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森影の復讐者
森影の復讐者 11~20
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11
三つ子月の見える夜の下、十数の天幕が野営地を形成していた。中心には大きな篝火。天幕の群れの外に小さな篝火がいくつか見えた。その周りに数人の人影も見えた。天幕の下で簡易的なベッドに寝そべっている者も多かった。木こりたちは比較的細い木を見つけてはそれを細かくして地面に打ち付けたり並べたりして即席で木のベッドを作り上げてしまう。地面にそのまま寝転がる者も少なくなかったが、多くは体の何処かに傷を負い怪我をしていた。
篝火の一つを数人の男たちが取り囲んでいた。どれも濃い髭面で橙色に照らされると髪色も見分けがつきにくい。髪型で多少の見分けはつきそうだったが。
一人はがっしりとした筋肉質の大男のボリス・ギー。背中に布に包まれた棒を背負っている。
「バリー、木人が来ると言っておいたはずだ」
「聞いたよボリス。だが、お前こそなんだ」バリーは頭の半分を剃り上げているがもう半分は長髪の髭男だった。
「何がだ?」
「木人を捕まえるんじゃなかったのか? 死体すら手に入らなかったぞ」
横から不満げに呟いたのはゴーン。長い髪を頭頂部で結び編み上げている。これも髭男だ。
「死体じゃ金になんねえ」舌打ちをしたのはゾー。長髪髭面だが、こちらは細身の男だった。
「大将を責めても仕方ねえだろ」瓶ごと酒を煽るのはザンボ。髭面だが髪の毛はない。
「木人どもは並みの獣じゃないからな。油断すると痛い目に遭う」
ボリスの言葉にゴーンが噛みついてくる。
「ハッ! こっちは誰も死んでねえぞ」
「手抜きだ。奴らは人間を侮っているんだよ」
バリーがボリスを見る。
「俺達を殺す気がないのか?」
ボリスは頷く。
「木人の運動能力は高い。驚異的だ。まともにやったら人間は勝てない。奴らは素手で熊を締め上げることが出来るからな」
「そんな化け物を相手にしてるのか?」ゾー。
「でも一匹殺したぜ?」ゴーンは少し強がって見せた。
「そうだ。奴らも不死身ってわけじゃない。奴らは人間を殺すことに抵抗があるみたいで必ず隙がある。そこを利用するんだ」
バリーがボリスを見る。
「だがよぉ、はぐれを狙うほうが楽じゃねえのか? お前のその弓みたいに」
「はぐれなんてそうそう出会えねえよ」と、ザンボ。
「なぁ、俺にも使わせてくれよ」ゾーが伸ばした手をボリスが払う。
「こいつは特別性だからダメだ。こないだも木人の首を狙ったのに頭を抜いちまった」
「腕が悪いんだろ」そういったゴーンの肩をザンボが殴った。
「痛えな!」
「やめろゴーン。ザンボもすぐに手を出すな。まぁ、予想以上だったな。普通は距離があると少し下に落ちるんだが、こいつは逆に上に伸びた。今まで作った木人の弓の中でもピカイチだな」
「俺は、その頭付きの弓は持ちたくねえな。呪われてる」
「バリー、お前は弩のほうが好きだもんな」
「そうさゴーン。俺の愛器は名匠セイラスの最新モデルだからな」
「だけどさぁ、そいつを売ればもっと楽な暮らしが出来るんじゃねえのか? 弩だって何百挺だって買えるんだろ?」
「ゾー、こいつは特別性だ。子々孫々に受け継がれる家宝になるんだよ」
ボリスの言葉を聞いてゾーは、なるほどねと頷く。
「ボリス、このあとはどうするんだ?」
ザンボに視線を向けてボリスは言った。
「森を拓き続ければまた奴らはやってくる。奴らが来るまでに捕まえるための罠を準備しておくのさ」
「四匹は捕まえねえとな!」ゾーが手を叩いて盛り上がる。
ザンボが小石を投げつける。ゾーは飛び退く。
「最低でも五匹だ」
「なんでだよ。ボリスはもう持ってるからもう良いだろ。俺達にも家宝が必要なんだし」
「一本は売るんだよ」
「あ、そっか」
12
部隊は森へ帰った。ネ・サルトンを森の北に埋葬した。ネ・サルトンはそこで土に還るだろう。そして彼だったものが森の木々に吸収される。意思の疎通は出来なくても仲間たちと共に未来へ向かうことは出来る。多くの場合戦士は戦場か外の世界で死ぬ。森に戻って来られる者は運が良い。大抵の死者は外で塵になる。戦士の中には外の世界で伴侶を見つけて森に戻って来る者もいる。
「戻ってない?」
ネ・ラーナはまだ戻って来ていない。時間が経ち過ぎている。木になった同胞たちに話を聞いて回る。森人と人間が重なり合い一本の木に変わっていくその姿はとてもおぞましく見える。どうして人間なんかと一緒になりたがるのか。いや、自分がそう思うのは戦士としての教育のせいなのかもしれない。戦士を目指す者は幼い頃より人間という種の悪い部分を教え育てられる。双子の妹のネ・ラーナは人間を愛している。恋に憧れを描いている。だが、自分は違う。人間とは戦う相手であり、敵なのだ。その敵の中に妹は一人で取り残されている。助けに行かなければならない。どうせ人間の男は森人が物珍しくて鎖で繋いで監禁でもしているのだろう。大体の居場所は聞き込みでわかった。
「ダメだ。許可はできん。お前には西の森の防衛任務にあたってもらう」
新しい防衛責任者のネ・スラは部隊を離れることを許可しなかった。それは最初から予想していた。
「許可は求めていない。人間の戦士ごとき私抜きでも容易いだろう?」
部隊は二つ送られることになった。人間相手に大げさだ。十五人もいれば人間の兵士が二百人を超えても十分に守りきれるだろう。
「森人狩りがいる。油断はできん」
「そうか。では、ネ・ラーナを連れ戻し次第任務に当たる。それなら構わないだろう?」
「それでは他の者に示しがつかん」
「嫌なら抜ける」
「ネ・ヤーナ、お前……」
「それなら遅れるほうがマシだろ?」
「たしかに、それはそうだが……。わかった。いいだろう」
ネ・スラに渋々認めさせた。
ネ・ラーナを連れ戻したあと、そのまま任務に行けるように準備をする必要がある。その前に父母に挨拶をして行こうと思った。
「珍しい。お前が会いに来るなんて、何年ぶりだ?」
「森人は時間の観念が薄いのよ」
父は元人間で元冒険者だった。母も元戦士だった。戦場で出会った二人の物語を聞いて自分は戦士の道に憧れ、ネ・ラーナは恋の道に憧れた。
「人間が本気になったら森人も辛いだろうな」
「戦闘能力は森人のほうが上です」
「個々で強いのは確かね」
父と母二人の顔が並んでいる。顔は幹の中に埋もれ口すら動くことはないが声は聞こえる。
「人間の強みは集団で力を合わせた時だ」
「でも、時には変に強い人もいたわよね」
「あぁ、でもそれは実に稀さ」
「あなたは私より弱かった」
「でも、勝負には勝ったよ」
「あれはあなたがズルをしたから」
「ズルじゃなくて作戦さ。君は生真面目だったから」
「お父様、お母様。今からネ・ラーナを連れ戻しに行ってきます。人間の所から戻ってきていないそうなので」
挨拶はした。背中を向ける。歩き出そうとした瞬間、父の声が呼び止めた。
「ヤーナ」
振り返らなかった。それでも父は言葉を続けた。
「お前は強い。強いから負けることもある。それを忘れるな」
母が続ける。
「ヤーナ、髪を染めなさい。あなたの髪色では目立ちすぎる。それから髪飾りも忘れずにね」
「興味がありません」
歩き始める。
「髪飾りの留め具は武器になるのですよ」
母の言葉にハッとする。髪飾りを武器にするという発想がなかったからだ。振り返ると二人の顔が微笑んでいるように見えた。そう見えた。
「頼めばすぐに用意してくれるでしょう」
13
工芸部は森人たちが人間社会と交流する際の手土産や身に付ける衣服や装飾品などを作っている。髪を染める植物なども扱っている。
いくつか試着してみて麻のチュニックとホーズに決める。動きに制約がないほうがいい。それから髪飾りなどを用意してもらう。待つ間に髪を染める。濃い茶色になるように。そうだ。髪飾りはなるべき先が鋭いほうがいいと告げたら担当者は変な顔をしていた。髪飾りには湾曲した板に開いた穴があって、そこに片方が尖った細い棒を差し込むタイプのやつで、それはバレッタとか言うらしい。確かにあの尖った細い棒なら武器に出来るだろう。それから湾曲した板も穴に紐を通せばナックルガードとしても使えそうだ。腰紐も飾りを分銅に変えてもらった。いざとなればこれも武器に出来るだろう。戦士の姿で農場を尋ねれば厄介事が増える可能性がある。そして、これは旅ではない。長距離を走ることになるので長い棍を持っていくこともしない。
雑嚢に染色剤と水筒を入れる。ネ・ラーナの髪を染めるためだ。帰り道も目立たず帰らなければならない。
焦げ茶に染まった長い髪をまとめ上げてバレッタで固定する。髪飾りはかっちりとハマり激しい動きをしても少しもブレることはない。さすが工芸部だ。腕がいい。ゆっくりと走り出すと森の広場を抜けて南の出口を目指す。すれ違う人にぶつからないよう縫って進んでいく。
南出口で守り人と二三言葉を交わす。
それから本格的に走り始める。まだ森は続く。私達の集落は森人の住む地域と木になった者が住む地域がある。そしてその周りに森がある。説明が難しいが、木になった森人は家のようなものだろうか。その家があるのが居住区で、子どもは親の側で暮らし、学校のような親のところで学び、戦士がいるところで鍛錬をする。
木の幹を蹴って進む。風に乗り木と自分の脚力を上手に反発させると移動するスピードは倍になる。半日進んで休息を取る。木々の間に腰を下ろし、水筒で水を補給する。魔法の言葉で手の平に光を灯す。森人の戦士は光と水の魔法を教えられる。光と水があれば体力は常に万全である。魔力の回復には時間はかかるが、それが尽きるまでは疲れ知らずの無尽蔵の体力と言ってもいいだろう。
少し休んだ後に再び森の中を走る。1日が過ぎる頃に森を抜けた。良い速さだ。戦士でなければ何日もかかる。まぁ、使節団は集団であるし、順路を通るし徒歩での移動になるのでどうしても遅くなるのだろう。
草地の合間に道が見える。草に足を取られないように注意して進む。道に出ると今度は南東に進む。使節団の順路を短縮してきたので二日もあれば農場に着くだろう。
