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第四十話 地下牢にて
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差し出された右手に棒金を叩き付けた直後、小指球と手首の狭間辺りに走った皮膚の張り裂けそうな痛みに驚く暇もなく、次々と襲いくる様々な激痛を受け止め切れないまま、頭蓋を内側から破るのではないかと思える頭痛に耐えることもできず胃の内容を全てぶち撒けにぶち撒けて、込み上げ続ける嘔気に呼吸もできない苦しみの中、死ぬ、と感じた途端に目の前が一瞬にして真っ暗に染まった。その衝撃を抱えたまま何かに揺り起こされケネデッタは瞼を跳ね上げた。
「っ、ぁあぁああ…っ!?」
痛みはすっかり消えていたものの心傷に胸が波打ち、刻まれた恐怖に悲鳴が喉を焼く。
いったい自分はどうなったのか。この身に何が起きたのか。
思考も感情もまとまらないまま辺りを見渡した。
まず石畳の床と、そこに座り込む自分の足元が目に入る。砂に塗れ湿った汚らしい床だ。一刻も早く立ち上がりたかったが、酷い疲労でいかんとしても腰が立たない。諦めて怠い頭を半ばもたげ億劫に左側へ首を巡らせると石材の壁があり、粗末な寝台が置かれていた。なんとなく見覚えのある気がする。次いで右側を見ようと首の角度を変えた時、ふと視界を過ぎった物にギョッとして前を凝視した。床からいくつも伸びる鉄の棒がある。あれは鉄格子だ。何故そこに鉄格子があるのか。驚愕に乱れる呼吸を整えようと口元を片手で覆った時、ようやく手首に繋がる鎖を認識した。
つまり、ここは牢屋だ。自分は牢に繋がれている。認識した途端にどこかで落ちる水滴の音が耳を穿った。
どうして?
どうしてまた、牢になど繋がれているのか。
呆然と檻の向こうへ視線を投げた。数人の足が見える。誰が居るのかと顔を上げ、そこに居る人物の顔を認識すると同時、頭も目も真っ赤に染まった。
「なんで!?なんで生きてんのよぉ!?」
そこに居るはずがない。入洞届の帳簿もタグも確認したのだ。なのに何故あの男が生きているのか。
頭を掻き毟り歯軋りをしてケネデッタは鉄の棒越しに睨め付けた。背を丸めて胸元に握り込んだ手の指を忙しなく絡め、目深に被った風除けフードの隙間から青ざめた顔でおどおどと伺い見てくるオリンドを。
「なんでもクソも。俺たちが殺せなかったからに決まってんだろ」
オリンドの細っこい肩に肘を乗せ、パオロはニヤリと歯を剥き出して見せた。
「なんっ…、あ、あんたたち!…っどういうことよ!?」
よくよく見ればオリンドの両隣にはテクラもネレオも揃っていて、背後には襟巻きを巻いた看守の男が制帽をきっちりと目深に被って立っている。何がどうしてこうなっているのか。混乱と憤りに任せて鎖を打ち鳴らしたケネデッタは、鉄格子の向こうから見下ろしてくる四人に感情のまま叫んだ。
「どうもこうも。ま、こういうわけだ」
短く笑ったネレオは襟巻きを取り去り首元を露わにした。
「それは…っ、勾留の…!」
ギルド職員ならば誰もが知る拘留者用の首輪を付けられた姿にケネデッタは息を呑む。黒金の遊撃隊はオリンドの暗殺を失敗り、しかもギルドの知るところになったのだとその首輪は告げていた。
「…こっ、の!役立たずども!あんなに息巻いてたくせに!そんな探査スキルしか使えない能無し一人も殺せないの!?」
「おお、怖怖。でもお生憎様。わたしらは協力と引き換えに国外追放で済むの。どう罵られようと安いもんよ」
同じく首元を隠していた布を取り払い首輪を見せつけて、腰に手を当てたテクラの見下す物言いにケネデッタは瞬時に頭へ血を上らせた。
「しかも私を売ったっての!?ふざけんじゃないわよ、矜持ってもんは無いわけ!?我が身可愛さに誰彼構わず尻尾振るなんて恥知らずもいいとこよ!」
「おいおい、他人に人殺しさせようとしといて何言ってんだ。我が身可愛さに自分の手を汚したくなかったんだろ?」
「矜持も恥もテメェを振り返ってから言えよな」
「全くだわこの臆病者の卑怯者」
しかし三人から畳み掛けられた言葉にぐうの音も出ずに押し黙る。
石材に囲まれた冷たい空間に沈黙が降り注いだ。
「…う…、ぁ、あの…」
ようやく周りが静まったことでオリンドは口を開くことができた。が。
「っひっ!」
ケネデッタに射殺す勢いで鋭い眼光を向けられ、蛇に睨まれた蛙よろしく竦み上がる。
それでもパオロに背中を宥めるように叩かれて、指をもじもじ絡め及び腰ながらも再び向き直った。
「ぅぁっ、ぁ、あのっ!…俺っ、な、なん、なんでっ、そ、んなっ、き、嫌われ…」
「黙んなさいよ!もうその喋り方からして嫌なのよ!」
しかし勇気を振り絞って出した問い掛けには噛み付くような言葉を返された。随分と理不尽な内容だ。
しん。と、オリンドのみならずネレオたちも開いた口を塞ぐことができず目を見開いてケネデッタを見詰める。
