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第2話「たくさんの初めて」
「ヤるぞ」
ある程度は待ってやる、と言われた翌日、歓迎会から帰宅した雫はそう言ってヒスイをベッドに投げつけた。
「まってまってまって! 昨日待ってくれるって言ったじゃん!」
「状況が変わった」
「状況!?」
「人の惚気話を聞くことほどつまんねーものはない」
ヒスイの上に雫が馬乗りになり、着ているTシャツを脱ぎ捨てた。
作り上げられた肉体に、思わずヒスイの目が釘付けになる。
(か、からだすごい…)
腹筋なんて見事に割れている。普段本ばかり読むシーンしか見ていないけれど、こんなにも筋肉質だったとは……。
「なに? 見惚れてんの?」
ハッと気付いた時にはもう遅い…雫がニンマリと笑っている。
「なんだ、俺の体に興味あったんか」
「きょ、興味というか、純粋になんて言いましょうか…」
「いくらでも触れ。俺もお前に触…なんだよ! いい加減腹括れ!」
「状況を! さっき言ってた状況が変わったってどういうことですか!」
「……めんどくーなお前」
深いため息を吐き、どすっ、と雫が全体重を乗せてきた。ただただ重い。
「俺さっき歓迎会行っただろ。お前が欠席したやつ。最近結婚した奴らいるのわかるか?」
「ええっと、薬学科の先生と、確か事務員の人が…」
「そいつらに延々と惚気話を聞かされた。弁当を作ってくれるだの、甘えてくるのが可愛いだの、隣にいてくれたらそれだけでいいだの…人の惚気話を聞くほどつまんねーものはない」
「はあ」
「そこで俺は考えた。じゃあ俺も惚気話をする側になればいいんだと」
「……うん?」
「作ろうじゃねえか、俺とお前で惚気話。んで周りに聞かせてやる。延々と聞かせてやる」
雫の手がヒスイの耳に触れる。形を確かめるようになぞり、耳たぶをくりくりと揉む。
「んん…っ」
「将来的にお前は俺の嫁だ。順番ぐらい端折ったっていいだろ」
「…嫁?」
「ここに編入したときにはもう決めてんだよ。お前を嫁にするってな」
「だめ、だよ…僕が人間じゃないの知ってるでしょ…」
雫の体を押し退けた。ぽろぽろと、ヒスイは自分が大粒の涙を流していることに気づいた。
ーーだめだ、止まらない…。
本当は言うつもりなんてなかった。ずっとこの腕の中でぬくぬくと過ごしたかった。
でも…雫は人間だ。そして自分はサタンと人間の間に生まれた半魔だ。
一緒になんていちゃいけない。
ましてや嫁だなんて、絶対に言っちゃいけない。
ヒスイが本気で泣いていると気づいたのか、雫も体を起こす。
「なんで泣いてるかがわからん」
「だって、だって、どんなに僕がキミを好きでも種族が違うんだよ…絶対にだめだよ…」
「お前は人間だ」
「僕は人間じゃない」
溢れる涙を作る左目だって、魔族としての力を抑えるための義眼だ。…人間じゃない。
「お前は人間だ。この国は同性婚も可だ。何の弊害がある」
「言葉上の結婚ならできるかもしれない、でも、本当の意味での結婚はできないんだよ?」
「法律上ってことか。できる」
「なんでっ」
「言ってるだろ、お前は人間だと。……あ、そういうことか」
何かに気づいたのか、雫が古典的にポンと手を叩いた。
「お前、書類上は人間だってこと知らないだろ」
「…どういうこと?」
「魔族に住民登録があるはずもない。まあ実際には半魔だが、お前は人間として住民登録されてんだよ。知らないのか?」
「……なにそれ知らない」
「お前とは書類上の結婚ができるか調べたときにな、フツーに登録されてた」
そう言って雫はカバンを漁り、一枚の紙をぺらりと取り出して見せた。
「…読めない」
「ここに名前があるってことは、お前は人間なんだよ。ちなみにお前の上に書いてある名前、校長だ」
「??」
「お前の父親として校長の名前が書いてある」
「……うん?」
「お前の父親として校長の名前が書いてある。今のお前すげー変な顔になってるぞ。直接校長に聞いてみるか?」
そう言ってスマホを取り出されるが、そんなもの使ったことがないと顔に出すと代わりに操作してくれた。
「あ、もしもしどーも、お疲れサンです。夜分遅くに失礼シマス。ヒスイ知らなかったぞ、住民登録のこともあんたが父親って登録されてんのも。本人に代わるわ」
そう言ってスマホを渡されるがどこから声が出ているのか…ただじっと見つめていると、雫が操作して直接話せた。
『もしもし?』
「…僕はあなたの息子になった覚えはありませんよ…」
『え? この間お父さんって呼んでくれたじゃん。嬉しくってねえ、つい養子縁組しちゃった』
ついでやることではないと、難しいことがわからないヒスイでも思った。
「それもだけど! 僕、僕は、人間じゃ……ない」
『キミを拾ったときにはもう人間として登録はしてあったんだよ。あのとき言ったでしょう? 人間になろう、って』
「まさか書類上の人間になるとは思っていませんでしたよ……」
ふんわりとした意味合いだとずっと思っていた。
『もういいかい? ボク眠いんだ。しこたまお酒飲んだから眠くてしょうがない。じゃあね』
そう言って通話は切れた。
意味がわからなすぎてひたすらスマホを眺めていると雫に奪われそのまま後ろから抱きしめられる。
いつの間にか雫の膝の上に乗せられていた。
「はい、というわけで結婚します」
「まってまって! 早すぎるから! あ! もしかして雫くん酔ってる!? 酔ってるでしょ!?」
「酒は飲んでも飲まれるな。俺の座右の銘だ」
絶対に違う。適当なこと言ってる!
