うみべの童話集

大秦頼太

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ほしがりやの王子

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 人が持っている物を見ると、ついつい自分も欲しくなってしまう王子様がいました。
 ある日、領地の中を配下の兵士たちと一緒になって散歩していると、農夫が畑を耕していました。王子は農夫を見ているうちに彼が持っている鍬がとても欲しくなってしまいました。
 王子は農夫に声をかけます。
「おい、お前。その手に持っているものは何だ?」
 農夫はいきなり王子様に話しかけられて大変驚きました。慌てて王子の問いに答えます。
「これは鍬でございます王子様」
「私はそれが欲しい。よこせ」
 農夫は困ってしまいました。鍬がなくなってしまえば、農夫は畑を耕すことが出来なくなってしまいます。農夫はひざまずいて許しを請いました。
「王子様、どうぞそれだけはお許しください。鍬がなくなってしまえば、私は畑を耕すことが出来なくなってしまいます。どうか、ご勘弁ください」
 すると王子は、剣を抜いて農夫を脅しました。
「なんだと? お前は農夫の癖に私の言うことが聞けないのか! よし分かった。お前は牢屋に入れてやる」
 王子は兵士に命じて農夫を牢屋へと送ってしまいました。そして、農夫の鍬を奪い取りました。二、三度くらい鍬を振ってみると、なんだか腕が疲れてしまって、ちっとも面白くありません。王子は鍬を捨ててしまいました。
「バカバカしい。こんな地面を叩いて何が面白いんだ。こんなもの潰してしまえ」
 そう言って王子は兵士たちに命令をして畑をめちゃくちゃにして作物が育たないようなひどい土地にしてしまいました。

 次に王子は森の中から聞こえる音を不思議に思い兵士たちを連れて森の中に入って行きました。
 森の中では木こりが斧で木を切っていました。
「ふうむ。あれはなんだか面白そうだ」
 そうやって見ているうちにどうしても木こりの持っている斧が欲しくなりました。
 王子は木こりに声をかけます。
「おい、お前。その手に持っているものは何だ?」
 木こりはいきなり王子様に話しかけられて驚きました。慌てて王子の問いに答えます。
「これは斧でございます王子様」
「私はそれが欲しい。よこせ」
 木こりは困ってしまいました。斧がなくなってしまえば、木こりは木を切ることが出来なくなってしまいます。木こりはひざまずいて許しを請いました。
「王子様、どうぞそれだけはお許しください。斧がなくなってしまえば、私は木を切ることが出来なくなってしまいます。どうか、ご勘弁ください」
 すると王子は、剣を抜いて木こりを脅しました。
「なんだと? お前は木こりの癖に私の言うことが聞けないのか! よし分かった。お前は牢屋に入れてやる」
 王子は兵士に命じて木こりを牢屋へと送ってしまいました。そして、木こりの斧を奪い取りました。二、三度くらい斧を振って木を切ってみますがうまく行きません。そのうえ、なんだか腕が疲れてしまって、ちっとも面白くありません。王子は斧を捨ててしまいました。
「バカバカしい。木なんか叩いて何が面白いんだ。こんなもの燃やしてしまえ」
 そう言って王子は兵士たちに命令をして森に火をつけて全てを焼き払ってしまいました。

 そうこうしているうちに湖にやってきた王子とその兵士たちは、湖のほとりで釣りをしている老人を見つけました。
 老人を見ているうちに、王子もなんだか釣竿が欲しくなってきました。
 王子は我慢できずに老人に声をかけます。
「おい、お前。その手に持っているものは何だ?」
 老人は、王子に気がつきましたが大して驚きませんでした。
「これは釣竿でございます。末の息子が私のために作ってくれたものでございます」
「私はそれが欲しい。よこせ」
 王子が手を出すと、老人は快く釣竿を王子に渡しました。そして、老人は丁寧に王子に釣りの仕方を教え、側で見ていました。
しかし、魚は一匹も釣れませんでした。
「面白くない! 何だこれは」
 王子は怒り出して釣竿を折ってしまいました。すると、老人は泣き出しました。
「せっかく息子が贈ってくれた釣竿なのに、どうしてそんなひどいことをするんですか」
 老人に責められて王子はもっと怒り出しました。
「お前のせいでこんなに不愉快になったのに、何がひどいと言うのか! お前が釣竿になって魚を捕まえて来い!」
 そう言って老人を湖の中に突き落としました。老人は水の中に沈み、二度と上がってきませんでした。