「ぶちぶち吃って気持ち悪い!少しは気にしたらどうなの!?何から何までだらしないのよ!猫背に内股でオマケにウジウジうじうじ指絡めて、苛つくったらありゃしない!あんたみたいな見窄らしいのがアレグ様の横に立たないでもらえる!?」
「ぁ、アレグ様…?」
称号ではなく名前に様を付けて呼ぶのかと、わずかな疑問を感じて呟いたオリンドだったが、口を挟む隙は無かった。一度叫んだことをきっかけに、彼女の中でずっと渦巻いていた身勝手な憎悪が濁流となって押し寄せる。
「しかもどんな手を使ったんだか知らないけど!クラッスラの最深部まで見通した!?よくもそんな大嘘吐けたもんだわ!そんなのどうせすぐバレるでしょうけど!?だからって、それまでクズ野郎がアレグ様の側に居るだなんて我慢ならないのよ!いい!?アレグ様に近付いていいのは有能で美しい人間だけなの!間違ってもあんたみたいな、使えない上に冴えない!汚らしくて卑しい人間じゃ無いのよ!今すぐ消えて!不愉快だわ!」
罵っているうちに自分の発する言葉で興奮が高まったケネデッタの声は次第に大きくなり、口角には泡が溜まり始めた。
「ほんっといいからもう、アレグ様の前から消えてよ!死んでよ!そうよ死ねばいい!騙してまで近付こうだなんて、詐欺じゃないの、この犯罪者!死ねこのクズ!死んで詫びろ!あんたみたいなお荷物、消えた方がアレグ様たちのためよ!無能のくせに図々しく居座ってんじゃないわよ、死ね!」
声を限りに叫んだが、これだけ言ってもオリンドが何も言い返してこないばかりか、眉を下げてちらちらと伺ってくるだけで大した反応もなく、立ち去りもしないことにも益々苛立ちを募らせる。
言い返す口も無いのか。どうしてこんな愚鈍な人間がアレグたちに迎え入れられたのか。
身を竦めて指をうじうじと絡め、まごつく姿がケネデッタの神経を逆撫でする。一言で言えば生理的な嫌悪だった。どうにかして排除したいと思考を煽る本能が頂点に達し、次々と口を衝く罵詈雑言は感情任せでとうに品も筋も失い語彙も狭まる。
すでに自分の一番叶えたい願いにばかり頭を占領されたケネデッタは、壁から伸びる鎖に繋がれた腕を限界まで鉄格子へ伸ばしオリンドに指を突き付け口の端に溜まった泡を吹き飛ばした。
「だいたい、そんな醜悪な見てくれでよくも隣に並べたものよね!?鏡見たこと無いわけ!?髭くらい剃ったらどうなのよ!?」
がちり。と、軋むほど鉄鎖を引き、初対面の折に抱いた激しい悪寒を煮詰めたものを目の前の気に食わない男に目一杯ぶつける。
痩せ細り縮こまった体躯は見るからに矮小で、長らく風呂も使えず皮脂で固まった髪は海藻のような、剃刀を当てる金も無いとわかるまばらな無精髭の、あの日のままのオリンドに。
「その形でよくもアレグ様に近付きやがって!迷惑なのよ!あんたなんか誰にも望まれちゃいないってこと、わかんないの!?」
手枷で肌が削れるのも構わず、立ち上がれない足で地団駄を踏む代わりに石畳へ拳を叩き付けた。その刹那。
「望んでるよ」
ずしり。と、一瞬の隙を突いて腹を殴り付ける静かな声が大きく響き渡った。
「…っ!?」
更に言い募ろうとしていたケネデッタだったが、その押さえ付けるでもない声色に強か気圧され息を呑む。
今の声はどこから、いや、誰が発したのか。咄嗟に探ったケネデッタは一歩前へ出た看守に目を見張った。
あの男が今の声を?いや、そんなわけは無い。
彼の着る看守服はグラプトベリア冒険者ギルドのものだ。であれば少なくとも彼女の知る限り、人を黙らせられる貫禄の声を持つ者は居ない。ならばあの男が発したものでは無いと断じたものの、しかし牢の中から見える範囲に精一杯目を凝らしても、それらしい人物は見当たらなかった。というより周囲は不思議なほど静かで、檻の前の五人以外には誰も居ないようだ。と、探る目の前でテクラが額に手を当て看守に困り顔を向けた。
「ああん、もう。ダメじゃない。まだ連中との繋がり、聞き出せてないのにい」
「……は…?」
ケネデッタは我が耳を疑った。今の言葉をテクラが発したとはどうにも思えなかったからだ。受付カウンターで聞く彼女はいつも気っ風がよく、こんな柔らかな話し方をしていたことは無い。
「いやしかし、正直俺も限界だったぞ。今のが無かったら俺が遮ってた。…おまえさん、よく堪えてるな」
オリンドの背を宥めるように撫でさすりつつパオロが憤りを含んだ、それでいてしっかりと腰の据わった声で労わる。
そんな声、あいつが出すわけ、無い。話し方だって、もっと、軽くて調子良くて…。
何か得体の知れない恐怖を感じたケネデッタは石畳の上を少しだけ後ろへにじった。
「ぇあ、お、俺?平気だよ。みんな居てくれてるもん」
ふへへ。無邪気に嬉しそうに笑うオリンドの顔は、少し赤みの差した頬もあいまって明るく朗らかだった。初めにこの顔を見ていたならば印象もかなり変わっていたことだろう。
