31センチの幸せ

Jun Sakurai

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31センチの幸せ

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 今朝、ヒロトのマスクにヒゲを描いてやった。そのことに気づかないで着けて家から出て行ったのを、私は微笑ましく見送った。
 帽子のゴムをブラブラさせて、髪をサラサラなびかせて、目をキラキラさせているヒロト。すっかり私を虜にしている。
 あまりにも素敵すぎたから、ちょっと面白い部分がないと、そのままどこか遠くに行っちゃう気がして、いたずらしたけど、いつ気づくのやら。きっと、学校でふとトイレに行ったときとかに「なんやねんこれ!」とか叫んで、家に帰ったら「もう、ほんまにふざけんなや!」とか言ってくるんだろう。学校が再開するまで、私たちは、ずっと二人きりで家で過ごしてきたけど、そんな時間が笑顔も淀みがないものにしてくれたし、不安は色んなところでモヤモヤと居座っているけど、こんな感じでお互いにちょっかいを出し合ったりして、ふざけ合いながら紡いでく、本当に些細なことだけど、私たちにとっては大切な日常風景。アホやなほんと、って思うことばかりだけど、私はそれで満足している。
 ヒロトの髪は、腰まで伸びた。その髪は誇らしくてたまらない。心ない言葉を投げかけられたときもあったかもしれないけど、諦めないで一つのことを一心にやり抜いてくれたって思える。毎日、私がヒロトの髪をドライヤーで乾かすたび、シャンプーの淡い匂いと一緒に、私に幸福感を運んでくれていた。
 でも、もう今夜は、そんな気持ちを味わえなくなる。寂しいような、嬉しいような。なんだか振り子みたいに気持ちが、ぶらんぶらんとしている。
 ヒロトが学校へ行く前の朝
「早よせえへんと、早よせえへんと。あんた遅刻するで。今日は忙しいんやから、早よしい」
 とか言って急かしていたんやけど、彼は、ゴロリとベッドの上で転がって、朝、食べたパンをもぐもぐしながら、半分ふざけて、半分怒ったような口調で
「早よせえへんとはあんたや。もう、うっさいわ。俺はこの感覚をもう少し味わっておきたいねん」
 って言いながら、布団に髪をまとわりつかせたり、思いっきりぶちまけてみたり、手に余るほど長さの髪と戯れ続けていた。
「今日はちゃんと早上がりするんやから、あんたも寄り道せんと帰ってきいな」
「わかっとるわ。そんなんこっちのセリフじゃ」
 他愛のない朝のやりとりを恋しく思い返して、ヒロトを送り出した今、静かになった部屋でコーヒーを啜る。
 部屋全体をふと見渡しながら、ふとため息をつく。
 彼のいないこの部屋は、切なさと甘さが混じり合う香りがする。生活感に満ちた小さな部屋は、整理整頓もできていないし、物に溢れている。
 この部屋を汚いっていう人もいるかもしれないけど、これでも、私は一生懸命やっている。他の人の価値観と比べたらいけない。比べる必要もない。私とヒロトの関係は、世間一般の普通の人たちとは違うものなんだから。
「そろそろ、仕事の準備せなあかんな」
 とか少し調子づいて独り言。身支度を手短にすまして、化粧も最低限だけ施す。人前に出るためのエチケット程度に。そして、私も外へ出る前にマスクをする。これもエチケット。
 外へ出ると、湿った風が吹き抜けていった。
 駅まで歩いて、混雑した電車に乗り込み、職場に向かっていく。
 仕事場へ行くまでにすれ違う人たちは、口を半分に覆って誰もが無個性に見えるけど、みんな色んな思いを抱えて、生きているんだと思うようになってから、なんだか愛おしく映ることすらある。
 そんな気持ちになれるのも、たぶん、ヒロトと出会って色んなことを乗り越えていったからなのかもしれない。
「椎名さん、おはよう」
「おはようございます」
「今日は、お昼の二時で仕事上がんのやろ」
「はい。そうです。すみません、忙しいときに」
「ええねん、ええねん。気にせんとって。そんなことより、今日は大事な日なんやから、仕事であんまり気張り過ぎたらあかんで」
「何言うているんですか。仕事もちゃんと頑張らせてもらいますよ」
 オフィスに入ってきた私に、ぽっちゃりとした体を揺らしながら、上司の門倉さんが駆け寄ってくれた。柔らかな眼差しで私を見つめてくれる門倉さんを始め、一緒に働いている方々は、今日は何があるかは知っている。
 それから、あいつのことも知っている。あいつと出会ったのもこの職場だったんだから。
 出会った頃のことは、昨日のように覚えているけど、そのときから、昨日のことすら思い出せないような怒涛の日々が始まった。
 本社の東京から異動してきたあいつは、とても感じがいいような気がした。物腰柔らかくて、頼もしい部分もあって、なんだか高校の頃に亡くなった父に似た雰囲気を持った人だった。
 事務処理をするデスクがすぐそばだったから、あいつがたわいない挨拶をしてきたのが始まりだった。
「守原です。色々教えてください。ほんま、ここでの仕事早う慣れたいって思ってるんで」
「椎名です。私、まだ二年目ですから、ちゃんと教えられる立場じゃないんですけど、よろしくお願いします」
「じゃあ、お互いここでは新米同士みたいなもんやないですか。頑張っていきましょう」
「そういえば、東京におったんやないんですか? 関西弁なんですね」
「もともと、こっちの方なんです。だから東京で長い期間過ごしても、全然抜けへんかったんです」
「やっぱ、そういうもんなんですか」
「まあ、個人差はあるでしょうけどね」
 私とあいつは会社の飲み会や、仕事のサポートなんかを経て、忙しい時期を乗り切っていき、急速に仲を深めていった。
「俺には、前妻との間に子供がいるねん。まだ小さいねんけど」
 初めて二人だけで食事に行ったとき、あいつはそう告白した。
「そうなんですか。今度会ってみたいです」
 あいつが、私に対して誠意を伝えてくれているようでなんだか嬉しかった。
 これがヒロトとの出会いまでの道のり。あいつとの出会いは運命ではなくて、宿命を背負わされるきっかけでしかなかったんだと思う。