14
「あれ? あんた森人かい?」
農場の従業員が声をかけてきた。たどり着いた後、どうしようか考えていたので正直助かった。
「わかりますか?」
「格好でね。そういえばその顔も見たことがあるなぁ。森人はみんなキレイな顔をしているから見分けがつきにくいんだけどね。忘れ物かい?」
「妹を探しています。ネ・ラーナという双子の妹です。髪の色は濃い緑です」
農場の従業員は少し考えた風だった。それから思い出してくれた。
「それはオラックだな」
オラック。そいつがネ・ラーナを森へ帰さないで引き止めているのか。
「どこに行けば会える?」
「しばらく見てないけど、ちょっと待ってな」
農場の従業員は仲間たちに声をかけてくれた。ここの人間は森人に偏見がないようだった。使節団のおかげだろうか。
「オラックなら町に住んでいるよ」
「人相は?」
「うーん。大していい男でもないしなぁ」
「森人のお嬢さんには人間の見分けがつかないだろ?」
「誰かつけてやるよ。町に行く用事もあるだろうし」
「娘さん、上着だけは交換したほうが良いかも。麻布は目立つよ」
「確かに町の中じゃ目立つなぁ」
「なら、あたしの上げるよ」
「あんたのじゃ大きすぎるよ」
「大丈夫です」
「遠慮するな。俺の古いので良ければやるよ」
断りきれずに麻布のチュニックの上にくたびれたダブレットを着ることになった。
農場の男性従業員が町まで案内してくれる。その歩みは遅い。一人だったらもうとっくの昔に町にたどり着いているはずだ。オラックの顔が分かればそれでも良かったが、知らない以上仕方なかった。
「オラックを見つけたら、話しかけずに教えてもらいたい」
「なんでだ?」
そいつがネ・ラーナを監禁しているとしたら逃げるからだ。とは言えない。
「どんな人間なのか、見ておく必要がある」
「ふむ」
「それから私のことは内緒にしてもらいたい」
「それはあれか、オラックの人となりを調べたいみたいなもんか?」
「そんなところだ」
「家族になるなら心配だよな。わかった」
町につくと農場の男性従業員は用事を済ませるついでにオラックを教えてくれた。オラックは特に特徴のない男だった。市場の店の手伝いをしているようだった。楽しそうに人間の若い娘と談笑している。側にネ・ラーナがいるかと探してみたがいなかった。二人で店をやっていたならそれはそれで良かったし、それならすぐに任務に戻る事ができた。オラックの様子からネ・ラーナはおそらく家にいるのだろう。
近寄りかけた足を心が引き止める。なにか不自然さを感じる。笑うオラック。次の客とも談笑する。同じ笑い顔。次の客にも同じ顔。まるで仮面のように寸分たがわぬ同じ笑顔。そんなことがあり得るだろうか。人間だからそういうものなのか。
客足が切れた途端にオラックの笑顔が消えて目の光が濁った。そして、こちらと視線があった。瞬間、オラックの目に恐怖が映り込むのが見えた。幽霊でも見るかのような驚きと恐れが吹き出した表情をした。
オラックは店を離れた。逃げるように走り出した。どうやら私の存在を認識したようだ。すぐさまオラックを追いかける。オラックは獣ではないから容易だった。今まで森の獣さえ一度も逃したことがない。人間を見失うわけがなかった。オラックは実に迂闊なやつで後を確かめることなく大通りから通りを二つほど奥に進んで、坂を登ると石の門をくぐりその奥に逃げ込んだ。おそらくはここに住んでいるのだろう。覗き込むとコの字に石造りの建物があった。その館は見かけほど立派ではなく、三階建てのほとんどで窓ガラスが割れていたり代わりに板が張ってあったりしている。お陰で窓から侵入するのは簡単そうだった。
そのまま入口を見張りながら暗くなるのを待った。
15
建物の壁を登るのはそれほど大変ではなかった。不用心過ぎる気もするが、わざわざ割れている窓の家を狙う泥棒もいないのだろう。二階から館の内部に侵入する。窓を振り返ると遠くに丘が見えた。おそらくあの先にあの農場があるのだろう。室内にはホコリが目立った。かび臭さもある。それとは別に腐臭がした。これだけの汚さだ。ネズミの家族でも死んでいるのだろう。ドアに手をかけ慎重に開く。そして、内部の音に聞き耳を立てる。森人は夜目も利く。完全に見える訳では無いが廊下の先に階段があるのがわかる。階下から漏れる光が見える。音を立てないように進んでいく。声が聞こえる。オラックが誰かと喋っている。
相手はネ・ラーナか。
「許してくれ。許してくれ。許してくれ」
オラックは誰かに謝っている。ゆっくりと階段の上から下を覗き込む。大丈夫。オラックの姿はない。髪留めを外す。湾曲板をナックルガードにし、細い棒は腰紐の間に差し込む。長い髪の毛が垂れる。
ゆっくりと階段を降りていく。そのままオラックの声がする方へ進んでいく。
「仕方がなかったんだ」
オラックは麻のワンピースを抱きしめながら地面に膝をつき泣いていた。それを見た瞬間、頭の中が真っ白になって駆け出していた。驚いて顔を上げたオラックの胸ぐらをつかみあげてナックルガードのままオラックの左頬を右拳で打ち抜いた。
オラクルは一撃で落ちた。みるみるうちに左頬が腫れ上がっていく。ぐったりとしたオラックを離すと彼はそのまま地面まで滑り落ちた。我に返り、手近にあったベルトでオラックを縛ろうと思った。それが見覚えのある編みベルトだったことでまた制御が効かなくなり、オラックの右膝をかかとで踏み抜いた。鈍い音がしてオラックの膝が折れた。
「何をした! ネ・ラーナに何をした! 言え! 言え!」
オラックを掴み上げて平手打ちを数発見舞う。それで息を吹き返したオラックは悲鳴のような叫び声を上げた。口の中から飛び散った血が顔にかかったが少しも気にならなかった。
「ラーナ、生きていたんだね」
震える声で薄気味悪い笑みを浮かべたオラックをもう一度殴った。
「言え、ネ・ラーナはどこだ」
オラックは唇を震わせながら顔を背けた。こちらが右手を振り上げると、オラックは両手で頭をかばった。
「もう一度聞く。ネ・ラーナはどこだ」
オラックは小刻みに首を横に振った。
「知らない。俺は何も知らない」
拳を握り振り下ろす。ナックルガードがオラックの左腕にめり込んで乾いた音を立てる。おそらく骨が折れたのだろう。オラックは悲鳴を上げたのだろうが、耳に入ってこなかった。
「お前はさっき、私を見て生きていたんだねと言ったな」
「知らない。言ってない!」
もう一度拳を振り上げて振り下ろす。オラックの左手の甲が砕ける。
「そこにあるワンピースと編みベルトはネ・ラーナのものだ。彼女を殺したのか?」
「違う。俺じゃない。俺じゃないんだ」
オラックを引き上げながら立ち上がると部屋の奥に放り投げた。食器が放置されたままのテーブルの上を滑り、脱ぎ散らかされた衣類を巻き込んで部屋の奥に激突する。ホコリが舞う。
「愛してたんだ。でも、怖くて一緒に行けなかったんだ。ボリスに木にされるって聞いたから」
「そうか。それでネ・ラーナはどこだ。彼女を返してくれたらもうここを出ていく」
ネ・ラーナはもう無事じゃない。そんな気はしていた。ネ・ラーナが人間と一緒に生活をしているとは思えなかった。仲間たちと共に戻って来ていないと聞いた時、もう二度と会えないと感じていた。それでも、せめて森で眠らせてあげたい。お父様とお母様の側に返してやりたかった。
「弓になった」
ゆみになった。最初、その言葉の意味がわからなかった。
「ボリスが、ラーナを弓にしたんだ。あんなにキレイだったのに。乾いて、乾ききって、俺は苦しみを取ってやろうと思ったんだ。でも、ボリスが止めたんだ」
「何を言っているのかわからない」
「ボリスは木人を吊るして伸ばして乾いた木材にしたんだ。彼は木人狩りだから。ネ・ラーナが悪いんだ。俺を木にしようとしたから、ここに戻って来られないって言うから」
「その森人狩りはどこにいる」
「森人? 木人だよ。そうさ、彼女は木になったんだ。木人でいいじゃないか。俺を騙して、俺を取り込もうとしたんだ」
「ネ・ラーナは……」
気が付けばネックルガードにしていた髪飾りは割れていた。右手はずっと拳を握っている。左手で右手の指をほどいて髪飾りを床に落とす。二三度右手を開いては握ってみる。特に負傷はしていないようだった。腰紐から細い棒を引き抜く。
「ネ・ラーナは木人の弓にされたということか」
オラックに近づいていく。ふと腐臭を強く感じた。左手の奥に部屋が見えた。大きな木の箱が置いてある。オラックの襟を掴むと木箱まで引きずっていく。
「誰だこれは?」
木箱の中には砂と人間の干からびた遺体が寝転がっていた。着ているものを見ると女性のようだった。遺体は砂に半分ほど埋まっていたが、表面部分しか水分が抜けずに内部が腐ったのだ。おそらく腐臭の発生元はこれだったのだろう。
「これは誰だ!」
顎の下、その喉元に髪飾りの尖った細い棒を当てる。オラックの声は小さかった。
「人間は木にはならない」
オラックの肩を突き飛ばし、細い棒を腰紐に差し込む。ネ・ラーナのワンピースと編みベルトを回収する。もうこんな所に用はない。父と母にはネ・ラーナが死んだことだけを報告しよう。そして、任務に戻って……。
「木人狩り……」
奴らは森人を木人と呼び、化け物扱いする。こんな仕打ちをする人間のほうがよほどの化け物だと思う。だが、良いだろう。私は化け物になる。森人ではなく、木人として木人狩りを狩る。私は化け物になるのだ。
「……もう、殺してくれ」
オラックがむせび泣く。
「お前は最後に殺す」
正直、こいつがどうなろうが関係ない。
16
「ボリス、奴らが来たらしい」
ザンボが木こり達から話を聞いてきた。
木人たちはいつも通りここを引き払うよう申し入れをしてきたようだ。連中がいきなり襲って来たら木こりたちも大勢やられて引き上げることになるが、変なプライドがあるのか頭が古いのかまずは要求をしてくる。
「木人どもは人間を舐めてやがるからな、どうやっても自分たちが勝てると思い上がってるのさ」
「こないだ一匹倒されたくせに、学ばねぇ奴らだな」
「ゾー、お前と同じだな」
「なにをぉ!」
「やめろ。で、準備は出来てるのか?」
「任せろ」