などと考えかけてケネデッタは割れそうなほど奥歯を噛み締め振り切った。引けない。今更、後に引いて堪るか。
そう感じている時点で何もかも手遅れだということには気付きもしない。
「そんなに頼っていただけているだなんて、嬉しいですね。…しかし、本当に。むしろ私たちの方が参りそうですよ」
オリンドの被るフードに鼻先を埋めたネレオが、甘く蕩ける声で喜びを囁くに至って、ケネデッタは石壁に背をぶつけた。
「…はぁ!?…っな、…なにそれ!?なんの冗談よ!?あんたたち、どうしたってのよ!?」
どうかしている。こんな場所で、こんな場面で、どいつもこいつも、人が変わったみたいになって、そんな無能の、怖気の立つ男を持て囃して。まさか、こいつらも丸め込まれたっていうの?
「…っ!ざまぁ無いわね!あんたたちもそいつに絆されたってわけ!?人を誑かす才能だけはあるのね、最低!」
「絆されても誑かされても無えよ」
いい加減にしろ。と多分に込もった口調で、嘲笑いながら蔑みながら酷く顔を歪め悍ましいものを見る目付きをオリンドに向けるケネデッタを、看守は帽子と襟巻きの隙間から睨み返した。
それだけで喉が痙攣し、声が出なくなる。
「こいつには才能があるし、それに甘えないで努力もするし、素直だから吸収も早い。探査スキルの能力なんか桁違いだってのに胡座もかかないで、むしろ独学だったからって勉強し直してる」
彼の語るオリンドを讃えた言葉の数々に、そんなはずはない、あれは自分が認めた最低最悪の最底辺の人間だ、と、自尊心を引き裂かれ踏み躙られる思いを味わわされるが、しかし真っ直ぐ睨め付けてくる視線から目を逸らすことができない。そのせいで呼吸もままならないことに激しい苛立ちを覚えたケネデッタは割れそうなほど歯を食いしばる。押し寄せる負の感情に、なぜ看守がそこまで肩入れをしているのか、その不自然さにも気付かないままだった。
テクラたちと目配せをして、頷きを得た看守が襟元の布と帽子をかなぐり捨てるまでは。
「!!…っな、…なんっ…!?…っ、ぃ、い、嫌ぁあぁあああああ…!!」
帽子の下から現れたオレンジブラウンの髪を目にしたケネデッタは激しい居た堪れなさに悲鳴を上げた。
もはや何故とかどうしてなど疑問を浮かべることすらできない。
「嫌っ!嫌ぁああ!あ、アレグ様!?…ちがっ、違うの!違うの!これは!」
見られた。見られた見られた見られた。アレグ様にあんな醜い姿を。酷い。こんな恥辱感じたこと無い、こんな屈辱って無い。どうしよう、どうしたらいいの。こんなことになって、なんて言ったらいいの。
頭を振って必死に羞恥から逃れる術を探るその目の前で、パオロたちがそれぞれの手首から腕輪らしき装飾具を外した。
「ああ…、あ!」
看守に変装していたアレグはともかく、彼らの変貌ぶりはケネデッタの抱えられる範疇を超えていた。腕の辺りから霧の晴れるように元の姿に戻ったイドリックにウェンシェスラン、そしてエウフェリオを認識した途端、頭蓋を破裂させられそうな混乱に苛まれ、肌に血が滲むまで前頭部を掻き毟った。
「はああ…。あんた、よくもそこまで思い込みで他人を貶せるな」
パオロの顔を借りていたイドリックが溜息をひとつ溢し、我慢はここまでだと不機嫌を露わに声を地に這わせる。
「お、思い込み…!?違う!そいつは、探査スキルしか持ってないのに!」
「その探査スキルでクラッスラの最深部まで見通したこと、あんた散々に騙してるだの言ったじゃない。それが思い込みで無けりゃなんなの。リンちゃんはあたしらの前でスキル使って地図描いてくれたのよ?」
テクラの仮面を脱いだウェンシェスランが最早顔も見たくないといった表情で見下ろしてくる。
「それは…っ、で、でも、おかしいじゃない!何か裏があるのよ!」
「ありませんよ。純粋に彼の力です。カロンの執務室に居ながら、廃教会に潜む貴女の所持品も言い当てました」
ネレオの姿を解いたエウフェリオが背筋の凍りそうな冷たさで睨め付け断言する。
「は…、は?…こ、ここから?…エケベリアの…っ。う、嘘よ!嘘よそんなの!適当にそれっぽいこと並べたのがいくつか当たっただけでしょ!?」
「全部だ。全部、ひとつ残らず。食い物も酒も金も道具も武器も魔道具も、竜の仙骨も」
これまで見たこともない暗い顔をしてアレグは言った。暗鬱としたその声にケネデッタは弾かれたように身を強張らせた。
「あ…、そ、その…、ち、違う。…違うの…」
「なにがどう違うんだよ?」
「ちが…竜は、ぬ、盗もうと思ったわけじゃないの!そ、そいつ、そいつに、アレグ様たちを、これ以上、だま、騙させちゃいけないと、お、思ってっ!だからっ!アレグ様を助けなきゃいけないと思ったの!それだけなの!ちか、近くに居させちゃ、いけないって思っ…」
「あんた、まだ自分のことばかりなのか。アレグ様アレグ様言う割に、アルの気持ちは全く考えないんだな」
聞くに堪えない言い訳への苛立ちを鉄格子にぶつけ、イドリックは歯を剥いた。
