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若苗色の親子

若苗色の言葉

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 誠が帰ると、大輝はよつばポストから手紙を取り出した。すかさずウメとタイコがひょいとテーブルに飛び乗る。

「頼んだよ」

 大輝が声をかけるや否や二匹が手紙に鼻を近づけ、尻尾を大きくゆらゆら揺らしている。

 その様子を見つめる薫は身動き一つとれずにいた。戸惑いと疑問が胸にうずまき、何か声をかけたくてもなんと言っていいかわからない。
 孤独と隣り合わせのろくでもない人生だと思っていた。けれど、もしかしたら彼もそんな寂しさを背負っているのかもしれない。そう考えると、質問することすら怖くなる。
 そんな薫に気づいた大輝は、くすりと笑う。

「……まったく、なんて顔をしているんですか」

「ど、どんな顔よ」

 ぎくりとする。大輝がそっと歩み寄り、薫を見据えた。

「一つ言っておきますけれど、哀れみだけは熨斗つけてお返ししますからね」

「なっ! 誰も可哀想だなんて思ってないわよ!」

 咄嗟に言い返したが、心の奥まで見透かされたようで思わず目をそらした。

「人間、何十年も生きていれば可哀想な瞬間なんていくらでもありますよ。お察しの通り僕にもそういう過去があって、あの人と一緒に暮らす今があるわけです。でも、だからってあなたがそんな泣きそうな顔をすることはないでしょう」

「私、そんな顔してる?」

「してますね」

「してないわよ! なんで私が泣く必要があるのよ?」

「さあ。でもあなたを取り巻く色が、とても切ない色になったから」

 かあっと薫の顔が赤くなる。

「気のせいでしょ」

「そうですか? 僕を心配してくれているなら嬉しいんですけど」

 大輝が意地悪そうな笑みになる。

「わ、私をからかってるの?」

「いいえ、とんでもない。いろいろ聞きたいこともあるでしょうけど、あとにしましょうか。ウメがインクを選んでくれるようですよ」

 薫はだんだんむかっ腹が立ってきた。何に対しての怒りなのか、自分でもわからない。ただ、彼女は子どもが拗ねるように、唇を尖らせていた。
 ウメはそんな二人のやりとりをよそに、一つの黒い箱を前脚でつついていた。大輝が箱を開けると、四角いボトルのインクが出てきた。

「へえ、なるほどね」

 彼はいそいそとガラスペンにそのインクをつけ、メモ用紙にくるくると螺旋状の線を描いた。

「ほら、薫さん。これがあの親子にぴったりの色らしいですよ」

 そのインクは鮮やかな黄緑色をしていた。薄く、柔らかく、それでいて清々しい。

「なんだかキャベツみたいな色ね」

「なるほど。でも僕には若苗色に見えますね」

「なにそれ?」

「田植えをしたばかりの苗の色ですよ」

「ふぅん、田植えをしたばかりって色が違うものなの?」

「もう少ししたら田植えが始まりますから、見てみるといいですよ」

 大輝がガラスペンを便箋に走らせる。シュッとペン先が紙をこする音が響き、次々と書かれていく文字の線が濃淡を作り出していく。
 その手元を覗き込むと、誠の短いながら切なる願いが形になっていくところだった。何度も何度も書き直し、言葉を選び、まだまだぎこちない父親に伝えようとした手紙。

『僕のお父さんになってくれて、ありがとう。お母さんを笑わせてくれて、ありがとう。大好き。でももうちょっと堂々としてね』

 おそらく、薫に不思議な力がなければ、ありきたりのシンプルなメッセージに思えただろう。けれど、大輝ににこやかに返事をして店を出た彼からは賛美歌のように純真な音がしていた。これは素直でまっすぐな性格の彼が紡いだ、澄み切った想いなのだ。

 大輝の横顔に目を移してみると、真摯な目がペン先を追っていた。その目には、あのときの誠は何色に見えたのだろうか。

『私は何色なんだろう?』

 ぼんやりと、そんなことを考えた。

『きっと、醜い色なんだろうな』

 後ろ向きでうじうじといつまでも過去をひきずる卑屈な性格は自覚している。母にも『鬱陶しい性格ね』と半分冗談、半分本気で言われていたんだから。

「さあ、書けた。タイコ、頼んだよ」

 大輝の声に、タイコが『わかってるわよ』と言わんばかりに尻尾を揺らした。
 紙面に鼻を近づけ、低く鳴く。いかにも『行け』と命令するかのような響きだ。
 ガラスペンの先からインクの文字がふわり、ふわりと浮かびだした。