ボリスにバリーが答える。続いてボリスはザンボに確認をする。
「奴らの数は?」
「ニ部隊ほどらしい」
「一匹死んでるだけに慎重だな。珍しく奴らも学んだか? だが、十六匹程度で俺たちの策が崩されることもない」
「本当に生け捕りに出来るもんか?」
「手足の先を落とすくらいなら後で生えてくるから問題ない」
「マジか、化け物だな」
「化け物さ」
ボリスが右腕を振り上げる。
「木こりたちにもマスクをさせろ。俺達だって吸い込んだら苦しいからな。ゾー、松明を持って待機だ。バリー、ゴーンは北で待機、ザンボは俺と南だ。あとは風向き次第だ」
木こりたちが木人たちの要求を拒否すると戦闘に突入する。木こりたちは集団で盾を構えてジリジリと木人の射手に迫ると森の中から長い棍を持った木人の戦士が飛びかかる。盾の一つを粉砕して集団を崩壊させる。そこに木人たちの射手が矢を放つ。相変わらずお上品に手足を狙ってくる。木こりたちは構えを崩されても再び集合して盾で押し返そうと進み続ける。
木人たちは気が付かなかった。木こりたちが鼻や口を覆っていたことに。木人たちは気が付かなかった。そこに木人狩りがいなかったことに。
ボリスらは風上に回り込んでいた。木人たちが来ることを想定して木こりたちには森の南北が残るように東に突出させて木を切り倒させておいた。そして、残した南北の森に簡易的な罠を人間の素人でも分かるような状態で置いておいた。草と草を結んだだけの簡単な罠を見ればそれだけで警戒心を引き上げることが出来る。そうして木人たちの経路を東に限定させた。
風は西から東に吹いている。南北のどちらからか流せれば上出来だったが、真ん中を切り拓いた結果、風はそこに吹き込んで来ている。
ゾーが慌ててやって来た。
「どっちに火をかければいい?」
「奴らは人間を侮っている。だからこんな仕掛けに引っ掛かるのさ」
ボリスはゾーから松明を受け取ると足下の枯れ草に火をつける。それが燃えだすとザンボが火を分けてさらに火を広げる。
「ゾー、北側も火を点けろ。今日は風が吹いてやがる」
「はん? 風はいつも吹いてるけどな……」
ゾーは首を傾げながら回り道をして北側に向かう。
ボリスは懐から小袋を取り出すと火の中に撒いて投げ込んだ。煙が立ち込めて戦場から森の中へ流れ込んでいく。
煙を見て木人たちが声を上げる。
「奴ら火をつけたぞ」
「野蛮な奴らめ」
「許せん!」
そうして続々と森の中から木人たちが近接戦闘を挑みはじめる。木こりたちは防戦一方だった。煙に燻されながら戦闘は進む。激しく攻め立てる木人たちとは対象的に木こりたちはじっと攻撃を耐えていた。崩せないとわかると更に森から木人たちが加勢に出てくる。すると徐々に異変が起きはじめる。木人たちの動きが明らかに鈍くなって来たのだ。それは誰の目で見ても明らかだった。棒立ちになる木人、呼吸が乱れ四つん這いになってしまう木人が出始める。
「マジか」
「マジさ。木人どもは俺たちと違って全身で空気を取り込んでいる。それなのにこの特別な煙の中をあんなに激しく動けば空気が足りなくなるってわけよ」
ボリスは木人の弓を背負って斧を手にすると木人の一人に狙いをつけた。
「ノコギリを用意しておけよ。もしかしたら十本は捕まえられるかもしれないからな」
目の前の木人は煙を吸いすぎて膝を地面についている。ボリスは斧頭で木人の頭部を下からすくい上げる。その勢いのまま振り上げて倒れ込んでいる木人のひざ裏に斧の刃を打ち下ろす。すると硬いはずの木人の身体が折れた。
「曲がる部分はそれだけ脆いって事よ」
もがく木人の両肘を同じように斧を振るって折る。そして足を掴むとザンボの方へ放り投げる。
ザンボは木人の背中へ飛び乗って押さえ込むとノコギリで肘と膝の先を落としにかかる。
木こりたちもボリスと同じように木人を制圧していく。
「いいか、肘から先だぞ! それ以上中側を折ったら価値が下がるからな!」
森の奥から矢が飛んでくる。
「木人を盾にしろ! お前らの盾より頑丈だぞ!」
煙のせいで狙いも付けられず、やがて矢は飛んで来なくなった。仲間からの援護で森の中に戻っていく木人は何体か見えた。深追いはさせなかった。森の中では木人たちのほうが圧倒的に有利だったし、これだけ被害が出れば木人たちは逃げ帰るだろう。
木人たちが去ってしばらくすると戦闘が終了したことわかった。
捕らえることが出来た木人は九体。その状態を見てボリスが言った。
「惜しいな。こいつは商品価値がない。殺せ」
木人の中の一体は腕から先が千切れてしまっていた。
「勿体ない」
「勿体ないが仕方がない。不良品が出回ると全体の価値が下がるからな」
バリーが捕らえられた木人たちの眼の前で不良品扱いされた木人を地面に転がす。ゾーがその背中を押さえて身動きを封じると。バリーの振り下ろした斧が木人の頭を割った。
ボリスは木こりの首領と話をつける。
「分け前は半分ずつといきたいだろうが、製作には手間と時間がかかる。上手く作れるかも分からない。半分は失敗するかもしれん。なのでお前さん達にやれるのは二本までだ。承知できないなら捕まえた木人どもはここで皆殺しにする」
ボリスの言葉に首領は渋い顔を続ける。
「木人の弓を二本も売れば勢力拡大は確実にできる。あんたも王様になれるさ」
そんな慰めに納得をしたかはわからないが、首領は小さく何度も頷いてボリスの手を取った。
交渉は成立した。木こりたちは切った木を持って帰る。木人狩りは木人たちの手足が伸びるのを待って弓の製作に入る。この踏み荒らされた大地は放置される。木人たちが反撃に出ようとやってくる頃には誰もいない草原が広がっている。
木こりたちが撤収準備に入った。
ボリスも仲間たちに命令をする。
「よし、やつらの口の中に塩を詰めて猿轡をして縛りあげろ。荷車と馬も貰ってこい。荷物を積んだら俺達も帰るぞ」
17
森への帰還は五日ほどかかった。いや、かけたと言ったほうが近いかもしれない。
父と母にどう告げたら良いのかを考えていたのと疲労を抜かなければ戦場で戦えないと思ったからだった。オラックの件がそれだ。最速で向かった結果、疲労で怒りを抑えることが出来なかった。冷静さを保っていればもっとうまく情報を聞き出すことが出来たはずだ。そうだ。これからは木人狩りを狩るのだから、もっと慎重で狡猾にならなければならない。奴らは同じ人間でさえも操る。オラックは信用に値しない人間でネ・ラーナが選択を間違えたことも確かだが、オラックの不安や状況を利用したボリスという木人狩りも注意すべき人間だと思う。農場で出会った人間たちが本来の人間であるならば、オラックは明らかに常軌を逸していた。彼が最初からあんな人間だったとしたらネ・ラーナが惹かれるはずがない。ボリスはオラックの心を破壊したのだ。だが、彼を哀れだとは思わない。オラックは死ぬまでずっとあのまま苦しんでいれば良い。
森に戻ると守衛部に報告をして西の森に向かおうとすると、森で待機という指示が出た。ネ・ラーナの件もあり配慮があったのだろう。ただ、ネ・ラーナの亡骸はここになく埋葬してやることも出来ない。何も手につかない状況だったからまだ戦場にいたほうがマシだった。
それから数日、父と母に会いに行くことをまだ躊躇していた。西の防衛に行った部隊が戻ってきた。予定より大分早いが、防衛に成功したのだろう。一人欠けたとは言え二部隊も向かったのだから当然の結果だ。
「十三人も殺されただと?」
二部隊の内で生きて戻って来られたのはたった二人だった。六人が戦場から脱出したが、途中で二人力尽き、もう二人は森の奥までたどり着いたが息絶えた。生き残った二人も傷だらけだし運動機能が激しく低下していて、もう戦士としては戦えないかもしれないという話だった。
「一体何が? 煙に巻かれた? 森を焼いたのか! 野蛮な連中め!」
装備を整えて戦場に向かう準備をする。許可を求めても恐らく許されない。それでも、人間たちが今も森の木を切っていると思うと激しい怒りが込み上げてくる。広場から西の出口を抜ける。守衛がなにか言うのが聞こえたが適当にあしらった。
戦場についた際に戦えないのは困るため移動は速くはない。それでも森の木々を利用した走り方は普通の行軍の何倍も速い。これが出来る森人の戦士は少ない。森人の個々の能力は同じだと思われがちだが、実は同じ父母から生まれた兄弟でも全く違う。双子の場合は似るが、それは……。
蹴り足を失敗して地面に着地する。その場に立ち尽くす。
森人は木に実る。父と母が戦士であれば、戦士向きの子どもが多く実る。だからといって他の適性がないかと言うとそういうわけではない。運動能力が高い子どもが実ると言ったほうが良いのだろう。それぞれの進む道は子どもたちが自由に選べる。両親の話を聞いて大きくなるために両親の生き方をなぞる者がほとんどだ。戦士に憧れた自分と恋に憧れたネ・ラーナ。
たった数日で二部隊を壊滅させた人間たちは、一体何をしたのだろうか。千人規模の軍隊でも待ち受けていたのだろうか。それでも森の中で戦えば数ヶ月は戦うことが出来たはずだ。
このまま進んだとして、そこで人間たちと戦闘になったら勝てるだろうか。森の中に誘い込めば戦えるとは思う。普通ならそうだが、もしも、そこに木人狩りがいて人間たちが仲間を盾にしていたらどうか。また怒りで自分が抑制できずに襲いかかるのか。そうなったらどうなる。数十人を倒すことが出来ても果てには敗北が待っている。それはネ・ラーナの敵討ちが出来なくなることを意味する。それは死ぬことよりも恐ろしいことだし悔しいことだ。
自分は人間を知らない。森人より運動能力の劣る生き物だという認識しかない。この意識は相手を侮ることになる。そうだ。ネ・サルトンも言っていた。人間の中には我々を超える能力を持つ英雄と呼ばれる者がいると。英雄と聞くとつい身体的な能力のことだと想像しがちだが、知恵というか策謀が英雄クラスという者もいるのだ。
とりあえずはこのまま進もう。人間たちは今も木を切り続けているはずだ。その規模と様子を守衛部に報告する。敵をもっと知らなければ。
18
進み続けても森は静かだった。虫や鳥の鳴き声はするが木を切る音も聞こえなかった。木々の隙間から切り拓かれた大地を覗き見る。静かだった。誰もいない。野ウサギか何かが森から森へをかけていった。
