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Episode4 京子

173 おじいさんの時計

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 ハッと意識が戻った瞬間、久志ひさしの視界に飛び込んで来たのは雲一つない真っ青な空だった。
 ここが何処だか迷って、けれど脚の痛みですぐに思い出す。

「僕は負けたんだな」

 脚が折れているのは分かるが、それ以外何も分からない。背中が固い地面に張り付いたまま、横へ寝返る事さえできなかった。
 広場に散らばって生える雑草が、耳元でザワザワと風に吹かれている。

「静かだ」

 もう佳祐けいすけは居ない。あのまま京子たちの所へ行って、何事もなかったように振る舞っているのだろうか。
 それとも、何か仕掛けているのか。

 アルガスと連絡を取ろうにも粉砕させられたスマホではどうにもならず、他の手立ても見つからない。
 やよいを殺した佳祐を許そうとは思わないのに、手を抜いているという指摘を否定することもできなかった。

「ごめんな、やよい。僕はこのままやよいの所へ行くのかな」

 引きずるように左手を引き寄せて、涙の流れた目を腕で覆う。
 瞼に硬い銀環ぎんかんが当たって、そのすぐ横で手巻きの古い腕時計がカチカチと時を刻んでいた。

「藤田のオッサン……僕は、アンタより先になんて死にたくないよ」

 藤田が退職する時に譲り受けたその時計は、あれから肌身離さず付けてずっとメンテナンスしてきた。

 何故か頭の中で『大きな古時計』のフレーズが流れてくる。

「大きなのっ……ぽの、古どけい……お爺さんの、とけい……」

 ひとフレーズ口ずさんで、久志は「そうだ」と自嘲じちょうするように鼻を鳴らした。

「歌のお爺さんは生まれてから死ぬまで時計と一緒だったっけ。最後はお爺さんも時計も止まっちゃったけど、僕は時計を直すことが出来る。だから、幾らだって生きられるよ」

 まだまだという気力に身体は全くついてこないが、絶望するよりも先に遠くで鳴った小さな足音に希望を感じることが出来た。

「久志さん!」

 声だけで分かる。
 どうして彼がここに居るのか分からないけれど、それだけで頭が興奮に満ちた。
 彼の顔を確認しようにも動くことが出来ず、久志は空へ向けてその名前を叫ぶ。

綾斗あやと!」

 昨日電話した時、そんな話は一つもしていなかった筈だ。
 中途半端な連絡を入れてしてしまったせいで、不安をあおってしまったのだろうか。
 一人分の足音はあっという間に大きくなり、青空の視界を泣き出しそうに歪んだ綾斗の顔が塞いだ。

「久志さん、何があったんですか! 凄い気配ですよ。これって佳祐さん……なんですか?」
「佳祐はホルスなんだって。肯定なんて欲しくなかったけど、やよいを殺したのもアイツなんだってさ」
「久志さん……」

 また涙が流れて、綾斗の顔がぼやけてしまう。

「ねぇ綾斗。僕はちょっと無理そうだから、お願いしても良い? アルガスにその事を連絡して。そして、京子ちゃんの所に行ってあげて」
「久志さんは大丈夫なんですか?」
「僕は生きてるでしょ? 今はそれだけで十分だから」

 脚は動かないが、恐らく命に係わるような状態ではないだろう。
 自分がそうしたように、佳祐もまた止めを刺さないまま行ってしまった。

「いい? アルガスに話したら佳祐の処刑命令が下るはずだ。今一番近くに居るのは京子ちゃん達だよね。僕は先輩だからさ、京子ちゃんにはさせたくなかったけど無理だった。京子ちゃんもキーダーだから、言われたらきっと修司しゅうじにはやらせないと思うんだ」

 キーダーは年功序列という訳ではないが、年上が前に出るという考えが身体に染み付いている。だから、綾斗が駆け付けたとして京子はそれを譲らないかもしれないけれど。

「キーダーはやるべき時はやらなきゃならない。だからもしそういう事になったら、綾斗は京子ちゃんを支えてあげて」
「勿論です。けど、場所は分かるんですか? 今日の予定がここだって聞いて俺は来たんです。そしたら久志さんが倒れてて」
「恐らく、アイツは海に行くと思うよ」
「海、ですか」
「うん、一番好きな場所だから。死に場所を考えたら、そこを選ぶんじゃないかな」

 キーダー殺しは粛清しゅくせい対象──久志に止めを刺さなかった佳祐は、自らの死を予感しているだろう。

「分かりました。久志さん、支部に伝えておくんで病院で待ってて下さい。俺、後で行きますから」
「うん、頼んだよ」
「それと……俺、久志さんに言わなきゃいけない事があって」
「どうしたの?」

 立ち上がった綾斗が、再び腰を屈めた。

「俺はバーサーカーなんです」

 不安そうな顔で突然何を言い出すのかと思えば、想像の斜め上を行く告白をする。
 少し驚いたけれど、素直に嬉しいと思った。

「凄い事だよ。それは夢のある話だね」
「そう言って貰えると有難いです」

 綾斗が来てくれて良かったと安堵する。
 勝利の風は、きっとこちらに向いている筈だ。
 これで今回の目的は果たせるだろう。

「けど、どうして……佳祐」

 再び青に戻った視界が、フィルターをかけたようににじむ。
 涙が止まらなかった。






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