紅蓮慕情

井海博人

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酔惑 五

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 先に風呂に入ってから、俺はひとまず姉の携帯に電話をかけてみた。

『あ、和くん?』

 すぐに俺の着信に応じた姉の声は、何だかいつになくはしゃいでいる。

「姉さん今どこ?」

 飲み屋にでもいるのか、やけにうるさい姉の背後の声に負けないように少し大声で問いかけると、元気な声が返ってきた。

『まだお店』

「何時頃帰ってこれそう?」

『うーん、あと一時間くらいかな』

「俺、駅で待ってるから」

『えー、そう? じゃあ、あんまり遅くならないようにお店出るから』

 姉が通話を終える時、「誰々? 和臣くん?」と姉に問いかける小山内琴子の声が聞こえてきた。

何の話題が出たんだか知らないが、随分盛り上がっているらしい。

今日も日中は結構湿度が高くて暑かったのに、珍しく姉は熱中症にかからなかったのかと電話を切ってから心配になった。

 俺は携帯を持つと、玄関に鍵をかけて部屋着のまま少し早めに家を出た。

夜になって気温は多少下がったようだが、アスファルトから放出される熱で蒸され続けた真夏の都心は天然のサウナ状態だ。

 最寄りの私鉄の駅の改札で待っていると、十一時半近くなって姉がひらひらと手を振りながら疲れた様子もなく姿を現した。

夏らしい白いワンピースにざっくりと編まれたカーディガンを羽織り、足元にはミュールを履いている。

髪の毛は珍しくポニーテールだ。

「お帰り」

 声をかけると、ご機嫌な笑顔で「ただいま」と返してくる。

酒が入っているのか、目の周りがほんのり赤く染まり、全体的に血色がいい。

姉は酒にはかなり弱い方だが、親しい友人と一緒ということで悪い酒ではなかったようだ。

逆に血の巡りがよくなっていつもより元気な感じだ。

化粧直しを忘れたらしく、若干鼻の頭がてかっている。

隣に来ても煙草の臭いはしないから、飲み屋にいたわけではないのかもしれない。

 歩き出しても姉のニコニコ顔が止まらないため、俺は思わず尋ねていた。

「何? 何かいいことあったの?」

 すると、姉は「ふふーん」と得意げに鼻で笑ってみせる。

「今日、きれいになったねって言われちゃった」

 聞いたとたん、何だそんなことかと思ってしまう。

あえて今さら言わなくたって姉は前からきれいだし、姉だって決して奢ることはないもののそれなりに言われ慣れているはずなのに、その言葉のどこがそんなに嬉しいのか俺にはよく分からない。

まぁ、女ならいつどんな場面で誰に褒められても喜ぶことは間違いないだろうが。

 だが、そう言われて改めて見直すと、確かに最近の姉は妙に色っぽいというか艶っぽいというか、肌艶もよく腰も引き締まり、より女らしい体つきになった気がする。

仕草にも色気が滲み出ていて、顔からも以前はまだ少しだけ残っていた幼さがすっかり抜けきったような……。

俺に抱かれていることで、女性ホルモンの働きが活発になっているせいかと自惚れていいところだろうか、ここは。

「姉さんは、前からきれいだよ」

 俺がつぶやくように言うと、姉の顔がとたんに輝いた。

「本当?」

 と聞きながら俺の腕にしがみついてくる。

おまけに甘えるように顔を擦りつけてきて、気のせいか胸まで押し付けてきてないか? 

相手が俺じゃなかったら、どう考えても誘われてると勘違いするところだ。

最近では人前での俺と姉は元の仲のいい姉弟に戻っていたが、それでも姉が自分からこんな風に俺に触れてくるのも久々のことだ。

「姉さん、酔ってる?」

 俺が姉の腕から逃れようとして疑問を投げかけると、「酔ってないよー」という軽い口調が聞こえてきた。

――絶対酔ってる。

「そんなにきれいになったのは、誰か好きな人でもできたからなのって聞かれちゃったんだ」

 続けて姉の口から出てきた言葉に、俺の思考はしばし停止した。

「え……姉さん、好きな奴とかいるの?」

「いると思う?」

 聞き返した姉は何だか意地悪な笑顔を浮かべている。

姉もこんな小悪魔的な笑いを作るんだな、と俺は変なところで感心した。

「もしかして、横川?」

 恐る恐る尋ねると、「違うよ!」という怒鳴り声と共に般若の形相が返ってきた。

何か、酔ってる姉はコロコロ変わって扱いにくい。

「じゃ、誰?」

「好きな人がいるなんて、言ってないもん」

「なんだ、いないのか」

「いないとも言ってないけど」

「どっちだよ」

「どっちだと思う?」

 姉は目をキラキラさせて俺を見上げる。

 明らかにからかわれてる気がするんですけど。

「もう、酔っ払いは黙ってろよ」

 少しむかついた俺が指先で唇を摘まむと、姉はアヒルみたいな変な顔になる。

「酔っ払いじゃないもん!」

 子供かよ。

「はいはい」

 ほっぺた膨らませて怒っても可愛いだけだから。

 姉を軽くいなしながら、俺もちょっとばかり心が浮き立っていた。

恋人みたいに腕を組んで、恋人みたいに他愛ないやりとりをして。

それで幸せだと感じられるなら、明日には俺と姉の関係がいつも通りのものに戻っているのだとしても、もう少しこの偽りの時間を楽しんでいたかった。

けれど、駅から自宅までどんなにゆっくり歩いても十分はかからない。

その距離の短さが今日ばかりは恨めしかった。
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