もう一度組み敷かれながらヒスイは左右に頭を振る。
「ゃ、だ…っ」
雫の指が首筋を、つつ、と上へなぞっていく。顔の輪郭をなぞり、耳の穴に指を入れ、カリカリと軽く引っかかれる。
「ひうぅっ」
「お前絶対耳弱いだろ」
「あああ、やだっ、や、ぁっ」
人差し指が耳の中で遊ぶ。摩擦音が直に聞こえ、ゾクゾクとしたものがヒスイの背中を走っていった。
ーーなにこれ、なにこれ!
初めての感覚に、ヒスイの頭が真っ白になる。
こんな経験したことない。
熱いものが下半身に集中して、隠したくてしょうがなくてもじもじと内股になる。
「股閉じんじゃねえよ。見せろ」
「やああ…」
後ろから座ったまま抱き込む雫に足で無理矢理股を開けられた。
「もう勃ってんじゃん」
パジャマの上からでもはっきりわかるほどに、ヒスイのそれは勃起していた。
布には先走った体液がじんわりと滲んでいる。
「なにお前、いじめられんの好き?」
「ちがっ、ぁ、やっ」
「俺の加虐心煽んじゃねえよ」
「ぁああっ」
耳の付け根をねっとり舐め回された。耳の中とまた違う音で、びくびくとヒスイの体が震える。
そのまま舌の先端が耳に入ってきて、尖らせた舌先でずくずくと出入りされては股間が熱くて熱くて仕方ない。性器の先端から汁が止まらない。
「やっ、ぁあっ、んんっ」
「なに? 耳だけでイく気? 童貞ちゃんは我慢できないもんなあ。好きなだけイけば?」
湿った耳の中にフッと熱い息を吹きかけられては、もうダメだった。
雫の腕の中で、気絶しそうなほど体を震わせた。
中庭でヒスイはぼーっと噴水を眺めた。
卒業式の後、腕を広げた雫に飛び込んだあの日が懐かしい。
あの時はまさか、あっという間に一緒に住み、あっという間にこんな関係になるとは思わなかった。
ひたすらぽかんと口を開けて、上から下へ落ちる水の行列を眺める。
ーー初めてヒスイにイかされてから数日間、毎晩のように体をまさぐられた。
初めは耳だけでイってしまい、次に性器をしごかれてはイき、その次は雫の大きなものとひとまとめにされながらイき、またその次は…最後までしてはいないものの、ひたすら大人の階段を登っている。
ヒスイはハッとした。
「流されてる…? え、大丈夫…?」
ムードが欲しいとは言った。童貞なんだから夢ぐらい見たい。
結局、なんやかんやムードなんかない。抵抗するのにやんわりと交わされエッチなことをしてしまう。
完全に流されてないか、これ?
ぼーっと噴水と眺めていると突然、ぽん、と肩を叩かれ「ぎゃんっ!」と飛び上がった。
「び、びっくりした…」
「ごめんね、可愛い子くん。結界監視科の準備室へ行きたいんだけど、道わかる?」
ヒスイは声をかけてきた男を見上げた。
雫と同じぐらいの背と体格の大男だ。黒のスーツをビシッと着て、黒い髪の毛をオールバックにしてさらに黒縁のメガネをかけている…そして気味が悪いほどに笑顔を浮かべている。
まるで仮面を貼り付けたような笑顔に、ヒスイは寒気を覚えた。
「あ、えと…」
「結界監視科の準備室。わかる?」
「こ、こっちです…」
誰だろう、外部の人間とはわかるけれど、関係者以外は首からプレートをぶら下げるのにこの男にはない。
でもだからといって、一度見れば忘れないほどの印象を与えるこの男は学園関係者では決してない。
しかも用事があるのは雫らしい。
ふわりとタバコの香りが漂う。恐らくこの男が吸っているのだろう。
なんか色々怖いと思いながらも、ヒスイは案内してあげた。
結界監視室の隣にある準備室のドアを開ける。相変わらず雫は本を読んでいた。
「あ、あの、お客様が…」
「あ?」
顔を上げた雫が一瞬びっくり顔になるが、すぐにその顔がほどけた。
「黒曜(こくよう)? お前なにしてんだよこんなとこで」
「お前が呼び出しておいてなんだその態度は」
「そういやそんな約束してたな」
「それよりタバコ吸っていいか。死にそう」
「いいわけないだろ。そのまま死んどけ」
トークの内容からして友達かな、とヒスイは推測する。
「アイツは元気か?」
「あぁ、相変わらずうまそうに肉食ってる。それを見てるだけで俺は幸せだ」
「悪趣味だな」
その証拠に、笑う雫がいつもと違う顔をしている。
自分に見せる表情とは違う、もっと砕けた表情なのだ。
男ががちらりとヒスイを見た。
「案内ありがとう、可愛い子くん」
「勝手に俺のに話しかけんじゃねえよ」
「あ、この子があの子か。初めまして、黒曜と申します。コイツの親友だ」
「悪友の間違いだろ」
「同じだろ。タバコ吸っていいか?」
「死ね」
そう言って雫と共に男が…黒曜が笑う。すぐにヒスイは部屋を飛び出した。
ぽてぽてと中庭を歩く。
(なんか楽しそうだったな)
自分には友達がいないので、感覚的によくわからない。
(友達ってああいう感じなのかな…)
ずっとひとりで過ごしていた自分にはよくわからない。
(雫くん笑ってた。楽しそうだった)
ちくん、と胸が痛む。同時にざわざわと暗い感情が湧き上がってくる。
