空を見上げれば

青桜さら

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卒業のあと

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「先生、お世話になりました」
 式を終えた卒業生が、そういいながら僕のすぐ隣を走り抜けた。
 彼らの表情はそれぞれで、別れを惜しむもの、学校という枠組みから抜けたという喜ぶもの、進学について真顔で話し合うもの。
 思いはそれぞれ飛び交う。
 それを見守る僕に、声をかけていく元生徒もいる。
 毎年この光景を見てきた。そして彼らの新たな門出に幸せあれと願う。
 しかし、今年はいつもと違う。遠目から女生徒に囲まれた一人の男子生徒を見る。 長身で優し気な目元。髪は色素が薄く、風に吹かれさらりとなびく、その髪が好きだった。
 いや、正直言うと今も好きだ。だけど、この思いは心に秘めておくもの。教師で大人だから。彼ら少年のように好きにふるまえない。
 ――いつかこの思いは昇華されるだろうか…?
***
 初恋は学生のころ。告白する前に異性の恋人を紹介されて、失恋した。彼とは今でも親友という立ち位置で苦しんでいた。
 けれど、彼……石崎渉(わたる)が入学してから僕の心は彼に囚われた。
 親友に『最近変わったな』と言われたけれど、仕方ないだろう。
 おかげで親友の結婚式に悲しむことなく参列できたし、赤ちゃんを見せてもらったときも普通に祝えた。すべては、渉(わたる)の存在のおかげだ。
 そんな日々は早く過ぎて……もう彼は卒業してしまった。
 遠くから渉を見ていてそんなことをつらつらと思いだしていたら、ふいに彼がこちらを見た。それはいつものこと。先生が見ていたら、何だろうかと気になるだろう。
 だけど先生という立場だからこそ、隠れることなく見ていられる。監督責任があるからという理由があるから。これからはその理由さえなくなる。
 ――さみしい。
 とてもさみしい。僕はまた失恋をしていくんだ。このまま一人朽ち果てていくのかと思うと目の前が闇に覆われそうな気分になる。


「――先生」
 思考の中にいた奏斗(かなと)を呼ぶ声に我に返る。目の前には遠目に見ていた男子生徒、渉(わたる)がそこにいた。
「先生、なにかありましかた?」
「いや、問題ないよ」
 いつものやり取り。先生と生徒の関係はこんなものだ。そして渉は優秀な生徒だから問題があったことはない。それでも気にして声をかける優しさを彼は持っている。
「工藤奏斗先生、三年間お世話になりました」
 フルネームで呼ばれ奏斗は少し同様する。この生徒には「工藤先生」としか呼ばれたことがなかった。
 たまにふざけた生徒などは「奏斗先生」「かなちゃん」と呼ぶものもいた。それでもフルネームで呼ぶ人はそうそういない。教師同士でも名字が被らない限りは「工藤先生」だから。
「石崎さん、卒業おめでとう。これから大学でも頑張って」
 ありきたりな言葉。
 それでも渉はにっこり笑う。
「……奏斗先生、相談があるんですけど。夕方とかお時間ありますか?」
「相談? 何か心配事? 今でもいいよ」
「いえ、ちょっと長い話になるので……」
 渉が言いよどむことで、なんとなく内密にしたい相談だと奏斗は察した。卒業しても生徒は生徒。今後の進路で悩むことがあるのなら、相談に乗りたい。
 この恋心とは別に、教師としての信念だ。
「夕方……雑務で遅くなるけど。定時で上がれるように調整しておく。場所は――」
 そんな感じで夕方の時間に、渉と会う約束をした。
 学校外で生徒と会うのはどうだろうと、と思ったけど……相談というなら話は別。教師として導くのも仕事だ。
 定時で上がる理由は適当に言い訳して、残りの雑務はまた早出してやれば問題ない。報告書はすでに提出してあるし、とくに問題ある案件は今のところない。
 学校を出て、待ち合わせしている場所へ奏斗は向かう。