 気づけば、街路樹の葉たちは、いつの間にか芽生えを経て、新緑の輝きを失いながら、茶色く色づき始めていた。
「結構人見知りでおとなしいから、素っ気ない態度をとるかもしれんけど、そしたら堪忍な」
「私も人見知りやから、全然気にしませんよ」
「ハハッ。大人は人見知りって言わへんよ。人見知りって子供だけに使う言葉やで。それ言うんやったら内気とか、恥ずかしがり屋とかやろ。てか自分、全然そんな感じちゃうやん」
「人によるんです。会って見いへんとわからんから、早う会いたいです」
 最初のデートは、二人きりじゃなかった。あいつが当時住んでいた家のそばにある公園で、ピクニックみたいなことをしたけど、決して楽しいものじゃなくて、とても気疲れしただけだった。
「ごめん、ごめん。こいつがもたもたしとって、ほんとにもう。なあ、ヒロト。挨拶せえ」
 家族連れやカップルでごった返す休日の駅で待ち合わせ。駅からでてくる人の波をいくつも見送ってうんざりしていた私は、見慣れた姿を見つけたとき、ほっとしたと同時に緊張感を漂わせていた。
 歩いてくるあいつに隠れているようにして、前を覗き見ながらバタバタとおぼづかない足取りをしていた。
 あいつと私が向き合ってもなお、あいつの影からなかなか出てこようとしない。
「ええ加減にせい。仲ようするって約束したやんけ」
 あいつは初めて私の前で声を荒げた。
「ええですよ。少しずつ慣れていけばええから。椎名和那です。し、い、な、か、ず、な。まあ、なんて呼んでもらってもええで」
 そっと前へ出てくる小さな体は、聞いていた五歳という年齢よりも幼く見えた。
「お、おばちゃん」
「おばちゃんは無いやろ。まだこの人二十五になったばかりやで。せめてお姉ちゃんやろ」
 おばちゃんと言われても、傷つくほど歳をいっていなかった私は、心の芯から微笑んで
「ええですよ。そやな。ヒロトくんから見たら、大人の女の人はみんなおばちゃんに見えるやろうな」
 ぎこちない距離感を互いに無理に縮めることなく、自然な流れに任せるつもりでいたが、想像以上に上手くいかなかった。
 芝生の上に布を敷き、絵に描いたようなピクニックを始めたが、ヒロトは常にソワソワしていて落ち着かない。
 気合いを入れて、朝早起きしてお弁当を作ったのだが、ヒロトは見向きもしなかった。
「ゆっくり座って食べえや」
「ヒロトくんの嫌いなものばかりだったかな」
 ヒロトに向かって、きつい言葉を飛ばすあいつを、フォローするように私は柔らかい言葉を心がけた。
 あいつは、長身で色黒で目鼻立ちがはっきりしていたが、ヒロトは、肌の色素が薄くすっきりとした目元で体も小さい。親子だというけど対照的な姿をしていてヒロトからあいつの面影を感じない。
 どちらにも属さないような私は、外から見たら、私はどんな立場の人間に見えていたんだろう。そんなことを気にしながら過ごしていた。
 そうして、ヒロトは私が作ってきたものにほとんど口をつけず、私と別れてから、帰りに寄った喫茶店でパフェを二つ平らげていたらしい。
 最初の頃は、あいつとヒロトと過ごす時間はとことん疲れたし、がっかりすることの連続だった。
 まともに私に視線を合わせてくれず、どこか嫌悪感を抱いていたようで、私も私で、子供とどれぐらいの距離で接すればいいのかわからず、気長に構えているつもりでも、焦りが出てくる。
 二度目に会ったときは、あいつとヒロトが住むマンションに招かれたけれど、子供がいるにも関わらず、やけに片付いていて、生活感はなく、清潔感があり過ぎて不気味さを覚えるような部屋だった。
 真ん中に置かれたテーブルからヒロトは喋ることも動くことなく、あいつのスマホをいじり続けていた。
「こうしてたら、大人しくしてるねん。子供やし、何もわからんと触っているだけやろ。ほら、ちゃんとしつけられてるやろ、俺」
 そんな言葉は体を通り抜けていくだけで、何も気に留めず、私はヒロトに少しでも好かれなきゃ、と思って横から顔を覗き込んで話しかけてみる。
「何観てるん?」
「……」
「好きな食べ物とか検索してみ?」
「……」
 スマホの画面には、アニメの映像が流れている。私はそうした分野に疎い。
「朝とかにやってるアニメとか観てるん?」
「……」
「……」
「……」
 会話が成立しない。というか会話が始まろうともしない。完全に殻にこもって、自分の世界に一歩でも踏み込もうとさせないヒロトのあからさまな態度に私は困惑した。
 あいつと過ごすことに逃げようと考えても、なぜか気になって仕方ない。いったい私は何をしにきたのだろう、と考え込んでしまう。
 私が幼少期から青春時代まで過ごした実家は、お世辞にも綺麗に物が片付いているというわけではなかった。すぐ上に兄がいて、すぐ下に弟がいて、毎日戦争が起こったかのような家の中だったから、不純物を全て取り除いたような整いすぎた綺麗な部屋では、落ち着かなく感じてしまうのかもしれない。
「ねえ、どうしてこんなに部屋が綺麗なんですか? ヒロトくんだってヤンチャ盛りやないの?」
「だから、きっちりしつけているからに決まってるやん。俺、あんま物も置きたくないし、子供のもので溢れていたりするのも落ち着かんねん」
「いつもあんなにおとなしいん」
「そやな。前妻の方には懐いていたけど、俺の前では結構あんなんやな。まあ、全部、俺が悪いわけやなくて、相手が浮気したから悪いんやけど」
 ヒロトがそばにいるのに、あいつは平然と話す。その感覚がわからなかった。
 なのに、あいつのことが気になる心が勝って、めげずに三人で会う機会を何度も作ってしまっていた。
 私は、ヒロトと出会う機会があるたびに、少しでも気に入ってもらおうと思って、プレゼントを買ってきたり、手料理を振る舞って見たりしたが、全く効果がなかった。
 あいつに職場でこっそりと「ヒロトくんは何が好きなん?」とか「好きなキャラクターとかおるん?」って聞いてみても、「そんなん知らん」とか「別に好き嫌いもないからな」とか親とは思えないぐらいに、ヒロトのことを把握していなかった。
 今思えば、あいつは子供への愛とか、優しさとか、そういった類のものを持ち合わせていなかったのかもしれない。ただ、親権を手に入れたから、手元に置いているぐらいの感じで、まるで部屋のオブジェとかと同じ感覚だったのかもしれない。