ざわざわして、どろどろして。サタンが出てきたときよりもっともっと黒が暗くて深い。
初めて出てきた感情に意味がわからなくて首を傾いでいると「ヒスイ先生」と呼びかけられた。
「あ、どうも…」
この間結婚したと聞いた事務員だ。
「さっき案内してたの黒曜さんでしょ? 初めて見たわ~」
「? 有名人ですか?」
「あら知らない? 雫先生の前にいた大学の有名人。かなりヤンチャしてたらしくて、雫先生と黒曜さん二人合わせて双頭の悪魔ってよばれてたらしいよ~。ウケる」
悪魔。
そういえば雫と二度目ましての時も似たようなことを思った。
それに黒曜は全身真っ黒なのでその言葉がぴったりだ。
「なんかその大学の爆破事件の時も二人してその場にいたらしいし、なんか怖いわ~」
「爆破…」
「魔法大学が爆破って相当だもんね。エリート大学でも色々あるのね~」
知らない。
全部全部知らない。
(そういえば僕、雫くんのこと何も知らないや…)
話せるほどの長くて濃い人生を送っていない。人生の大半は、森の中でじっとしていた。
でも雫は違う。
人と関わり、教育を学び、人間としての人生を歩んでいる。
「黒曜さん何しに来たのかしら~。スカウト?」
「スカウト?」
「ほら、雫先生って魔法省の内定出てたけどそれ蹴ってウチに来たらしいじゃん? 黒曜さん魔法省の人だからね~。ほら、襟元にピンバッチ付いてたでしょ? 銀色の。アレ魔法省の人付けてるんだって~。…説得でもしに来たのかしら。いやいや、ただでさえウチ弱小だから出て行かれたらとんでもなく困る…!」
ーーヒスイはとぼとぼと町中を歩いていた。
今日の授業はもうないのであのまま帰ってもよかったが、なんとなく家に帰りたくなかった。
(あの人、マホウショウの人なんだ…)
サタンと初対面を果たしたのち、森一個を丸々吹き飛ばしてしまった。いくら魔法使いでも不可能な出来事なので、魔法省が勘付き始めただろう。
不可解な何かが起こっている、と。
特に行く場所もなくブラブラしていると、ふと黒スーツを着ている男に目が止まった。
(あのピンバッチ…)
事務員から教えてもらった、魔法省の人間が付けている銀色のピンバッチ。黒曜が付けていたのと同じものを身につける男がいた。
ヒスイは咄嗟に建物の影に隠れ、他人から視認できないよう自身に魔法をかけた。
(この魔法は人間は道具がないと使えないって雫くんが言ってたから…たぶん気づかれないよね)
こそこそと男の後を付いていく。男はすぐに同じ服の男と合流した。
「どうだ?」
「それらしき者は…って言っても情報がなさすぎて困る」
「サタンがどんな姿してるかわかんねえからな。…ホントに息子がいると思うか?」
思わずヒスイは飛び上がりそうになる。
「わからん。でもま、サタン以外だと森吹っ飛ばせるやついねえだろ」
「確かに」
男たちが笑いながら町中へ消えてゆく。ヒスイはそれ以上追いかけず歩みを止めた。
「…」
この男たちと黒曜、何か関係があるんじゃないかとつい邪推してしまう。
そんなことない、友達だと言っていた…わかっているけどわからない。
ぐるぐるぐるぐる。思考が回る巡る回る巡る。どれだけ回転しても答えなんか出てきてくれやしない、なんだったらイライラやざわざわとした暗い感情が押し寄せる。
(…帰ろう)
魔法を解こうとした瞬間だった。自分の意識より早く、バチンッ、とヒスイだけが聞こえる音で魔法が勝手に解かれた。
「??」
今のはなんだろうと思うも、もう考えるのが面倒になりヒスイはそのまま学園内の家へ向かった。
「おかえり」
家に帰るとすでに雫が帰宅していた。丸椅子に座って本を読んでいる。
ひくひく、とヒスイの鼻が動く。
「…タバコくさい。あの人家に入ったの?」
「誰が入れるか」
「じゃあなんでこの匂い…」
「服についてんのかな。アイツすげーヘビースモーカーだしな」
雫は本に目を落としたままだ。こっちすら見てくれない。
ざわざわ、ざわりざわり。胸の奥が変だ。黒いもので溢れかえる。
だめだ。抑えられない。
「…け」
「あ?」
「出て行け…そんな匂いさせるくらいなら出て行け!」
ぱっと顔を上げる雫がぎょっとする。だろうなあ、と自分でもわかるほどに涙がこぼれ落ちているのがわかるから。
「ヒスイ?」
「出て行け! 出て行けっ! その匂いきらい! だいっきらい!!」
一瞬にして本を投げ捨てた雫が部屋の奥へと消える。
別に怒りたかったわけじゃない。別に泣きたかったわけでもない。
だけど、この匂いを鼻にしたらもうだめだった。
この匂いへの苛立ちや怒鳴ってしまったことに対する罪悪感、そんな中の激しい頭痛にもうわけがわからない。
涙で視界がゆらゆら揺れる。声を押し殺して泣いていると、五分ぐらいして雫が戻ってきた。
「ヒスイ」
見上げると雫がパンツ一枚で立ち、髪の毛は水気でびしゃびしゃで、体からはほかほかと湯気が出ている。
…なぜ湯気。
「シャワー浴びてきた。髪も洗ったし体も洗った。さっきの服はゴミ袋二重にして外に出した。後で捨ててくる」
「…?」
なぜ捨てる必要が?