人間たちはすでにここを離れているようだった。
戦場だったろう空き地にはところどころ草が生え始めていたが、土の上にはまだ人間たちの足跡があった。その規模を見ても千人単位という感じはしなかった。どう多く見積もっても数十人と言った印象を受ける。森人の足跡も探してみる。森から伸びる足跡は非常に直線的だ。森から空き地まで続きそこで複数の人間たちに囲まれている。その側の草の陰に森人の足を見つけた。膝から下だった。切り口は細かいギザギザになっている。拾い上げて雑嚢の中に入れる。森へ帰ればこれを見て誰かわかる者もいるだろう。
戦場を見回してその状況を想像してみる。南北に森があり人間たちは中間の空き地にいた。仲間たちは人間を南北の森に潜んで包囲攻撃しなかったようだ。なぜか? 北側の森へ向かう。少し入り込むと黒焦げた地面が見えた。灰や燃えカスも残されたままだった。
「火をつけたのか。そうだ。そう言っていた」
そこから東側に向かうと簡易罠が見えた。見つけてくれというような感じで設置してある。これを見た森人はここより先にも罠があると踏んで先に行かなかったのだろう。その先には火を付ける用意がしてあったわけだ。警戒心を利用して森人の侵入を防いだ上にそこに別の仕込みをしていた。しかし、思ったより火は広がらなかった。
北の森を振り返る。森は燃えていない。それなのに煙に巻かれたと言っていた。
「煙が目的だった?」
黒焦げた地面を調べに戻る。灰と燃えカス。ここで生まれた煙が空き地の中に流れ込んだのだろう。それを見て森に火を放ったと思い激昂し、東側から人間たちに攻撃を仕掛けた。ただ、それで敗れたとは考えにくい。落ちている枝を拾うと燃えカスをかき回してみる。匂いを嗅いでみる。焦げた匂いの中に酸っぱい匂いがして、その先に刺激を感じた。地面の土を集める。森の中で大きな葉を探して採ってくると土をくるんで雑嚢にしまう。
煙の中に何か毒のようなものが混ぜられていてそれが森人に影響を与えた。人間は吸い込まなかったのか。森人だけに利く毒など存在するのか。
森につけた火が思いの外広がっていないことに人間たちが失敗したのだろうと一瞬侮った。戦場を煙で満たすことが目的でそれを森人に吸わせることで戦力差を逆転させた。
「木人狩り」
恐らくこの戦場にいたのだろう。彼らは我々よりも森人のことを知っている。それなのに人間が劣った相手だと決めつけて攻撃を仕掛けた。その慢心を利用されて二部隊も被害が出た。
背筋が凍る。自分がここにいたとして仲間と同じ行動をとらなかったと言えるか。むしろ誰よりも先に人間に飛びかかっていただろう。そして、他の仲間よりも先に。
空き地は静かだった。風の音、鳥の声、虫の音、空には雲が流れ、その先には地星が微かに見える。
「私はここで死んだ。名誉も、栄光も、未来もすべて失った」
ここから先は不名誉でもどれほど屈辱でも生き抜かなければいけない。
19
森人は世界各地におり、ネ族、ハ族、ケイ族、ルト族、ビ族などがいる。昔はそれぞれが深い森の中に住んでいたが、現在森を持つのはネ族とケイ族、ビ族のみである。基本的には温厚で部族間交流や他種族との交流も盛んだが、ビ族だけは他種族や他部族と交流せず排他的な文化を持つ。ネ族、ハ族、ケイ族、ルト族が他種族と交配するのに対し、ビ族だけは部族内での交配を繰り返している。
木人の弓を作り始めたのはビ族だった。他部族を排除または恐怖させるために捕虜を木人の弓に作り変えたのが起源だが、その驚異的な威力と矢が放たれる際の悲鳴のような音は他の部族の森人たちを恐怖させた。
これを人間が手に入れ使用した所、非常に優れた弓である事が分かり、冒険者や王族などがこぞってこれを求めたと言う。そのためビ族は人間たちの攻撃を受け他の部族の助けを得られず衰退し滅んだ。
木人の弓はビ族の衰退と滅亡と共に消えていく運命にあったが、ある人間の魔術師が金策のために木人の弓を再現しようと、人間の集団を用いてハ族を狩り続けた。ハ族は定住地を失い滅亡寸前まで数を減らした。このハ族を狩っていた狩人たちが木人狩りの祖と言われている。
その後、木人狩りに製法が伝わり、以後は木人狩りの一部にのみ受け継がれている。
伝承者には人間的な倫理観が無いことが共通点に挙げられる。他には身体的に剛健で指導力があることや、非情さ、常に冷静であること、旺盛な知識欲などが求められると言われている。
森人たちの歴史はそれほど明るくない。ビ族のような例外はあったが、元々は好戦的な一面はなく森の中で静かに生き周辺の生態系を補助するような存在たった。それが人間と交流するようになって人間と交配し徐々に変化していったとされる。光と水だけがあれば生きていられる彼らだったが、森の生き物を間引いてその素材を加工し人間と交換するということも行われるようになった。それらは取り入れた人間の知識だったのだろう。人間との交配は森人の世界に劇的な躍進をもたらし、森も広がり続けることになった。その一方で人間との争いも増えることになった。
農業交流や使節団の往来で友好的な関係を築く中、領土拡大を狙った人間国家との軋轢もあり徐々に戦士の存在が必要になっていく。初めの頃は交渉でまとまることがほとんどであったが、人間の国家が大きくなるにつれ要求は不遜で傲慢なものとなっていった。
森人たちの意識が大きく変わったのは、人間の一団がネ族の森の深くまで侵入しネ族の子どもたちを大量に拐っていくという事件が起きた後だった。この事件を契機に各部族は連携し、情報共有を密にして、人間の戦士を積極的に招き入れることにした。ルト族は人間の了解を得ない強引なやり方をしたが、ネ族、ハ族、ケイ族などは個々の感情に重きを置いた。ここでもビ族は足並みを揃えることなく、より部族間交配を濃くしていった。
交流のあった人間たちの助けもあり、森人たちは戦士を育て森を自衛することが出来るようになった。
後に東にあった人間の王国は森人たち人間の連合軍との大戦争に敗れ森の中に埋もれることになった。
20
「そうか」
父は一言だけ発し、母は何も言わなかった。ネ・ラーナのワンピースと編みベルトを亡骸の代わりに森の中に埋葬した。戦場で回収した足は結局誰のものかはっきりとはしなかった。燃えカスのことを父に相談してみると「長老に報告するよう」と言われた。
瘤とシワだらけの幹の中に長老とその妻の顔が見える。長老の妻は元は人間でもう何十年も前、ひょっとしたらもっと前に森人の社会が嫌になって眠りについたと言われている。長老は人格者で知識が深いが、伴侶が汚点だと思う。
「ネ・ミーナが子、ネ・ヤーナ参りました」
枝葉が揺れて長老の瞳のない目が開く。長老の妻は今日も動かなかった。
「今日はどんな用事かな?」
長老の声が聞こえた。
戦場で発見したことを報告する。
「……ふむ。では、各部門に連絡して分析をさせよう」
長老が黙る。微かに地面に波のようなものを感じる。揺れてはいない。
「連絡は済んだ。ご苦労だった。ゆっくり休みなさい」
長老に一礼するとその場を離れた。その足で、戦場から生きて帰った戦士を尋ねる。
守衛部の詰め所より少し離れた所に療養所がある。木造の建物で人間が使うものとあまり変わりはない。中にいくつかあるベッドも干し草の上に麻の布が敷いてあるし、唯一の違いは上にかけるものがないくらいか。
そのベッドの上にネ・ズールが目を半開きにして横たわっていた。
「大丈夫か?」
「ラッカが死んだ。俺ももうダメだ」
ネ・ラッカはもう一人の生き残りだった戦士だ。
「毒か?」
「わからない。煙に包まれて、苦しくて、皆が人間たちに囲まれて、斧で手足を折られて、俺怖くて森から出られなかった。見たんだ。人間たちが俺のことを見たんだ。そしたらもう、無理だった。無理だよ」
ネ・ズールは泣いていた。
「ラッカも俺と一緒に逃げたんだ。攻撃されたのかな、覚えてないけどあいつのほうが煙を吸ってたかも。なら、俺は助かるかな? 俺、助かるかなぁ?」
私は薬師ではないから。ネ・ズールが伸ばした手も取らずにその場を離れた。あの手に触れたら恐怖が伝染る。そんな気がして触れなかった。
身体が強くてもダメなんだ。心の強さも手に入れなければ。知識も。負けることは怖い。負けないために鍛えなければ。自分に何が足りないのか。それを知らなければならない。いや、足りないものばかりじゃないか。そのせいでどこに進んだら良いのかわからなくなっている。まずは立ち止まれ。それは停滞ではない。焦る心が時間を浪費させるのだ。
まずは呼吸を整える。深く息を吸う。全身に空気を取り入れるのだ。
人間を知らなければ話にならない。大人たちの半分は元人間だ。彼らの話を聞くことが重要だろう。元人間の戦士に話を聞いて戦い方を学ぼう。まずは父からだ。それで、なんと聞こうか。
「お父様、人間との戦いについて教えて欲しいのですが、どうしたら殺せますか?」
違う違う。これじゃダメだ。なんて下手くそなんだ。
「人間は戦いの時、何を考えているのですか?」
これがいい。このくらい単純な質問にしたほうが良い。よし、父と母の元に向かおう。
「何も」
「え?」
「何も考えてなかったよ」
次の言葉が浮かんでこない。
「あなたはそうかも知れないけど、私は防御の甘いところを探してたわ」
母の意見は参考にしていないのだが、助けてくれたことには礼を言いたい。目的が曖昧だから答えが中途半端なのかもしれない。
「木人狩りと戦うことになりそうです」
父母はしばらく黙っていた。
「ネ・ラーナのことだけではありません。西の森で木人狩りの罠にかかり二部隊が壊滅しました。人間との戦い方を学ばなければ我々は森を失います」
うなだれていると父の言葉が降ってきた。
「そうだね。父さんから言えることは、森人の戦いはキレイすぎるって思ったことかな。森人は優秀だ。優秀だから手加減をする。わざと急所を外したりしてね。森人狩りはそれを知っているから森人を恐れないんだろうね」
父は「森人狩り」を強調する。
「ヤーナ、父さんが心配なのはお前まで憎しみのあまり人間狩りになってしまわないかってことなんだ」
「私は大丈夫です」