 当時の私は、そんなことに気づかなかった。いや、気づいていたのかもしれないけど、見て見ぬ振りをして、あいつと一緒になろう、っていうことに躍起になっていただけかもしれない。
 学生時代の友人たちの結婚ラッシュや周囲とか社会への見る目を気にしすぎて、「結婚」という表面的でわかりやすい幸せの形が輝いて見えていた。
 幼くて、拙くて、アホらしくて、堪らない。
 幸せなんていうものは、なるものじゃなくて、感じるものなんだって気付けなかった過去の私。
 でも、悔やんでも仕方がない。そんな過去があったからこそ、今の私もヒロトもいる。結果オーライなのかもしれないと前を向いていける私になれたんだから。
 仕事に対してはもちろん一生懸命だけど、頭の中で過去を巡らせながら、午前の業務を終えてしまった。だからといっていい加減な仕事をしているわけじゃない。
 以前、私が空けてしまった穴を全力でフォローしてくれて、たくさん迷惑をかけたのに、職場に残してくれた人々のために、短い時間でもしっかり働くつもりなのだから。
 十二時になった途端、朝のときと同じようにぽっちゃりとした体を揺らしながら、上司の門倉さんが駆け寄ってくれた。
「なあ、お昼行ってきいや」
「えっ。私、二時上がりですよ」
「ええねん、ええねん。帰ってからもすぐにご飯食べれたりできへんやろ。それに、みんなお昼ご飯食べる時間なんやから、椎名さんだけカリカリ仕事させておくのは気が引けんねん」
「すみません。気つかってもらって」
「ええねん、ええねん。気にしんどきや。いつもちゃんと働いてくれてるの知ってるから」
 門倉さんは優しい。そして、本当の意味で気遣ってくれる。そんな人ばかりならいいんだけど。
 簡単に食べられる昼食を買いに職場のビルにあるコンビニへ向かっていたとき、後ろから甲高い声が聞こえた。
「椎名さん、椎名さん! 今日早上がりなんやろ」
「はい。そうなんです」
 瀬川さんだ。私はこの人が苦手だ。
「もう体大丈夫なん? ヒロトくんもあんたのために髪伸ばしてたんやろ。よう頑張っとるわ。守原くんがおらんなってからもようやってると思って感心してんねん。いつでも、何かあったら声かけてな」
 この人も優しい。でも、デリカシーもなく、人の心を優しい顔でえぐってくる。
 小柄で、おたふくみたいな顔立ちで、目の奥が覗き込めない四十代のこの女性は、私の顔を覗き込むように見つめてくる。
「色々、ご心配をおかけして申し訳ありません」
 とりあえず、瀬川さんから最短で抜け出すためにこの場で謝意を示す。
「そんなこといいねん。私もね。ずっとシングルマザーで頑張ってきたやん……」
 このまま、ペースに飲まれて休憩時間に瀬川さんの話に付き合いたくない。
「ははい、そうですよね」
 私がタイミングの悪い相槌を打ち始めた途端、タイミングよく私のスマホが鳴り響いた。
「すみません。電話がかかってきちゃって」
 一礼して、その場を離れる。助かった、と思ったと同時に、なぜか、あいつがいなくなった日を思い出した。あのときも同じように、お昼休憩中、急に私のスマホが鳴り響いた。
「なあ、おばちゃん。お父さんおらんねんけど」
 あいつの名前が表示された着信。でも、その声はヒロトの声だった。
 ひょっとして、あの電話は初めてヒロトから私に話しかけてきてくれた瞬間だったのかもしれない。
 あいつとは、一年の付き合いを経て、結婚した。
 結婚してからもあいつは優しかったけど、あいつの優しさも何だか違った。確かに、私には優しかったけれど、ヒロトへの優しさは偏ったものだった。
 自己表現の仕方がままならなかった人見知りのヒロトは、まるで、あいつの言いなりのロボットみたいに動いているだけで、感情を失われているようだった。ちょっとしたことで私がヒロトを褒めても
「いちいち当たり前のことを言わなくてもいいんやって。なあ、ヒロト? お前はようわかっているもんな」
 直ぐに横槍を入れて私とヒロトの間に入ってくる。ヒロトは無表情のまま。
 あいつは、合言葉のようにこう続けていた。
「健康やったらそれでええ。俺のいうことを聞いていればそれでええ。なんも不自由はさせへんからな」
 ヒロトは手を煩わせることもなかったが、自分から何かを言うこともない。私は、三人でいるときは、それを黙って見つめているだけの存在と化していた。
 保育園へ送り迎えをしていても、先生たちは声を揃えて
「ヒロトくんは大人しいけど、ちゃんと言うことを聞いてくれていい子です」
 と言ってもらえる。そんな言葉に安堵というよりも、どこか不安感を覚えていたから、外では無理やりにでも公園に連れ出して、子供らしく元気よく遊ばせようと試みた。
「なあ、ヒロト。鉄棒できる? やってみようや」
「……」
 反応がないのは相変わらず。
「私はできるで。ちょっと見て見て」
 子供用の鉄棒で、前まわりをしようと手をかけた瞬間、急に頭がふらっとした。
 そのまま鉄棒の前で、ぐったりうなだれてしまった。
「……大丈夫? おばちゃん」
 ヒロトは、心配そうに私の顔を覗き込んでくれた。その瞳は澄みきっていて眩しかった。
「大丈夫や、大丈夫。ありがとな。心配してくれて」
 私は、ヒロトの秘めた優しさが滲み出てきたことに喜んだ。
 私を頼ってくることはほとんどない。同じ年齢の子供たちよりも、自分でできることは多いけど、二人だけの時間になったときには、ちょっとした些細なことでも、ヒロトに感謝の気持ちを伝えるようにしていた。
「ありがとな」「ほんまありがとう」そんな日々を積み重ねていた日々を過ごしていたある日、私は定期検診で引っかかった。当時はまだ二十七歳で、体の変調があったわけではない。
「なんや、心配いらへんって。いちいち気にすんなや」
 あいつは、そう言ったけど、私は念のため再検査を受けに大きな病院で精密検査をすることにした。あいつにそのことを話したら
「そやな。一応、形だけでもやっといたほうがええからな。ついて行ってやるで」
 頼りがいのある雰囲気を醸し出して、あいつは私を抱き寄せたけど、そのときも、ヒロトは離れた場所であいつのスマホをいじっていた。
