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Episode2 修司

90 通ってしまった企画書

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「座ろうか」

 四階の会議室から二階まで降りたところで、彰人あきひとが階段を離れて食堂側の廊下へと折れた。誘われるままに腰を下ろしたのは、かつて京子が泥酔でいすいして倒れていたソファだ。
 夕飯にはまだ早かったが、空腹をき立てる甘辛い匂いが漂っている。

「好きな女の子にあんな顔見せるもんじゃないよ」

 隣に並んだ彰人が、唐突にそんなことを言う。

「変な顔してましたか?」
「ずっと不安そうだった。まぁ一年離れるのは寂しいだろうけど、彼女は修司くんの事ちゃんと待ってると思うよ」

 まさかの恋愛話に戸惑うが、彰人は至って真面目に話をしている。

「けど、桃也さんはまだ戻っていないんですよね? 俺もそうなったりしませんか?」
「あぁ、そっち気にしてるんだ。桃也は別格だから気にしなくていいよ。彼は欲張りでさ、周りが見えてないくらい必死だから」
「そうなんですか?」
「うん──けど、心配いらないよ。修司くんにとっての一番が美弦ちゃんだっていうならね」

 バスクからキーダーになった桃也は、一年の訓練期間を過ぎても京子の所には戻っていない。

 ──『俺みたいにのめり込むなよ?』

 前に桃也から言われた言葉だ。
 彼は戻れなかったのか、それとも戻らなかったのだろうか。

「美弦ちゃんは、二年間も君の事待ってたんでしょ?」
「あぁ……」

 ──『私は……アンタに会った日からずっと待ってたんだから』

 彼女の言葉を思い出して、胸が震えてしまう。

「いい? もし君が何かの選択を迫られたら、美弦ちゃんを選べばいい。それだけだよ」
「選ぶって」
「そういうこと」
 
 曖昧な空気を残したまま、彰人は満足げに微笑んだ。

「君は僕みたいにひねくれない様、普通に恋愛した方がいいよ。律みたいなのに惑わされないでさ」
「ま、惑わされてなんか――」
「なら、大丈夫だ」

 負傷した彼女を残してあの場から立ち去って以来、修司は律に会っていない。どこかの医療機関に収容されているという話だが、詳しくは聞いていなかった。

「全身打撲で大量出血。桃也が居なかったら死んでたよ」

 ホッとする気持ちを隠しつつ、修司は「そうですね」と答えた。

「これから律のトコ行ってくるね」
「え? 今からですか? 俺も連れてって下さい!」

「ごめん、僕一人で行かせてくれる? ケジメをつけないといけないから」

 衝動的な申し出は、彰人のはにかんだ笑顔でやんわりと断られてしまう。

「この間の戦闘で捕まえたホルスは全員トールにして警察に引き渡すって聞いたんですけど、律さんもってことですよね?」
「そうだよ。律は能力者には向いてない。あんなことを二回もしたんじゃ、本人にも納得してもらわないと。ホルスだった人間をキーダーにはできないからね」

 修司は何度か律にキーダーを勧めた。もちろん断られてしまったが、無駄な話だったようだ。

「律なら力なんかなくたってやっていけるよ。野生児だからね」

 確かにバイタリティのある女性だ。けれど彰人は彼女を一人で突き放してしまうのだろうか。

「彰人さんは、追い掛けないんですか?」
「僕が彼女を追い掛ける理由なんて、何もないよ」
「そんなこと、ないと思います」

 一人で律の所に行く彰人が、そのまま帰ってこないような予感がした。けれど、

「僕は、ここに居るって決めてるから」
「彰人さんは、どうしてキーダーになったんですか?」

 彰人は、自分の額にそっと手を触れた。前髪に隠れたその場所に、もう肌の色に紛れた傷跡がある。

「居場所が欲しかったから。バスクだった君にも分かるでしょ? 自分から何かをしようなんて思わないし、アルガスのキーダーって肩書の中で適当に好きなことしてるのは、結構楽しいからね」

 その答えが彼らしいと思う。

「最初、あの慰霊塔いれいとうで会った時には想像もできなかったけど。俺、彰人さんとここで一緒に仕事できるの光栄です」
「それはどうも。あ、それよりお盆明けにやるジャスティの野外ライブ、修司くんにも手伝ってもらうからね」

 突然手をポンと鳴らして、彰人がそんな話を始めた。

「野外ライブ? またホルスが動いたんですか?」
「そんな物騒なのじゃないよ」

 じゃあ警備か何かだろうかと察したところで、彰人は破顔して予想の斜め上をいく発言をしたのだ。

「チャリティライブだよ。この間、近藤さんに話してたでしょ? 半分冗談だったんだけど、あのおじさん本気にしちゃって。でも楽しそうだから受けちゃったんだよね」
「ええっ? それって近藤自身が嫌がってたやつじゃないですか。チャリティなんか、って」

 キーダーの力を見世物にするという近藤の発言に、金儲け抜きのチャリティなら受けると提案した彰人の言葉は覚えているが、金の亡者がこんな短期間で改心したとは思えない。

「修司くんに助けられて、面白そうだと思ったんだって。美弦ちゃんと二人のご指名だよ。それに、うちの上官オジサン達にも企画書通っちゃったんだよね」
「通った? けど、俺は何をすればいいんですか?」
「大したことじゃないよ。会場の上からパラシュート付けてヘリから降りるだけだから」
「ええええっ? ぱ、パラシュート?」

 春を待たずに速攻で北陸に行きたくなってしまう衝撃に、修司の声は廊下の隅まで響き渡る。

「そんなのしたことないですよ。俺、う、腕もヒビ入ってるし、しばらくは……」
「夏休みだから、それまでには治るよ。嫌だって言ったって、どうせそのうち訓練もするんだから」

 腕の怪我をアピールするも、彰人は「大丈夫だよ」の一点張りだ。夏までに心も体も準備できるとは思えない。
 「駄目です」と手を振るが、有無を言わせない彰人の笑顔に恐縮きょうしゅくして、「は、はい」と掠れ声で返事した。

「彰人さんも一緒に飛び降りるんですか?」
「僕は航空ショーとかガラじゃないから。君と美弦ちゃんと、綾斗あやとくんでもいれば十分だよ」

 「いやいやいや」と修司は思わず否定の言葉を強めた。柄とか関係ないだろう。大体近藤への協力は彰人が言い出したことなのだ。

「キーダーにはパラシュート降下なんて基本だよ。何かあったら僕が下で受け止めてあげるから。その為の念動力でしょ? 大船に乗ったつもりで飛べばいいからね。それじゃ、僕はそろそろ」

 早口にまとめて立ち上がる彰人に、修司は呆然ぼうぜんとソファに預けていた体を起こした。

 「お別れしてくるから」と物悲し気に微笑んだ彰人の背中を見送る。もう律には会えないのだと理解して、消えゆく彰人の背中に彼女への「さよなら」を送った。

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