きっと明日も君の隣で

椎名サクラ

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15 水族館とクラゲと告白と1

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 無理矢理食べさせられ、見舞い開始時間まで一日三十分病院の庭を車椅子で散歩する。たったそれだけしかしていなかったが、どういうわけか杉山から外出許可が出た。すでに家族の許可も取ってあり、昨日来た兄がとても仏頂面で着替えと小遣いをくれた。どうやらこれで中西と遊びに行けという意味らしい。できれば行きたくない……なんて言わせない圧力がかかっているとしか思えない。

 そして今、朝食が終わる時間を見計らって中西がやってきた。

「出かけよう、井ノ上」

 悠人が了承するのを前提の言葉に、乗り気はしないものの、中西の後ろに立っている市川がちゃっかりと兄が持ってきてくれた新しい服を手にして待っている。

「はぁ……分かったよ」

 手伝ってもらいながら着替えれば自分がいかに痩せたのかがよく分かる。以前と同じサイズを買ってきてくれただろうが全体的に余裕が増している。

 メンズのSサイズですら大きいとなると、痩せすぎている実感が湧く。病院の浴衣のような入院服では全く分からなかった。

 着替えを終えた悠人が乗っている車椅子を嬉々として中西が押し始めた。

「……もう足は大丈夫なのか?」

 車椅子を押すのにそれなりに力がいる。特に膝への負担は大きい。だが中西はとても嬉しそうに笑うだけだ。

「大丈夫、これくらい平気だよ。それよりさ、井ノ上はどこに行きたい? 夕食の時間前に戻れば良いって杉山医師言ったから、結構時間あるな」

 たっぷり十時間もあるということか。

 嘆息した悠人の頭に浮かんだのはさっき別れたばかりの市川の言葉だ。

「水族館……」

 それだけで合点がいったようだ。

「あそこな、了解! リニューアルしたばかりだもんな、どうなったか俺も気になってたんだ」

 エレベータの鏡に、いつもの屈託ない笑顔が写し出されている。こんな自分といてなにが楽しいのだろうかと思ってしまうほど、嬉しそうに笑っている。

 久しぶりに病院の敷地から出れば、入院したばかりの青々とした街路樹は色を濃くし、風に靡いて時折葉を落とす。そんな季節の変化すら真四角に切り取られた窓から見ているだけでは分かりづらい。いつの間にか梅雨が明け毎日のように熱中症に気をつけろとアナウンスが流れても、別世界のことのように感じていたが、季節は確実に秋へと変わっている。

 葉の色が淡くなる時期が年々遅くなっていると言われても、もう長袖を身につけなければ外を出歩けないほどになっているのだ。

 急に全く知らない世界に来たかのような、取り残されているような感覚に陥る。

 いつもは賑わうメインターミナルも、出勤通学時間を過ぎれば閑散として、取り残された感を増長させる。

 けれど寂しくないのは、鼻歌を歌いながら車椅子を押す中西がいるからだろう。

 ここはお前が生きる世界なのだと案内してくれているようだ。

 久しぶりに乗る電車も下りだから空いていて、車椅子でも迷惑になることはなかった。駅員が作ってくれたスロープで乗り込めば、悠人が頭を下げるよりも早く中西の快活な謝辞が響き渡る。

「お前、声デカい」

 振り向いて忠告すれば、車椅子のブレーキをかけながらニカリと屈託なく笑った。

「そうか? だってわざわざ板を置いてくれたんだから、ちゃんとお礼を言わないとダメだろ」

 それはそうだが、周囲がクスリと笑うのが目に入らないのだろうか。

(中西だから気しないだろうな……人目を気にするヤツなら……)

 最初の出会いを思い出させる。往来が多いエントランス付近で大声を出して悠人を呼んだあの日、周囲の人々は病院にそぐわない元気な声に誰もが振り向いていたが、中西だけは全く気にせずひょいひょいと松葉杖を動かしながら近づいてきた。

(あれからもう五ヶ月近いのか)

 これ程長い期間常に顔を合わせ話している相手なんて家族や病院関係者以外では初めてだ。土日だろうが祝日だろうが関係なく会いに来ては、勉強を介して会話をしている。踏み込んだ話をあまりしていないのに、不思議と中西といても自然体でいられる。

「公共の場なんだからもう少し声を抑えろ」

「分かった!」

 その声ですら大きくて、苦笑してしまう。

 たった一駅、だが中西は甲斐甲斐しく世話をしてくる。膝掛けがずれていると見ては直し、寒くないかと問いかけそのたびに本当に嬉しそうな顔をする。

 なにをそんなに浮かれているのだと言いたくて、でも向けてくる笑顔がいつも寂しさを宿す心を和らげてくれる。

 夢を絶ちきらなければならないほどの大怪我をしたはずなのに、そこには絶望や悔しさや虚しさは存在しない。その前向きさが眩しかった。

 JRから私鉄に乗り換え終点の改札を出れば、今までとは違う世界が広がっていた。潮の香りに秋口だというのに少しだけ湿った空気。そして陽光を反射するマリンブルーの大洋が視界いっぱいに広がっている。