 それがあいつが、私に対して見せた最後の本当に優しい姿だった。
 聞きたくない検査結果が出て、医師の言っていた通りの症状が私を苦しめたが、通院しながらなんとか仕事を続けていたけれど、あいつは、どんどん心の距離を置くようになっていた。
「なあ、おまえ、入院せんでええんか?」
 あいつが、帰宅してきた私がうずくまっている姿を見て声をかけてきた。
「大丈夫やで。今は、体に合った薬を探しながら、日常生活を続けていきましょ、って先生も言ってくれてたし」
「でもな。そんなちょいちょいしんどそうな感じ出されると、こっちも滅入りそうや。入院してようなるんやったら、その方がお互いのためちゃうん?」
「でも、ヒロトもおるやん。ちゃんと両親がおる状態で寂しないように過ごさせてあげたいやん……」
「ヒロトは、しっかりしてるからええやん! ヒロトのことは今、どうでもええ。お前の体の方が大事やろ」
「私の方が大事? ヒロトも大事や。違う。ヒロトの方が大事や。当たり前やろ」
「んたく、ほんまうっさいわ。腹立つ」
 言い争いが夜になって増えた。ヒロトは聞いていないふりをする。そのときも直ぐにヒロトを抱きしめに行きたかったけど、体がいうことをきかなかった。
 私の体は徐々に悪化し、頻繁に熱を出して、仕事にも穴を空けること多くなっていった。
 それでも、あいつは仕事を優先し、虚しさすら感じる優しい言葉を繰り返した。だけど、ヒロトは違った。
「ええよ。私やるから。手伝おうとしてくれてありがとな」
 私は熱があって、送り迎えが出来ずにヒロトと二人で過ごしていた平日の午後。ヒロトは、幼い体で台所に立っていた。
「さっきも洗濯物取り込んでくれたやん。私が作るから。な?」
 ヒロトは、私の言葉に耳を傾けることなく、黙々と調理を続ける。出会った頃よりも、背も高くなっていて、その姿には頼もしさすら感じる。弱った体が、その姿に甘えそうになる。
「ありがとうな。ごめんな」
 しばらくすると、ヒロトがお盆にお粥を載せて持ってきた。
「ヒロト。すごいな。作り方どこで覚えたん?」
 ヒロトは少しはにかみながら
「ネットで見た……。でも、シャバシャバになってもうたかも」
 もう、私の視界は潤んで何も見えなくなっていた。
「ありがとな。私、こんなんなって、ごめんな」
 ヒロトが用意してくれたスプーンを使って、お粥を口に含む。
 味はなくて、たしかにシャバシャバなお粥だった。でも、今まで食べてきた何よりも、心があったかくなった。
「おいしいで、あったかくなるで、ありがと、ほんまありがとう」
 何も言わないヒロトを抱きしめた。抱きしめたとき、涙でよく見えなかったけど、一瞬、表情が綻んでいたような気がした。
 私の心を支えてくれたのは、ヒロトだった。私の中で、あいつの存在感が日に日に薄まっていく。
 体調が良くなったある朝、私は仕事へ向かう準備をしていた。
「ヒロトの送り迎え頼むわ。今日、有休とったんやろ。任せたで」
「あ、うん」
 あいつは歯切れが悪い返事をした。
「そういえば、なんで、今日有休とったん?」
「え、あ、お前もそんな体やし、色々、準備しようかと思ってん」
「準備? なんの準備?」
 あいつは、はぐらかすように笑って「まあ、まあ、ええやん」といって、私を玄関の方へ促す。ヒロトは相変わらず、おとなしく部屋にいた。
「じゃあ、気をつけて行ってき」
 どこの家庭でもあるような、家族が家族を見送る姿。でも、あいつが見送る笑顔は、なぜか出会ったとき以上に素敵に見えた。
 それから、あいつの姿は見ていない。会社にも、実家にも、私にも、誰も知らせず、あいつはいなくなった。
 ヒロトからの電話があり、間もなく家に戻ったら、隅の部屋でヒロトがあいつのスマホをいじっていた。
「カズナ、元気か? 母さんや。仕事中か? ごめんな急に電話して」
「ええで別に、ちょうど昼食の時間や。どうしたん?」
「いや、ちょっと、ヒロトの髪。今日切るって言ってたから気になってん」
「そやったら、母さんも来ればええやん」
「んなん言ったって、今、こういう時期やん。あんまり人が多いところ行くのは気が引けんねん」
「そうやな。色々、気遣ってくれてありがとな」
 母さんからは最近、頻繁に電話がかかってくる。あいつがいなくなってから、支えてくれたのは母さんだ。それに、瀬川さんに話しかけられたタイミングで電話をしてきてくれて、本当に助かった。
 私が入院した時期も、ヒロトを預かってくれたのは母さんだったし、家で過ごす時間が増えて、ヒロトが小学校に行けず、私もリモートワークになって、二人だけの時間が増えすぎて、外との交流が途切れそうなときも、テレビ電話で気を紛らわせてくれた。
 母さんとの電話を終え、コンビニで余った親子丼を食べる。最近のコンビニ弁当も馬鹿にはできない。
 卵と鶏肉が互いの良さを出し合って、相性よく口の中で味を広がっていく。まるで互いを分かり合っているみたいだ。
 私と母さん、ヒロトと私、お互いを分かり合うには時間がかかった。きっとコンビニで売られている親子丼も、試行錯誤の上で、昔よりも良いクオリティのものになっているのかもしれない。
 母さんも最初は、ヒロトをいいように思っていなかったのだから。いいや、むしろ、あいつと一緒になること自体いいように思っていなかったのだから。
「父ちゃんとうちは歳が近くて、初婚やったから上手くいっていたんや。十歳も年齢が離れていて、相手はバツイチで、子供もおるんやろ。そんなん絶対上手くいかん」
 あいつと私の実家に挨拶へ行ったとき、母さんと私が二人きりになった瞬間。耳元でそう囁いた。
「なんでそんなこと言うねん。母さんやって、娘が結婚して幸せになるのは嬉しいやろ。今は、バツイチの人やっていっぱいおるし、連れ子なんて仰山おる。昔の考えで、そんなこと言わんとってや」
「それに結婚式をする気もないってどういうことや。そりゃあ、子供でこれから金もかかるのはわかるで。でも、あんたは初婚やろ。ウェディングドレス着たくないんかいな」
「そやから、母さんの価値観だけで、ああやこうやいうのはやめてや。ほんまに腹立つわ」