「ちょっと待ってろ」
そう言ってヒスイは棚からスプレーを取り出した。服やソファーに振りかける匂い消しのスプレーだ。
「雫くん…髪の毛乾かさなきゃカゼひくよ?」
こちらの心配をよそに雫は部屋中に一心不乱にスプレーを振り撒いている。
狭い家なので、一気に湿度が上がった気がした。そしてスプレーは一本丸ごと使い切った。
「ヒスイ、まだ匂いするか?」
「匂いっていうか、このスプレーの匂い…」
シャボンの香りと書いているが、匂いが充満しすぎて果たして何の匂いかわからない。
「タバコの匂いは」
「しない…」
「…よかった…」
雫が盛大に息を吐いた。
髪の毛が濡れっぱなしでパンツ一枚で消臭スプレーを手にし必死になる大男を見て、ヒスイはつい吹き出してしまった。
「あはは、あははっ、雫くん、おかしっ」
「あのなあ、俺は肝を冷やしたぞ」
「?? 体ほかほかだよ? ほら」
雫に抱きつくと、まだあたたかい。少し長めの髪の毛からヒスイの頬に水が垂れ落ちた。
その水滴を涙と共に雫に強引に手のひらで拭き取られる。
「……その……悪かった。お前がここまで嫉妬するとは思ってなかったんだ。…んだよその顔」
あのいつも偉そうな雫くんが謝ってる、と顔に出たのだろう、みょん、と頬を引っ張られた。
「いひゃい」
「この俺が謝ってるっつーのに余裕だなあオイコラ」
「僕は何も悪くないよ?」
「……」
流石にこれ以上は何も言えないらしい、固まってしまったので一度雫から離れてタオルを持ってきてあげた。それを受け取った雫がベッドに腰掛けるので、その隣にヒスイも座る。
前髪をかき上げられる。心配そうな瞳で覗き込まれた。
「まだ怒ってるか?」
「怒ってないけど頭が痛い」
そう申告すると「すんませんでした…」とぶつくさ謝りながら額にキスされた。
雫が膝を抱えると抱き込むように腕が伸びてきた。
「僕あの人きらい…」
「黒曜か?」
「…なんか怖い」
頭の上で吹き出された。
「あの笑顔は気持ち悪いよな。ちなみに俺は初対面でバカ正直に言ったせいで殴り合いの喧嘩に発展した」
「えぇー…」
「その時俺は痛感した。最終的に魔法より腕力が必要だと」
もしや体が仕上がっているのはそのせい?
「…ほんとに友達?」
「気持ち悪いことを言わんでくれ。黒曜にだってちゃんと特定のパートナーがいる。そいつを溺愛してんだよ」
「……そっか」
「まあ似たような境遇っちゃあ境遇だな、俺たちと」
「?」
「キメラなんだよ、黒曜のパートナー。一年…二年前か? 前にいた大学のときの話だけどな、大学内で爆発があったんだよ」
さっき中庭で会った事務員が言っていた、爆破事件のことだろう。
「興味本位で見に行ったら俺たちが第一発見者で、キメラが生まれてた。近くにぶっ倒れてるヤツがいて、たぶんそいつが魔法で作ったんだろうけど、たぶん人間と猫とのキメラだろうな。色々混じってるっぽい。そいつ今でも精神混乱で入院中。いまだに話聞こうにも聞けないでいる。で、黒曜はそのキメラに一目惚れ。アイツでろんでろんになるぐらいキメラに惚れてんだよ」
「雫くんはキメラさんにそのあと会った…?」
「一回だけな。黒曜が魔法省に就職して引っ越しの時に見た。外部の人間に任せるわけにもいかねえから手伝った。挨拶したら引っかかれたよ」
「ちゃんと…生きてた?」
「ちゃんとした生活送ってる。生まれたときとは比べ物にならねえぐらいイキイキしてた」
ヒスイはほっと胸を撫で下ろす。
半魔である自分は駆除対象だろう、恐らくそのキメラも同じだと思い、その後の生活に一瞬不安がよぎったのだ。
よかった、と口にすると頭を撫でられた。
「お前は優しいな、ヒスイ」
ヒスイはその手を取り、そっと頬に当てる。
ーーあったかい。
この大きな手のひらがいつも安心をもたらしてくれる。
目を閉じ、大好きなその手にすり寄った。
「雫くんの昔の話…もっと聞かせてほしいな」
ーー思いは声に出さないと伝わらない。雫から教わったこと。
ちゃんと口に出さないとわからない。心の中で思っている、願うだけじゃ何も伝わらない。
聞きたい、知りたい、この人のことをーー。
「……双頭の悪魔についても知りたいなあ」
「!! なんでお前が知ってやがる!! 誰が俺の黒歴史話しやがった…!」
それからベッドに転がって、雫の腕の中でたくさんの話を聞いた。
雫の好きな食べ物は意外にも果物で、嫌いな食べ物はないこと。酒はとんでもなく強く、どれだけ飲んでも一度も酔った試しがないこと。本は小さい頃から読んでいたため習慣になっていること。なんとなく魔法使いへの道を選んだこと。思ったより適正があったためにエリート校に進んだけれど、実際は殴る蹴るの方が早く、学生時代は喧嘩っ早かったこと。
結界監視を専門としたのは、対魔族の際に後方支援に回るため授業がラクに進むのではと思ったから。実際はとんでもなく面倒な科目だったのは後で気づいたこと。
今回、魔法省の黒曜がやってきたのは吹き飛ばしてしまった森に関する噂話の真相を確かめるために雫が呼んだこと。
「もしかして結構大ごとになってる…?」
「森一個吹き飛ぶってないからな」
サタンが張った結界ごと吹き飛ばしたのは少々やりすぎたらしい。
「…もう自己犠牲なんかやめてくれ」
強く抱きしめられ、ふふ、と笑ったヒスイは雫の頭を撫でる。
「そんなこともうしないよ。僕には大切な人がいるんだから」
「ほー。誰か教えてほしいもんだな」
「あはは」