きつく両拳を握り締めたウェンシェスランも憤懣やるかたないといった表情で口を開く。
「何が、盗もうと思ったわけじゃない、よ。アルちゃんが言いたいのは…」
「ほ、他に方法が無かったのよ!早く排除しなきゃって思ってたの!少なくともAかBランクには依頼しないと…そんなの私の稼ぎじゃ無理だから!でもアレグ様なら、私が正当な理由で動いてたって知ったら許してくれるはずだって思ったの!」
ゴガン!
腹に響く音を立てて鉄の棒が一本、曲がった。
俯いたアレグが反り返った格子から拳をゆっくりと戻す。
「…それで、俺が、仕留めた竜を、売った金で、オーリンを、殺そうとした。って?」
腑が煮え滾っていた。これほどの怒りや悔しさ、憤りや哀しみ憎しみを、アレグは生まれてこのかた味わったことが無い。
だというのに。
「……え…っ?そ…そう、よ?」
そう、言わなかった、かしら?
ケネデッタは呆けた顔でアレグを見上げた。根本的に、オリンドが彼らにとって大切な仲間であるという発想を持つことができないのだろう。何ひとつ理解できていない顔だった。
「無駄ですよアル。彼女の世界は彼女ひとりで完結しているのでしょう。どれほどリンドが我々にとって大切か説いたところで、貴方がどれだけ傷付いたか訴えたところで、何も響かないと思いますよ」
残念なことですが。と、何か酷く期待外れの物を見る目を向けられたケネデッタの頭に再び血が上る。
いや、上りかけた。
「…そうか。じゃあ、仕方ないか」
一転して物悲しい顔付きになったアレグから憐みの視線を浴びた瞬間、どくりと心臓が跳ね、全身の血の気が引いた。
「ま、…待って?…ちょっと、待って…よ」
わ、私。私、なにか、間違え…た?
嫌な予感がする。恐ろしい気配がする。抗うことのできない何かが身に迫っている。と、骨の髄から震える肩を掻き抱いた。
「ってかオーリンさ、いつまで腕輪してんだよ。久しぶりに飯いっぱい食えって言いたくなってきた」
「ふはっ!?…忘れてた!」
アレグに指摘されたオリンドが両手を軽く上げて驚き、エウフェリオたちが微笑ましく見やる光景が、すでに隔絶された世界のように思えた。
「ま…って。…待って…?」
嫌な予感がする。嫌な予感がする。嫌な予感がする。
背筋が熱くなり冷たい汗が流れた。
檻の向こうで腕輪を外したオリンドが見違えるほど明るく以前よりずっと頼もしい姿に変わる。何事か指摘されて照れ笑う顔は幸せそのものといった表情だ。
「待って…、待って!…待ちなさいよ!」
鎖を鳴らし、引き千切らんばかりに軋ませて、ケネデッタは追い縋った。
けれど、振り向きかけたオリンドの肩を抱き歩き去ったエウフェリオを皮切りに、もはや牢へ視線を向けもしない彼らは石壁に区切られた視界から一人また一人と消えていった。
「待って!アレグ様!…あ、貴方のためだったの!アレグ様のためを思って私は!」
最後に歩み去ろうとする背中に必死の形相でケネデッタは叫んだ。
すると、ほんの端の端で、その足が止まる。
次いでゆっくりとアレグは振り返った。
「ふうん。そっか」
その顔は薄く笑みを浮かべていて、一条の光明にも思えた。
「っそ、そうなの…!私、あの、おこがましいけど、アレグ様のこと、…アレグ様のこと、好きで…!この身を捧げてもいいと思ってるの!」
精一杯に身を捩り、儚く憂いを帯びた顔をして見せる。
相手はあの勇者だ。きっとこれで、気持ちをわかってくれるはず。万感の思いを込め、ケネデッタはアレグを見詰めた。
「そうか。…俺はおまえのこと、今日、大っ嫌いになったよ。こんな気持ち悪い感情を持ったの、生まれて初めてだ」
一度瞬いた彼は今にも泣き出しそうな恨みの表情を刷いて吐き捨てると、足音高く踵を返し、階段に繋がる扉を乱暴に閉じて駆け上がっていった。
静まり返った石牢にどこか遠く水滴の落ちる音が響く。
ケネデッタの絞首刑が決定した瞬間だった。
「っ、ぁあぁああ…っ!?」
痛みはすっかり消えていたものの心傷に胸が波打ち、刻まれた恐怖に悲鳴が喉を焼く。
いったい自分はどうなったのか。この身に何が起きたのか。
思考も感情もまとまらないまま辺りを見渡した。
まず石畳の床と、そこに座り込む自分の足元が目に入る。砂に塗れ湿った汚らしい床だ。一刻も早く立ち上がりたかったが、酷い疲労でいかんとしても腰が立たない。諦めて怠い頭を半ばもたげ億劫に左側へ首を巡らせると石材の壁があり、粗末な寝台が置かれていた。なんとなく見覚えのある気がする。次いで右側を見ようと首の角度を変えた時、ふと視界を過ぎった物にギョッとして前を凝視した。床からいくつも伸びる鉄の棒がある。あれは鉄格子だ。何故そこに鉄格子があるのか。驚愕に乱れる呼吸を整えようと口元を片手で覆った時、ようやく手首に繋がる鎖を認識した。
つまり、ここは牢屋だ。自分は牢に繋がれている。認識した途端にどこかで落ちる水滴の音が耳を穿った。
どうして?