 このやりとりを、あいつは隠れて聞いていたのだろうか。あいつと結婚してから、私の実家から私を遠ざけるようになっていた。
「俺らは俺らでやっていこうや。他の誰にも頼る必要なんてないで。お前の実家にも迷惑かけたくないしな。そやからちゃんと貯金して、三人でちゃんと暮らしていけるように頑張っていこうな」
 あいつは婚姻届を出した翌日にそう言った。そうして二人で貯めていたお金は、あいつがいなくなって、全てなくなっていた。
「母さん。あんな……」
 捜索願を出し、会社に報告し、早送りのように時間が流れていく中で、いつの間にか母さんに助けを求めていた。
「そうか……。辛かったな……。わかるで……」
 冷蔵庫にもたれかかって、泣きながら途中で何を話しているのか自分でもわからなくなっている話を、ただただ聞いてくれていた。
 母さんは優しかった。余計なことは聞かず、初めて聞いたであろう病気の話も、冷静に、それでいて冷たく突き放すことなく、ただただ受け止めてくれていた。
 私は、母さんとヒロトと一緒に改めて病院へ行った。ヒロトはもちろんのこと、母さんもどこかヒロトを警戒したような眼差しで見つめ、ほとんど言葉を交わすことはなかった。
「あの子。全然、愛想もないなあ。いつもあんなんなん」
 待合室で、スマホに夢中になるヒロトに聞こえないように母は呟く。
「うん。私ともそんなに会話はせえへんねん。でも、優しい子やから心配せんで」
 私が自信を持ってそう答えると、私の名前が呼ばれた。
「やはり、今までの薬の効きが悪いですね。やはり入院して、本格的に薬の投与を増やして、治療方針を変えていきましょう」
「そうなると、やっぱり娘は……」
 ドラマで見たような展開。担当医師は、冷静に話し、家族は本人以上に動揺した姿を見せる。ヒロトも黙ってその行方を見つめている。
 あいつが、最初に一人で私の病気について説明を聞いたとき、どんな表情をしたのかと想像する。
 あいつには、抱えきれなかったのかもしれない。でも、私は抱え込むしかなかった。
「いいですか、お母様。この病気は、昔のように不治の病ではありません。それぞれにあった治療法を施せば、治る見込みは充分あるのです。私も最善を尽くしますし、娘さんも頑張ってくださっている。だから、お母様もできるだけご協力いただくようお願いします」
 ヒロトが、小学校へ入学する準備もあったし、治療費もこれまで以上にかかってくる。母さんは、その医師の言葉を聞き、初めて現実としてして受け止めたようだった。
「もっと早く……もっと早く言って欲しかったわ……」
 診察室から出ると、母は、ぼそりとこぼした。
「ご迷惑をおかけします。私のことも、ヒロトのことも……」
 私はそれ以上、何も言えなくなっていた。そのまま黙って歩いていき、病院を出たところで母さんは堪らず、叫ぶように言った。
「迷惑かけてええねん、あんたは。うちの子やろ。この子のことも一生懸命考えてる。あいつとも一生懸命夫婦になろうとした。よう頑張っているねん。でも、頑張りすぎんなや。うちがおるやろ。なんやねん……なんやねん……」
 母さんは泣いていた。声をあげて泣いていた。私も涙をこぼしていた。もう泣けないぐらい泣いたと思っていたけど、涙は枯れていなかった。
 ヒロトは、泣いている母さんの手を握った。
「カ、カズナと僕を……宜しくお願いします」
 たどたどしくも、力強いヒロトの声が、母さんの覚悟を固めたのだと、私は後に知ることになった。
「椎名さん、もし残っている分があったら、明日に回してええで。今日も頑張ってくれてありがとな」
「ありがとうございます。一応、キリがいいところまでやっておきます」
「ええねん、ええねん。いつも、椎名さんはきっちり就業時間中にきーっちりやってくれるやん」
「ありがとうございます。それでは失礼します」
 時刻が午後二時を指した瞬間、ぽっちゃりとした体を揺らしながら、上司の門倉さんがまた駆け寄ってくれた。
 席は遠い場所にあるけれど、周囲への気配りは頭が下がる。私が入院していた頃に、気にして一度連絡をくれたことをふと思い出す。
「もしもし、椎名さん。元気か」
「はい、すみません。どうしました」
「元気か、って聞くのは変やったな。いきなり電話して、悪いな。昨日、お母さんが職場に来てくれてな、菓子折持って。そんときにも、一応お礼言うたんやけど、椎名さんにもお礼を言うとこう、って思うて」
「なんで私にですか? 私は迷惑かけているのに」
「それがな、お母さんが言うててん。『職場の人たちに迷惑かけてる、って娘が言うとる』ってな。そやから、直接伝えとこう思ったんや。今、大変な状況やのに、職場のことまで心配してくれてありがとな、って」
「門倉さん……」
「仕事のことなんて、仕事に戻ってきてから考えればええねん。色々心配なことあって、仕事で不安なこともあるやろうから、俺がそんなこと言っても意味ないかもしれんけど、一応、椎名さんには伝えとこう思ってん。入院のときもバタバタしてちゃんと話せてへんかったからな。それだけや。もう、切るで。病院で長電話もあかんやろ。また、仕事に戻ってから色々話そうや」
「ありがとうございます」
「椎名さんはええな。いつも、ありがとうございます、って返してくれる。嬉しいで、ほなな」
「はい。失礼します」
 ちょうど私はその日、体調が良くて、門倉さんの言葉がスッと入ってきたような気がした。本当にここまでタイミングを心得ているなんて。
 門倉さんの電話の後、母さんにテレビ電話をすることにした。
「あっ、母さん。今、大丈夫?」
「どうしたん? 急に」
「えっと、今日体調がええから、テレビ電話しようと思ってん」
「そうか」
「あっ、職場に挨拶してくれたんやな。悪いな、ありがとな」
「まあ、あんたがお世話になっている職場やからな。話してくれた、あの……なんやってけな、門倉さんや。門倉さんはええ人やな」
「ええ人や。さっきちょっと電話で話したわ」
 そんな話をしていると、ひょっこりと小さな顔が見えた。ここ最近、お見舞いに来てくれたけど、病室から出れないほどに体調が悪かったから会えなかったヒロトだった。相変わらず、ヒロトは言葉を積極的に発する様子はなかった。
「ああ、ヒロト。元気してる。ばあちゃんの家はどうや? 慣れたんかな?」