木人狩りに恐怖を覚えさせる。そんな戦い方が出来るようになれば良いのだ。
三つ子月の見える夜の下、十数の天幕が野営地を形成していた。中心には大きな篝火。天幕の群れの外に小さな篝火がいくつか見えた。その周りに数人の人影も見えた。天幕の下で簡易的なベッドに寝そべっている者も多かった。木こりたちは比較的細い木を見つけてはそれを細かくして地面に打ち付けたり並べたりして即席で木のベッドを作り上げてしまう。地面にそのまま寝転がる者も少なくなかったが、多くは体の何処かに傷を負い怪我をしていた。
篝火の一つを数人の男たちが取り囲んでいた。どれも濃い髭面で橙色に照らされると髪色も見分けがつきにくい。髪型で多少の見分けはつきそうだったが。
一人はがっしりとした筋肉質の大男のボリス・ギー。背中に布に包まれた棒を背負っている。
「バリー、木人が来ると言っておいたはずだ」
「聞いたよボリス。だが、お前こそなんだ」バリーは頭の半分を剃り上げているがもう半分は長髪の髭男だった。
「何がだ?」
「木人を捕まえるんじゃなかったのか? 死体すら手に入らなかったぞ」
横から不満げに呟いたのはゴーン。長い髪を頭頂部で結び編み上げている。これも髭男だ。
「死体じゃ金になんねえ」舌打ちをしたのはゾー。長髪髭面だが、こちらは細身の男だった。
「大将を責めても仕方ねえだろ」瓶ごと酒を煽るのはザンボ。髭面だが髪の毛はない。
「木人どもは並みの獣じゃないからな。油断すると痛い目に遭う」
ボリスの言葉にゴーンが噛みついてくる。
「ハッ! こっちは誰も死んでねえぞ」
「手抜きだ。奴らは人間を侮っているんだよ」
バリーがボリスを見る。
「俺達を殺す気がないのか?」
ボリスは頷く。
「木人の運動能力は高い。驚異的だ。まともにやったら人間は勝てない。奴らは素手で熊を締め上げることが出来るからな」
「そんな化け物を相手にしてるのか?」ゾー。
「でも一匹殺したぜ?」ゴーンは少し強がって見せた。
「そうだ。奴らも不死身ってわけじゃない。奴らは人間を殺すことに抵抗があるみたいで必ず隙がある。そこを利用するんだ」
バリーがボリスを見る。
「だがよぉ、はぐれを狙うほうが楽じゃねえのか? お前のその弓みたいに」
「はぐれなんてそうそう出会えねえよ」と、ザンボ。
「なぁ、俺にも使わせてくれよ」ゾーが伸ばした手をボリスが払う。
「こいつは特別性だからダメだ。こないだも木人の首を狙ったのに頭を抜いちまった」
「腕が悪いんだろ」そういったゴーンの肩をザンボが殴った。
「痛えな!」
「やめろゴーン。ザンボもすぐに手を出すな。まぁ、予想以上だったな。普通は距離があると少し下に落ちるんだが、こいつは逆に上に伸びた。今まで作った木人の弓の中でもピカイチだな」
「俺は、その頭付きの弓は持ちたくねえな。呪われてる」
「バリー、お前は弩のほうが好きだもんな」
「そうさゴーン。俺の愛器は名匠セイラスの最新モデルだからな」
「だけどさぁ、そいつを売ればもっと楽な暮らしが出来るんじゃねえのか? 弩だって何百挺だって買えるんだろ?」
「ゾー、こいつは特別性だ。子々孫々に受け継がれる家宝になるんだよ」
ボリスの言葉を聞いてゾーは、なるほどねと頷く。
「ボリス、このあとはどうするんだ?」
ザンボに視線を向けてボリスは言った。
「森を拓き続ければまた奴らはやってくる。奴らが来るまでに捕まえるための罠を準備しておくのさ」
「四匹は捕まえねえとな!」ゾーが手を叩いて盛り上がる。
ザンボが小石を投げつける。ゾーは飛び退く。
「最低でも五匹だ」
「なんでだよ。ボリスはもう持ってるからもう良いだろ。俺達にも家宝が必要なんだし」
「一本は売るんだよ」
「あ、そっか」
12
部隊は森へ帰った。ネ・サルトンを森の北に埋葬した。ネ・サルトンはそこで土に還るだろう。そして彼だったものが森の木々に吸収される。意思の疎通は出来なくても仲間たちと共に未来へ向かうことは出来る。多くの場合戦士は戦場か外の世界で死ぬ。森に戻って来られる者は運が良い。大抵の死者は外で塵になる。戦士の中には外の世界で伴侶を見つけて森に戻って来る者もいる。
「戻ってない?」
ネ・ラーナはまだ戻って来ていない。時間が経ち過ぎている。木になった同胞たちに話を聞いて回る。森人と人間が重なり合い一本の木に変わっていくその姿はとてもおぞましく見える。どうして人間なんかと一緒になりたがるのか。いや、自分がそう思うのは戦士としての教育のせいなのかもしれない。戦士を目指す者は幼い頃より人間という種の悪い部分を教え育てられる。双子の妹のネ・ラーナは人間を愛している。恋に憧れを描いている。だが、自分は違う。人間とは戦う相手であり、敵なのだ。その敵の中に妹は一人で取り残されている。助けに行かなければならない。どうせ人間の男は森人が物珍しくて鎖で繋いで監禁でもしているのだろう。大体の居場所は聞き込みでわかった。
「ダメだ。許可はできん。お前には西の森の防衛任務にあたってもらう」
新しい防衛責任者のネ・スラは部隊を離れることを許可しなかった。それは最初から予想していた。
「許可は求めていない。人間の戦士ごとき私抜きでも容易いだろう?」
部隊は二つ送られることになった。人間相手に大げさだ。十五人もいれば人間の兵士が二百人を超えても十分に守りきれるだろう。
「森人狩りがいる。油断はできん」
「そうか。では、ネ・ラーナを連れ戻し次第任務に当たる。それなら構わないだろう?」
「それでは他の者に示しがつかん」
「嫌なら抜ける」
「ネ・ヤーナ、お前……」
「それなら遅れるほうがマシだろ?」
「たしかに、それはそうだが……。わかった。いいだろう」
ネ・スラに渋々認めさせた。
ネ・ラーナを連れ戻したあと、そのまま任務に行けるように準備をする必要がある。その前に父母に挨拶をして行こうと思った。
「珍しい。お前が会いに来るなんて、何年ぶりだ?」
「森人は時間の観念が薄いのよ」
父は元人間で元冒険者だった。母も元戦士だった。戦場で出会った二人の物語を聞いて自分は戦士の道に憧れ、ネ・ラーナは恋の道に憧れた。
「人間が本気になったら森人も辛いだろうな」
「戦闘能力は森人のほうが上です」
「個々で強いのは確かね」
父と母二人の顔が並んでいる。顔は幹の中に埋もれ口すら動くことはないが声は聞こえる。
「人間の強みは集団で力を合わせた時だ」
「でも、時には変に強い人もいたわよね」
「あぁ、でもそれは実に稀さ」
「あなたは私より弱かった」
「でも、勝負には勝ったよ」
「あれはあなたがズルをしたから」
「ズルじゃなくて作戦さ。君は生真面目だったから」
「お父様、お母様。今からネ・ラーナを連れ戻しに行ってきます。人間の所から戻ってきていないそうなので」
挨拶はした。背中を向ける。歩き出そうとした瞬間、父の声が呼び止めた。
「ヤーナ」
振り返らなかった。それでも父は言葉を続けた。
「お前は強い。強いから負けることもある。それを忘れるな」
母が続ける。
「ヤーナ、髪を染めなさい。あなたの髪色では目立ちすぎる。それから髪飾りも忘れずにね」
「興味がありません」
歩き始める。
「髪飾りの留め具は武器になるのですよ」
母の言葉にハッとする。髪飾りを武器にするという発想がなかったからだ。振り返ると二人の顔が微笑んでいるように見えた。そう見えた。
「頼めばすぐに用意してくれるでしょう」
13
工芸部は森人たちが人間社会と交流する際の手土産や身に付ける衣服や装飾品などを作っている。髪を染める植物なども扱っている。
いくつか試着してみて麻のチュニックとホーズに決める。動きに制約がないほうがいい。それから髪飾りなどを用意してもらう。待つ間に髪を染める。濃い茶色になるように。そうだ。髪飾りはなるべき先が鋭いほうがいいと告げたら担当者は変な顔をしていた。髪飾りには湾曲した板に開いた穴があって、そこに片方が尖った細い棒を差し込むタイプのやつで、それはバレッタとか言うらしい。確かにあの尖った細い棒なら武器に出来るだろう。それから湾曲した板も穴に紐を通せばナックルガードとしても使えそうだ。腰紐も飾りを分銅に変えてもらった。いざとなればこれも武器に出来るだろう。戦士の姿で農場を尋ねれば厄介事が増える可能性がある。そして、これは旅ではない。長距離を走ることになるので長い棍を持っていくこともしない。
雑嚢に染色剤と水筒を入れる。ネ・ラーナの髪を染めるためだ。帰り道も目立たず帰らなければならない。
焦げ茶に染まった長い髪をまとめ上げてバレッタで固定する。髪飾りはかっちりとハマり激しい動きをしても少しもブレることはない。さすが工芸部だ。腕がいい。ゆっくりと走り出すと森の広場を抜けて南の出口を目指す。すれ違う人にぶつからないよう縫って進んでいく。
南出口で守り人と二三言葉を交わす。
それから本格的に走り始める。まだ森は続く。私達の集落は森人の住む地域と木になった者が住む地域がある。そしてその周りに森がある。説明が難しいが、木になった森人は家のようなものだろうか。その家があるのが居住区で、子どもは親の側で暮らし、学校のような親のところで学び、戦士がいるところで鍛錬をする。
木の幹を蹴って進む。風に乗り木と自分の脚力を上手に反発させると移動するスピードは倍になる。半日進んで休息を取る。木々の間に腰を下ろし、水筒で水を補給する。魔法の言葉で手の平に光を灯す。森人の戦士は光と水の魔法を教えられる。光と水があれば体力は常に万全である。魔力の回復には時間はかかるが、それが尽きるまでは疲れ知らずの無尽蔵の体力と言ってもいいだろう。
少し休んだ後に再び森の中を走る。1日が過ぎる頃に森を抜けた。良い速さだ。戦士でなければ何日もかかる。まぁ、使節団は集団であるし、順路を通るし徒歩での移動になるのでどうしても遅くなるのだろう。
草地の合間に道が見える。草に足を取られないように注意して進む。道に出ると今度は南東に進む。使節団の順路を短縮してきたので二日もあれば農場に着くだろう。
14
「あれ? あんた森人かい?」
農場の従業員が声をかけてきた。たどり着いた後、どうしようか考えていたので正直助かった。
「わかりますか?」