「……綺麗」

 ひらひらと揺れるたび、インクの濃淡が透けて眩しい。

『私もこんな色を持てたらいいのにね』

 母を嫌い、父を軽蔑し、自分を正当化して生きてきた。鬱陶しいのも当然だ。だって、本当はもう少し自分のほうを向いてほしいだけなのだ。

「あの子は良かったよ。私みたいに言いたいこと我慢してこじらせる前に、ここにたどり着いたんだから」

 ゆっくりと流れゆく文字にそっと微笑み、薫は力強く言った。

「あの子の助けになってあげてね。いってらっしゃい!」

 すると、びゅっと一陣の風を巻き起こし、インクの文字たちが勢い良く螺旋を描き出した。最後の一文字がその流れに乗った途端、部屋を飛び出していった。
 その速さに呆気にとられていると、大輝が「やっぱりねぇ」と感心するように言った。

「薫さんの言霊って強いんですよね」

「言霊? なにそれ?」

「言葉がその通りになろうとする力とでもいいますか、薫さんが励ますと、インクの文字はすごく張り切っちゃうみたいなんですね」

「ええ! そうなの?」

「後ろ向きなことしか言わないあなたの人生が後ろ向きなの、納得ですよね」

「だからさ、もう少し気遣いってものはないの?」

 はは、と楽しそうな声を上げた大輝に、どきりとした。出会った頃はシニカルな笑みばかりだったが、だいぶ打ち解けてきたのか、ふとした瞬間にこうして屈託なく笑う。それが無防備に見えるのだった。

「でもね、その力って使い方次第ですごく素敵なことが起こりそうじゃないですか? 薫さんがインクに声をかけてあげると、もっと強く想いが届くんじゃないかなって思うんですよ」

 大輝は自作のガラスペンについたインクを拭いながら、こう続けた。

「もっと早く出会えていれば良かったなぁ。そうしたら、あの想いもうまく届いたかもしれない」

「あの想い?」

 大輝がそっとガラスペンを置き、薫に向き直った。

「僕が妻にあてて飛ばした想いです」

 頭を殴られたような衝撃が走った。驚きのあまり声も出ず、ただただ口をあんぐりさせる。

「そんなに驚かなくても。僕だって二十六ですからね、結婚していてもおかしくないでしょう?」

「え、だって、じゃあ、奥さんは?」

 咄嗟に大輝の左手を見る。すらっとした薬指には指輪がなかった。

「うん、他界しました」

 再び言葉を失う薫に微笑み、彼はインクをしまいながら言った。

「彼女の父親が詠人さんです。だから、義理の父なんです。あなたは春からずっと僕らを見てきて、不自然だと思ったことはありますか?」

「ううん、ない。血のつながりのある私と両親のほうがすごく不自然なのにね」

「ほら、すぐそうやって自虐する」

 幼い子にするように、大輝は目の高さを合わせ、薫の髪をわしわし撫で回した。

「うわっ」

「親子のつながりってね、血のつながりだけを頼みにしていたら狂っちゃうんですよね。僕はそう学びました。薫さんもきっと、両親を違う目で見れる日がくると思うな。だって、あなたの色はすごく綺麗だと思いますよ」

 かあっと顔が熱くなる。

「や、やめてよ。そんな簡単なものじゃ……」

 そこまで言いかけ、ぐっと言葉に詰まる。急に弱音を吐く自分が恥ずかしく思えた。大輝の抱えてきた哀しみなんて、子どもの自分には想像もできない。それでもこうして微笑む人の前で、何を言っても言い訳にしか思えなかった。
 咄嗟に店の外に飛び出す。

「あ、薫さん!」

 慌てて大輝が声をかけるが、彼女は直売所のほうにまっすぐ駆けていく。ウメとタイコが「なあん」と低く鳴き、大輝を見上げる。彼は頭をかきながら「子ども扱いしちゃったかな」とぼやいた。

 一方、薫はまっすぐ部屋に飛び込み、ベッドに倒れこんだ。

「薫? どうしたの?」

 すっかり驚いた雅の声を無視し、枕に顔を押し付ける。頬が熱い。大輝が『妻』と口にしたときの驚きを思い返し、叫びたくなった。
 声も出ないほど驚くのは、初めてじゃない。けれど、さっきの衝撃は未だかつてないものだった。胸が重いだけじゃない。ヒリヒリと焦げつくような痛みが疼く。
 その正体が嫉妬だと気づき、薫はベッドの上でのたうち回った。

『私、あの人のこと、思っていたより好きだったんだ』

 自分の色をすごく綺麗だと言った顔が目に焼き付いて離れない。優しい声、屈託のない笑み、まっすぐな視線。それだけで胸がどきりとするのに、愛する人を前にした大輝はどんな風なんだろう。

「死んだ人とどうやって張り合えっていうのよ」

 絶望に、彼女は声を殺して泣いた。顔をくしゃくしゃにし、唇を噛み、声を押し殺して。
 それでも大輝が好きだと、気づいたからだった。
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