千尋の杜

深水千世

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別れ

ばいばい

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 翌朝、僕は祖母に「昨日はごめんなさい」と頭を下げ、彼女は何も言わず頷いて応えた。彼女は世間体や体裁を気にする古風な女性であったが、根に持つ人ではなかった。
 僕は父の言う通りに謝ったものの、祖母に悪いことをしたとは思えないままだった。むしろこれをきっかけに、祖母を好きになれなくなった。

 そろそろ神社に行かなきゃと靴を履いたときだ。

「千尋」

 母が僕の手に、そっと小さなビニール袋を握らせる。中には袋入りのアイスキャンディが入っていた。

「今日は暑いから、二人で食べなさい」

「お母さん、ありがとう」

 顔を見合わせて笑うと、母がエプロンのポケットから輪になった紐を取り出して僕の手に乗せた。

「もし、あの子が知っていたら、あやとりでも教えてもらいなさい。神社には遊具がないから退屈しちゃうかも」

「僕、男の子なのに」

「いいのよ。おままごとでもなんでも、あの子が遊びたいことに付き合ってあげなさい」

「どうして?」

「きっと、あの子が笑うから。そしたら、お前も嬉しくなるはずよ」

 約束通りに神社に行ったとしても、女の子とどう遊んでいいのかわからずに途方に暮れるだろうと、母は察していたのだろう。
 僕は「うん」と頷いて玄関を飛び出した。アイスの入った袋を揺らして石段を駆け登る。いつも長くて遠い道だと思ったのに、その日の石段はとても短く感じたのだった。
 
 境内であの子の姿を見つけたとき、思わず頬が緩んだ。今日はチェックのワンピースを着て、髪はおろされていた。

「おはよう」

 あまりだらしない顔にならないように努めながら声をかけると、チヒロは顔を輝かせた。

「本当に来てくれたんだね」

「来るさ。約束は守るものだろ」

 すっと、彼女の顔に翳りが走る。

「私のお母さん、守らない」

 きっと、彼女の母は昨日も帰らなかったのだろう。

 『もう帰ってこないだろう』という祖父の言葉が脳裏に響いた。だが、慌ててそれを打ち消すようにアイスを差し出す。

「これ、食べよ」

「いいの?」

「うん。一緒に食べよ」

 ちょっと泣きそうだった顔が、少しだけ笑った。

 僕らは拝殿に並んで腰を下ろし、蝉の声を聞きながらアイスを頬張った。急いで食べないとだらだらと溶けてしまう。そう慌てながらも、彼女の前では綺麗に食べたい見栄が邪魔をする。結局、二人ともアイスをぼとりと落としてしまい、笑いながら手水舎で手を洗った。

 それから、『だるまさんがころんだ』と、しりとりをした。
 母の言うように、ままごとを提案されたときも断らずに、仕事帰りのお父さんの役を立派にこなす。
 チヒロは黙っていると冷たい顔をしているが、こうして遊んでいるときだけ、歳相応の明るさを見せた。僕は彼女の笑みが嬉しくて、あぁ、やっぱりお母さんの言うとおりだと誇らしく思ったっけ。

「あやとり、できる?」

 僕は袋の中にしまいこんでいた紐を思い出し、彼女の前に差し出した。
 だが、チヒロはそっと首を横に振る。

「ううん。わからない」

「そっか、僕のお母さんに教えてもらう?」

「……ううん。いい」

 チヒロが俯く。

「どうして?」

「だって、お母さんが戻ってきたら教えてくれるかもしれないし」

 今思えば、彼女は母親が戻ってこないことを知っていたのかもしれない。けれど、認めたくないのだろう。
 なのに、僕はうっかり無神経にもこう口走ってしまったのである。

「帰ってくるの?」

 その言葉に、彼女は弾かれたように顔を上げた。

「帰ってくるよ! 千尋のバカ!」

 そして立ち上がると、仁王立ちで僕を見下ろす。

「お母さんは本当は優しいんだから! 本当は私が好きなんだから!」

 その言葉は、まるで自分に言い聞かせるようでもあった。

「千尋こそ、もうここには帰ってこないんでしょ? もう私とは会わないんでしょ?」

 呆気にとられた僕は「なんで、そんなこと」と言うのが精一杯だった。
 彼女の握りこぶしが震えている。一生懸命に涙をこらえているつもりだろうが、既に真っ赤になった目からたらりと一筋の光がこぼれた。

「お母さん、言ってた。お前が可愛くないから、お父さんが寄ってこないんだって。みんな離れていくんだって」

 ぎょっとして、彼女を見上げた僕は、今度は心臓がひゅっと冷えるのを感じた。今まで気がつかなかったが、二の腕に青々とした痣がちらりと見えたのだ。そこには、僕の知らない日常があった。

「おじいちゃんも、おばあちゃんも、私を可哀想な子だって言うの。だけど、可愛くないって言うの。だから、きっとお母さんも帰ってこないんだ。千尋だって、きっといなくなる。みんな、みんな、いなくなる!」

 ざあっと風が吹き、鎮守の杜が揺れた。彼女は逃げるように石段に向かって歩き出す。なんて小さな背中だろう。そう思うと、泣きそうになった。あの子の長い髪が夏の風に揺れている。昨日と違っておろされているのは、髪を結ってくれる人がいないからじゃないか。そう気づいた僕は、咄嗟に参道を駆け、彼女の前に立ち塞がった。

「チヒロは可愛いよ!」

 チヒロの濡れて光る目を見据え、きっぱりと断言する。

「僕、またここに来るから! 絶対、ここで君を待ってるから」

 彼女の驚いた顔がふっと崩れ、笑みをこぼした。そして、こう囁いたのだ。

「……嘘つき」

 その言葉と共に、白くて細い足がまた踏み出された。すれ違いざまに、彼女の声が儚く響く。

「ばいばい」

 振り返ったが、彼女は一度も僕を見ることなく石段を降りていった。僕は突っ立ったまま、消えゆく背中を見ることしかできなかった。

 西の空が茜色に染まり、母親が迎えに来るまで僕は動けなかった。母に一部始終を話すと、彼女はなにやら考えにふけっていたが、やがて僕の手を取った。

「ごめんね。お母さんが先にあなたにあやとりを教えていれば一緒に遊べたのにね」

 そこで、ふと、あやとりの紐が消えていることに気がつく。きっと、チヒロが持って行ったのだろう。いつか、自分の母に教えてもらうことを夢見て。
 僕はそう考えると、たまらず声を上げて泣き出した。そんな僕を、母は黙って抱きしめてくれた。

 情けない話だ。本当に泣きたいのはチヒロのほうで、僕じゃない。あの子は泣かないように耐えているのに。傷だらけのずたずたの心を抱え、痣を背負いながらも立っているのに。それなのに。

 その夜、母は祖父母と何事か話し合っているようだった。だが、その話し合いに参加させてもらうことは許されず、ただ明日の出発に備えて寝るしかなかった。
 薄暗い天井にある丸い木の節を見つめ、タオルケットを握り締める。いつもはあの節がお化けの目に見えて怖かったのに、そのときはあの子の涙で一杯の目に見えた。
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