漂流図書館の料理人

深水千世

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真実は井戸の底にあり

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 落としてきた思い出なんてわかるものだろうか。そんな不安でいっぱいの日向は、すぐに拍子抜けすることになる。そう遠くないところに一番星のように光る粒を見つけたからだ。

「ねぇ、ピーター。きっとアレだわ」

「どれ?」

「ほら、あの光。あれがきっと思い出よね?」

 ところがピーターは桃色の唇を尖らせた。

「知らないよ。だって僕には見えないんだ。でも、君が言うならそうなんだろうさ」

 光る粒のもとへ飛んでいくと、それは桜貝ほどの大きさのようだった。形はいびつで、何かの破片のように見える。
 そっと手にとった日向の脳裏に、天井の高い建物の景色がなだれ込んできた。殺風景な空間の奥に分厚い金属の扉がある。四角い棺が誰かの手によって押され、扉の向こうに消えた。
 目の前にいるのは喪服を着た母で、隣にたたずむのは幼い自分だ。父親の葬儀の思い出のようだったが、正直、日向はこのときの記憶がおぼろげだった。そのせいか、白いハンカチで目元をおさえる母が若々しく、新鮮に映る。小さい自分が着ている黒いワンピースには見覚えがあった。
 やがて、幼い自分のもみじのような手が、母の手に重ねられた。

「お父さんたち、どこに行ったの?」

 すると、真朝は声を漏らして泣きながら、彼女を抱きしめた。
 その光景を見つめる日向は、胸の奥にひっかかるものを感じた。自分はもっと何か大事なことを忘れている気がするが、それが何かわからないのだ。

「ずっと一緒よ。これからはずっと一緒」

 母が顔を真っ赤にして泣いている。日向はそれを見つめ、はらりと涙を落とした。
 帰らなきゃ。やっぱり、この人を独りにできない。そう思った途端、その景色が白い靄に飲み込まれる。

「さぁ、着いた!」

 思い出から醒めた日向の目の前で、あの永遠の男の子が笑みを浮かべていた。ピーターはひらりと彼女の手をとって加速した。

「ほら、君のいた世界だよ」

「えぇ?」

 目の前にあるのはどう見ても白い靄の壁だ。

「ちょっと! ぶつかる!」

 日向の悲鳴はかき消された。二人は靄の壁に突進していったのである。

 咄嗟に目を閉じた日向が次に見たものは、濃霧にぼやける『スナックひなた』の看板だった。木製の古びた店の扉は開け放たれている。
 だが、見慣れたはずの景色の中に、見慣れぬものが映る。辺りを照らすパトカーの赤いランプと野次馬のざわめき、そして警察官。

「……なに、これ?」

 目を丸くした日向が、慌てて店の中に飛んでいく。

「お母さん!」

 呼んでみたが、母の姿はない。
 その代わり、そこには別の女が立っていた。向かいにいるのは、手帳に何かを書き込んでいる警察官だ。

「……まさか、こんなことになるなんて」

 女はレースのハンカチを目元にあてて涙声を漏らした。マスカラを避けるように涙を拭いているのは無意識だろう。

「……笑子《えみこ》さん? どうしてここに?」

 日向が首を傾げた。

「エミコってだぁれ? このおばさん?」

 ピーターが泣いている女の顔をのぞき込む。

「ピーター、おばさんはひどいわよ。お母さんのスナックでちょっと前まで働いていた人」

 笑子は二十代後半で、まだ若い。だが、飲み屋街では『おばさん』呼ばわりされてもおかしくない年頃だと真朝が言っていたことを思い出す。それを聞いたときはなんとも奇妙で理解できない世界だと思ったものだが、子どものピーターからすれば、既になのだろうか。
 笑子は数ヶ月前に突然店を辞めてしまったきりで、しばらく顔を見ていなかった。だが、どうして店に母の姿がなく、彼女が立っているのか。嫌な予感に襲われたそのとき、笑子が俯いてこう言った。

「健司さんが倒れてて、そこにかぶさるようにママが……」

 日向の顔から血の気が引いた。彼女がいう『ママ』とは真朝のことだ。わななく声で笑子の前に躍り出る。

「ねぇ、笑子さん! お母さんは? お母さんはどこ?」

 だが、笑子は日向の声が聞こえないどころか、姿も見えないようだった。日向は、体がないリスクもあると言った文章を思い出し、舌打ちした。
 その背後で警察官の男が手帳を胸ポケットにしまった。

