上 下
11 / 30
若苗色の親子

動き出す

しおりを挟む
 住宅街のはずれに小さな神社があった。永らく手入れもされていないように見える境内の桜はすっかり葉桜だ。

 そこに一人の女がやって来た。ろくに化粧もせず、一つに結い上げた髪は幾分かほつれているが、愛嬌のある顔立ちだった。
 女は背中に赤ん坊を背負い、右手に幼児の手を引いていた。赤ん坊は一歳頃、幼児は三歳ほど。

 幼児は朽ちて変色した地面の花びらを興味津々といった顔つきで見ている。母親は「なに、花が咲いていたときには全然食いつかなかったのに、散ったら面白いん?」と呆れ顔だ。

 幼児は母親の手をふりほどき、きゃっきゃとはしゃぎながら萎れた花びらをつまんで遊び始めた。

「ああ、手が汚れるよ!」

 苛立たしげに言ってから、自分でも驚くほど口調が強くなったことに気づき、ハッとした顔になる。胸に広がるのは罪悪感だった。

「もう嫌だ……なんでこんな想いしなきゃいけないんだろう。どうしたらいいの?」

 無邪気な幼児の姿に、彼女は「本当にわからない」と呟く。そよ風になびく青葉を見ていると、その鮮やかな色が痛いほど眩しい。ふるっと涙が溢れるのをそのままに、彼女はしばらく揺れる葉桜を見ていた。

 その神社の脇を、一台の車が通りすぎた。運転席には雅が、そして助手席には薫の姿がある。

「買い忘れ、ないわよね?」

 雅がたずねると、だらしなくシートに身を沈める薫が「多分」と小声で返事をした。

「もう、薫ったらいつまで落ち込んでいるの」

「だってぇ」

 薫が深いため息をつく。

「自分がこんなに役立たずだとは思わなかった」

「まあまあ。慣れよ、慣れ。まだ始めたばかりじゃないの。今日は初めてのお休みなんだから、仕事のことは忘れましょう」

 雅の野菜直売所『うまいもんや』で働き始めて、一週間が経っていた。パート従業員が数人でシフトを組んでいる中で、雅と薫はフルタイムの出勤。定休日は火曜日だ。
 初日から慣れないことばかりで困惑の連続だった。野菜の知識がなく、ちょっと珍しい商品はラベルを貼るのも一苦労だ。

 ある日、薫は青々とした葉をつけた細長く白い根菜を見つけ、パート従業員に声をかけた。

「すみません。この野菜、なんでしょう?」

「これ? 大根だよ」

「えっ、これが? 大根ってもっと太くて長いでしょう? これ、人差し指くらいしかありませんよ?」

 パート従業員がケラケラ笑う。

「薫ちゃん、スーパーで売っている野菜の形がすべてじゃないのよ。太くて長くないから大根じゃないなんて物差しじゃ、ここじゃやっていけんよ」

 大らかな年上のパート従業員たちと話していると、自分が世間の常識や礼儀もろくに知らないだけではなく、ものの見方が杓子定規なのだと気づいて恥ずかしかった。

 ここでの接客は柔軟さが重要だった。何気ない世間話から野菜の保管方法、おすすめの調理法と、客との話題はマニュアル通りにはいかない。
 おまけに客やパート従業員だけではなく、生産者とも打ち解けなくてはならない。しかし、自分から距離を詰めるのが苦手な薫は、いつも相手に助けられては自己嫌悪するのだった。
 くわえて販売、事務、管理と覚えることは山積みだ。祖母が手がけるおにぎりや総菜の仕込みもある。この一週間、薫は仕事を終えるとぐったりと項垂れる日々だった。

 そんな薫を見かねて、雅は詠人や大輝とバーベキューをしようと提案したのだった。
 後部座席に買い出しの荷物を積み、車は大岡山を登っていく。彼女たちが櫻井ガラス工房に着くと、その店の脇で詠人たちがキャンプ用の椅子とテーブルをセッティングし、炭火を起こしていた。

