滅鬼の刃

武者走走九郎or大橋むつお

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9・『水たまり』

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滅鬼の刃 エッセーノベル    

9・『水たまり』   

 

 

 昔は、あちこちに水たまりがありました。

 水たまりと言うのは沼とか池とかいうものではありません。沼とか池なら天気に関わらず存在します。

 水たまりは、雨が降らなければ出現しません。

 ちょっとした大雨が降った後など『ここはベニスか!?』というくらい風景が一変したものです。

 

 低学年のころ、家から小学校までの舗装道路というと、学校の前の150メートルほどだけでした。

 学校までは一キロ近くありましたから、ほとんどが明治のころからそのまんまというような地道でした。

 地道と言っても、二車線半くらいの道幅で、地域に中小企業も多くあって9時ごろには、けっこうな交通量になります。

 小中学生の登校は、その三十分ほど前には完了しているので、交通安全的には黄色い帽子を被る程度の事でした。

 しかし、登校時間を外れた時間帯にはけっこうな交通量でしたので、道路にはけっこうな凹凸がありました。

 そこに雨が降ると、ここは川か湖かというくらいの水たまりができてしまいます。

 途中に五十メートルほど暗渠工事がされていない昔の農業用水路が残っていて、近隣の雨水が、そこをめがけて流れ込んでいきます。ひどいときは、水没した道路と旧農業用水路との区別がつかなくなって、いささか危険でした。高学年のニイチャンやネエチャンが手を引いてくれたりオンブしてくれたりということもありました。

 ときどき、車が脇を通って盛大な水しぶきをあげます。とっさに傘を傾けるのですが、腰から下に水を浴びるのはしょっちゅうでした。

 女の子は、すかさずハンカチを出して拭いたりしていましたが、男子は、構わずにそのままにして、乾くと、迷彩のシャツのようになることもあります。靴は、学校に着くころにはグチュグチュと小動物の鳴き声のような音をあげたりしました。

 当時の校舎は木造で、教室も廊下も板張りです。板張りと言うのは、けっこう吸水性があるので、傘や靴から(時にはずぶ濡れになった服から)漏れ出た雨水で濡れることはあっても、後年のリノリウムのように滑ることは無かったように思います。

 後年、自分が教師になったころは完全なリノリウムになり果てていて、大雨が降った時は、昇降口から階段にかけて何度もモップ掛けをしたものです。日ごろ、ていねいな掃除をしていないこともあって、あちこちに黒くなったジュースのシミができていて、雨水を吸ったモップはシミを拭うのにもってこい……ズボラなことをしていたものです。

 雨にはニオイがあります。

 軽い雨だと、埃のニオイ。雨が微細な砂や埃を舞いあげるので、今のように湿っただけのニオイではありません。

 片仮名でニオイとしたのは『臭い』と『匂い』の両方の意味があるからです。

 わたしには『匂い』でしたね。

 激しい雨になると、地面や建物に染みついアレコレが溶け出てきて、ちょっと妖めいたニオイになります。日ごろは、穏やかなすまし顔でいる街が、その身に秘めた、大げさに言うと古代のヤマト時代からの本性を現したようで、ちょっとワクワクしました。

 水たまりというのは絶好の遊び場にもなるもので、わざと長靴で水たまりに入って、水を蹴飛ばしたり、長靴を通して感じる水圧やヒンヤリと足が冷やされるのを楽しんでいました。

 運動場や近くの公園などは、半分以上が海のような水たまり。

 学校の運動場は無理でしたが、近所の公園には家に帰ってから自転車で出撃して、まるで大海原を最大戦速で突っ走る駆逐艦みたいに水しぶきあげて喜んでいました。

 昔の水たまりは、こんなもんじゃない。

 高校の時、大雨が降った日の授業で先生が言いました。

 先生は台湾からの引揚者で、わたしが通っていた高校の卒業生でもありました。二期生とおっしゃっていましたので、入学は昭和29年ごろでしょう。

 学校は、校舎こそできていましたが、塀をつくる余裕がありません。グラウンドの周囲は道路との境が判然としていなくて、生徒たちは、好きなところから校舎に入ってきました。

 むろん、雨が降ると、あちこち水たまりだらけです。

 日直で早く来た先生は、そんな雨降りの風景を三階の窓から見ておられました。

 もう、ほとんど雨は止んでいたのですが、女生徒たちは制服が濡れるのを気にして傘をさしています。男の傘は、たいてい黒一色ですが、女子の傘は、赤やピンクや色とりどりで、きれいなものです。

 その傘の一つが、突然水たまりに花が落ちたように浮かんでしまいます。

 瞬間で傘の持ち主が異世界に転送されて傘だけが残されたようになりました。

 アニメならここからワンクール13回のドラマが始まるでしょう。

 直後、周囲の生徒たちが騒ぎ始め、男子二人が上着を脱いで腕まくりして水たまりに腕を突っ込みます。

 やがて、全身水浸しの女子が助け上げられ、女子は、少し逡巡したあと、男子にお礼を言って、そのまま家に帰っていきました。

 その水たまりは、空襲で出来た穴で、日ごろ人の通る道筋でもないので埋め戻しが遅れていたもののようでした。

 さすがに、わたしたちのころは、そういう気合いの入った水たまりは無かったですね(^_^;)

 
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