どうしてまた、牢になど繋がれているのか。
呆然と檻の向こうへ視線を投げた。数人の足が見える。誰が居るのかと顔を上げ、そこに居る人物の顔を認識すると同時、頭も目も真っ赤に染まった。
「なんで!?なんで生きてんのよぉ!?」
そこに居るはずがない。入洞届の帳簿もタグも確認したのだ。なのに何故あの男が生きているのか。
頭を掻き毟り歯軋りをしてケネデッタは鉄の棒越しに睨め付けた。背を丸めて胸元に握り込んだ手の指を忙しなく絡め、目深に被った風除けフードの隙間から青ざめた顔でおどおどと伺い見てくるオリンドを。
「なんでもクソも。俺たちが殺せなかったからに決まってんだろ」
オリンドの細っこい肩に肘を乗せ、パオロはニヤリと歯を剥き出して見せた。
「なんっ…、あ、あんたたち!…っどういうことよ!?」
よくよく見ればオリンドの両隣にはテクラもネレオも揃っていて、背後には襟巻きを巻いた看守の男が制帽をきっちりと目深に被って立っている。何がどうしてこうなっているのか。混乱と憤りに任せて鎖を打ち鳴らしたケネデッタは、鉄格子の向こうから見下ろしてくる四人に感情のまま叫んだ。
「どうもこうも。ま、こういうわけだ」
短く笑ったネレオは襟巻きを取り去り首元を露わにした。
「それは…っ、勾留の…!」
ギルド職員ならば誰もが知る拘留者用の首輪を付けられた姿にケネデッタは息を呑む。黒金の遊撃隊はオリンドの暗殺を失敗り、しかもギルドの知るところになったのだとその首輪は告げていた。
「…こっ、の!役立たずども!あんなに息巻いてたくせに!そんな探査スキルしか使えない能無し一人も殺せないの!?」
「おお、怖怖。でもお生憎様。わたしらは協力と引き換えに国外追放で済むの。どう罵られようと安いもんよ」
同じく首元を隠していた布を取り払い首輪を見せつけて、腰に手を当てたテクラの見下す物言いにケネデッタは瞬時に頭へ血を上らせた。
「しかも私を売ったっての!?ふざけんじゃないわよ、矜持ってもんは無いわけ!?我が身可愛さに誰彼構わず尻尾振るなんて恥知らずもいいとこよ!」
「おいおい、他人に人殺しさせようとしといて何言ってんだ。我が身可愛さに自分の手を汚したくなかったんだろ?」
「矜持も恥もテメェを振り返ってから言えよな」
「全くだわこの臆病者の卑怯者」
しかし三人から畳み掛けられた言葉にぐうの音も出ずに押し黙る。
石材に囲まれた冷たい空間に沈黙が降り注いだ。
「…う…、ぁ、あの…」
ようやく周りが静まったことでオリンドは口を開くことができた。が。
「っひっ!」
ケネデッタに射殺す勢いで鋭い眼光を向けられ、蛇に睨まれた蛙よろしく竦み上がる。
それでもパオロに背中を宥めるように叩かれて、指をもじもじ絡め及び腰ながらも再び向き直った。
「ぅぁっ、ぁ、あのっ!…俺っ、な、なん、なんでっ、そ、んなっ、き、嫌われ…」
「黙んなさいよ!もうその喋り方からして嫌なのよ!」
しかし勇気を振り絞って出した問い掛けには噛み付くような言葉を返された。随分と理不尽な内容だ。
しん。と、オリンドのみならずネレオたちも開いた口を塞ぐことができず目を見開いてケネデッタを見詰める。
「ぶちぶち吃って気持ち悪い!少しは気にしたらどうなの!?何から何までだらしないのよ!猫背に内股でオマケにウジウジうじうじ指絡めて、苛つくったらありゃしない!あんたみたいな見窄らしいのがアレグ様の横に立たないでもらえる!?」
「ぁ、アレグ様…?」
称号ではなく名前に様を付けて呼ぶのかと、わずかな疑問を感じて呟いたオリンドだったが、口を挟む隙は無かった。一度叫んだことをきっかけに、彼女の中でずっと渦巻いていた身勝手な憎悪が濁流となって押し寄せる。
「しかもどんな手を使ったんだか知らないけど!クラッスラの最深部まで見通した!?よくもそんな大嘘吐けたもんだわ!そんなのどうせすぐバレるでしょうけど!?だからって、それまでクズ野郎がアレグ様の側に居るだなんて我慢ならないのよ!いい!?アレグ様に近付いていいのは有能で美しい人間だけなの!間違ってもあんたみたいな、使えない上に冴えない!汚らしくて卑しい人間じゃ無いのよ!今すぐ消えて!不愉快だわ!」
罵っているうちに自分の発する言葉で興奮が高まったケネデッタの声は次第に大きくなり、口角には泡が溜まり始めた。