「これが……海」

 テレビではよく映し出されている光景が、今自分の目の前にあるのが不思議だ。

 反射する陽光は画面の向こうとはまるで異なっている。キラキラと眩しくて目を開けるのも辛いくらいだ。

「井ノ上、ここ初めてか?」

「ああ……海を見るのは初めてだ……」

 近くにあるとは頭で分かっていても、実際に訪れたことはなかった。病院と家だけの生活で、どんなに知識があっても実際目にするのとでは全く違う。

 今まで知らなかった香りも光もここにはある。

「そっか! じゃあ今度は海に行こうな。今日は見るだけ」

 次の約束を簡単に口にして、中西は楽しそうに車椅子を押していく。

 ほんの数分で水族館の前へと到着した。

 中西が当たり前のようにチケットを購入し、また嬉々として車椅子を押しては館内へと入りすぐのエレベータに乗り込んだ。

「チケット代、いくらだった?」

「いいって。今日は俺が誘ったんだから、全部俺のおごりだ」

「それじゃ悪い。ここに来たいと言ったのは僕だ」

「だめだめ。俺へのご褒美なんだから、俺の好きなようにさせてよ。な、井ノ上」

 それでは兄が小遣いをくれた意味がなくなってしまう。なんとか自分の分のチケット代だけでもと口を開いて……そのまま声が出なくなった。

 目の前いっぱいの大きな水槽には、近海の魚たちが悠々と、それは踊るような優美な姿で泳ぎ回っているのを海底から眺めているようだ。

「す……ごい」

 目の前をエイがゆったりと横切り、見上げれば銀色のイワシの大群が渦を巻くように群れで泳ぎ、その周囲を他人事のような仕草でサメが通り過ぎていく。どの魚も岩を巧みに避けて水槽の中を我が物顔で泳ぎ続けていた。

「ほんと、凄いよな。こんなにでっかい水槽でも海よりもずっと狭いのに、必死で生きていこうってしてる」

 ドキリとして振り向けば、中西はあの真剣な顔で水槽を見上げていた。

 様々な魚が泳ぐこの巨大な水槽だって、彼らからすれば切り取られた空間でしかないのに、捕食されやすいイワシは本能で群れを作り、敵から少しでも自分と仲間を守るために渦を巻いている。そう、生きるために。

 悠人は自分の腕を見た。

 服で隠れているそれは随分と細くなって、生きようとする気力すら感じられない。

 もう一度水槽に目を向ければ、同じ切り取られた空間に閉じ込められているのに、早々と生きることを放棄してしまった自分とは対照的な光景がそこに映し出されていた。

 人間から餌が与えられているから争いが生まれないだけで、個々は懸命に生きている。

「あ……」

 生きることが本能だから。最後のその瞬間まで必死で生き続けようとしている魚たちを前に、自分がどれだけ傲慢かを思い知らされる。

 見上げればどこまでも眩しい太陽が彼らを照らしていた。

 近海をそのまま再現した巨大な水槽を前に、自分がちっぽけな存在かを思い知らされれる。

「そうだな……生きようとしている……」

 生命力溢れるイワシの群れの側を、ゆったりと泳ぐ大きな魚たち。絶望も物憂さもない。本能のままに必死であろうとする存在だけがそこにあった。

「こんな中で泳げたら気持ちいいだろうな」

 ぽつりと呟けば、ガラス越しの中西が今までとは違う落ち着いた笑みを浮かべた。

「うん、気持ちいいだろうね」

 ほんの少しだけ寂しそうなのは気のせいだろうか。膝の怪我で日常生活には問題なくても、泳ぐとなったらまた違うのだろうか。

 壊れて無理矢理くっつけた膝と、壊れようとしている心臓。

 それは海の心地よさを味わうのを阻んでいる。

「……ごめん」

「なにを謝ってるんだよ、井ノ上……この中を泳げなくても海辺は歩ける。水の冷たさだって感じられる。それだけでも充分だ」

 言わんとしていることを察しながらも、それ以上は口に出せない。

 カフェスペースで聞いたときは、現実味がなかった。

 飛べなくなっただけではないのだ、彼もまたできることが制限されてしまっている。それでも生きようとする姿は、水面へと向かう魚たちと同じように眩しい。

 自分がこの五ヶ月近く、ずっと関わっていたのはこんな人間なのだ。

 夢を奪われても、当たり前の日常を失っても、生きようとする力強さがあるのに、そんな彼に勉強を教えている自分は、早々と生きるのを諦めては、頑張ることを放棄した言い訳をたくさん並べていたように思える。
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