「笑って誤魔化すんじゃねえ」
二人して笑った。
ある程度は待ってやる、と言われた翌日、歓迎会から帰宅した雫はそう言ってヒスイをベッドに投げつけた。
「まってまってまって! 昨日待ってくれるって言ったじゃん!」
「状況が変わった」
「状況!?」
「人の惚気話を聞くことほどつまんねーものはない」
ヒスイの上に雫が馬乗りになり、着ているTシャツを脱ぎ捨てた。
作り上げられた肉体に、思わずヒスイの目が釘付けになる。
(か、からだすごい…)
腹筋なんて見事に割れている。普段本ばかり読むシーンしか見ていないけれど、こんなにも筋肉質だったとは……。
「なに? 見惚れてんの?」
ハッと気付いた時にはもう遅い…雫がニンマリと笑っている。
「なんだ、俺の体に興味あったんか」
「きょ、興味というか、純粋になんて言いましょうか…」
「いくらでも触れ。俺もお前に触…なんだよ! いい加減腹括れ!」
「状況を! さっき言ってた状況が変わったってどういうことですか!」
「……めんどくーなお前」
深いため息を吐き、どすっ、と雫が全体重を乗せてきた。ただただ重い。
「俺さっき歓迎会行っただろ。お前が欠席したやつ。最近結婚した奴らいるのわかるか?」
「ええっと、薬学科の先生と、確か事務員の人が…」
「そいつらに延々と惚気話を聞かされた。弁当を作ってくれるだの、甘えてくるのが可愛いだの、隣にいてくれたらそれだけでいいだの…人の惚気話を聞くほどつまんねーものはない」
「はあ」
「そこで俺は考えた。じゃあ俺も惚気話をする側になればいいんだと」
「……うん?」
「作ろうじゃねえか、俺とお前で惚気話。んで周りに聞かせてやる。延々と聞かせてやる」
雫の手がヒスイの耳に触れる。形を確かめるようになぞり、耳たぶをくりくりと揉む。
「んん…っ」
「将来的にお前は俺の嫁だ。順番ぐらい端折ったっていいだろ」
「…嫁?」
「ここに編入したときにはもう決めてんだよ。お前を嫁にするってな」
「だめ、だよ…僕が人間じゃないの知ってるでしょ…」
雫の体を押し退けた。ぽろぽろと、ヒスイは自分が大粒の涙を流していることに気づいた。
ーーだめだ、止まらない…。
本当は言うつもりなんてなかった。ずっとこの腕の中でぬくぬくと過ごしたかった。
でも…雫は人間だ。そして自分はサタンと人間の間に生まれた半魔だ。
一緒になんていちゃいけない。
ましてや嫁だなんて、絶対に言っちゃいけない。
ヒスイが本気で泣いていると気づいたのか、雫も体を起こす。
「なんで泣いてるかがわからん」
「だって、だって、どんなに僕がキミを好きでも種族が違うんだよ…絶対にだめだよ…」
「お前は人間だ」
「僕は人間じゃない」
溢れる涙を作る左目だって、魔族としての力を抑えるための義眼だ。…人間じゃない。
「お前は人間だ。この国は同性婚も可だ。何の弊害がある」
「言葉上の結婚ならできるかもしれない、でも、本当の意味での結婚はできないんだよ?」
「法律上ってことか。できる」
「なんでっ」
「言ってるだろ、お前は人間だと。……あ、そういうことか」
何かに気づいたのか、雫が古典的にポンと手を叩いた。
「お前、書類上は人間だってこと知らないだろ」
「…どういうこと?」
「魔族に住民登録があるはずもない。まあ実際には半魔だが、お前は人間として住民登録されてんだよ。知らないのか?」
「……なにそれ知らない」
「お前とは書類上の結婚ができるか調べたときにな、フツーに登録されてた」
そう言って雫はカバンを漁り、一枚の紙をぺらりと取り出して見せた。
「…読めない」
「ここに名前があるってことは、お前は人間なんだよ。ちなみにお前の上に書いてある名前、校長だ」
「??」
「お前の父親として校長の名前が書いてある」
「……うん?」
「お前の父親として校長の名前が書いてある。今のお前すげー変な顔になってるぞ。直接校長に聞いてみるか?」
そう言ってスマホを取り出されるが、そんなもの使ったことがないと顔に出すと代わりに操作してくれた。
「あ、もしもしどーも、お疲れサンです。夜分遅くに失礼シマス。ヒスイ知らなかったぞ、住民登録のこともあんたが父親って登録されてんのも。本人に代わるわ」
そう言ってスマホを渡されるがどこから声が出ているのか…ただじっと見つめていると、雫が操作して直接話せた。
『もしもし?』
「…僕はあなたの息子になった覚えはありませんよ…」
『え? この間お父さんって呼んでくれたじゃん。嬉しくってねえ、つい養子縁組しちゃった』
ついでやることではないと、難しいことがわからないヒスイでも思った。
「それもだけど! 僕、僕は、人間じゃ……ない」
『キミを拾ったときにはもう人間として登録はしてあったんだよ。あのとき言ったでしょう? 人間になろう、って』
「まさか書類上の人間になるとは思っていませんでしたよ……」
ふんわりとした意味合いだとずっと思っていた。
『もういいかい? ボク眠いんだ。しこたまお酒飲んだから眠くてしょうがない。じゃあね』
そう言って通話は切れた。
意味がわからなすぎてひたすらスマホを眺めていると雫に奪われそのまま後ろから抱きしめられる。
いつの間にか雫の膝の上に乗せられていた。
「はい、というわけで結婚します」
「まってまって! 早すぎるから! あ! もしかして雫くん酔ってる!? 酔ってるでしょ!?」
「酒は飲んでも飲まれるな。俺の座右の銘だ」
絶対に違う。適当なこと言ってる!