「ほんっといいからもう、アレグ様の前から消えてよ!死んでよ!そうよ死ねばいい!騙してまで近付こうだなんて、詐欺じゃないの、この犯罪者!死ねこのクズ!死んで詫びろ!あんたみたいなお荷物、消えた方がアレグ様たちのためよ!無能のくせに図々しく居座ってんじゃないわよ、死ね!」
声を限りに叫んだが、これだけ言ってもオリンドが何も言い返してこないばかりか、眉を下げてちらちらと伺ってくるだけで大した反応もなく、立ち去りもしないことにも益々苛立ちを募らせる。
言い返す口も無いのか。どうしてこんな愚鈍な人間がアレグたちに迎え入れられたのか。
身を竦めて指をうじうじと絡め、まごつく姿がケネデッタの神経を逆撫でする。一言で言えば生理的な嫌悪だった。どうにかして排除したいと思考を煽る本能が頂点に達し、次々と口を衝く罵詈雑言は感情任せでとうに品も筋も失い語彙も狭まる。
すでに自分の一番叶えたい願いにばかり頭を占領されたケネデッタは、壁から伸びる鎖に繋がれた腕を限界まで鉄格子へ伸ばしオリンドに指を突き付け口の端に溜まった泡を吹き飛ばした。
「だいたい、そんな醜悪な見てくれでよくも隣に並べたものよね!?鏡見たこと無いわけ!?髭くらい剃ったらどうなのよ!?」
がちり。と、軋むほど鉄鎖を引き、初対面の折に抱いた激しい悪寒を煮詰めたものを目の前の気に食わない男に目一杯ぶつける。
痩せ細り縮こまった体躯は見るからに矮小で、長らく風呂も使えず皮脂で固まった髪は海藻のような、剃刀を当てる金も無いとわかるまばらな無精髭の、あの日のままのオリンドに。
「その形でよくもアレグ様に近付きやがって!迷惑なのよ!あんたなんか誰にも望まれちゃいないってこと、わかんないの!?」
手枷で肌が削れるのも構わず、立ち上がれない足で地団駄を踏む代わりに石畳へ拳を叩き付けた。その刹那。
「望んでるよ」
ずしり。と、一瞬の隙を突いて腹を殴り付ける静かな声が大きく響き渡った。
「…っ!?」
更に言い募ろうとしていたケネデッタだったが、その押さえ付けるでもない声色に強か気圧され息を呑む。
今の声はどこから、いや、誰が発したのか。咄嗟に探ったケネデッタは一歩前へ出た看守に目を見張った。
あの男が今の声を?いや、そんなわけは無い。
彼の着る看守服はグラプトベリア冒険者ギルドのものだ。であれば少なくとも彼女の知る限り、人を黙らせられる貫禄の声を持つ者は居ない。ならばあの男が発したものでは無いと断じたものの、しかし牢の中から見える範囲に精一杯目を凝らしても、それらしい人物は見当たらなかった。というより周囲は不思議なほど静かで、檻の前の五人以外には誰も居ないようだ。と、探る目の前でテクラが額に手を当て看守に困り顔を向けた。
「ああん、もう。ダメじゃない。まだ連中との繋がり、聞き出せてないのにい」
「……は…?」
ケネデッタは我が耳を疑った。今の言葉をテクラが発したとはどうにも思えなかったからだ。受付カウンターで聞く彼女はいつも気っ風がよく、こんな柔らかな話し方をしていたことは無い。
「いやしかし、正直俺も限界だったぞ。今のが無かったら俺が遮ってた。…おまえさん、よく堪えてるな」
オリンドの背を宥めるように撫でさすりつつパオロが憤りを含んだ、それでいてしっかりと腰の据わった声で労わる。
そんな声、あいつが出すわけ、無い。話し方だって、もっと、軽くて調子良くて…。
何か得体の知れない恐怖を感じたケネデッタは石畳の上を少しだけ後ろへにじった。
「ぇあ、お、俺?平気だよ。みんな居てくれてるもん」
ふへへ。無邪気に嬉しそうに笑うオリンドの顔は、少し赤みの差した頬もあいまって明るく朗らかだった。初めにこの顔を見ていたならば印象もかなり変わっていたことだろう。
などと考えかけてケネデッタは割れそうなほど奥歯を噛み締め振り切った。引けない。今更、後に引いて堪るか。
そう感じている時点で何もかも手遅れだということには気付きもしない。
「そんなに頼っていただけているだなんて、嬉しいですね。…しかし、本当に。むしろ私たちの方が参りそうですよ」
オリンドの被るフードに鼻先を埋めたネレオが、甘く蕩ける声で喜びを囁くに至って、ケネデッタは石壁に背をぶつけた。
「…はぁ!?…っな、…なにそれ!?なんの冗談よ!?あんたたち、どうしたってのよ!?」
どうかしている。こんな場所で、こんな場面で、どいつもこいつも、人が変わったみたいになって、そんな無能の、怖気の立つ男を持て囃して。まさか、こいつらも丸め込まれたっていうの?
