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Episode1 京子

【正月特別編】初詣の思い出

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 これは、彰人あきひとと浩一郎のアルガス襲撃から二年経った新年の話だ。

 元旦の仕事始めは、朱羽あげはの事務所に書類を届ける事だった。
 あっという間に用事は済んで、京子は綾斗あやとに初詣へ行こうと提案する。まだ夕方には早い時間で、このままアルガスに戻るのは勿体もったいない気がしたからだ。

 けれど有名どころを避けたつもりが、参道にはまだまだ長い列ができていた。

「やめとく?」
「別に構いませんよ。今日は大して仕事もないし、連絡だけ取れるようにしとけって事ですから」

 行列を前に帰ろうと言われるかと思ったが、綾斗は先に最後尾に着く。そこから後ろへ列が伸びるのはあっという間だった。

「ありがと、綾斗。初詣に来たのなんて何年振りだろう」
「ずっと来てなかったんですか?」
「まぁ、眞田さなだ神社には行ってたけど。お参りするのに列に並ぶなんて久しぶりだなって思って」
「あぁ、あそこは俺も行ったことあります」

 眞田神社は、アルガスの近所にある小さなお社だ。深夜のピーク時を過ぎれば、多くても10人ほど待てばお参りすることができる。
 宮司とも顔見知りで、京子は毎年通りすがりに寄って手を合わせていた。

 冬を忘れる程に青く晴れ渡った元日の空に、懐かしい風景を重ねる。
 小さく笑みを零した京子を、綾斗が「どうしたんですか?」と覗き込んだ。

「桃也さんとのこと思い出したんですか?」
「ううん、彰人あきひとくんのことだよ」
「…………」

 京子がその名前を口にした途端に、綾斗の唇が真横に結ばれる。
 桃也の話題が出た時とはまた違う反応だ。気まずいようなモヤモヤしたような複雑な顔をして、綾斗はいつも本心とは別の言葉を頭の中で真剣に選んでいる気がした。

「怖い顔しないでよ」
「してません」
「してるよ。けど、その話聞きたい?」
「聞かせて下さい」

 彼が聞きたくない内容のような気がしたけれど、その本心が京子にはよく見えない。
 何かを振り切ったように答えた綾斗に、京子は「分かった」と肩をすくめた。

「そんな面白い話でもないけど……まぁいっか」

 前に伸びる列を爪先立ちで伺うと、まだまだ距離があった。
 暇潰しくらいになると思った提案だけれど、改めてその記憶を頭に浮かべて京子は少しだけ後悔する。ネタのように話すにはいささか心が痛んだからだ。
 けれど言い出した話を取り消すこともできず、構える綾斗の顔に京子は腹をくくる。


   ***
 あれは中学最後の正月だ。京子は幼馴染の陽菜ひなと二人で初詣に行った。
 二年前に母親が亡くなり、まだ喪中だという感覚はあるが、地元で最後の思い出にと忠雄が「行って来い」と見送ってくれた。

「京子、何お願いしたの?」

 一時間以上列に並んでようやく手を合わせた所で、陽菜が楽しそうに京子に腕を絡ませた。彼女も京子もそれぞれに進学先が決まっていて、お互い合格祈願ではないことは分かっている。

「そういうのって他人に言わないものなんじゃない?」

 返事を渋る京子に、陽菜はニヤリと意味深な笑顔を向けた。

「彰人と結ばれますように、って?」
「ち、違うよ」

 口では否定したけれど図星だった。正確に言えば『告白できますように』とスタート地点でくすぶっている想いを吐き出したいという思いだ。
 あとは、地元に残る父親が元気でいますように──と。

 「その辺に居たりして」とキョロキョロ視線を振る陽菜を「やめて」と止める。心の準備はゼロパーセントだ。

「アイツのことだから、着物女子に囲まれてたりするんじゃない? 隣のクラスの下平ちゃんと四組の山田さん、狙ってるって聞いちゃったんだよね。まぁそれ以外にもいっぱいいそうだけど」
「確かに二桁行っても驚かないかも。だから私には関係ないよ」
「そんなこと言って。私だって京子が居なくなるのは寂しいんだよ? 京子、おばさんが亡くなってから沈んでること多かったし。笑顔で東京に行って欲しいんだよ」
「陽菜」