 王子はお腹がすいたので、町に戻って食事をすることにしました。すると、一軒のお店からおいしそうな匂いが漂ってきます。
 王子たちは店の中に入っていきました。
 店の中ではいろんな料理をたくさんの人がおいしそうに食べていました。
 王子はそれが全部欲しくなって、兵士に命じてお店の中のお客さんを全員追い出しました。
 すると、店の奥から料理長がやってきて王子に言いました。
「どうして人の物まで食べようとするんだ。少し待っていれば、あんたの分だって作ってやるのに」
「お前は私が王子なのにそんな口を聞くのか? 人がおいしそうに食べてるのが、おいしそうだから私はそれを食べたいと思ったんだ。新しい料理が同じように美味しいとは限らないだろう」
 料理長は怒り出します。
「俺の料理は身分なんか関係ない。貧しいものも金持ちも美味しい顔をしてくれたらそれでいいんだ。お前は、何の権利があって俺の大事な客からそれを奪うんだ」
 王子は剣を抜いて料理長に突きつけました。
「これ以上、この私に文句を言ったら、牢屋にぶち込んでやるぞ!」
 料理長は顔を真っ赤にして王子に飛び掛りました。王子はびっくりして兵士たちに助けを求めました。料理長はすぐに捕らえられて両腕を切り落とされて牢屋に送られました。

 王子はつまらなくなってお城に帰りました。
 お城ではみんなが王子をやさしく迎えてくれました。だんだん王子の機嫌が直っていきます。
 しかし、王様は元気がありませんでした。
「お父上。どうされたのですか? お元気が無いようですが」
 王様は沈んだ声で話し始めました。
「そうなのだ。近頃さっぱりこの国の農作物がダメになってしまった」
「では、私が農民どもの目を覚ましてやりましょう」
「それだけではないのだ。木こりが木を切らずに遊びほうけているのだ」
「では、私が木こりどもをけしかけてきてやりましょう」
「だが、それで終わりではないのだ。湖では魚も取れなくなってしまった」
「なるほど、それでは湖を干上がらせてやりましょう」
「よしよし、お前は本当に良い息子だ。全てうまく行ったら町に使いを出して世界一の料理人をここに呼んで世界一の料理を共に食べようではないか」
「ありがとうございます。そのお心遣いに感謝いたします」

 王子は農民たちに仕事をさせるためにすぐお城を離れました。もうじき夜だと言うのに、王子は兵士を連れて農民たちの家に押しかけ全員に農具を持たせて畑に並ばせました。
「立派な農作物が出来るまで、お前たちが休むことは許さん。もし、勝手に休むような奴がいたら、そいつは家族もろとも牢屋に入れてやる」
 みんなは仕方なく荒れ果てた畑を耕し始めましたが、そんなに早く実る作物などこの世にあるはずもありません。一人倒れ二人倒れ、ついにはみんな倒れてしまいました。
王子はそれを見てかんかんに怒りました。
「いいか、俺が王様になったときには、怠け者はこの国にはいらん。お前たちはこの国から追い出してやるからな。この怠け者どもめ!」
 そういうと王子は森に向かって行きました。しかし、森は焼かれてしまったのでどこにもありませんでした。
 王子は怒って、木こりたちを探しましたが、木の無い所に木こりがいるはずも無く、王子の怒りは収まりませんでした。
 怒ったまま湖にやってきた王子は、兵士たちに命令をして湖の水をかき出してしまうように命じました。
 兵士たちは汗だくになって湖の水を川に流し、しばらくすると湖は水溜りのようになってしまいました。
 すると湖の底には、行き場を失った魚がたくさんいました。
 王子たちはそれを持てるだけも持って、お城に帰っていきました。湖の生き物はまだ沢山いましたが、水を失ってみんな死んでしまいました。