「とりあえず、署でもう少しお話を聞かせてください。岩田健司《いわたけんじ》さんについても詳しく調べたいんです」

 警察官が笑子に「あぁ、それから……」と思い出したように言う。

「榊真朝《さかきまあさ》さんには娘さんがいるそうですね」

「え? えぇ」

「実は彼女も行方不明になっているみたいなんです」

「なんですって?」

「彼女の車もなくなっています。今、目撃情報を募っているところですよ」

 笑子はすっかり怪訝な顔になっている。だが、もっと怪訝な顔なのは当の日向だ。自分の車はここからそう遠くない駐車場にあるはずだった。

「岩田さんも榊さんも市立病院で手当を受けています。意識が戻ればお話をきけるんですがね、少し難しいでしょう」

 どくんと心臓が跳ねる。では、二人とも少なくとも今は死んではいないらしい。

「お母さん……」

 思わず後ずさり、ぼろぼろ涙が流れるままに膝をついた。
 嘘だ、こんなのは嘘だ。そう思おうとした。けれど、カウンターの上に置かれたままの皿を見つけて絶望が押し寄せた。そこにあったのは、うどの味噌和えと厚揚げの煮物が盛り付けられた皿が二枚。あの日、日向が作って運んだ料理だった。
 夢でも嘘でもない。あのあと、何かが起こったのだ。だが、今の自分には詳しい話を聞くこともできない。

「幽霊になった気分だわ」

 日向がぼやいている間に、警察官が笑子を外に促した。パトカーのドアが閉まる音が響く。
 暗闇に閉ざされた店から、日向は咄嗟に飛び出した。

「どこに行くの?」

 慌てて追いかけるピーターに、彼女は振り返らずに叫んだ。

「お母さんのところに決まってるじゃない!」

 焦りのせいか、もとからうまく飛べないものが、ますますフラフラする。けれど、彼女は歯を食いしばって飛んだ。
 そのとき、ピーターが彼女の手首を掴んで引っ張り出す。

「ティンク、お前は先に行って真朝を探しておいて」

 そう言い終わらないうちに、眩い光が流れ星のように消えていった。

「顔を見たら帰るよ」

「うん!」

 ピーターが背中を見せたまま呟く。

「お母さんを欲しがる子を、昔もたくさん見た気がするよ」

 ティンカー・ベルに導かれたのは市立病院の病棟にある個室だった。無機質な白い空間の中央にあるベッドには、あんなに会いたいと願った顔がある。だが、このときばかりは別人のように見えた。

「お母さん……」

 まるでドラマの一場面のようだった。母は口に呼吸器を当てられ、土気色の顔をして横たわっている。その傍らには滴り落ちる点滴と、脈拍を波打つモニター。
 そっとその頬をなぞろうとしても、日向の指は何も感じることができなかった。

「一体、何があったの?」

 声をかけても届かない。もっとも、体があったとしても今の真朝に聞こえたとは思えなかった。
 そのとき、病室のドアが開いて、二人の男が入ってきた。一人はスーツ姿で短く髪を刈り込んでいて、もう一人は白衣で身を包んでいるあたり医師のようだ。

「まだまだ目を覚ます気配はありませんね」

 困り果てたようにスーツ姿の男が言うと、医師が頷いた。

「出血がひどかったものですから」

「意識が戻ったらご連絡いただけますか?」

「もちろんです」

 医師が哀れみに満ちた目を真朝に向ける。

「ご家族も娘さんが行方不明とのことですね」

「えぇ。榊さんのご両親は遠方にお住まいでしてね、探すのに骨が折れました。ずいぶん疎遠だったようです」

「お孫さんまで行方不明とあっては心配でしょうな。その子は事件には関係が?」

「わかりません。ただ、専門学校にも顔を出していないそうです。今まで無遅刻無欠席の優等生だったらしいんですが」

 漂流館にいるんだから、そりゃあそうだと苦笑した。
 声があったら『車は駐車場にある』と伝えられるのにと、もどかしく思ったときだった。

「榊さんが借りている店のそばの駐車場にも車がないんです。アパートのキッチンには料理が作りかけのままほったらかしで鍵もかかっていなくてね。何か事件に巻き込まれたんじゃないかと見ています」

