モーニンググローリー(仮)

66号線

文字の大きさ
上 下
10 / 28
第2部 日本・東京

第9話

しおりを挟む
 渋谷はうんざりするくらい人ごみに溢れている。

 話には聞いていたが、俺の予想をはるかに超越したレベルだと思った。犬の銅像がある有名な待ち合わせスポットあたりなんか、通行人にぶつからないで歩くのすら難しい。
 仕事や学校帰りの夕方五時。プラットフォーム内には帰路につく人々でごった返している。今日も何とか事なきを得て一日が無事に終わった。乗客が発する雑踏と熱気を肌で感じながら乗り換えるため改札口を目指す。
 俺は三十五年間過ごしたロンドンを離れ、東京に行く決意をして数カ月が経った。ほとんど頼れるツテも無いのに、思い切った決断をしたものだと我ながら無鉄砲ぶりに呆れる。
 もちろん一時的な観光ではない。俺を駆り立てたのは二十年近く離れていた母親にもう一度会ってみたいという単純な動機。そして、俺が持っていたかもしれないもうひとつの人生を味わってみたかったという欲求だ。「日本人として日本で生きる」というシンプルな生き方を。
 見てくれは少し変わった東洋人だが、イギリス・ロンドン生まれという肩書きが買われて総合教育施設の英会話講師の職を得た。システムエンジニアとしての職歴もあるため、併設であるパソコン教室の講師も掛け持ちして何とか糊口を凌いている。「こぐちをしのぐ」なんて難しい慣用句どころか、つい最近まで漢字がほとんど読めなかった俺が教育施設で働くのはどことなくこそばゆさを感じる。日本人として日本で生きたい。と思いながら「イギリス・ロンドン生まれ」というだけで仕事を貰うのにも少し抵抗がある。でも食うためには仕方がない。
 JR渋谷駅徒歩十分の立地にある総合教育施設「スクール中谷」には、俺と似たような境遇の奴らが集まっていた。パソコン教室の同僚は無口で理論的な奴が多く、対照的に英会話教室にいる講師たちは陽気でおしゃべりだった。ヨリコという名の日本人とロシア人のハーフの女講師は出逢い頭にいろいろ話しかけてくれ、俺はお陰で日本語を急速に覚えた。
 いつも笑顔の絶えない女性で、校内のアイドル的存在だった。受講生の評判もよく、他の講義の先生からも好かれていた。
 彼女は俺の歓迎会を開いてくれた。ヨリコには日本語でいう「ぶりっこ」的なあざとさはなく、かといって変に気取っているわけでもなかった。笑いを誘う場面では率先して道化師の役を演じることもあった。何よりも一緒にいて、話していて楽しい。酒の力も借りて、俺はヨリコに話しかけまくった。俺はすっかりヨリコのことが好きになっていた。
 だから、ヨリコの歩んできたこれまでの人生が絶望的に暗いことに俺は茫然とした気持ちになった。
しおりを挟む

処理中です...