「…っ!ざまぁ無いわね!あんたたちもそいつに絆されたってわけ!?人を誑かす才能だけはあるのね、最低!」
「絆されても誑かされても無えよ」
いい加減にしろ。と多分に込もった口調で、嘲笑いながら蔑みながら酷く顔を歪め悍ましいものを見る目付きをオリンドに向けるケネデッタを、看守は帽子と襟巻きの隙間から睨み返した。
それだけで喉が痙攣し、声が出なくなる。
「こいつには才能があるし、それに甘えないで努力もするし、素直だから吸収も早い。探査スキルの能力なんか桁違いだってのに胡座もかかないで、むしろ独学だったからって勉強し直してる」
彼の語るオリンドを讃えた言葉の数々に、そんなはずはない、あれは自分が認めた最低最悪の最底辺の人間だ、と、自尊心を引き裂かれ踏み躙られる思いを味わわされるが、しかし真っ直ぐ睨め付けてくる視線から目を逸らすことができない。そのせいで呼吸もままならないことに激しい苛立ちを覚えたケネデッタは割れそうなほど歯を食いしばる。押し寄せる負の感情に、なぜ看守がそこまで肩入れをしているのか、その不自然さにも気付かないままだった。
テクラたちと目配せをして、頷きを得た看守が襟元の布と帽子をかなぐり捨てるまでは。
「!!…っな、…なんっ…!?…っ、ぃ、い、嫌ぁあぁあああああ…!!」
帽子の下から現れたオレンジブラウンの髪を目にしたケネデッタは激しい居た堪れなさに悲鳴を上げた。
もはや何故とかどうしてなど疑問を浮かべることすらできない。
「嫌っ!嫌ぁああ!あ、アレグ様!?…ちがっ、違うの!違うの!これは!」
見られた。見られた見られた見られた。アレグ様にあんな醜い姿を。酷い。こんな恥辱感じたこと無い、こんな屈辱って無い。どうしよう、どうしたらいいの。こんなことになって、なんて言ったらいいの。
頭を振って必死に羞恥から逃れる術を探るその目の前で、パオロたちがそれぞれの手首から腕輪らしき装飾具を外した。
「ああ…、あ!」
看守に変装していたアレグはともかく、彼らの変貌ぶりはケネデッタの抱えられる範疇を超えていた。腕の辺りから霧の晴れるように元の姿に戻ったイドリックにウェンシェスラン、そしてエウフェリオを認識した途端、頭蓋を破裂させられそうな混乱に苛まれ、肌に血が滲むまで前頭部を掻き毟った。
「はああ…。あんた、よくもそこまで思い込みで他人を貶せるな」
パオロの顔を借りていたイドリックが溜息をひとつ溢し、我慢はここまでだと不機嫌を露わに声を地に這わせる。
「お、思い込み…!?違う!そいつは、探査スキルしか持ってないのに!」
「その探査スキルでクラッスラの最深部まで見通したこと、あんた散々に騙してるだの言ったじゃない。それが思い込みで無けりゃなんなの。リンちゃんはあたしらの前でスキル使って地図描いてくれたのよ?」
テクラの仮面を脱いだウェンシェスランが最早顔も見たくないといった表情で見下ろしてくる。
「それは…っ、で、でも、おかしいじゃない!何か裏があるのよ!」
「ありませんよ。純粋に彼の力です。カロンの執務室に居ながら、廃教会に潜む貴女の所持品も言い当てました」
ネレオの姿を解いたエウフェリオが背筋の凍りそうな冷たさで睨め付け断言する。
「は…、は?…こ、ここから?…エケベリアの…っ。う、嘘よ!嘘よそんなの!適当にそれっぽいこと並べたのがいくつか当たっただけでしょ!?」
「全部だ。全部、ひとつ残らず。食い物も酒も金も道具も武器も魔道具も、竜の仙骨も」
これまで見たこともない暗い顔をしてアレグは言った。暗鬱としたその声にケネデッタは弾かれたように身を強張らせた。
「あ…、そ、その…、ち、違う。…違うの…」
「なにがどう違うんだよ?」
「ちが…竜は、ぬ、盗もうと思ったわけじゃないの!そ、そいつ、そいつに、アレグ様たちを、これ以上、だま、騙させちゃいけないと、お、思ってっ!だからっ!アレグ様を助けなきゃいけないと思ったの!それだけなの!ちか、近くに居させちゃ、いけないって思っ…」
「あんた、まだ自分のことばかりなのか。アレグ様アレグ様言う割に、アルの気持ちは全く考えないんだな」
聞くに堪えない言い訳への苛立ちを鉄格子にぶつけ、イドリックは歯を剥いた。
きつく両拳を握り締めたウェンシェスランも憤懣やるかたないといった表情で口を開く。
「何が、盗もうと思ったわけじゃない、よ。アルちゃんが言いたいのは…」
「ほ、他に方法が無かったのよ!早く排除しなきゃって思ってたの!少なくともAかBランクには依頼しないと…そんなの私の稼ぎじゃ無理だから!でもアレグ様なら、私が正当な理由で動いてたって知ったら許してくれるはずだって思ったの!」
ゴガン!