 思わず涙が込み上げるが、こんな人の多い参道で泣くわけにはいかなかった。

「けど、フラれたらそれこそ落ち込んじゃうよ」
「それはそうなんだけどさ。気持ち伝えないまま離れちゃったら、モヤモヤ残らない? バレンタインにチョコ渡してみたら?」
「それって、めちゃくちゃハードル上げてない?」

 彰人は同じクラスだけれど、何気なく日常会話をするような相手ではない。
 グイグイ押してくる陽菜を突き放すわけにもいかず、「考えとく」と気持ちとは裏腹な返事を返した。

 あの日がそれで終わってしまえば、きっとそのまま何もせずに東京ここへ来たと思う。
 けれど彼はあの日も『偶然』を装って京子の前に現れたのだ。

 いつもならバスを使うのに徒歩の帰宅を選んだのは、慣れ親しんだ街並みと晴れの空を名残惜しく思ったからだ。
 人通りの少ないシャッターだらけの旧道で、突然背後から彼に声を掛けられた。

「京子ちゃん」

 彼の事情をまだ何も知らなかった京子は、その偶然を運命だと思った。

「あけましておめでとう。初詣の帰り? 一人なの?」
「うん、さっきまで陽菜と居たんだけど、用事があるって言うから先に。あの、彰人くんもあけましておめでとう」

 見慣れたコートにマフラーを巻いた私服姿の彼にドキドキが止まらなくなって、京子は俯いた相槌を繰り返す。

「なら一緒に帰ろうか」

 そんな彼の誘いを嬉しいと思うのに、自然な顔で「うん」と返事することができなかった。
 けれど京子に掛けられた「行こう」という彼の声は、いつも通りに優しい。

 地元で過ごす最後の正月の、ほんの数十分の時間を彼と過ごした。
 彼の隣にいると、すれ違う視線が彼に吸い付くのが良く分かって、京子は伸ばしたコートの袖に左手の銀環ぎんかんをしまった。
 すぐ側にある彼の顔を見上げながら何を話したかは覚えていないけれど、他愛のないことばかりだった気がする。

「彰人くん、受験頑張ってね」

 むせるような息苦しさから絞り出した声は、京子の恋の精いっぱいだ。
 彰人は目を細めるように「ありがとう」と笑む。

「京子ちゃんが向こうに行ったら寂しくなるね」

 別れ際に彼はそんなことを言って、先日再会した時と同じ言葉をくれた。

「京子ちゃんは、誕生日おめでとう」

 その言葉が嬉しくて、京子は想いを伝えようと思った。
 この恋が叶いますように、と。
 望みなんてこれっぽっちもないのは分かっていた。
 だから、三月の別れに返事を貰えなかった時、諦める決心がついた。

 あの時のような思いは消えてしまったけれど、長い六年を挟んで、彼は同じ笑顔で目の前に現れた。

「偶然だね」

 そんな嘘をついた彼を、未だに少し許せていない。


   ***
「まだ好きなんですか?」

 聞き終えた綾斗は想像通りの不満顔を貼りつけていた。
 ようやく番が回ってきて、お祈りして列を離れる。何を祈るかずっと考えて、結局「来年はいいことがありますように」と単純なことにしてしまった。
 あの人の帰りを祈りたかったけれど、祈った分辛くなりそうな気がして自分の気持ちをはぐらかした。

「前も言ったでしょ? 私にとっての彰人くんはもう恋じゃないんだよ。けどあの顔見るとやっぱり少しはドキドキしちゃう。初恋ってそういうものじゃない?」
「知りません」

 参道で買った甘酒を手に、綾斗は表情を隠すように眼鏡を曇らせた。

「もぅ。新年なんだし機嫌直してよ。何ならこのままご飯食べに行く?」
「行きます」
 
 眼鏡を外したつらが「すみません」と謝る。
 綾斗は曇りをハンカチで拭いながら、少しだけ笑顔を見せた。

「だったらお酒もどうぞ。今日は京子さんの誕生日だし、俺の奢りで」
「ほんと? じゃあ一杯だけ飲ませて。綾斗の誕生日には一緒に飲もうね」

 彼が二十歳になるまであと二か月と少し。
 その日を待ち望みながら、京子は声を弾ませた。


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