「ヒロトちゃんはいい子にしてるで」
 母さんが言葉を添えるようにしているが、ヒロトの様子はいつもと違う気がした。
「どうしたん、ヒロト? なんかあったん」
 スマホを受け取ったヒロトは、何か言いにくそうにしながら、口をもぞもぞしている。
 私は何も言わずに、微笑んであげた。この笑顔がどのように見えているのか画面の小窓を確認する。大丈夫。ちゃんと笑えている、と思ったら、ヒロトがようやく口を開いた。
「髪。カズナの髪」
 歪みそうな笑顔を少し画面から逸らして、ヒロトに説明する。
「そうなんよ。髪ないやろ。お薬の副作用でこんなんなってもうた。なんかおもろいやろ。一休さん見たいやろ」
 人差し指で頭をくるくるとして、おどけてみたけど、ヒロトの顔は真剣だった。その真剣な姿を見ていると、つい、本音がこぼれた。
「髪がもっとあったらええんやけどな。そしたらもっと元気出るんやろうけどな」
 涙がこみ上げてきそうだったけれど、私はぐっと堪えていた。
 ヒロトは、まるで何かを理解したように深く頷いた。
「わかった」
 ヒロトはその言葉だけ残して、母さんにスマホを渡した。
「ごめんな。ヒロトを宜しくな。ありがとう」
 湧き上がってきたものを耐えられず、母さんの顔を見た途端、熱いものが頬を伝った。
「辛いよな、いつでもテレビ電話してき。もう、うちもテレビ電話に慣れてきたから、ちょこちょこ使わんようにせんと使い方忘れてしまいそうやからな」
「うん、ありがとう。じゃあ切るわ」
 スマホを床頭台に起き、枕に顔を埋めた。
 枕を濡らすことはしょっちゅうだ。流す涙の意味はそのときそのときで変わるけど、あの涙は、ヒロトのために絶対に、絶対に元気になるぞ、という決意の涙だったと断言できる。
 思い返すと、ヒロトはあのときからもう動き始めようとしていたのかもしれない。
「わかった」
 あの言葉に繋がる今がこれから実現する。
「ありがとうね、ヒロト。早く帰るね」
 私は、会社を出て帰路を急いだ。
「ただいま、ヒロト」
「カズナ、おかえり」
「ちゃんと帰ってきたんやな。学校どうやった? あっ、もう準備できとるん?」
「いっぺんに聞くなや。まあまあやったな。そんでもってまあまあやわ。てか、マスクに髭みたいなの描くなや。ほんまふざけとるわ」
「かわいいかったやろ。結構気に入ったんちゃうん」
「髪も長くて、髭生えて、かわええな、って誰が言うねん。別でマスク持っててほんまよかったわ」
「なんや用意がええな。ヒロトはハンサムやし、無敵やな」
「顔はまあまあやけどな、まあまあ」
「なんやねん、まあまあ、ってまあええわ。まあまあでまあええわ」
「何回、『ま』と『あ』繰り返すねん」
「ああ、ええ、ああ、ええ」
「もうええわ。ってか『ま』はどこ行ってん」
 ヒロトは、今日も笑ってくれている。ふざけているけど、ちゃんとランドセルを置いて、宿題も済ませているようだ。
「十五時半に予約してんやから、早よ準備しよ」
 私は、そういえばいつからヒロトと漫才みたいなかけ合いを出来るようになったのか、すぐに思い出せない。
 退院したときは、まだ、私の前でも人見知りなヒロトのままだった。だけど、あの離れていた時間が、私とヒロトの距離感を確実に変えていた。
「カズナ、退院おめでと。迎えにきたで」
 二十九日間の病院生活を終えて、私は退院した。母さんが病室まで迎えにきてくれていた。
「病院の前で、ヒロトも待ってるで」
 病気と真正面から戦った日々は、重くて長かった。いくつもの検査、治療、薬の副作用の苦しみ、苦しかったことを挙げればキリがない。
 それでもめげずにいられたのは、母さんの支えや門倉さんの言葉、何よりヒロトの存在があったからだと思う。
「来月から小学校やもんな。入学式までに間に合ってほんまよかったわ」
 退院の手続きや備品の整理をしながら、ヒロトの話を聞く。
「あの子、卒園までに前回りできるようになったんやで」
 私はその場にいなかった。
「ほら見てみいや、卒園式の写真。ちゃんとしっかりした顔しとるわ」
 そこにも私の姿はなかった。
 ほんの少しの時間でも、私がヒロトと一緒にいられなかったことが悔しくなっていった。
 病院を出たところで、ヒロトは私の弟のケイジと待っていた。ケイジはこの日のために休みをとってくれていたらしい。少し髪の伸びたヒロトは、私を見つめていた。
 わたしは駆け寄って、ヒロトを抱きしめたくなったが、体は言うことを聞いてくれない。だから、ゆっくりと近づいて、思いっきりヒロトを抱きしめた。
「いきなりそんなんしたら恥ずかしいやろが、なあ」
 大学生の頃は、まだやんちゃな雰囲気があったけど、社会人として風格がついてきたケイジが笑っていた。
「ケイジ、ありがとうな。今、忙しないの」
「今は、全然大丈夫やで。それより、ヒロトがさっき言ってたんやけど……まあ、ちゃんと自分で言うようにせい」
 ケイジは、頭をポンポンと叩き、ヒロトを促した。私は、ヒロトの顔を覗き込む。
「なに? ヒロトなんかあったん?」
 私は以前のように、ヒロトが発言するのを待つ準備をしようとしたら
「俺な……髪伸ばしてな……寄付したいねん」
 以前よりも、早いテンポで返事が来たことと、突拍子もない答えで、混乱しそうだった。
「えっ、髪を…… 寄付する」
 私は、直ぐに考えた。初めてヒロトはそのとき自分の意思を伝えてくれた。それって、こんなに嬉しいことはないんじゃないか、と。
「ヒロトは、あんたのためにそうしたいって言うたんやで」
 母さんも近づいてきて、ヒロトの頭を撫でていた。ヒロトは、私の被った医療用帽子に優しく触れている。
 私は、初めて知ることができたのかもしれない。
 幸せはなるものじゃなくて、苦しいことや辛いことがあっても、幸せを感じることができることを。
 一瞬、吹き過ぎようとした春風と共に、またヒロトを強く抱きしめていた。
 今は、ヒロトを抱きしめた腕はぽっかりと空いている感じがする。二人で家を出る前、あのときみたいに、ギュッと抱きしめようとしたら
「やめろや、恥ずいやろ」
 本気で嫌そうな顔をされてしまった。その上、私が長い髪を乾かす習慣がなくなってしまったら、もう、気軽にヒロトを肌で感じることもないのかも、と思ったら、また、急に寂しさが込み上げてくる。