「格好でね。そういえばその顔も見たことがあるなぁ。森人はみんなキレイな顔をしているから見分けがつきにくいんだけどね。忘れ物かい?」
「妹を探しています。ネ・ラーナという双子の妹です。髪の色は濃い緑です」
農場の従業員は少し考えた風だった。それから思い出してくれた。
「それはオラックだな」
オラック。そいつがネ・ラーナを森へ帰さないで引き止めているのか。
「どこに行けば会える?」
「しばらく見てないけど、ちょっと待ってな」
農場の従業員は仲間たちに声をかけてくれた。ここの人間は森人に偏見がないようだった。使節団のおかげだろうか。
「オラックなら町に住んでいるよ」
「人相は?」
「うーん。大していい男でもないしなぁ」
「森人のお嬢さんには人間の見分けがつかないだろ?」
「誰かつけてやるよ。町に行く用事もあるだろうし」
「娘さん、上着だけは交換したほうが良いかも。麻布は目立つよ」
「確かに町の中じゃ目立つなぁ」
「なら、あたしの上げるよ」
「あんたのじゃ大きすぎるよ」
「大丈夫です」
「遠慮するな。俺の古いので良ければやるよ」
断りきれずに麻布のチュニックの上にくたびれたダブレットを着ることになった。
農場の男性従業員が町まで案内してくれる。その歩みは遅い。一人だったらもうとっくの昔に町にたどり着いているはずだ。オラックの顔が分かればそれでも良かったが、知らない以上仕方なかった。
「オラックを見つけたら、話しかけずに教えてもらいたい」
「なんでだ?」
そいつがネ・ラーナを監禁しているとしたら逃げるからだ。とは言えない。
「どんな人間なのか、見ておく必要がある」
「ふむ」
「それから私のことは内緒にしてもらいたい」
「それはあれか、オラックの人となりを調べたいみたいなもんか?」
「そんなところだ」
「家族になるなら心配だよな。わかった」
町につくと農場の男性従業員は用事を済ませるついでにオラックを教えてくれた。オラックは特に特徴のない男だった。市場の店の手伝いをしているようだった。楽しそうに人間の若い娘と談笑している。側にネ・ラーナがいるかと探してみたがいなかった。二人で店をやっていたならそれはそれで良かったし、それならすぐに任務に戻る事ができた。オラックの様子からネ・ラーナはおそらく家にいるのだろう。
近寄りかけた足を心が引き止める。なにか不自然さを感じる。笑うオラック。次の客とも談笑する。同じ笑い顔。次の客にも同じ顔。まるで仮面のように寸分たがわぬ同じ笑顔。そんなことがあり得るだろうか。人間だからそういうものなのか。
客足が切れた途端にオラックの笑顔が消えて目の光が濁った。そして、こちらと視線があった。瞬間、オラックの目に恐怖が映り込むのが見えた。幽霊でも見るかのような驚きと恐れが吹き出した表情をした。
オラックは店を離れた。逃げるように走り出した。どうやら私の存在を認識したようだ。すぐさまオラックを追いかける。オラックは獣ではないから容易だった。今まで森の獣さえ一度も逃したことがない。人間を見失うわけがなかった。オラックは実に迂闊なやつで後を確かめることなく大通りから通りを二つほど奥に進んで、坂を登ると石の門をくぐりその奥に逃げ込んだ。おそらくはここに住んでいるのだろう。覗き込むとコの字に石造りの建物があった。その館は見かけほど立派ではなく、三階建てのほとんどで窓ガラスが割れていたり代わりに板が張ってあったりしている。お陰で窓から侵入するのは簡単そうだった。
そのまま入口を見張りながら暗くなるのを待った。
15
建物の壁を登るのはそれほど大変ではなかった。不用心過ぎる気もするが、わざわざ割れている窓の家を狙う泥棒もいないのだろう。二階から館の内部に侵入する。窓を振り返ると遠くに丘が見えた。おそらくあの先にあの農場があるのだろう。室内にはホコリが目立った。かび臭さもある。それとは別に腐臭がした。これだけの汚さだ。ネズミの家族でも死んでいるのだろう。ドアに手をかけ慎重に開く。そして、内部の音に聞き耳を立てる。森人は夜目も利く。完全に見える訳では無いが廊下の先に階段があるのがわかる。階下から漏れる光が見える。音を立てないように進んでいく。声が聞こえる。オラックが誰かと喋っている。
相手はネ・ラーナか。
「許してくれ。許してくれ。許してくれ」
オラックは誰かに謝っている。ゆっくりと階段の上から下を覗き込む。大丈夫。オラックの姿はない。髪留めを外す。湾曲板をナックルガードにし、細い棒は腰紐の間に差し込む。長い髪の毛が垂れる。
ゆっくりと階段を降りていく。そのままオラックの声がする方へ進んでいく。
「仕方がなかったんだ」
オラックは麻のワンピースを抱きしめながら地面に膝をつき泣いていた。それを見た瞬間、頭の中が真っ白になって駆け出していた。驚いて顔を上げたオラックの胸ぐらをつかみあげてナックルガードのままオラックの左頬を右拳で打ち抜いた。
オラクルは一撃で落ちた。みるみるうちに左頬が腫れ上がっていく。ぐったりとしたオラックを離すと彼はそのまま地面まで滑り落ちた。我に返り、手近にあったベルトでオラックを縛ろうと思った。それが見覚えのある編みベルトだったことでまた制御が効かなくなり、オラックの右膝をかかとで踏み抜いた。鈍い音がしてオラックの膝が折れた。
「何をした! ネ・ラーナに何をした! 言え! 言え!」
オラックを掴み上げて平手打ちを数発見舞う。それで息を吹き返したオラックは悲鳴のような叫び声を上げた。口の中から飛び散った血が顔にかかったが少しも気にならなかった。
「ラーナ、生きていたんだね」
震える声で薄気味悪い笑みを浮かべたオラックをもう一度殴った。
「言え、ネ・ラーナはどこだ」
オラックは唇を震わせながら顔を背けた。こちらが右手を振り上げると、オラックは両手で頭をかばった。
「もう一度聞く。ネ・ラーナはどこだ」
オラックは小刻みに首を横に振った。
「知らない。俺は何も知らない」
拳を握り振り下ろす。ナックルガードがオラックの左腕にめり込んで乾いた音を立てる。おそらく骨が折れたのだろう。オラックは悲鳴を上げたのだろうが、耳に入ってこなかった。
「お前はさっき、私を見て生きていたんだねと言ったな」
「知らない。言ってない!」
もう一度拳を振り上げて振り下ろす。オラックの左手の甲が砕ける。
「そこにあるワンピースと編みベルトはネ・ラーナのものだ。彼女を殺したのか?」
「違う。俺じゃない。俺じゃないんだ」
オラックを引き上げながら立ち上がると部屋の奥に放り投げた。食器が放置されたままのテーブルの上を滑り、脱ぎ散らかされた衣類を巻き込んで部屋の奥に激突する。ホコリが舞う。
「愛してたんだ。でも、怖くて一緒に行けなかったんだ。ボリスに木にされるって聞いたから」
「そうか。それでネ・ラーナはどこだ。彼女を返してくれたらもうここを出ていく」
ネ・ラーナはもう無事じゃない。そんな気はしていた。ネ・ラーナが人間と一緒に生活をしているとは思えなかった。仲間たちと共に戻って来ていないと聞いた時、もう二度と会えないと感じていた。それでも、せめて森で眠らせてあげたい。お父様とお母様の側に返してやりたかった。
「弓になった」
ゆみになった。最初、その言葉の意味がわからなかった。
「ボリスが、ラーナを弓にしたんだ。あんなにキレイだったのに。乾いて、乾ききって、俺は苦しみを取ってやろうと思ったんだ。でも、ボリスが止めたんだ」
「何を言っているのかわからない」
「ボリスは木人を吊るして伸ばして乾いた木材にしたんだ。彼は木人狩りだから。ネ・ラーナが悪いんだ。俺を木にしようとしたから、ここに戻って来られないって言うから」
「その森人狩りはどこにいる」
「森人? 木人だよ。そうさ、彼女は木になったんだ。木人でいいじゃないか。俺を騙して、俺を取り込もうとしたんだ」
「ネ・ラーナは……」
気が付けばネックルガードにしていた髪飾りは割れていた。右手はずっと拳を握っている。左手で右手の指をほどいて髪飾りを床に落とす。二三度右手を開いては握ってみる。特に負傷はしていないようだった。腰紐から細い棒を引き抜く。
「ネ・ラーナは木人の弓にされたということか」
オラックに近づいていく。ふと腐臭を強く感じた。左手の奥に部屋が見えた。大きな木の箱が置いてある。オラックの襟を掴むと木箱まで引きずっていく。
「誰だこれは?」
木箱の中には砂と人間の干からびた遺体が寝転がっていた。着ているものを見ると女性のようだった。遺体は砂に半分ほど埋まっていたが、表面部分しか水分が抜けずに内部が腐ったのだ。おそらく腐臭の発生元はこれだったのだろう。
「これは誰だ!」
顎の下、その喉元に髪飾りの尖った細い棒を当てる。オラックの声は小さかった。
「人間は木にはならない」
オラックの肩を突き飛ばし、細い棒を腰紐に差し込む。ネ・ラーナのワンピースと編みベルトを回収する。もうこんな所に用はない。父と母にはネ・ラーナが死んだことだけを報告しよう。そして、任務に戻って……。
「木人狩り……」
奴らは森人を木人と呼び、化け物扱いする。こんな仕打ちをする人間のほうがよほどの化け物だと思う。だが、良いだろう。私は化け物になる。森人ではなく、木人として木人狩りを狩る。私は化け物になるのだ。
「……もう、殺してくれ」
オラックがむせび泣く。
「お前は最後に殺す」
正直、こいつがどうなろうが関係ない。
16
「ボリス、奴らが来たらしい」
ザンボが木こり達から話を聞いてきた。
木人たちはいつも通りここを引き払うよう申し入れをしてきたようだ。連中がいきなり襲って来たら木こりたちも大勢やられて引き上げることになるが、変なプライドがあるのか頭が古いのかまずは要求をしてくる。
「木人どもは人間を舐めてやがるからな、どうやっても自分たちが勝てると思い上がってるのさ」
「こないだ一匹倒されたくせに、学ばねぇ奴らだな」
「ゾー、お前と同じだな」
「なにをぉ!」
「やめろ。で、準備は出来てるのか?」
「任せろ」
ボリスにバリーが答える。続いてボリスはザンボに確認をする。
「奴らの数は?」
「ニ部隊ほどらしい」
「一匹死んでるだけに慎重だな。珍しく奴らも学んだか? だが、十六匹程度で俺たちの策が崩されることもない」
