割り切れない世界にいる僕ら

浅香ショウ

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「90」度の傾き

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「腹減ったー!飯、飯!」
いつものケイタの声が聞こえてくる。
昼休みに入るとそう言わないといけないルールでもあるかのように、
ケイタは毎日このセリフを言っている。

シンジもいつもの如く、カバンからコンビニの袋を取り出す。

ケイタに勉強を教える3週間はあっけなく終わりに近づこうとしていた。
3日後にケイタは前回の期末テストを再度受験し、正式に進級できるか判断される。

いつも放課後のバイト前の時間に宿題を終わらせていたシンジだったが、
その時間はケイタの勉強に充てることとなった。

もちろん、それでシンジの宿題が免除される訳ではないので、
結果的にシンジはバイト後の、日付が変わった時間帯から宿題を始める日々を送っていた。
母は仕事で家を出るので、一人きりのアパートで眠気と戦いながら宿題をこなす。
体力的にしんどい日々ではあったが、なぜかシンジは精神的に満たされている気がしていた。

それは自分が人の役に立てているという、おそらく生まれて初めての実感からだった。
そして、勉強を教える相手がケイタであるということもシンジの心を満たす大きな一因だった。

以前までは話すこともなかったその存在。
ただ、その行動を目で追い続けるだけだったその姿。
夜、寝る前に、不意に脳裏に浮かぶその笑顔、そして身体。

そんなケイタと二人で時間を過ごしている。
勉強を教え、時折くだらない話を聞き、バイト先まで自転車で送ってもらう。
そんな、一瞬一瞬に理由のない喜びを覚えてしまう、
そんな自分に気づかないふりをする。

コンビニのおにぎりをかじりながら、シンジは教室の入り口に目を向けた。
ケイタが同じ野球部の同級生と肩を組んで笑っている。
その相手が自分だったら、とシンジは想像する。
ケイタとの身長差を考えれば、それはきっと、肩を組むというよりは、
ケイタに抱き寄せられるような格好になってしまうだろう。
ケイタの腕と胸の間に自分の肩が収まる。
ケイタの学ランから、いつもの匂いが伝わってくる。
洗濯物と汗の匂い。

食堂に向かって少しずつ遠ざかるケイタの背中を見続けていたシンジの視線に
少しずつ霧が掛かっていく。

「ずっと合わないメガネ掛けてると、もっと視力落ちるぞ。」
先週、ケイタに言われた言葉が頭の中で再生される。
その時も、ケイタの匂いを嗅いでいたっけ。
ケイタの自転車の後ろで。

あれ、何かがおかしい。
シンジは違和感に気づく。
視界がぼやけるだけじゃない。
周りの音が遠のいていく。
潮が引いていくように、教室の騒音が少しずつ小さくなっていく。

どんどん狭まる視界の中でケイタの背中が揺れている。
その背中がぐらりと90度に傾き、次に教室の床が見えた。
遠くの方で女子生徒の悲鳴が聞こえる。

何が起こってるんだろう。

頰に床の木目と埃の感触が伝わる。
椅子がガタガタと音を立てている。いくつもの足音が重なる。

セブン!」
その声の主に抱き起こされたところでシンジの意識は暖かい暗闇の底へと落ちていった。
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