千尋の杜

深水千世

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それから

十三年後

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 あの子と会ってから十三年の月日が流れた。
 僕は大学を卒業し、あの頃とはすっかり見違える姿になっていた。手足が伸び、顎にはひげだって生える。声変わりもして、眼鏡をかけるようになっていた。

 ある日、僕はアパートの鍵をしめ、外に出た。目の前に広がる田んぼを蒸した風が吹き渡り、稲の青々とした匂いを運びながら僕の頬をなでる。土っぽい水辺の残り香をめいっぱい吸い込んで、懐かしさにため息を漏らした。

 ここは祖父の家があった場所だ。僕が高校生の頃に祖父母は他界し、毎年訪れていた家はアパートになった。そして僕は今年から、その一室に暮らしている。

 僕は祖父のように神職にはつかなかったが、この町の役所に勤め出した。

 そう、僕は戻ってきた。

 正直、チヒロとの約束をずっと覚えていたわけではなかった。祖父母が死んでからは神社に行きたくても行けなくなり、チヒロが来ていたらどうしようと焦りもした。けれど、それも三年ほどのことで、その後は思春期のめまぐるしい日々に追われて忘れていたのだ。
 なのに、ふとしたときに思い出す。ツインテールの女の子や、赤いスカート、ソーダ味のアイスキャンディ、木霊する蝉の声、そして神社。あの日の断片に似た何かを見かけるたび、チヒロの涙でいっぱいの目が浮かぶ。
 そしていつしか、進路に悩むたびにこの町に戻る方法を考えている自分に気がついたのだった。

 だが、この町に戻ってきても、幼い頃のように毎日、神社で座り込んでいるわけにいかない。いい歳をした大人が日がな一日そんなことをすれば、通報されて不審者扱いされかねないご時世だ。
 そこで僕は毎日の習慣として、神社のジョギングを始めた。石段を駆け登り、踵を返してまた石段を駆け下りる。それをえんえん続けるのだ。おかげで、体脂肪に悩むことはない。

 アパートを出た僕は、軽い足取りで駆け出した。ふと、チヒロの屋敷があったほうを見ると、そこはもう空き地ではなく、真新しい住宅が建っていた。
 神社の石段はあの頃より更に苔むして、小さく見える。そして、登っても登っても、いつだってチヒロはいない。

 石段を十回ほど往復した僕は、あの湧き水の噴き出す池に寄った。池にはゆらりと尾びれを揺らして、数匹の鯉が泳いでいる。チヒロは「鯉でもいればいいのに」と言っていたが、誰かが放したのかその通りになっていた。
 黒い鯉の中に一匹だけ朱色と白をした錦鯉がいて、僕はそいつが気に入っていた。チヒロの白いブラウスと赤いスカートを思い出すからだ。この錦鯉が泳いでいるのを見ると、もしかしたらチヒロの気持ちだけはこの鯉になって戻ってきてくれたのかもしれないと、自分を慰めることができた。

 ジョギングを終えて、近所のそば屋でざるそばをすすっているときだった。店のおかみさんが僕に声をかけてきた。

「ああ、やっぱり宮司さんのお孫さんかい。面影あるわ。戻ってきてるって噂にはなってたの。宮司さんには、よく出前で蕎麦を届けたもんよ」

 彼女は夏休みのたびにやってくる僕を覚えていてくれたのだ。だが、あいにく僕はおかみさんの記憶がない。正直にそう詫びると、彼女は気を悪くすることなく笑い飛ばしてくれた。

「そりゃあ、そうよ。あんた小さかったもの」

 そのとき、僕はふと、こう切り出した。

「つかぬことをお伺いしますが、神社の向こうの川端さんはどうなったんでしょう?」

「あれ、あんた知らないのかい」

「えぇ。祖父母も両親も教えてくれませんでしたから」

「あぁ、あんた、川端さんちの孫娘とお友達だったからだわね」

 チヒロだ。さっと血が逆流するのを感じた。だが、必死に高揚を抑え込み、おかみさんの話に耳を傾ける。

「あの子ねぇ、可哀想だったんだよ。あんた、知っていたかい?」

「なにをですか?」

「あの子、時々、母親から打たれたり罵られたりしていたらしくてね。今でいう虐待だわ。それを知って、引き取るか迷っていたおじいさんたちも可哀想に思って、育てることにしたんだって」