「本当に生け捕りに出来るもんか?」
「手足の先を落とすくらいなら後で生えてくるから問題ない」
「マジか、化け物だな」
「化け物さ」
ボリスが右腕を振り上げる。
「木こりたちにもマスクをさせろ。俺達だって吸い込んだら苦しいからな。ゾー、松明を持って待機だ。バリー、ゴーンは北で待機、ザンボは俺と南だ。あとは風向き次第だ」
木こりたちが木人たちの要求を拒否すると戦闘に突入する。木こりたちは集団で盾を構えてジリジリと木人の射手に迫ると森の中から長い棍を持った木人の戦士が飛びかかる。盾の一つを粉砕して集団を崩壊させる。そこに木人たちの射手が矢を放つ。相変わらずお上品に手足を狙ってくる。木こりたちは構えを崩されても再び集合して盾で押し返そうと進み続ける。
木人たちは気が付かなかった。木こりたちが鼻や口を覆っていたことに。木人たちは気が付かなかった。そこに木人狩りがいなかったことに。
ボリスらは風上に回り込んでいた。木人たちが来ることを想定して木こりたちには森の南北が残るように東に突出させて木を切り倒させておいた。そして、残した南北の森に簡易的な罠を人間の素人でも分かるような状態で置いておいた。草と草を結んだだけの簡単な罠を見ればそれだけで警戒心を引き上げることが出来る。そうして木人たちの経路を東に限定させた。
風は西から東に吹いている。南北のどちらからか流せれば上出来だったが、真ん中を切り拓いた結果、風はそこに吹き込んで来ている。
ゾーが慌ててやって来た。
「どっちに火をかければいい?」
「奴らは人間を侮っている。だからこんな仕掛けに引っ掛かるのさ」
ボリスはゾーから松明を受け取ると足下の枯れ草に火をつける。それが燃えだすとザンボが火を分けてさらに火を広げる。
「ゾー、北側も火を点けろ。今日は風が吹いてやがる」
「はん? 風はいつも吹いてるけどな……」
ゾーは首を傾げながら回り道をして北側に向かう。
ボリスは懐から小袋を取り出すと火の中に撒いて投げ込んだ。煙が立ち込めて戦場から森の中へ流れ込んでいく。
煙を見て木人たちが声を上げる。
「奴ら火をつけたぞ」
「野蛮な奴らめ」
「許せん!」
そうして続々と森の中から木人たちが近接戦闘を挑みはじめる。木こりたちは防戦一方だった。煙に燻されながら戦闘は進む。激しく攻め立てる木人たちとは対象的に木こりたちはじっと攻撃を耐えていた。崩せないとわかると更に森から木人たちが加勢に出てくる。すると徐々に異変が起きはじめる。木人たちの動きが明らかに鈍くなって来たのだ。それは誰の目で見ても明らかだった。棒立ちになる木人、呼吸が乱れ四つん這いになってしまう木人が出始める。
「マジか」
「マジさ。木人どもは俺たちと違って全身で空気を取り込んでいる。それなのにこの特別な煙の中をあんなに激しく動けば空気が足りなくなるってわけよ」
ボリスは木人の弓を背負って斧を手にすると木人の一人に狙いをつけた。
「ノコギリを用意しておけよ。もしかしたら十本は捕まえられるかもしれないからな」
目の前の木人は煙を吸いすぎて膝を地面についている。ボリスは斧頭で木人の頭部を下からすくい上げる。その勢いのまま振り上げて倒れ込んでいる木人のひざ裏に斧の刃を打ち下ろす。すると硬いはずの木人の身体が折れた。
「曲がる部分はそれだけ脆いって事よ」
もがく木人の両肘を同じように斧を振るって折る。そして足を掴むとザンボの方へ放り投げる。
ザンボは木人の背中へ飛び乗って押さえ込むとノコギリで肘と膝の先を落としにかかる。
木こりたちもボリスと同じように木人を制圧していく。
「いいか、肘から先だぞ! それ以上中側を折ったら価値が下がるからな!」
森の奥から矢が飛んでくる。
「木人を盾にしろ! お前らの盾より頑丈だぞ!」
煙のせいで狙いも付けられず、やがて矢は飛んで来なくなった。仲間からの援護で森の中に戻っていく木人は何体か見えた。深追いはさせなかった。森の中では木人たちのほうが圧倒的に有利だったし、これだけ被害が出れば木人たちは逃げ帰るだろう。
木人たちが去ってしばらくすると戦闘が終了したことわかった。
捕らえることが出来た木人は九体。その状態を見てボリスが言った。
「惜しいな。こいつは商品価値がない。殺せ」
木人の中の一体は腕から先が千切れてしまっていた。
「勿体ない」
「勿体ないが仕方がない。不良品が出回ると全体の価値が下がるからな」
バリーが捕らえられた木人たちの眼の前で不良品扱いされた木人を地面に転がす。ゾーがその背中を押さえて身動きを封じると。バリーの振り下ろした斧が木人の頭を割った。
ボリスは木こりの首領と話をつける。
「分け前は半分ずつといきたいだろうが、製作には手間と時間がかかる。上手く作れるかも分からない。半分は失敗するかもしれん。なのでお前さん達にやれるのは二本までだ。承知できないなら捕まえた木人どもはここで皆殺しにする」
ボリスの言葉に首領は渋い顔を続ける。
「木人の弓を二本も売れば勢力拡大は確実にできる。あんたも王様になれるさ」
そんな慰めに納得をしたかはわからないが、首領は小さく何度も頷いてボリスの手を取った。
交渉は成立した。木こりたちは切った木を持って帰る。木人狩りは木人たちの手足が伸びるのを待って弓の製作に入る。この踏み荒らされた大地は放置される。木人たちが反撃に出ようとやってくる頃には誰もいない草原が広がっている。
木こりたちが撤収準備に入った。
ボリスも仲間たちに命令をする。
「よし、やつらの口の中に塩を詰めて猿轡をして縛りあげろ。荷車と馬も貰ってこい。荷物を積んだら俺達も帰るぞ」
17
森への帰還は五日ほどかかった。いや、かけたと言ったほうが近いかもしれない。
父と母にどう告げたら良いのかを考えていたのと疲労を抜かなければ戦場で戦えないと思ったからだった。オラックの件がそれだ。最速で向かった結果、疲労で怒りを抑えることが出来なかった。冷静さを保っていればもっとうまく情報を聞き出すことが出来たはずだ。そうだ。これからは木人狩りを狩るのだから、もっと慎重で狡猾にならなければならない。奴らは同じ人間でさえも操る。オラックは信用に値しない人間でネ・ラーナが選択を間違えたことも確かだが、オラックの不安や状況を利用したボリスという木人狩りも注意すべき人間だと思う。農場で出会った人間たちが本来の人間であるならば、オラックは明らかに常軌を逸していた。彼が最初からあんな人間だったとしたらネ・ラーナが惹かれるはずがない。ボリスはオラックの心を破壊したのだ。だが、彼を哀れだとは思わない。オラックは死ぬまでずっとあのまま苦しんでいれば良い。
森に戻ると守衛部に報告をして西の森に向かおうとすると、森で待機という指示が出た。ネ・ラーナの件もあり配慮があったのだろう。ただ、ネ・ラーナの亡骸はここになく埋葬してやることも出来ない。何も手につかない状況だったからまだ戦場にいたほうがマシだった。
それから数日、父と母に会いに行くことをまだ躊躇していた。西の防衛に行った部隊が戻ってきた。予定より大分早いが、防衛に成功したのだろう。一人欠けたとは言え二部隊も向かったのだから当然の結果だ。
「十三人も殺されただと?」
二部隊の内で生きて戻って来られたのはたった二人だった。六人が戦場から脱出したが、途中で二人力尽き、もう二人は森の奥までたどり着いたが息絶えた。生き残った二人も傷だらけだし運動機能が激しく低下していて、もう戦士としては戦えないかもしれないという話だった。
「一体何が? 煙に巻かれた? 森を焼いたのか! 野蛮な連中め!」
装備を整えて戦場に向かう準備をする。許可を求めても恐らく許されない。それでも、人間たちが今も森の木を切っていると思うと激しい怒りが込み上げてくる。広場から西の出口を抜ける。守衛がなにか言うのが聞こえたが適当にあしらった。
戦場についた際に戦えないのは困るため移動は速くはない。それでも森の木々を利用した走り方は普通の行軍の何倍も速い。これが出来る森人の戦士は少ない。森人の個々の能力は同じだと思われがちだが、実は同じ父母から生まれた兄弟でも全く違う。双子の場合は似るが、それは……。
蹴り足を失敗して地面に着地する。その場に立ち尽くす。
森人は木に実る。父と母が戦士であれば、戦士向きの子どもが多く実る。だからといって他の適性がないかと言うとそういうわけではない。運動能力が高い子どもが実ると言ったほうが良いのだろう。それぞれの進む道は子どもたちが自由に選べる。両親の話を聞いて大きくなるために両親の生き方をなぞる者がほとんどだ。戦士に憧れた自分と恋に憧れたネ・ラーナ。
たった数日で二部隊を壊滅させた人間たちは、一体何をしたのだろうか。千人規模の軍隊でも待ち受けていたのだろうか。それでも森の中で戦えば数ヶ月は戦うことが出来たはずだ。
このまま進んだとして、そこで人間たちと戦闘になったら勝てるだろうか。森の中に誘い込めば戦えるとは思う。普通ならそうだが、もしも、そこに木人狩りがいて人間たちが仲間を盾にしていたらどうか。また怒りで自分が抑制できずに襲いかかるのか。そうなったらどうなる。数十人を倒すことが出来ても果てには敗北が待っている。それはネ・ラーナの敵討ちが出来なくなることを意味する。それは死ぬことよりも恐ろしいことだし悔しいことだ。
自分は人間を知らない。森人より運動能力の劣る生き物だという認識しかない。この意識は相手を侮ることになる。そうだ。ネ・サルトンも言っていた。人間の中には我々を超える能力を持つ英雄と呼ばれる者がいると。英雄と聞くとつい身体的な能力のことだと想像しがちだが、知恵というか策謀が英雄クラスという者もいるのだ。
とりあえずはこのまま進もう。人間たちは今も木を切り続けているはずだ。その規模と様子を守衛部に報告する。敵をもっと知らなければ。
18
進み続けても森は静かだった。虫や鳥の鳴き声はするが木を切る音も聞こえなかった。木々の隙間から切り拓かれた大地を覗き見る。静かだった。誰もいない。野ウサギか何かが森から森へをかけていった。
人間たちはすでにここを離れているようだった。
