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桜色の大岡山

始まりの夜

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 薫を前にした雅は少しうなだれ、こう切り出した。

「今まで会えなくてごめんなさい」

 ぐっと言葉に詰まった。本当は思いっきり責めたい気もしたが、雅の目に哀しみが垣間見えた。

「何を話していいかわからないわよね」

「……はい」

「私もよ。ききたいことが沢山あるし、話したいこともありすぎて気持ちが追いつかないわ」

 そう言ったあとで、ふと雅が怪訝そうな顔になった。

「大丈夫? 顔が青いわ」

「あ、はい。でも、大丈夫です」

 薫はそっと窓に目を向けた。軽自動車はまだ駐車場に停まっているようで、微かな不協和音がまだ響いていた。
 すると、その視線に気づいた雅は足をひきずりながら窓辺に向かい、カーテンの隙間から外を覗き見た。

「あら、車がある。お客様かしら。困ったわね、もう今日はお店を閉めちゃったのに」

 彼女はキッチンに向かってのんびりと声を上げた。

「詠ちゃん、大輝ちゃん、アルミホイルをお願い」

「はいはい」

 グラスと冷えたビールを乗せたお盆を運んできた詠人と、アルミホイルを手にした大輝が戻ってきた。

「ありがとう」と、雅はアルミホイルを広げ、おにぎりを三つほど手早く包む。

「それ、どうするの?」

 薫が思わずたずねると、雅がふふっと笑う。

「お腹すいてるかもしれないからね」

 包み終えたおにぎりをひょいと持ったのは大輝だ。

「お願いね、大輝ちゃん」

「わかってますよ。すぐ戻ります」

 そう言い残し、大輝が玄関に消えていく。

「あの、彼はどこに?」

「いいから、いいから。取り皿を並べるの手伝ってちょうだいな」

「あ、はい」

 薫は首を傾げながらも、言われるがまま取り皿や箸を並べる。
 しかし、それからすぐのことだ。彼女はハッとして窓を見た。不意にあの不協和音が止んだのだ。

「うん? 薫ちゃん、びっくりした顔して、どうかした?」

 詠人がきょとんとする。

「あ、いえ、なんでもないです」

「そう? それにしても謙虚な子だねぇ。清良ちゃんより雅さんに似たのかな」

 謙虚なのではない、臆病で小賢しいのだ。そう、心の中で自嘲する。
 その様子を見ていた雅が何か言いかけたとき、大輝が戻ってきた。手にしていたアルミホイルは消えている。

「お客様は明日出直してくださるそうですよ」

 薫は目を見張った。彼があの軽自動車のところへ行って何かしてきたのは明らかだ。

「あの、一体何をしたの?」

 大輝が涼しい顔で答えながら、席に着いた。

「お客様に営業時間のご案内をしてきました。夕食はこれからだというので店に入れないお詫びも兼ねておにぎりを差し入れたんですよ。それからこの辺りの夜はまだまだ冷えるから、車内泊をするなら山を降りなさいとアドバイスを」