 この季節になり、太陽が沈んでいくのが少し遅くなったなと実感する。
 簡単に服を整えネクタイの位置を直す。ただの元生徒の相談を聞くだけと分かっていても、胸が高鳴る。
 ――結局僕は……個人的に会えるのが嬉しいだけなのか。
 そんな自分自身に苦笑し、道を急ぐ。
「先生」
 すでに待ち合わせ場所にいた渉は、見慣れない私服を着ていた。黒系のチノパンに白いハイネックと紺色縦線の入ったマフラー。その上から紺色に近いジャケットを羽織っている。
 見慣れない。制服のときより大人びて見え、さらに長身に見えた。
「先生、わざわざ来てくれてありがとうございます」
「いや大丈夫。それより待たせてすまない。……それから卒業したんだから『先生』はやめて名前で呼んで」
 渉は素直に頷く。でも本当は卒業しても生徒は生徒。先生は先生で、なにも卒業したからと言って呼び方を変えたりしない。
 何か言われたら、個人的に学校の外で会うのは――とか適当に理由をつけてしまえばいいやと考えた。
 ――どうせこれが最後になるんだ。
 本来なら外で個人的に会ったりしてはいけない。それは卒業生に対してもそうだろう。何をしても問題になる時代だから、警戒しなくてはいけない。
 心が病んで職場を去る人も一定数いるのだから。教師が生徒の親から訴えられたときに必要とする保険加入制度は、仕方ないけど嫌なものだ。
「奏斗さん」
「え?」
「いえ、名前でって言ってくれたので。だめですか?」
「あ、あぁそうだね、それでいいよ。呼びなれてないから驚いた」
 冷静をよそうけれど、本当に心底驚いた。好きな相手に学校以外で会えたうえ、名前で呼ばれるなんて……本当になんという奇跡なのだろうか。
 ――卒業はとてもさみしい。でも、名前で呼ばれるって嬉しい。とても。
「奏斗さん。寒くなってきたので、どこかお店に入りませんか?」
「うん、気が利かなくてごめん。カフェがあったからそこにしようか? 静かなお店だし」
「ありがとうございます」
 気を抜いたら、頬が赤く染まりそうでちょっと怖いと奏斗は思う。制服と私服のギャップってすごく危険だなと心に刻んだ。
 渉が何を相談したいのか、何を考えているのか全く分からないけど、今はとりあえず寒くないところに移動をしようと考えた。


 渉(わたる)は待ち合わせ場所に、奏斗先生が来てくれたことに感謝した。
 誰にも言えなかったことを相談したかった。孤独でつらくて恋人にも友人にも言えなかったこと。
 家庭の事情。両親は渉が高校を卒業するとともに、離婚することになっていた。不仲だけど世間体を気にする二人に渉は疲れていた。
 卒業を迎えさらに孤独になるのかと周りを見渡したとき、先生と目があった。いつものまなざし。どこか一歩引いたような態度。それでも生徒からの信頼は結構あった。
 奏斗先生は嘘をなるべくつかない。そのことが生徒の心をつかんでいた。
 卒業をして、もう生徒でなくなる。校門を出てしまう前に自分のわがままを聞いてほしかった。
 とにかく、だれにも言えない相談がしたかった。自分は必要な存在ですか…と。


 近くにあるカフェに入り二人向かい合わせに座る。
 奏斗は元教師ということを胸に渉と目を合わせてた。
「石崎さん、もう寒くない? 大丈夫?」
「はい。……ところで名前で呼んでもらっても、いいですか?」
 控えめなお願いに疑問を持つけれど、奏斗は深く追求しなかった。誰でも言いにくい事情はあるだろうし、追及してもそれを自分が助けられるとは思っていないから。無責任な追及は相手を傷つけるだけだ。
「渉君、相談ってなにかな?」
 目の前のテーブルに二人分のコーヒーとカフェラテが並ぶのを待ってから、奏斗は渉に声をかけた。
 冷えた指先を奏斗はカフェラテで温める。冷え性なので熱めのカップはありがたい。渉もまたカップを両手で覆っているから、外で体が冷えたのだろう。待ち合わせは最初からこのカフェにしておけばよかったと、奏斗は反省する。
「奏斗さん、少しめんどくさい話になるんですが……いいですか?」
 今まで学校で見せたことのない、沈んだ表情を彼はする。それを見てかなり重い話だと奏斗は理解し、姿勢を正す。
「いいよ」
 ただの生徒なら、ここまで込み入った話はほぼしない。公私混同かもしれないけど、渉の話なら何でも聞きたかった。暗い顔をするくらいなら、全部聞いてあげたいと思う。
「実は家の中でいろいろあって……両親が離婚するんですけど、誰にも相談できなくて……」
 普段の学校の姿では想像のできない内容に、奏斗はとても驚いた。それほど、学校では暗い話など聞いたことがなかった。ただ黙って彼の話を最後まで聞くことにする。
「今後は一人で暮らしていくことになっているんです。相談できなかったのは、それを両親が許さなかったからで……でも、奏斗さんならだれにも言わないと思ったんです」
 家庭内の事情はだれでもあることだろう。けど、だれかに相談することを禁止する両親は、渉の心を無視し傷つけた。
 ――許せない。
「俺はたくさんの友人に囲まれながら、それを誰にも相談できなくて……みんなを裏切っているような気がして……恋人にも言えなくて別れてしまいました」
「――そうなんだ。渉君はこれからどうしたいの?」
 相談するとき、大抵はすでに心の中で答えが出ていたりすることが多い。だから奏斗はあえてそう聞いた。
「どうしたい……どうでしょうか? よくわからないんです。ただ、俺は話がしたくて……誰かに聞いてほしくて。――先生、俺は必要な存在なんでしょうか?」
 自然と出た「先生」という言葉に、奏斗は彼の助けてほしいという言葉が伝わった。先生だから助けてほしい、と。
 そして『必要な存在なのか』と悩んでいたことを理解する。