戦場だったろう空き地にはところどころ草が生え始めていたが、土の上にはまだ人間たちの足跡があった。その規模を見ても千人単位という感じはしなかった。どう多く見積もっても数十人と言った印象を受ける。森人の足跡も探してみる。森から伸びる足跡は非常に直線的だ。森から空き地まで続きそこで複数の人間たちに囲まれている。その側の草の陰に森人の足を見つけた。膝から下だった。切り口は細かいギザギザになっている。拾い上げて雑嚢の中に入れる。森へ帰ればこれを見て誰かわかる者もいるだろう。
戦場を見回してその状況を想像してみる。南北に森があり人間たちは中間の空き地にいた。仲間たちは人間を南北の森に潜んで包囲攻撃しなかったようだ。なぜか? 北側の森へ向かう。少し入り込むと黒焦げた地面が見えた。灰や燃えカスも残されたままだった。
「火をつけたのか。そうだ。そう言っていた」
そこから東側に向かうと簡易罠が見えた。見つけてくれというような感じで設置してある。これを見た森人はここより先にも罠があると踏んで先に行かなかったのだろう。その先には火を付ける用意がしてあったわけだ。警戒心を利用して森人の侵入を防いだ上にそこに別の仕込みをしていた。しかし、思ったより火は広がらなかった。
北の森を振り返る。森は燃えていない。それなのに煙に巻かれたと言っていた。
「煙が目的だった?」
黒焦げた地面を調べに戻る。灰と燃えカス。ここで生まれた煙が空き地の中に流れ込んだのだろう。それを見て森に火を放ったと思い激昂し、東側から人間たちに攻撃を仕掛けた。ただ、それで敗れたとは考えにくい。落ちている枝を拾うと燃えカスをかき回してみる。匂いを嗅いでみる。焦げた匂いの中に酸っぱい匂いがして、その先に刺激を感じた。地面の土を集める。森の中で大きな葉を探して採ってくると土をくるんで雑嚢にしまう。
煙の中に何か毒のようなものが混ぜられていてそれが森人に影響を与えた。人間は吸い込まなかったのか。森人だけに利く毒など存在するのか。
森につけた火が思いの外広がっていないことに人間たちが失敗したのだろうと一瞬侮った。戦場を煙で満たすことが目的でそれを森人に吸わせることで戦力差を逆転させた。
「木人狩り」
恐らくこの戦場にいたのだろう。彼らは我々よりも森人のことを知っている。それなのに人間が劣った相手だと決めつけて攻撃を仕掛けた。その慢心を利用されて二部隊も被害が出た。
背筋が凍る。自分がここにいたとして仲間と同じ行動をとらなかったと言えるか。むしろ誰よりも先に人間に飛びかかっていただろう。そして、他の仲間よりも先に。
空き地は静かだった。風の音、鳥の声、虫の音、空には雲が流れ、その先には地星が微かに見える。
「私はここで死んだ。名誉も、栄光も、未来もすべて失った」
ここから先は不名誉でもどれほど屈辱でも生き抜かなければいけない。
19
森人は世界各地におり、ネ族、ハ族、ケイ族、ルト族、ビ族などがいる。昔はそれぞれが深い森の中に住んでいたが、現在森を持つのはネ族とケイ族、ビ族のみである。基本的には温厚で部族間交流や他種族との交流も盛んだが、ビ族だけは他種族や他部族と交流せず排他的な文化を持つ。ネ族、ハ族、ケイ族、ルト族が他種族と交配するのに対し、ビ族だけは部族内での交配を繰り返している。
木人の弓を作り始めたのはビ族だった。他部族を排除または恐怖させるために捕虜を木人の弓に作り変えたのが起源だが、その驚異的な威力と矢が放たれる際の悲鳴のような音は他の部族の森人たちを恐怖させた。
これを人間が手に入れ使用した所、非常に優れた弓である事が分かり、冒険者や王族などがこぞってこれを求めたと言う。そのためビ族は人間たちの攻撃を受け他の部族の助けを得られず衰退し滅んだ。
木人の弓はビ族の衰退と滅亡と共に消えていく運命にあったが、ある人間の魔術師が金策のために木人の弓を再現しようと、人間の集団を用いてハ族を狩り続けた。ハ族は定住地を失い滅亡寸前まで数を減らした。このハ族を狩っていた狩人たちが木人狩りの祖と言われている。
その後、木人狩りに製法が伝わり、以後は木人狩りの一部にのみ受け継がれている。
伝承者には人間的な倫理観が無いことが共通点に挙げられる。他には身体的に剛健で指導力があることや、非情さ、常に冷静であること、旺盛な知識欲などが求められると言われている。
森人たちの歴史はそれほど明るくない。ビ族のような例外はあったが、元々は好戦的な一面はなく森の中で静かに生き周辺の生態系を補助するような存在たった。それが人間と交流するようになって人間と交配し徐々に変化していったとされる。光と水だけがあれば生きていられる彼らだったが、森の生き物を間引いてその素材を加工し人間と交換するということも行われるようになった。それらは取り入れた人間の知識だったのだろう。人間との交配は森人の世界に劇的な躍進をもたらし、森も広がり続けることになった。その一方で人間との争いも増えることになった。
農業交流や使節団の往来で友好的な関係を築く中、領土拡大を狙った人間国家との軋轢もあり徐々に戦士の存在が必要になっていく。初めの頃は交渉でまとまることがほとんどであったが、人間の国家が大きくなるにつれ要求は不遜で傲慢なものとなっていった。
森人たちの意識が大きく変わったのは、人間の一団がネ族の森の深くまで侵入しネ族の子どもたちを大量に拐っていくという事件が起きた後だった。この事件を契機に各部族は連携し、情報共有を密にして、人間の戦士を積極的に招き入れることにした。ルト族は人間の了解を得ない強引なやり方をしたが、ネ族、ハ族、ケイ族などは個々の感情に重きを置いた。ここでもビ族は足並みを揃えることなく、より部族間交配を濃くしていった。
交流のあった人間たちの助けもあり、森人たちは戦士を育て森を自衛することが出来るようになった。
後に東にあった人間の王国は森人たち人間の連合軍との大戦争に敗れ森の中に埋もれることになった。
20
「そうか」
父は一言だけ発し、母は何も言わなかった。ネ・ラーナのワンピースと編みベルトを亡骸の代わりに森の中に埋葬した。戦場で回収した足は結局誰のものかはっきりとはしなかった。燃えカスのことを父に相談してみると「長老に報告するよう」と言われた。
瘤とシワだらけの幹の中に長老とその妻の顔が見える。長老の妻は元は人間でもう何十年も前、ひょっとしたらもっと前に森人の社会が嫌になって眠りについたと言われている。長老は人格者で知識が深いが、伴侶が汚点だと思う。
「ネ・ミーナが子、ネ・ヤーナ参りました」
枝葉が揺れて長老の瞳のない目が開く。長老の妻は今日も動かなかった。
「今日はどんな用事かな?」
長老の声が聞こえた。
戦場で発見したことを報告する。
「……ふむ。では、各部門に連絡して分析をさせよう」
長老が黙る。微かに地面に波のようなものを感じる。揺れてはいない。
「連絡は済んだ。ご苦労だった。ゆっくり休みなさい」
長老に一礼するとその場を離れた。その足で、戦場から生きて帰った戦士を尋ねる。
守衛部の詰め所より少し離れた所に療養所がある。木造の建物で人間が使うものとあまり変わりはない。中にいくつかあるベッドも干し草の上に麻の布が敷いてあるし、唯一の違いは上にかけるものがないくらいか。
そのベッドの上にネ・ズールが目を半開きにして横たわっていた。
「大丈夫か?」
「ラッカが死んだ。俺ももうダメだ」
ネ・ラッカはもう一人の生き残りだった戦士だ。
「毒か?」
「わからない。煙に包まれて、苦しくて、皆が人間たちに囲まれて、斧で手足を折られて、俺怖くて森から出られなかった。見たんだ。人間たちが俺のことを見たんだ。そしたらもう、無理だった。無理だよ」
ネ・ズールは泣いていた。
「ラッカも俺と一緒に逃げたんだ。攻撃されたのかな、覚えてないけどあいつのほうが煙を吸ってたかも。なら、俺は助かるかな? 俺、助かるかなぁ?」
私は薬師ではないから。ネ・ズールが伸ばした手も取らずにその場を離れた。あの手に触れたら恐怖が伝染る。そんな気がして触れなかった。
身体が強くてもダメなんだ。心の強さも手に入れなければ。知識も。負けることは怖い。負けないために鍛えなければ。自分に何が足りないのか。それを知らなければならない。いや、足りないものばかりじゃないか。そのせいでどこに進んだら良いのかわからなくなっている。まずは立ち止まれ。それは停滞ではない。焦る心が時間を浪費させるのだ。
まずは呼吸を整える。深く息を吸う。全身に空気を取り入れるのだ。
人間を知らなければ話にならない。大人たちの半分は元人間だ。彼らの話を聞くことが重要だろう。元人間の戦士に話を聞いて戦い方を学ぼう。まずは父からだ。それで、なんと聞こうか。
「お父様、人間との戦いについて教えて欲しいのですが、どうしたら殺せますか?」
違う違う。これじゃダメだ。なんて下手くそなんだ。
「人間は戦いの時、何を考えているのですか?」
これがいい。このくらい単純な質問にしたほうが良い。よし、父と母の元に向かおう。
「何も」
「え?」
「何も考えてなかったよ」
次の言葉が浮かんでこない。
「あなたはそうかも知れないけど、私は防御の甘いところを探してたわ」
母の意見は参考にしていないのだが、助けてくれたことには礼を言いたい。目的が曖昧だから答えが中途半端なのかもしれない。
「木人狩りと戦うことになりそうです」
父母はしばらく黙っていた。
「ネ・ラーナのことだけではありません。西の森で木人狩りの罠にかかり二部隊が壊滅しました。人間との戦い方を学ばなければ我々は森を失います」
うなだれていると父の言葉が降ってきた。
「そうだね。父さんから言えることは、森人の戦いはキレイすぎるって思ったことかな。森人は優秀だ。優秀だから手加減をする。わざと急所を外したりしてね。森人狩りはそれを知っているから森人を恐れないんだろうね」
父は「森人狩り」を強調する。
「ヤーナ、父さんが心配なのはお前まで憎しみのあまり人間狩りになってしまわないかってことなんだ」
「私は大丈夫です」
木人狩りに恐怖を覚えさせる。そんな戦い方が出来るようになれば良いのだ。
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