今夜も琥珀亭で

深水千世

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第7話 テキーラ・サンライズに照らされて後編

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 ところが、せっかくアイスクリームを買ってきたというのに、琥珀亭に戻ると暁さんはいなかった。

「あ、お土産買ってきたんですけど......」

 拍子抜けした俺に、真輝さんは申し訳なさそうな顔をした。

「ごめんなさい。閉店時間だからって帰しちゃいました」

 そして俺の目をじっと見つめ、小さく呟く。

「あの......ごめんなさい。なんか気を遣ってくれたみたいで、あの......」

「え? なんのことですか? あ、こっちの古いゴム手袋は捨てておきますね」

 俺は古いゴム手袋をゴミ箱につっこんだ。穴なんてもちろんあいていないけれど。

 コンビニの袋からアイスクリームとゴム手袋を取り出している間、なんだか真輝さんを直視できなかった。

 あのとき、暁さんは真輝さんを抱きしめていたようだった。この華奢な体を抱き寄せた感触を想像してしまい、ドギマギする。

 くっそ、落ち着け、自分!

 頭の中で自分に喝をいれる。
 そのとき、真輝さんが俺の袖をひっぱった。何かと思って横を見ると、真輝さんが俺の顔を覗き込んでいた。

「あの、何も訊かないんですか?」

「あぁ、いや......あのハルカさんって人とか、マサヨシさんって人のことですか? それとも暁さんのこと?」

「はい、全部です」

 真輝さんが大きな目でじっと俺を見上げる。どこか不思議そうな、でもどこか恐る恐る訊いている感じがする。

「なんかよくわかんないけど、いずれわかることなら、自然と耳に入りますから」

 すると、真輝さんはちょっと目元を綻ばせた。

「やっぱり、暁の言った通りです」

 真輝さんは「ごめんなさい」と頭を下げた。

「さっき、尊さんに一番嫌な思いをさせたのは私ですよね。本当にごめんなさい。このお店を一緒にやっていくつもりなら、お話しておくべきだったんです。暁にそう言われました」

 俺はアイスクリームをしまおうと開けっ放しにしていた冷凍庫を閉じ、こう言った。

「真輝さん、ハーゲンダッツ食べます?」

 彼女と俺はカウンターに並んで座った。二人の手元にはまだカチカチに固いハーゲンダッツがある。

「以前、お凛さんから聞いたと思いますけど、この琥珀亭は私の祖父である蓮太郎が始めました。遥というのは、私の祖母です。お凛さんとは音楽学校で知り合った親友だったそうです」

「ああ、遥さんって名前は知りませんでした。お凛さんは粋な人だったって言ってましたよ」

「そうですね、孫の私から見ても、そう思います。祖母はチェロを教えていました。お凛さんのお孫さんにも教えていたんです。けれど、癌で他界しました」

 固いアイスの表面をスプーンでつつきながら、黙って耳を傾けた。

「暁は、祖父の一番弟子でした。こういうオーセンティックなバーより、バルやアイリッシュ・パブの方が自分に向いてるって独立しましたけど、それまではここで修行していたんです」

「確かにバルの賑やかな感じのほうが似合いますね。陽気そうだし」

「昔はおとなしかったんですよ。今は信じられないけど、高校生くらいのときに急に明るくなったんです」

「あ、そんなに昔から知ってるんですか?」

「暁はここの近所に実家がありますから。私は中学と高校の同級生です。彼は専門学校を卒業してすぐ、琥珀亭に修行しに来ました」

 真輝さんは、アイスに手をつけず話し続ける。背筋を伸ばし、どこかを見つめながら。

「正義というのは、祖父の二番弟子です。元々は暁の友人だったんです。このバーに通ううち、お酒が好きになっていって......最後には私を好いてくれました。そして私も彼を好きになりました」

 俺の胸に痛みが走った。
 遥さんという人とお凛さん。正義さんという人と暁さん。それぞれが友人でありながら、誰かをとりあったというわけだ。そして、お凛さんも暁さんも想いは叶わなかった。だから『同情だ』と暁さんは感じたんだ。

 一人頷く俺に、真輝さんはぼそりと言った。

「正義は私の夫です」

 それを聞いたときの俺の顔は、さぞかし間抜けだっただろう。

「結婚してたんですか?」

 でも、彼女の左手の薬指に指輪はない。その跡すらもなかった。

「はい。でも、死にました」

 俺は言葉を失った。真輝さんの声が静かに響く。

「祖父と一緒に逝きました。交通事故でした」

 正直、真輝さんが泣いているのかと思った。あまりにか細い声で、あまりに寂しげな響きだったから。でも、涙はなかった。

「そのとき、琥珀亭を休業しました。情けないけど、私は泣いてばかりで、何も出来ませんでした。暁とお凛さんがお葬式や閉店の手続きを手伝ってくれたんです」

 その瞳は『涙なんてとうに出尽くした』と言わんばかりの鈍い光を宿していた。

「私は暁の紹介で事務仕事をするようになりました。二度とバーテンダーをするつもりはありませんでした。お店のお酒を全て捨ててしまおうとも思いました。けれど、祖父や主人が愛情こめて磨いたボトルやグラスを捨てることはできなかった」

