。可笑しな話だ。これから死にゆく病人より、それに付き添うひとが涙するなんて。なんだかとてもドラマティックじゃないか。

 それでも、僕は伝えよう。
 生涯かけて恋をして、全霊で愛した彼女が、僕以外の誰かの前でもいつか強く笑えるように。

「忘れろなんて残酷なことは言えない。君は優しいから僕をずっと覚えていてくれるんだろうね。……ありがとう」

「お礼なんか言わないで……」

「いや、言うよ。君には返しきれないほどの恩がある。だから、せめて。これから先の未来、君が君を幸せにしてくれるひとを見つけられるよう祈らせてほしいんだ」

「…………」

 返ってくるのは嗚咽だけ。僕は骨張った指で彼女の髪を梳いた。さらさらとした触り心地は死んでも忘れられそうにない。

 君が好きだ。全部、全部大好きなんだ。これを愛と呼ばないのなら、この世にきっと愛はない。

 僕の人生を彩ってくれた花。手向けとしては十分すぎるほどの価値がある。それが誰に愛でられることもなく枯れてしまうのがどんなことより哀しくて恐ろしい。

 だから願うよ。
 これが僕の最期の望みだ。



「ーーどうか、君を心の底から愛してくれるひとが、君の前に現れますように」


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