腹に響く音を立てて鉄の棒が一本、曲がった。
俯いたアレグが反り返った格子から拳をゆっくりと戻す。
「…それで、俺が、仕留めた竜を、売った金で、オーリンを、殺そうとした。って?」
腑が煮え滾っていた。これほどの怒りや悔しさ、憤りや哀しみ憎しみを、アレグは生まれてこのかた味わったことが無い。
だというのに。
「……え…っ?そ…そう、よ?」
そう、言わなかった、かしら?
ケネデッタは呆けた顔でアレグを見上げた。根本的に、オリンドが彼らにとって大切な仲間であるという発想を持つことができないのだろう。何ひとつ理解できていない顔だった。
「無駄ですよアル。彼女の世界は彼女ひとりで完結しているのでしょう。どれほどリンドが我々にとって大切か説いたところで、貴方がどれだけ傷付いたか訴えたところで、何も響かないと思いますよ」
残念なことですが。と、何か酷く期待外れの物を見る目を向けられたケネデッタの頭に再び血が上る。
いや、上りかけた。
「…そうか。じゃあ、仕方ないか」
一転して物悲しい顔付きになったアレグから憐みの視線を浴びた瞬間、どくりと心臓が跳ね、全身の血の気が引いた。
「ま、…待って?…ちょっと、待って…よ」
わ、私。私、なにか、間違え…た?
嫌な予感がする。恐ろしい気配がする。抗うことのできない何かが身に迫っている。と、骨の髄から震える肩を掻き抱いた。
「ってかオーリンさ、いつまで腕輪してんだよ。久しぶりに飯いっぱい食えって言いたくなってきた」
「ふはっ!?…忘れてた!」
アレグに指摘されたオリンドが両手を軽く上げて驚き、エウフェリオたちが微笑ましく見やる光景が、すでに隔絶された世界のように思えた。
「ま…って。…待って…?」
嫌な予感がする。嫌な予感がする。嫌な予感がする。
背筋が熱くなり冷たい汗が流れた。
檻の向こうで腕輪を外したオリンドが見違えるほど明るく以前よりずっと頼もしい姿に変わる。何事か指摘されて照れ笑う顔は幸せそのものといった表情だ。
「待って…、待って!…待ちなさいよ!」
鎖を鳴らし、引き千切らんばかりに軋ませて、ケネデッタは追い縋った。
けれど、振り向きかけたオリンドの肩を抱き歩き去ったエウフェリオを皮切りに、もはや牢へ視線を向けもしない彼らは石壁に区切られた視界から一人また一人と消えていった。
「待って!アレグ様!…あ、貴方のためだったの!アレグ様のためを思って私は!」
最後に歩み去ろうとする背中に必死の形相でケネデッタは叫んだ。
すると、ほんの端の端で、その足が止まる。
次いでゆっくりとアレグは振り返った。
「ふうん。そっか」
その顔は薄く笑みを浮かべていて、一条の光明にも思えた。
「っそ、そうなの…!私、あの、おこがましいけど、アレグ様のこと、…アレグ様のこと、好きで…!この身を捧げてもいいと思ってるの!」
精一杯に身を捩り、儚く憂いを帯びた顔をして見せる。
相手はあの勇者だ。きっとこれで、気持ちをわかってくれるはず。万感の思いを込め、ケネデッタはアレグを見詰めた。
「そうか。…俺はおまえのこと、今日、大っ嫌いになったよ。こんな気持ち悪い感情を持ったの、生まれて初めてだ」
一度瞬いた彼は今にも泣き出しそうな恨みの表情を刷いて吐き捨てると、足音高く踵を返し、階段に繋がる扉を乱暴に閉じて駆け上がっていった。
静まり返った石牢にどこか遠く水滴の落ちる音が響く。
ケネデッタの絞首刑が決定した瞬間だった。
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