 そこまではわかっている。僕はじりじりと焦る気持ちをこらえて、ゆっくりと頷いた。

「結局、娘さんは帰ってこなかった。あの孫娘も最初はつんけんしていたけど、そのうちおじいさんたちに慣れて、にこやかになってきたんだよ。それがねぇ……」

 嫌な予感が重くのしかかった。おかみさんは僕の心境など露知らず、まるで油でも塗ったように口を動かしていた。

「一年もたたないうちに、川端さんのご夫婦が亡くなったの」

 思わず息をのむと、おかみさんは同情のため息をこぼす。

「孫に留守番させて、ちょっとそこまで買い物に行っただけなのに、酔っ払い運転に突っ込まれてさ。あの子の可哀想な泣き声、今でも思い出すわ」

 あぁ、あの子はまたもや、終わりのない留守番をさせられたのだ。ぎりぎりと心が軋む音がした。

「それで……あの子は?」

 掠れた声でそう言うと、おかみさんが意外そうな顔で僕を見る。

「知らないのかい。あんたのおじいさんとおばあさんがね、葬式の手伝いやら施設の手引きやらいろいろ手助けしてあげたんだよ」

「そうなんですか?」

 そのとき、母が祖父に何事かを頼んでいたことを思い出した。だが、祖母はチヒロを『恥かきっ子』などと罵っていたのに。それ以来、僕は祖母に素直になることができず、死に目にもあわなかったのだ。
 おかみさんが大きく頷きながら、しみじみと言う。

「あんたのおばあさんがねぇ、『この子は孫の友達なんだから、当然のことだ』って言ってたわ。気っぷのいい優しい方だったねぇ」

 僕は思わず唇を噛み締めた。涙を堪えるためだった。

「あの子は施設から学校に通ったけどね、高校を卒業してからはこの町で見かけることはなくなったよ」

 「そうですか」と答えるのが精一杯で、僕は箸を置いた。もう、そばをすするどころの話ではなかった。ふらりと立ち上がり、会計を済ませて外に出る。

 冷房で冷え切った体に、むわっと蒸し暑い空気がまとわりついた。鉛のように重い足をひきずり、神社の石段を一歩、また一歩と登っていった。がらんとした境内を進むと、池のほとりにそっとしゃがんだ。あの錦鯉が水面に波紋を作りながら泳いでいる。池に指先を突っ込むと、ぎゅっと冷たさに皮膚が引き締まるようだった。

 何かに引きずり込まれるんじゃないかと怯えていた小心者の僕はもういない。今の僕なら、あの子に何かもっと違うことをしてやれるはずだ。なのに、彼女がここに来ないなら意味がないじゃないか。じんと目頭が熱くなり、錦鯉がぼやけた。

 僕はここに戻ってくると言った。あの子を待つと言った。発せられた言葉には、その通りになろうとする力があるという。人はそれを『言霊』と呼ぶが、信じるか信じないかは別として、あの日の言葉通りに、僕はここにいる。あのとき、彼女が「ばいばい」ではなく「待つ」と言ってくれたなら、チヒロはここにいたのだろうか。
 
 僕がこうして、いつまでもうじうじと待ち続けている間、彼女は僕のことなんて一切思い出してもいないかもしれない。
 だって、僕は何もできなかった。勇気をふるうこともせず、傍観しているだけだった。それは彼女を虐げていた人々となんら変わらない。そんな僕を覚えていて欲しいなんて、虫がいい話だ。

 僕がこうして今も彼女を思い出しているのは、きっと臆病さのせいにして逃げた自分を悔いているからだ。
 けれど案外、彼女はあの夏の日を忘却の彼方においやって、たくましく笑いながら生きているかもしれない。うじうじ悩む僕を置きざりにし、あの子だけ吹っ切れて身軽になっているかもしれない。

 だって、いろんな人がいて、自分が思っているより、この世界は知らないうちに動いているものだから。そう思いたいじゃないか。

 ぽちゃりと鯉の尾びれが水音をたてる。そしてまた沈み、その姿はぎらつく水面に隠れていった。
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