 奏斗は言葉にならない衝撃を受ける。奏斗にとって渉は『必要な存在』以上に思っている。いなくてはならないほどに。
「……奏斗さん?」
 そこまで思い詰めるほど過酷な家庭環境にいた。そんなことさえ奏斗は知らなかった。自分自身がふがいない。
「渉君、それは『自分は必要ない存在かもしれない』とも聞こえるんだけど?」
「はい。正直なところ、俺はここにいてもいなくても……どうでもいい存在かと――奏斗さん?」
 奏斗は無言でぬるくなったカフェラテを一気に飲み干した。
「渉君、もしかしなくてもすでに家を出ていたりするかな?」
「はい、卒業式は終わったので」
「そう……」
 奏斗の心の中で何かが切れた音がした。


 コトンと飲み干したカップを、奏斗はテーブルに置いた。
 それからまっすぐに渉の目を見る。そして囁くように低い声で渉に語りかけた。
「渉、僕は君が一番必要だ。渉がいたからこそ、今の僕がいる。――渉自身でも必要ないとかそんなこと言うのは許さないから」
「奏斗さん?」
「寂しいのなら、僕のところへおいで。僕には何よりも渉が必要だ」
 彼がなにを思うのかなんて、本当は個人の自由。そんなことわかっていた。
 それでも今にも消えそうな渉を見ていると、どうしようもなく込み上げる言葉にできない程の熱が胸の内から湧き上がる。
 奏斗を拒絶するなら、それでも構わない。ただ必要としている自分がここにいると伝えたかった。
「……本当に? 奏斗さんのところへ行ってもいいんですか? きっと俺はもう、奏斗さんのところから、どこにも行けない気がします……それでも? 」
 帰るべき部屋を与えられていても、孤独で帰ることができない。そんなふうに奏斗には聞こえた。
「渉。僕は渉がそばにいてくれたら、とても嬉しい。僕には渉が必要なんだよ。帰りたくないなら、いつまで僕のところへいればいい。引越して来たいなら、それでもいい。僕が願うのは渉の笑顔だよ」
「奏斗さん、なんでそこまで?」
「――渉が好きだから。失えないから。恋愛としての好きって意味だよ……気分を害したなら謝る。ごめん」
 もっと先生らしい言葉ならいくらでもあっただろう。だけど、奏斗にはこれしか渉に言うことができなかった。教師としては失格だろう。苦笑して奏斗はつづけた。
「渉がどこに行こうとそれは君の自由だ。でも忘れないで、僕のように君を必要としている人がいるってことを」
 渉を笑顔にするのは奏斗ではない。きっと異性の誰かだろう。悲しいけれどそれは事実。彼女と別れたというのだから、彼は男性を好きにならない。
 最初から覚悟してあったこと。けれど覚悟していても実際に忌避されるのは怖い。
 しばらく考えている、渉からの言葉をじっと待った。
「俺は……奏斗さんのこと、先生としか見ていないです。だから好きとかそういうのは、わからないです」
 沈黙の空気が流れた。お互い気まずい空間を共有する。
 ――そんなこと最初から分かっていたことだ。
 あきらめとともに口を開くと、渉にさえぎられた。
「奏斗さん、答えが出なくても……好きだと言えなくても、一緒に住んでもいいですか? ずるいって分かっています。――でも、俺の家族になってくれませんか?」
 一瞬何を言われたか理解できなくて、奏斗の脳内は真っ白になった。
 ――え? 好きじゃないのに? 一緒に住む? 家族になる?
「だめ、ですか?」
 控えめにそう首を傾げ、不安そうに瞳を揺らす。初めて渉が年相応に可愛いと思えた。
 ――ああ、そうか。まだ大人になり切れない子供なんだ。
 そう考えると渉がかわいくて、奏斗の頬が緩む。
「好きとかそんなのなくても、いいよ。家族になろう」
「本当ですか? ありがとうございます」
 今まで見たことないほどの笑顔がそこにあった。
 おそらく渉にいま必要なのは『家族』だろう。なら、喜んで家族になろうと心から思う。
 この先、渉が奏斗のもとからいなくなったとしても、今そばにいられるのは奏斗だけ。それはなんと幸せなことだろうか。
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