もう一度組み敷かれながらヒスイは左右に頭を振る。
「ゃ、だ…っ」
雫の指が首筋を、つつ、と上へなぞっていく。顔の輪郭をなぞり、耳の穴に指を入れ、カリカリと軽く引っかかれる。
「ひうぅっ」
「お前絶対耳弱いだろ」
「あああ、やだっ、や、ぁっ」
人差し指が耳の中で遊ぶ。摩擦音が直に聞こえ、ゾクゾクとしたものがヒスイの背中を走っていった。
ーーなにこれ、なにこれ!
初めての感覚に、ヒスイの頭が真っ白になる。
こんな経験したことない。
熱いものが下半身に集中して、隠したくてしょうがなくてもじもじと内股になる。
「股閉じんじゃねえよ。見せろ」
「やああ…」
後ろから座ったまま抱き込む雫に足で無理矢理股を開けられた。
「もう勃ってんじゃん」
パジャマの上からでもはっきりわかるほどに、ヒスイのそれは勃起していた。
布には先走った体液がじんわりと滲んでいる。
「なにお前、いじめられんの好き?」
「ちがっ、ぁ、やっ」
「俺の加虐心煽んじゃねえよ」
「ぁああっ」
耳の付け根をねっとり舐め回された。耳の中とまた違う音で、びくびくとヒスイの体が震える。
そのまま舌の先端が耳に入ってきて、尖らせた舌先でずくずくと出入りされては股間が熱くて熱くて仕方ない。性器の先端から汁が止まらない。
「やっ、ぁあっ、んんっ」
「なに? 耳だけでイく気? 童貞ちゃんは我慢できないもんなあ。好きなだけイけば?」
湿った耳の中にフッと熱い息を吹きかけられては、もうダメだった。
雫の腕の中で、気絶しそうなほど体を震わせた。
中庭でヒスイはぼーっと噴水を眺めた。
卒業式の後、腕を広げた雫に飛び込んだあの日が懐かしい。
あの時はまさか、あっという間に一緒に住み、あっという間にこんな関係になるとは思わなかった。
ひたすらぽかんと口を開けて、上から下へ落ちる水の行列を眺める。
ーー初めてヒスイにイかされてから数日間、毎晩のように体をまさぐられた。
初めは耳だけでイってしまい、次に性器をしごかれてはイき、その次は雫の大きなものとひとまとめにされながらイき、またその次は…最後までしてはいないものの、ひたすら大人の階段を登っている。
ヒスイはハッとした。
「流されてる…? え、大丈夫…?」
ムードが欲しいとは言った。童貞なんだから夢ぐらい見たい。
結局、なんやかんやムードなんかない。抵抗するのにやんわりと交わされエッチなことをしてしまう。
完全に流されてないか、これ?
ぼーっと噴水と眺めていると突然、ぽん、と肩を叩かれ「ぎゃんっ!」と飛び上がった。
「び、びっくりした…」
「ごめんね、可愛い子くん。結界監視科の準備室へ行きたいんだけど、道わかる?」
ヒスイは声をかけてきた男を見上げた。
雫と同じぐらいの背と体格の大男だ。黒のスーツをビシッと着て、黒い髪の毛をオールバックにしてさらに黒縁のメガネをかけている…そして気味が悪いほどに笑顔を浮かべている。
まるで仮面を貼り付けたような笑顔に、ヒスイは寒気を覚えた。
「あ、えと…」
「結界監視科の準備室。わかる?」
「こ、こっちです…」
誰だろう、外部の人間とはわかるけれど、関係者以外は首からプレートをぶら下げるのにこの男にはない。
でもだからといって、一度見れば忘れないほどの印象を与えるこの男は学園関係者では決してない。
しかも用事があるのは雫らしい。
ふわりとタバコの香りが漂う。恐らくこの男が吸っているのだろう。
なんか色々怖いと思いながらも、ヒスイは案内してあげた。
結界監視室の隣にある準備室のドアを開ける。相変わらず雫は本を読んでいた。
「あ、あの、お客様が…」
「あ?」
顔を上げた雫が一瞬びっくり顔になるが、すぐにその顔がほどけた。
「黒曜(こくよう)? お前なにしてんだよこんなとこで」
「お前が呼び出しておいてなんだその態度は」
「そういやそんな約束してたな」
「それよりタバコ吸っていいか。死にそう」
「いいわけないだろ。そのまま死んどけ」
トークの内容からして友達かな、とヒスイは推測する。
「アイツは元気か?」
「あぁ、相変わらずうまそうに肉食ってる。それを見てるだけで俺は幸せだ」
「悪趣味だな」
その証拠に、笑う雫がいつもと違う顔をしている。
自分に見せる表情とは違う、もっと砕けた表情なのだ。
男ががちらりとヒスイを見た。
「案内ありがとう、可愛い子くん」
「勝手に俺のに話しかけんじゃねえよ」
「あ、この子があの子か。初めまして、黒曜と申します。コイツの親友だ」
「悪友の間違いだろ」
「同じだろ。タバコ吸っていいか?」
「死ね」
そう言って雫と共に男が…黒曜が笑う。すぐにヒスイは部屋を飛び出した。
ぽてぽてと中庭を歩く。
(なんか楽しそうだったな)
自分には友達がいないので、感覚的によくわからない。
(友達ってああいう感じなのかな…)
ずっとひとりで過ごしていた自分にはよくわからない。
(雫くん笑ってた。楽しそうだった)
ちくん、と胸が痛む。同時にざわざわと暗い感情が湧き上がってくる。