 背も伸びて、ヒロトは同じクラスの子供たちの中でも高い方だと思う。たぶん、一、二年したら私は抜かされてしまうかもしれない。
「あっ、少し曇ってきたな。雨降るかもしれへんで」
 空を見上げたヒロトに倣って、空を見上げてみた。灰色の分厚い雲が空を覆っている。
「天気、夜まで持ちそうにないなぁ。じゃあ、私、洗濯もん取り込んでから行くから、先行って」
「ええわ、手伝う」
 やっぱり、ギュッと抱きしめたくなる。その気持ちをぐっと堪えて冗談っぽく言ってみる。
「ありがと。じゃあ一緒くっつきあって、手繋いで仲良しこよしで行こな」
「嫌や、普通に行くで」
 小学校に入ったばかりのときは、いつも手を繋いで歩いていた。保育園の頃からがらりと環境が変わり、大人しいけど、ちゃんと言うことを聞いてくれていい子、という存在だけでは、やり過ごせなかったのだろう。
 何より、その姿をなにも知らない人たちが傷付ける。無邪気な子供、偏見を持つ大人。殻で覆った心の底にある優しさと強さを、一目で見抜くことができる人なんていないのかもしれない。
「大竹先生には、しっかりご相談させていただきたいと思うてたんです。うちの子だけ特別扱いしてくれ、とは言いません。ただ、私としては、ヒロトの気持ちを尊重してあげたいと思うんです。私も色々調べまして、ヘアドネーションというのは、決してただ……」
「すんません、えっと、ヘアドネーション? なんですかそれ」
「ヘアドネーションっていうのは、伸ばした髪を寄付するっていうものでして、私みたいに病気とかで髪を失った人とかのためにウィッグを作るのに無償で提供する活動で……」
「ふーん。知らんかったですわ。そんなん本人がやりたいって言うたんですか」
「はい、そうです。校則でも特に髪型について明確な明記はないですけど、先生にはご理解いただきたいと思いまして……」
「まあ、校則に明記がないからって、常識の範囲内っていうのもありますしね。別に、ええですけど、まあ、他の親御さんや生徒さんの目もありますけどね」
 一年生の担任になった大竹先生は、煮え切らない態度だった。小柄で、痩せていて、目つきは穏やかだけど、どことなく頼りない雰囲気があった。
「すみません、入学式の前に時間をとってもらって、それで、クラスの子たちに説明とか、してくださるんでしょうか」
「まあね、最初に話はしますよ。でもね、まあ、他の生徒たちがどう受け取るか保証できへんし、まあ、一応、わかりましたけどね」
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
 私は頭を下げた。わがままで自分勝手な人だと思われたかもしれない。私の胸の中で、色んなものが渦巻いたけれど、ヒロトの思いがいつも勝る。
「ただいま、ヒロト。どうやった学校」
「うん。普通やった」
 帰宅してくるのは、いつもヒロトの方が早い。出迎えてあげられず、一人で過ごす時間も増えたから、家族である私が全部を把握することは難しくなった。
 学校には上手く馴染んでいるだろうか、いじめられていないだろうか、悪いことしていたりしないだろうか、不安や悩みは尽きなかったけど、幸い、家では私と淀みなく会話してくれる機会も増えてきて、一緒に食事をしていても
「どう、カレーライス? ちょっと辛かった?」
「ちょっと辛い。もうちょい甘い方がええ」
「わかった。正直に言ってくれてありがとな」
 こんな感じで、自分の意見をちゃんと言ってくれるようになった。あいつといたときのようなロボットみたいなヒロトから、感情や自我のある人間のようになってくれていた。
 それでも、何か外で問題があれば、ヒロトなりのサインを出してくるんじゃないかと思い、ランドセルに入れた持ち物や、ヒロトの様子を毎日、つぶさにチェックするようにしていた。
 時が経ち、他の男の子たちよりも、ずいぶん髪が長くなってきた頃、初めての授業参観の日を迎えた。
 いつも通り、ヒロトは家を出て、しばらくしてから私も学校へ向かった。
 教室に入ると、ヒロトは明るい雰囲気ではないけれど、特に仲間外れにされている様子はなかった。周囲の父兄さんたちも、感じが良い。なのに、違和感があった。
「椎名くんのお母さんやね。川村智樹の母です。息子から聞いています。髪が長い男の子でかわいいな、って」
「ああ、あなたが椎名くんのお母さん。小川龍之介の母です。宜しく。実のお母さんやないのに、子育て頑張っているんやろ。たくましいなー」
 両脇にいた父兄さんは、どこか引っかかる言葉を散りばめながら話しかけてくる。
 適当に相槌を打ちながら、その場をかわして、深入りすることなく、ヒロトの一挙手一投足を注視していた。
 大竹先生は緊張しているのか、つまらない冗談を時折挟みながら、退屈に授業を進行している。
「数字はスージーちゃうで、外国人の女の子みたいな名前やけどな。算数ではずっとお付き合いしていくのが数字、スージーとは付き合えへん。英語ちゃうもん」
 父兄さんは愛想笑いをしていたが、子供たちの反応はイマイチだった。
 長く感じた授業参観の後、やはり、他の父兄の方々と交流を持つべきだと思って保護者会に参加したが、お手洗いで父兄の輪から離れ、戻ってこようとしたとき、彼女たちが話している内容が耳に入ってきた。
 私は、すぐに身を隠すようにした。
「椎名くん、なんで髪をずっと伸ばしてんねんやろ。女の子みたいや」
「実の子じゃないから虐待しているんとちゃう」
「えっ、今よくおるオトコオンナみたいなものなんやろ。息子も気味悪いから、話もせえへん、って言っていたわ」
 私はそのまま家に帰った。
「おかえり、ヒロト」
「えっ、もう帰ってきてたん」
「うん、そや。なあ、大竹先生っていつもあんなんなん。全然おもろないな」
「いつも、あんなんちゃうで。今日は変やったな。いつもあんなんやったら、俺、嫌やわ」
 ヒロトは、いつもと変わりない。いや、少し饒舌なぐらいかもしれない。どれだけ自然に本題に入れるか模索していた。
「クラスのお友達とも変やな、って話したりしてたん」
「別にせえへんよ。そんなこと」