 日向は耳を疑った。
 あの日、店を出て横道を見つけ、そのまま漂流館に迷い込んだと記憶していたが、どうやらそうではないらしい。
 文章の言葉が不意によぎる。そういえば彼は漂流図書館に来た日の記憶をばらまいてきているかもしれないと言っていたではないか。
 いつもなら、お通しを届けたあとは、真朝のための夜食を準備してから眠りにつく。あの日、真朝の店に出かけたときは確かにアパートに鍵をかけたはずだ。ということは、いったんアパートに戻り、夜食を作っている最中にそこからどこかに車で走り出したと考えるのが自然だった。しかし、どこに向かったのかは、当の本人の日向にすらわからない。
 そのとき、ピーターが日向の袖を引っ張る。

「もう帰ろう。君の体がだいぶ魂を忘れかけているからね。戻れなくなっちゃう」

「え、もう?」

 慌てる日向に容赦なく、彼は手首を掴んでひらりと飛び出した。

「待って! お、お母さん!」

 真朝が遠ざかったかと思ったら、一気に病院の屋上が見えた。日向はあっという間に空中に飛び出し、そしてまた白い靄の中に消えたのである。

「思い出をちゃんと見つけてね。そっちに漂流館があるから」

 ピーターに言われて、慌てて辺りを見回す。やがて、日向は前方を指差した。

「あった!」

 記憶の断片を手にすると、また景色が自分の中になだれ込んできた。
 今度はいつものアパートだ。キッチンには料理をしている自分が立っている。あの濃霧の日に来ていた服装そのままで、鯖の味噌煮を作っているようだった。
 そのとき、玄関の扉が勢いよく開いて、真朝が駆け込んできた。

「お母さん、どうしたの?」

 景色の中の日向が目を丸くしていると、真朝がその手に何かを握らせた。息が乱れ、目が血走り、うなじからは毛束がほつれていた。

「お願い。これを捨てて。どこでもいい。捨ててくるんだよ」

 真朝は握った手に力をこめ、まるで鬼のような形相で囁いた。

「いいね……ウララ」

 ウララという言葉を聞いた途端、景色は弾けて消えた。
 我に返った日向は自分を見つめているピーターを見やる。

「ねぇ、ピーター。そういえば、あなたもウララって言ったわよね?」

「うん。だって、君はウララじゃないか」

「何を言っているの? 私はヒナタよ?」

 そう言いながらも、自分の言葉に違和感がある。何故だかわからないが、ふっと『私はウララだ』という声がした。
 不安で胸が重くなる。

「じゃあ、日向って誰? 私は……誰?」

 そう口にした日向はハッとし、「……あぁ」と小さく呻いた。

「君たち親子はややこしいね」

 ピーターは呆れ顔で彼女の手を引いている。

「ほら、漂流館だ。文章が待ってるよ」

 靄の向こうに館の屋根が見えた。こうして謎が謎を呼んだまま、日向はまた漂流図書館に戻ってきたのである。

 ピーターは手を引っ張ったまま、開いている窓から中に滑り込む。

「危ない!」

 勢いもそのままで床にぶつかるかと思ったその瞬間、思わず目をきつく閉じると同時に衝撃を受けた。だが、墜落したものではないようで、痛みがない。
 おそるおそる目を開けて、彼女は「はぁ」と長いため息を漏らした。
 日向は、文章と食事をした部屋の椅子に背を預けていた。目の前には自分を囲むように、文章やエドガー、栞、そしてピーターとティンクがいる。

「も、戻ってきたのね……」

 ぐったりと目の奥に感じる重みにうなだれる。文章が不満げに眉間に皺を寄せた。

「ずいぶんかかったね。もう夕方だ」

「え、嘘? だってすごく短い時間しかいなかったのに」

 ぼうっとした頭で慌てて外を見ると、確かに薄暗い。栞が鼻を鳴らした。

「時間の流れ方は気まぐれなのよ」

 立ち上がろうとするが、うまく力が入らない。疲れのせいか、それとも飛んでいた自分に慣れたせいか、体が重かった。
 それを察した文章が手を差し出して起こすのを手伝ってくれた。