ざわざわして、どろどろして。サタンが出てきたときよりもっともっと黒が暗くて深い。
初めて出てきた感情に意味がわからなくて首を傾いでいると「ヒスイ先生」と呼びかけられた。
「あ、どうも…」
この間結婚したと聞いた事務員だ。
「さっき案内してたの黒曜さんでしょ? 初めて見たわ~」
「? 有名人ですか?」
「あら知らない? 雫先生の前にいた大学の有名人。かなりヤンチャしてたらしくて、雫先生と黒曜さん二人合わせて双頭の悪魔ってよばれてたらしいよ~。ウケる」
悪魔。
そういえば雫と二度目ましての時も似たようなことを思った。
それに黒曜は全身真っ黒なのでその言葉がぴったりだ。
「なんかその大学の爆破事件の時も二人してその場にいたらしいし、なんか怖いわ~」
「爆破…」
「魔法大学が爆破って相当だもんね。エリート大学でも色々あるのね~」
知らない。
全部全部知らない。
(そういえば僕、雫くんのこと何も知らないや…)
話せるほどの長くて濃い人生を送っていない。人生の大半は、森の中でじっとしていた。
でも雫は違う。
人と関わり、教育を学び、人間としての人生を歩んでいる。
「黒曜さん何しに来たのかしら~。スカウト?」
「スカウト?」
「ほら、雫先生って魔法省の内定出てたけどそれ蹴ってウチに来たらしいじゃん? 黒曜さん魔法省の人だからね~。ほら、襟元にピンバッチ付いてたでしょ? 銀色の。アレ魔法省の人付けてるんだって~。…説得でもしに来たのかしら。いやいや、ただでさえウチ弱小だから出て行かれたらとんでもなく困る…!」
ーーヒスイはとぼとぼと町中を歩いていた。
今日の授業はもうないのであのまま帰ってもよかったが、なんとなく家に帰りたくなかった。
(あの人、マホウショウの人なんだ…)
サタンと初対面を果たしたのち、森一個を丸々吹き飛ばしてしまった。いくら魔法使いでも不可能な出来事なので、魔法省が勘付き始めただろう。
不可解な何かが起こっている、と。
特に行く場所もなくブラブラしていると、ふと黒スーツを着ている男に目が止まった。
(あのピンバッチ…)
事務員から教えてもらった、魔法省の人間が付けている銀色のピンバッチ。黒曜が付けていたのと同じものを身につける男がいた。
ヒスイは咄嗟に建物の影に隠れ、他人から視認できないよう自身に魔法をかけた。
(この魔法は人間は道具がないと使えないって雫くんが言ってたから…たぶん気づかれないよね)
こそこそと男の後を付いていく。男はすぐに同じ服の男と合流した。
「どうだ?」
「それらしき者は…って言っても情報がなさすぎて困る」
「サタンがどんな姿してるかわかんねえからな。…ホントに息子がいると思うか?」
思わずヒスイは飛び上がりそうになる。
「わからん。でもま、サタン以外だと森吹っ飛ばせるやついねえだろ」
「確かに」
男たちが笑いながら町中へ消えてゆく。ヒスイはそれ以上追いかけず歩みを止めた。
「…」
この男たちと黒曜、何か関係があるんじゃないかとつい邪推してしまう。
そんなことない、友達だと言っていた…わかっているけどわからない。
ぐるぐるぐるぐる。思考が回る巡る回る巡る。どれだけ回転しても答えなんか出てきてくれやしない、なんだったらイライラやざわざわとした暗い感情が押し寄せる。
(…帰ろう)
魔法を解こうとした瞬間だった。自分の意識より早く、バチンッ、とヒスイだけが聞こえる音で魔法が勝手に解かれた。
「??」
今のはなんだろうと思うも、もう考えるのが面倒になりヒスイはそのまま学園内の家へ向かった。
「おかえり」
家に帰るとすでに雫が帰宅していた。丸椅子に座って本を読んでいる。
ひくひく、とヒスイの鼻が動く。
「…タバコくさい。あの人家に入ったの?」
「誰が入れるか」
「じゃあなんでこの匂い…」
「服についてんのかな。アイツすげーヘビースモーカーだしな」
雫は本に目を落としたままだ。こっちすら見てくれない。
ざわざわ、ざわりざわり。胸の奥が変だ。黒いもので溢れかえる。
だめだ。抑えられない。
「…け」
「あ?」
「出て行け…そんな匂いさせるくらいなら出て行け!」
ぱっと顔を上げる雫がぎょっとする。だろうなあ、と自分でもわかるほどに涙がこぼれ落ちているのがわかるから。
「ヒスイ?」
「出て行け! 出て行けっ! その匂いきらい! だいっきらい!!」
一瞬にして本を投げ捨てた雫が部屋の奥へと消える。
別に怒りたかったわけじゃない。別に泣きたかったわけでもない。
だけど、この匂いを鼻にしたらもうだめだった。
この匂いへの苛立ちや怒鳴ってしまったことに対する罪悪感、そんな中の激しい頭痛にもうわけがわからない。
涙で視界がゆらゆら揺れる。声を押し殺して泣いていると、五分ぐらいして雫が戻ってきた。
「ヒスイ」
見上げると雫がパンツ一枚で立ち、髪の毛は水気でびしゃびしゃで、体からはほかほかと湯気が出ている。
…なぜ湯気。
「シャワー浴びてきた。髪も洗ったし体も洗った。さっきの服はゴミ袋二重にして外に出した。後で捨ててくる」
「…?」
なぜ捨てる必要が?