 そういえば、クラスの友達については積極的に話してくれない。
「そうなんや。それやったら普段どんな話するん?」
「別に」
「別に、ってなんも話さんってことないやろ」
「なんも話さん。話すとしてもタクトぐらいや」
「他の子とは?」
 ヒロトは首を横に振りながら、ランドセルを置く。
「なんか言われているん?」
 ヒロトは何かを思い出すように、右上の方を見つめている。しばらくの沈黙、私はそれ以上、何か言うのを我慢した。
「やっぱ、これかな。先生が一生懸命、ヘアドネーションのことを話してくれたけど、ほとんどの子はようわかってへんみたいやった」
 伸びかけた髪をいじりながら、ヒロトは視線を動かさない。
「辛いか? 嫌か?」
 私の言葉を打ち消すように、ヒロトは頭を左右に振り出す。
「もう、髪切ろっか」と言いかけた瞬間、ヒロトが口を開く。
「でもな、カズナみたいな人に笑顔になってもらいたいからな。カズナは、少しずつ髪生えてきたから間に合わへんやろうけど、そんな人世界にいっぱいいるんやろ」
 胸が詰まりそうだった。でも、無理矢理私は言葉を絞り出す。
「でも、あんたは苦しいやろ。辛いこともあるんやろ。別にヒロトが、髪を伸ばさんかったって、ヘアドネーションをしている人はたくさんおるねんで」
 私は泣いていた。その涙にヒロトはそっと触れる。
「俺は別にええねん。母さんがおらんなって、父さんおらんなったときより辛いことはないで、それに、ヘアドネーションやる、って言ったら、カズナ喜んでくれたやん。それが嬉しいねん。誰かを幸せにできるんやったら、俺はそれでええねん」
「でも、でも……」
「もし、カズナが辛くなるなら、俺は髪を切るで。でもそうちゃうかったら、俺は伸ばすで」
 小さな体に、どれだけ優しくて強い気持ちが収まっているんだろう。私の一番近い場所にこんなに優しい人がいたなんて。
「ありがとう。私は辛くないで」
 こぼれ落ちる涙をいつまでも、ヒロトは拭ってくれていた。
 私はまた、幸せを感じることができた。何より、ヒロトが世界で一番愛しい存在だということを改めて知ることができた。
 そのヒロトが今、美容院の鏡の前に座っている。
「綺麗に手入れされているね。それに三十一センチ以上ちゃんとあるし、あっ、髪は事前に洗ってくれていますよね?」
 ヘアドネーションの活動に賛同している美容院を探しているときに出会った、美容師の片桐さんの言葉にハッとした。
 後ろで私がオロオロしていると
「大丈夫です……学校から帰ってすぐに……洗っておきました」
 ヒロトは、まだ家族以外の大人には人見知りなそぶりを見せるけど、きちんと美容院へ行く前に、髪を洗っておくということ覚えていて、一人でしっかり実行していたことに、また、ささやかな喜びを覚えた。
 なんだか、私が照れちゃって口が滑ってしまった。
「なんでなん? いつも髪乾かすのが私の仕事やん。最後のお仕事とらんでよ」
 家族に髪を乾かしてもらっていることが恥ずかしい年頃だから、ヒロトは顔を赤くして、むすっとしてしまった。これは帰りにちゃんと謝らなきゃいけない。
「そうですか。わかりました。じゃあ髪を結んでいきましょ」
 片桐さんは、笑いながらヒロトの髪に櫛を通していく。繊細な髪の毛は、スルスルと流れていて、まるで生きているよう。
 この生命感が、誰かに引き継がれていくようで、神秘的な光景に見えてくる。
「六箇所に分けて、ゴムで束を作っていきます」
「結んだところの二センチ上ぐらいを切っていきます。それじゃあ、切っていくね」
 一つ一つの作業を、私は逃さないように見つめていた。片桐さんは、その一つ一つを、ヒロトに説明していく。ヒロトの表情も真剣だった。
 ハサミをゆっくり噛み締めていくように入っていく。今まで感じてきた幸せが浮かんでくるのに、充分な時間に思えた。
 ザク……ザク……。
「ヒロトは偉いな。自分やなくて、誰かのために髪伸ばしてるんやな」
 同じクラスのタクトくんが、初めて家に遊びに来てくれたとき、ヒロトの髪を撫でてくれながら、言ってくれた一言に誇らしく思った昼下がり。
 ザク……ザク……。
「暗い顔して家で過ごすのは嫌やから、一日に一回は絶対、何かおもろいことしようや」
 世の中が、どんどん不安感に溢れるようなニュースが流れてきて、私が暗い顔をしていたとき、ヒロトが優しく提案してくれたことに、心が救われた夜。
 ザク……ザク……。
「早く、この髪届けてあげたいわ。みんなが大変なときやけど、誰かを今すぐに幸せに出来へんかな」
 ヒロトが学校にいけなくて、私も在宅勤務をしていて、ほとんど外へも出れず、二人だけでずっと家で過ごしていた頃、自分の長い髪を見つめ、ぼそっとヒロトがこぼした言葉に胸が熱くなった朝。
 一束一束が、タオルが敷かれたワゴンの上に置かれていく。丁寧に、静かに、優しく。固唾を飲んで見守りながら、やっぱり涙が溢れてくる。
 今日、私は何度泣きそうになっただろう。でも、こうして涙が溢れてくるのは、なんだか久し振りのように思える。
「ありがとう」
 最後の束がワゴンの上に置かれた瞬間、切り落とした髪の束たちを見つめ、ヒロトが聞こえるか聞こえないかぐらいの声量で言ったことを私は聞き逃さなかった。
「ずいぶん、軽くなったやろ。よし、ここから男前にしたる」
 片桐さんは、ヒロトに優しく微笑みかけてくれた。
「ほんま、さっぱりしたな」
 短く整えた頭にまだ違和感があるのか、ヒロトはしきりに頭を撫でる。この感覚にも、直ぐに慣れるだろう。たしかに寂しさはあるけれど、私たち二人は、どこか達成感を覚えていた。
 私の平凡な日々は、劇的にヒロトが現れて変わっていった。
 たぶん、これからは、見た目も平凡になった日常を送ることになるけど、また辛いときがやってくるだろうし、悲しいことだってあるのかもしれない。むしろ、そんなことの方が多いかもしれない。
 それでも思う。
 毎日が輝いていなくてもいい、一瞬だけ輝いてくれればいい。
 私たちは、時折舞い降りてくる幸せの瞬間を感じるために前へ進んでいくのだから。
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