 彼女は一呼吸置くと、静かに言葉を続けた。

「だから、暁に『この店のもの、全てもらってくれないか』って相談したんです。そうでなければ、私の代わりに捨ててくれとお願いしました」

 だけど、彼が返した答えは『バーテンダーでなくてもいいから、俺の店で働かないか。お酒ごとお前を引き取るならいい』だったと、真輝さんは言った。
 なるほど、それで引き抜きがどうのこうのと話していたのだろう。

「三日間、考えました。ここに一人で座って、この店で起こったいろんなことを思い出しながら考えたんです。結局、私は暁に『琥珀亭を続ける』と言いました。暁がバルを選んだように、私はオーセンティックなバーを選ぶって伝えたんです」

 ふと、真輝さんの顔に自嘲めいたものが浮かんだ。

「暁にはわかってたんですね。それが私の建前だって」

「建前? 本当は違ったんですか?」

 思わず口を挟んだ俺に、真輝さんは頭を下げた。

「ごめんなさい。実はこの琥珀亭はお酒を売り切ったら畳んでしまおうかとも思ったんです」

「マジですか?」

「そういう気持ちも確かにありました。尊さんが来るまでは」

 ここで俺の名前が出ると思っていなかったので、耳を疑った。

「俺が?」

「そうなんです」

 真輝さんは、ちょっとだけ可笑しそうな顔をした。

「不思議なものです。あんなに店を見るのが辛かったのに、いざ畳もうかと思うと涙が止まらないんです。祖父母やお凛さん、暁、夫の姿が思い出されて、懐かしくて温かくて。だから、店を続けたかったんです。私はまだ、あの温もりを手放したくなかった。でも、いざ店を開けてみると、その思い出がかえって胸を刺しました。」

「どうしてです?」

「何度カクテルを作っても、祖父や主人の味とは違うんです。そのたびに、カクテルが『彼らはもういないんだ』って私をあざ笑うような気がしました。いっそのこと、カクテルを作らずにすむようにウイスキー専門バーにするか、そうでなければお酒を売り切って今度こそ店を畳んでしまおうかとも思いました。それが祖父の代から支えてくださっているお客様への最大の侮辱だということも忘れて」

 真輝さんが小さなため息を落とした。

「今日、暁がここに来たのは、そういう私を見抜いていたからだと思います。彼は私がいつまでも過去を振り返ることが嫌なようですから。でも、私にだってどうしていいかわかりません」

 俺はさっきの扉越しの会話を思い出していた。
 暁さんの気持ちもわかる。自分の惚れた女が、ずっと過去の男ばかり想って泣いている。それはとてもやりきれないことだろう。

「家族を一気になくしたことと、どう向き合って過ごすかなんて、考える暇もなかった。ただ、目の前にある今日を生きるだけで精一杯。こみあげる涙をどうにかするので精一杯」

 そう言うと、彼女は俺を見て、ふっと微笑んだ。

「でも、尊さんが来て、毎日がちょっと変わりました」

「俺は、何もしていません」

 戸惑う俺に、彼女は優しく目を細めた。

「だからです。さっきも、何も訊かずにいてくれました。尊さんは私のことを一人にはさせないけど、そっとしておいてくれます。何も知らないはずなのに」

 俺の良心がチクリとした。『すみません、実は立ち聞きして知っていた部分もあります』なんて、言えない......。

「でもね、一番の理由はカクテルを作ってくれたことなんです」

「え? だって、それが俺の仕事ですよね」

「そう、仕事なのに、初めて本気で作ったカクテルが不味かったんです」

 ぐさりと胸に突き刺さった。そんなハッキリ言わなくても、知ってるよ。自分でもわかってるから猛練習してきたんだからな。
 ちょっとふてくされたのが顔に出たのか、真輝さんがフォローを入れる。

「あ、でも、今はすっかり上手ですよ。ただ、あのときは私と同じ手順で作っても、こうも不味いことにびっくりしたんです」

 ショックで立ち直れなくなるような毒舌をさらりと発揮させ、真輝さんは俺に微笑んだ。

「尊さんのあの不味いカクテルを飲んで、私は当たり前のことに気づきました。人はみんな違うんだって」

「え?」

「祖父のカクテルは祖父にしか作れないし、主人のカクテルは主人のもの。彼らが生きていようが死んでいようが、真似をすることはできても、違う人間なんだから同じ味にならなくてもいいんだ。......そう、尊さんが教えてくれました」