「おまたせ」

 雅がビールや肉などの荷物を持っていくと、詠人が「やったあ、ビールだぁ」と声を弾ませた。

「では、始めましょうか」と、大輝が紙コップを並べる。
 詠人は白い歯を見せて笑っていた。

「薫ちゃん、食べたいものがあったら焼くから言ってね」

「あ、はい」

 仕事を始めてから、櫻井ガラス工房の二人と顔を合わせる機会も減り、ずいぶん久しぶりに話したような気がする。

「ねぇ、大輝さん」

 乾杯のあと、薫は肉を焼く大輝に話しかける。

「なんでしょう?」

「あれからよつばポストに飛ばせそうな想いは届いたの?」

「いいえ。手紙は幾つかありましたがね、飛ばせるほどの強さもありませんでしたね」

「そっか」

「どうしてです?」

「うん、また儀式を見たいなっていうのもあるんだけど、気になっていることがあって」

 薫が眉根を寄せた。

「私が群馬に来たときね、シルバーの軽自動車が前を走っていたでしょう?」

「ああ、はい」

「あの車に乗っていた人って、また来たの? あれからどうなったのかなって思ってさ」

「あの人が来たなら不協和音がするから薫さんも気づくでしょう?」

「仕事で手一杯だもん、聞こえないかもしれないでしょう」

「ああ、苦戦しているんですね」

「うるさいわね、どうせ私は世間知らずの若輩者ですよ」

「そんなこと言われたんですか?」

「いや、言われているような気がするだけ」

「どうしてあなたはそうネガティブなんですか」

「で、どうなったの?」

「父曰く、ぐるっと店を見て何も買わずに帰ってしまったそうです」

「なあんだ。なら、いいけど。でもまた来るかもね」

 ふっと大輝が黙り込む。薫を高楯湖に案内したとき、展望台で詠人から『シルバーの軽自動車に乗った客が来た』と電話で連絡を受けた。しかし、大輝が店に着いたときには既に帰ったあとで、それっきりになっている。

 客の特徴を聞くと、あの日の軽自動車の運転手と同じだと思われた。大輝がおにぎりを渡した相手は目が小さく、少しふっくらとした地味な男だった。

『何かお困りですか?』

 そう尋ねると、男がおずおずと言った。

『よつばポストっていうのがあるって聞いたんです。願いが叶うって評判だから』

 翌日の営業時間を案内し、大輝はおにぎりを「もしよかったら」と、手渡した。男は素直に受け取り、嬉しそうな顔をしていた。一見すると人好きのする顔だったが、彼から感じる色はひどくくすんでいた。

『来なければ来ないでいいんですけどね。薫さんが気になるということは、まだご縁があるのかも知れませんね』

 大輝は肉を頬張る少女の横顔を見て、口許を引きしめたのだった。

 その後ろで、雅と詠人は並んで座り、ハイボールを飲んでいた。

「薫ちゃんとの暮らしはどう?」

 詠人がそっと話しかけると、雅が目を細めた。

「最初はね、自分の孫って実感が湧かなかったんだけどねぇ」

 清良が離婚したと連絡してきたとき、孫がいると知った雅は嬉しさと怒りとで言葉を失い、ただ泣いた。孫がいない淋しさを堪えてきた彼女には薫の存在が輝かしく、同時に今まで一緒に過ごせなかった悔いで潰されそうにもなる。もともとは結婚に反対した自分の招いたこととはいえ、孫がいることを今まで知らせてくれなかった清良たちに憤りも感じた。
 けれど、薫と過ごせば過ごすほど、清良たちのことを責める気にはなれなかった。

「あの子、どこか清良に似ているの。やっぱり、親子なのね。一緒に過ごしているうちにね、清良たちにあんなに言いたかった文句が消えていくの。薫がいればいいって気持ちになっちゃうの」

「ああ、声なんか特に似ているよね。霊感は似なかったみたいだけど」

 大輝から薫も霊感があると聞いたときは驚いた。雅も清良もそういうものには縁がないのだ。おまけに大輝からよつばポストの儀式をするときは薫に来て欲しいと言われ、少し意外に思ったものだ。大輝は今まで、あの儀式をするときは一人でいたがったからだ。薫にどんな力があるかわからないが、大輝はそれを頼りにしているようだ。

「ねぇ、詠ちゃん」

 ほろ酔いの雅が小声で話しかける。

「薫って、自分に自信がないのよね」

「そうなの?」

「どうも薫は大人が苦手みたいなのよね。清良とうまくいってなかったのかしらね。でも大輝ちゃんがいたのが救いかな」

 彼女は、薫には大輝との時間が必要なのだと考えていた。薫は自分や詠人といるとおどおどしたり、身構えるところがある。叱られた幼子のように、何かに怯えているようにも見えた。しかし大輝といるときだけは気兼ねなく振る舞い、年相応の少女に見えるのだった。

「もう少し大輝ちゃんと会う機会が増えたらいいんだけど」

 だが、この頃では薫も野菜直売所に籠もりっきりで大輝と顔を合わせる機会も減っていた。

「いっそのこと、ガラス工房でバイトさせてもらうように頼むべきだったかしら。それかよつばポストにもっとお手紙が入っていればいいんだけどねぇ」

 雅の願いも虚しく、よつばポストには飛びそうな想いが届くことはなかった。薫は日々の業務に追われ、よつばポストの儀式に想いを馳せることがなくなっていく。

 大輝から薫のもとに『ガラス工房に来てほしい』と連絡があったのは、それから二ヶ月ほど経った頃。暦はもう六月になっていた。
しおりを挟む

処理中です...