 王様は王子が持って帰ってきた沢山の魚を見て大変な喜びようでした。王様はすぐに宴会を開催するように告げ、町から世界一の料理人をと使いの者を送りました。
 宴会が始まってしばらくすると使いの者が戻って来て言いました。
「申し上げます。料理人はどこかへ連れて行かれてしまったらしく、誰もその行方を知りません」
 王様がひどく落胆するので、王子は少し前に捕らえた料理人のことを思い出します。
「料理人がいないなら、あいつに料理をさせればいい」
 王子はそう思って兵士に牢屋から料理人を連れてくるように指示を出しました。
 やってきた両腕のない料理人に向かって王子は言いました。
「今から世界一の料理を作れ、本当は世界一の料理人に来てもらいたいところだが、残念ながらどこかに連れて行かれてしまったという。まったくバカな奴がいるものだ」
 本当は世界一の料理人を連れて行ったのは王子なのですが、それを知っているものは恐ろしくて口に出せません。
 料理人は言いました。
「私には料理を作る腕が無い。だから料理は作れない」
 王子は怒って料理人を再び牢屋に入れるように命じました。
「すっかりしらけてしまった。誰か何かするが良い」
 歌や踊りなどが行われますがどれもパッとしませんでした。
「もう良い。宴会は終わりだ」
 王子の言葉に一人の若者が歩み出てきます。
「お待ちください」
 王子は若者を見ます。ボロボロの服を着た若者はとてもお城に似合いませんでした。
「何だ汚い奴め。おい、追い出せ」
 王子はそう兵士に命じました。若者はあっという間に兵士に囲まれてしまいます。
「お待ちください。私はこれでも世界中を旅してきたのです。王様に世界の面白い話をお聞かせいたしましょう」
「何? 面白い話だと?」
 それを聞いて王様と王子様は兵士たちを止め、若者の話を聞くことにしました。
「面白くなかったら、お前の舌を引き抜いてしまおう」
 王子はそう言いました。しかし、若者はちっとも恐れることなく話し始めます。
「世界には本当に素晴らしい国がございます。他人同士が愛し合い、国民はみな夢を持ち、国中が優しさに満ち満ちている国です」
「なんの、わしの国も負けてはおらぬ」
 王様は胸を張ります。
「そうでしょうか?」
 王様は答えます。
「もちろんじゃ。この国はワシの夢を実現させた国なのだから」
「私にはそうは見えません。この国の民は不幸です」
 若者の言葉に場がざわめいた。
「不幸だと?」
「そうでございます。王様はこの国がどうなっているのかその目で確かめたことがございますか?」
「無論じゃ。毎日、この城から眺めておる」
「では、王子が農夫から鍬を取り上げ、兵士たちに畑を踏み荒らさせたことをご存知でしょうか? 夜に農民たちを叩き起こして力尽きるまで働かせたことは?」
「いや、知らぬ」
「でたらめを言うな!」
 王子は剣を引き抜き若者に突き刺そうとします。王様はそれを引き止めます。
「やめよ。最後まで聞いてやろう」
「王子が木こりから斧を奪い、森に火をつけたのをご存知でしょうか? 黒焦げになった森にはしばらくの間、森に木は生えないことでしょう。それもご存じないと?」
「いや、知らぬ。」
「では、魚が釣れぬと私が父に送った竿を折り、父を湖に投げ捨てたのはご存知でしょうか? 湖の水を全て捨て持てるだけの魚を持ち帰って、残りは干上がった湖の中で死んでおります。それさえもご存知ではないと?」
「いや、知らぬ」
「町の料理屋で、皆が食べているものを横から欲しがり、横取りした者がいるのをご存知でしょうか? 文句を言った料理人の腕を切り落とした者がいるのも知りませんか?」
「それが王子だというのか?」
「お疑いですか?」
「誰もそのようなことをワシには言ってこぬ」
「皆、命が惜しいのです」
「偽りを申すな!」
 王子が声を上げると、兵士たちも一斉に騒ぎ立てます。王様が手を上げてそれを制します。
「ワシが王なのにか? 皆はワシに何も言わぬのか?」
「王様は、王子様よりも年がいっておられます。次の王様は、王子様なのです。それなので皆、王子様の言葉を優先し悪いことは言わないのです」
「ワシは王子を愛しておる」
「私も父上を愛しております」
 その時です。料理人が突然大きな声で言いました。
「一つだけ。王様の愛を確かめる方法がございます」
 王様は、眉を動かして料理人の言葉に反応しました。料理人は続けます。
「王子様を今すぐ王様にすることです。そうすれば、王子様が本当に優しい人間なのか分かります」
 王様は王子を見ました。王子もまっすぐに王様を見つめ返します。
「良かろう。ワシは王を捨て、王子に王位を譲ろう」
「本当でございますか?」
 目を丸くして驚いている王子に王様は自分の頭の王冠を外し、王子の頭に載せました。そしてその場にいる者たちを振り返り告げました。
「これよりここにいるこの者こそが、王様じゃ」
「お父上、その言葉に偽りはございませんか?」
「あろうものか。お前が新しい王だ」
 歓声が沸き、王子は新しい王様になりました。鳴り止まない拍手の中、新しい王様は皆に手を振りました。
「では、最初の命令だ。この老人を牢屋にぶち込め! 料理人は外で首を刎ねよ。そこにいるこじきも一緒にな!」
 前の王様の言葉は人々の声にかき消されて誰の耳にもまったく聞こえませでした。
 料理人と若者はすぐに外に引き出されて処刑されました。新しい王様が怖くて誰も何も言いませんでした。でも、新しい王様はすぐにいなくなりました。国がすぐに滅びたからです。
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