「なんていうか......複雑なんですけどね」

 俺は思わず、気の抜けた笑みを浮かべた。

「真輝さんのお役にたてたなら、あのクソ不味いカクテルもきっと本望ですよ」

 真輝さんは口許を綻ばせた。
 けれど、次の瞬間、その目が潤み、唇が微かに震えた。だが、涙は頬を伝うことはなく、ずっと目にたたえたまま光っている。彼女は取り乱すこともなく、大きく息を吐いて落ち着こうとした。

「暁は私のことを、夜の中にいるままだと言います。朝日の下に出てこいって。でも、私はまだ夢を見ていたいんです。どうすれば正義を忘れられるのかもわからない」

 しばしの間、二人の間に沈黙が流れた。だから、俺はできるだけ優しい声で言ったんだ。

「真輝さん、吐き出したくなったら、またここで付き合いますよ。今度は牛丼をお持ち帰りしてきて一緒に食べながら話しましょうか」

 目を丸くする真輝さんに、俺はわざと元気よく笑ってみせた。

「泣きたいときには泣けばいいし。忘れたくないなら、それでいい。暁さんが言いたいのは、正義さんを忘れろってことじゃないと思いますよ」

「え?」

「俺は真輝さんに笑っていて欲しいです。ただそれだけです。きっと、暁さんもそうだと思いますけどね。誰だって、仲間の悲しむ顔よりは笑顔のほうが見たいでしょ」

「仲間......」

「ですよね? 俺の面接の日、乾杯の音頭で真輝さんがそう言ってくれました」

「......そうですよね。うん。そうですね」

 真輝さんは少し赤くなった鼻をすすって、「ふふ」とはにかんだ。

「あのときの尊さん、思い出します」

「あの、お凛さんから聞いたんですけど、俺、本当にスニーカーを左右履き違えてました?」

「はい。そういう履き方をするのが流行ってるのかなってちょっと思いましたけど」

「いや、まったく記憶にないんで!」

 琥珀亭にやっと大きな笑い声が響いた。
 ふと目が合った真輝さんは、まるで初めて会う人のように感じた。目を潤ませて人生に悶える一人の女性が、そこにいた。

「真輝さん、アイスが溶けてますよ」

「はい、実はこのドロドロな感じが好きなんです」

 俺たちは微笑み合い、アイスクリームを平らげた。すっかり溶けてしまったアイスクリームは、やたら甘かった。

 翌日、お凛さんに暁さんが来たことを話すと、彼女は目を細めて笑った。

「そうかい、暁が来たのか。相変わらずテキーラ・サンライズでも飲んだのかい?」

「はい、俺のことを『初々しくて、筋がいい』って言ってくれました」

「それは点数にしたら百点満点中、四十点くらいなもんだろ」

 高くなりつつあった鼻をもがれた気分になった。練習してちょっとは成長したつもりでいただけに、彼の言葉を前向きに受け取っていた自分が恥ずかしかった。

「筋がいいなんて言って、そんなに点が辛いんですか?」

「尊、お前は一度くらい暁の仕事ぶりを見ておいで。きっと良い経験になる」

 お凛さんは軽快に笑う。

「真輝は確かに蓮さんにバーテンダーとして仕込まれたけど、暁には敵わないね。あいつならみっちり修行してるから、真輝でも気づかないところを教えてくれるだろう」

「暁さんって、どんなバーテンダーなんですか?」

「艶っぽいね。あいつはああ見えて実は繊細なんだよ。臆病すぎるくらい慎重で、正確さ。明るく振る舞うのは、相手を笑わせたい優しさからだ。そういう良さが出てるよ。バーテンダーとしての腕は相当良い」

「正義さんよりもですか?」

 俺の問いに、お凛さんは弾かれたように顔を上げた。

「暁から聞いたのかい?」

「いえ、真輝さんです」

 お凛さんは右の眉をつり上げた。

「暁が真輝に何か言ったんだね。まったく、暁ときたら、また真輝のことを引っ掻き回したんだろうよ。昔からそうだ」

 そう呟き、お凛さんはニヤリとした。

「バーテンダーの善し悪しなんて、客それぞれが決めることだ。私が良いと思っても、誰かは気に入らない。そんなもんだろ。私は二人とも好きだが、蓮さんには敵わないと思ってるよ」

 お凛さんの声を聞きながら、俺はあのとき作ったテキーラ・サンライズを思い出していた。
 日の出を模したカクテルを愛する男は、いろんなものを照らし出していった。真輝さんの抱えていた過去、そして涙をにじませた一人の女性としての顔。

 でも今、俺の胸を占めているのはバーテンダーとしての意地だ。暁さんの仕事が見たい。俺のテキーラ・サンライズが初々しい訳を知りたい。

 今まで熱中できるものがなかった俺が、やっと動き出した気がした。ほんの一歩だけど、着実に。
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