 そして詠人にこう言った。

「最後に、よつばポストの話をしておきました」

「ああ、了解。そっちのお客さんか」と、詠人が頷く。
 薫が「よつばポスト?」とたずねると、詠人は得意げに胸を張った。

「我が工房のシンボルだよ! 明日、案内してあげるからね。まずは歓迎会だ!」

 そう言うと、彼はキッチンに走る。そして戻ってきたときには生クリームのホールケーキを手にしていた。

「……嘘でしょ」

 薫が口を両手で覆う。ケーキに乗ったチョコレートのプレートには『ぐんまへようこそ』の文字。

「あ、もしかして生クリーム嫌い? チョコレートのほうが……って、えっ? 薫ちゃん?」

 詠人がぎょっとする。薫が顔を真っ赤にし、目に大粒の涙を浮かべていた。

「ああ! まさか甘い物嫌いなパターン?」

 うろたえた詠人に、薫は無言で頭を振る。

「ちが、違うの」

 薫は自分でも驚くほど胸が熱くなるのを感じていた。テーブルの上の料理が滲んで見えなくなる。

「誰かの手料理なんて、久しぶりで」

 そう言うと、ぐっと泣くのをこらえ、深呼吸をした。

「……すみません」

「もう、またそんなことを」と、雅が進み出る。

「謙虚が美徳とは限らないわ。だって、こういうときは素直に『嬉しい』とか『ありがとう』って言ってもらえたほうが嬉しいもの」

 言葉は丁寧でも声の調子に母親の遺伝子を感じる。薫は思わず苦笑いした。
 すると、雅が呆れ返った様子で言う。

「さっきから感じていたけど、まぁ、あなたって不器用というか、生き方が下手というか」

「へ、下手ってどういう意味ですか?」

「そのままの意味よ。あなた、ここに来てよかったわね。今はわからなくても、いずれそう思うわ」

 同じ言葉を耳にしたばかりだ。思わず大輝を見ると、彼は涼しい顔のままグラスにビールを注いでいる。

「さあ、はじめよう」

 詠人がそれぞれにグラスを手渡す。雅がにこやかにグラスを掲げた。

大岡山おおおかやまの暮らしに乾杯」

 グラスの音が響いた途端、不協和音のせいでもやもやしていた胸がスッとした。ここは大岡山という地名なのか。そう、ぼんやり考えながらオレンジジュースが喉を落ちていくのを感じる。すうっと肩の力が抜けるようだった。
 食事の最中、萎縮した薫が自分から話をすることはなかったが、それでも詠人の陽気な人柄が功を奏し、始終朗らかな雰囲気に包まれていた。

「薫ちゃんは猫って好きかな?」

「あ、はい」

「良かった! うちの看板猫はそりゃあもう可愛いんだ。早く会わせたいな」

「はあ」

「明日、うちの工房に来てよ。ねえ、雅さん、俺がこのへん案内してもいい?」

「あなたのお好きなように」

「やった! というわけで、明日の朝、工房に来てね」

「じゃあ、あの、よろしくお願いします」

 軽薄で強引な男は嫌いなはずだった。なのに、詠人のリードが今はありがたい。彼がいなければ、きっと黙ったまま料理を口に押し込んでいただろう。
 歓迎会がお開きになったのは、午後十時過ぎのことだった。

「それじゃあ、明日ね」

 ウイスキーでほろ酔いの詠人がひらひらと手を振りながら玄関に向かう。大輝は静かに一礼をして、背中を向けた。
 櫻井親子が帰っていくと、急に家の中がしんと静まり返った。

「薫、案内するわ。ついてきて」

 雅がそっと手招きする。

「ここがトイレ。そっちがお風呂。タオルは棚にあるからね。歯ブラシも出してあるわ」

 水周りの説明が終わると、彼女はリビングの奥にある扉を開けて薫を招き入れた。

「ここがあなたの部屋。殺風景でしょ? 今まで使っていなかったものだから」

 そこにあったのは真新しいシングルベッドと布団、そして小さなテーブルだけだった。

「これから少しずつ、あなたの物を増やしていってね」

 そう言うと、雅がそっと薫を抱き寄せた。目を丸くしていると、ふわりと優しい匂いが鼻をくすぐる。

「今まで会えなかった時間を、ゆっくり取り戻していきましょう」

「……きいてもいいですか?」

 薫がそっと雅を押し戻し、見据える。

「どうして急に私と母を呼び寄せようとしたんです? どうして今まで一度も会ってくれなかったの?」

「そうね、どうせ清良は何も話してないんでしょうし、しかるべきときに話すわね。ああ、ごまかしているんじゃなくて、焦らないで欲しいだけ。だって、今、あなたに必要なのはお風呂と睡眠よ」

 そう言うと、雅は扉を閉めながら、いたずらっぽく微笑んだ。

「でも、やっぱり焦るわね。せめて、敬語はやめてちょうだい。じゃあ、また明日」

「あ……うん、あの、おやすみなさい」

「おやすみなさい」

 扉が閉まり、雅の足音が遠ざかる。薫はベッドにおそるおそる腰を下ろし、そのまま仰向けに寝転んでみた。ふわっとした感触のあとに体の芯がじんと伸びる快感、そして眠気が一気に襲う。

「これからどうなっちゃうんだろ」

 何もない部屋はやたらと声が響く。初めて見る天井はシミひとつなく、照明も新品同様だった。
 ふっと、大輝と祖母の顔がよぎる。

「ここに来て良かったなんて、思えるのかな」

 二人とも同じことを言っていたのは単なる偶然なのか、それとも何か示し合わせていたのか。
 進学が途絶えた今、薫には夢もない。やりたい仕事もなければ、恋人もいない。ここにいる理由もなかった。ただ、そうするしか選択肢がなかったのだ。
 部屋は広い。けれど、心は窮屈で、どうしようもなく孤独だった。

「お風呂は朝にしよう」

 どんどん瞼が重くなり、彼女は誰に言うでもなく呟いた。すれ違ってばかりの家族との十八年間は、彼女に独り言の癖をつけてしまっていた。

「そういえば、おばあちゃんの店ってなんだろう?」

 その言葉を言い終えるや否や、薫の目が閉じた。

 こうして、大岡山のふもとでの生活が始まった。
 祖母と櫻井親子との暮らしはちょっと不思議でどこか切ないものだということも、その日々が思った以上に自分を変えてしまうということも、ベッドで寝息を立てる薫はまだ知る由もなかった。
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