「ちょっと待ってろ」
そう言ってヒスイは棚からスプレーを取り出した。服やソファーに振りかける匂い消しのスプレーだ。
「雫くん…髪の毛乾かさなきゃカゼひくよ?」
こちらの心配をよそに雫は部屋中に一心不乱にスプレーを振り撒いている。
狭い家なので、一気に湿度が上がった気がした。そしてスプレーは一本丸ごと使い切った。
「ヒスイ、まだ匂いするか?」
「匂いっていうか、このスプレーの匂い…」
シャボンの香りと書いているが、匂いが充満しすぎて果たして何の匂いかわからない。
「タバコの匂いは」
「しない…」
「…よかった…」
雫が盛大に息を吐いた。
髪の毛が濡れっぱなしでパンツ一枚で消臭スプレーを手にし必死になる大男を見て、ヒスイはつい吹き出してしまった。
「あはは、あははっ、雫くん、おかしっ」
「あのなあ、俺は肝を冷やしたぞ」
「?? 体ほかほかだよ? ほら」
雫に抱きつくと、まだあたたかい。少し長めの髪の毛からヒスイの頬に水が垂れ落ちた。
その水滴を涙と共に雫に強引に手のひらで拭き取られる。
「……その……悪かった。お前がここまで嫉妬するとは思ってなかったんだ。…んだよその顔」
あのいつも偉そうな雫くんが謝ってる、と顔に出たのだろう、みょん、と頬を引っ張られた。
「いひゃい」
「この俺が謝ってるっつーのに余裕だなあオイコラ」
「僕は何も悪くないよ?」
「……」
流石にこれ以上は何も言えないらしい、固まってしまったので一度雫から離れてタオルを持ってきてあげた。それを受け取った雫がベッドに腰掛けるので、その隣にヒスイも座る。
前髪をかき上げられる。心配そうな瞳で覗き込まれた。
「まだ怒ってるか?」
「怒ってないけど頭が痛い」
そう申告すると「すんませんでした…」とぶつくさ謝りながら額にキスされた。
雫が膝を抱えると抱き込むように腕が伸びてきた。
「僕あの人きらい…」
「黒曜か?」
「…なんか怖い」
頭の上で吹き出された。
「あの笑顔は気持ち悪いよな。ちなみに俺は初対面でバカ正直に言ったせいで殴り合いの喧嘩に発展した」
「えぇー…」
「その時俺は痛感した。最終的に魔法より腕力が必要だと」
もしや体が仕上がっているのはそのせい?
「…ほんとに友達?」
「気持ち悪いことを言わんでくれ。黒曜にだってちゃんと特定のパートナーがいる。そいつを溺愛してんだよ」
「……そっか」
「まあ似たような境遇っちゃあ境遇だな、俺たちと」
「?」
「キメラなんだよ、黒曜のパートナー。一年…二年前か? 前にいた大学のときの話だけどな、大学内で爆発があったんだよ」
さっき中庭で会った事務員が言っていた、爆破事件のことだろう。
「興味本位で見に行ったら俺たちが第一発見者で、キメラが生まれてた。近くにぶっ倒れてるヤツがいて、たぶんそいつが魔法で作ったんだろうけど、たぶん人間と猫とのキメラだろうな。色々混じってるっぽい。そいつ今でも精神混乱で入院中。いまだに話聞こうにも聞けないでいる。で、黒曜はそのキメラに一目惚れ。アイツでろんでろんになるぐらいキメラに惚れてんだよ」
「雫くんはキメラさんにそのあと会った…?」
「一回だけな。黒曜が魔法省に就職して引っ越しの時に見た。外部の人間に任せるわけにもいかねえから手伝った。挨拶したら引っかかれたよ」
「ちゃんと…生きてた?」
「ちゃんとした生活送ってる。生まれたときとは比べ物にならねえぐらいイキイキしてた」
ヒスイはほっと胸を撫で下ろす。
半魔である自分は駆除対象だろう、恐らくそのキメラも同じだと思い、その後の生活に一瞬不安がよぎったのだ。
よかった、と口にすると頭を撫でられた。
「お前は優しいな、ヒスイ」
ヒスイはその手を取り、そっと頬に当てる。
ーーあったかい。
この大きな手のひらがいつも安心をもたらしてくれる。
目を閉じ、大好きなその手にすり寄った。
「雫くんの昔の話…もっと聞かせてほしいな」
ーー思いは声に出さないと伝わらない。雫から教わったこと。
ちゃんと口に出さないとわからない。心の中で思っている、願うだけじゃ何も伝わらない。
聞きたい、知りたい、この人のことをーー。
「……双頭の悪魔についても知りたいなあ」
「!! なんでお前が知ってやがる!! 誰が俺の黒歴史話しやがった…!」
それからベッドに転がって、雫の腕の中でたくさんの話を聞いた。
雫の好きな食べ物は意外にも果物で、嫌いな食べ物はないこと。酒はとんでもなく強く、どれだけ飲んでも一度も酔った試しがないこと。本は小さい頃から読んでいたため習慣になっていること。なんとなく魔法使いへの道を選んだこと。思ったより適正があったためにエリート校に進んだけれど、実際は殴る蹴るの方が早く、学生時代は喧嘩っ早かったこと。
結界監視を専門としたのは、対魔族の際に後方支援に回るため授業がラクに進むのではと思ったから。実際はとんでもなく面倒な科目だったのは後で気づいたこと。
今回、魔法省の黒曜がやってきたのは吹き飛ばしてしまった森に関する噂話の真相を確かめるために雫が呼んだこと。
「もしかして結構大ごとになってる…?」
「森一個吹き飛ぶってないからな」
サタンが張った結界ごと吹き飛ばしたのは少々やりすぎたらしい。
「…もう自己犠牲なんかやめてくれ」
強く抱きしめられ、ふふ、と笑ったヒスイは雫の頭を撫でる。
「そんなこともうしないよ。僕には大切な人がいるんだから」
「ほー。誰か教えてほしいもんだな」
「あはは」
「笑って誤魔化すんじゃねえ」
二人して笑った。
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