「あの、お母さんが大変なことになってて……!」

 我にかえった日向が言いかけると、彼はすっと綺麗な手をかざして遮った。

「話は夕食のときにしよう。時間があまりないからね。厨房に案内しよう」

「ちょっと、そんなことしてる場合じゃないんだけど!」

「慌てても君には何もできないし、何も変えられない」

 そう言われると何も言えない。渋々頷く彼女に、エドガーが歩み寄った。

「どうぞ、こちらへ」

 エドガーに導かれ、日向が歩き出す。足も頭も重く、顔をしかめたときだった。

「日向」

 文章が名を呼んだ。振り向くと、彼はティンクを肩に乗せて微笑む。

「焦っても、現世の時はどれだけ過ぎてもここには関係ないんだ。『自然は自己の法則を破らない』と言うからね。流れは流れるべくして流れるのさ」

 今、一人で焦ったところで事態は覆らないということなのだろう。

「それもことわざ?」

「レオナルド・ダ・ヴィンチの言葉だ」

 日向は「わかったわ」と、渋々歩き出した。そのあとをピーターが追いかけ、ティンクが慌てて飛んでいった。

「おやおや、ピーターは彼女にすっかりなついたね」

 部屋に残された文章は栞にちらりと視線をやる。

「ねぇ、栞」

 栞が無言で視線を合わせると、彼はすみれ色の瞳に妖しい光を浮かべていた。

「どうして彼女なんだろう? どこから見ても平凡な子だと思うんだが」

 ふっと栞が笑う。

「そうでしょうか。私には非凡に見えます」

「うん? そうかい?」

「文章様もご存知でしょう。『平凡なことを毎日平凡な気持ちで実行するのがすなわち非凡』なんですのよ」

「アンドレ・ジッドの言葉だね」

 文章がふっと伏し目になった。

「認めたくないのかもしれないね。人は矛盾した生き物だよ」

 栞が無表情のまま頷いた。

「私にはわかりかねます」

「……そうだろうね」

 その唇の端に、どことなく皮肉で寂しげな笑みが浮かんで消えた。

 その頃、エドガーは日向を連れて、長い廊下を歩いていた。ところどころにある窓の向こうに、温室の屋根が見える。

「温室があるのね」

「植物園でございます。他にも美術館も音楽堂もございますよ」

 なるほど、ここの広さを『きりがない』と称するわけだと、妙に納得していたが、ピーターが隣に漂っているのを見て思いついた。

「ねぇ、登場人物ってエドガーさんも呼び出せるの?」

「いいえ。登場人物を呼び出せるのは文章様だけでございます」

「じゃあ、栞さんは?」

「いいえ。むしろ呼び出されたほうですね」

「へ? それって、つまり……」

「そのままの意味ですよ」

「彼女も、登場人物なの?」

 素っ頓狂な声を上げると、エドガーが笑う。

「いいえ」

「じゃあ何?」

 ふっと、エドガーは笑みを漏らしたようだった。広い背中を見せたまま、こう呟く。

「人間というのは面倒なものですね。何故なんて思わなければ話は簡単なんですが」

 それっきり、エドガーは何も言わず歩き続ける。沈黙で『もう何もきくな』と言っているようだった。
 ピーターはえんえんティンカー・ベルとふざけながら鶏の鳴き真似をしている。彼女たちは「コケコッコー」というときの声と共に厨房へ入っていったのだった。

 厨房は一階の端にあった。
 入り口から右側の壁には本棚が組み込まれ、料理本が揃っている。そこから左手にはL字型の大きなカウンターと流し台、コンロ、そして巨大な冷蔵庫がある。違う壁には美しい食器やグラスが整然と並んで、まるで出番を伺う舞台袖の踊り子のように、料理を盛り付けられる日を待っていた。
 日向が気に入ったのは、巨大な暖炉だった。火をつけながらも中に入れるほどの余裕があり、まるでハイジのようにチーズをとろりとさせたり、もしくは鮎の塩焼きも焼けるだろうと胸が躍る。

「……すごい」

 思わずそう漏らすと、エドガーが本棚に視線を送った。

「あそこにはレシピだけでなく、料理人の伝記や、料理が登場する本が揃っています。まぁ、師匠には事欠きませんね」

 日向はきょとんとして、首をかしげた。

「師匠?」

「えぇ。専門学校に行けなくなった代わりに、この本の登場人物と文章様の気が向いたときに、師事されてはいかがかと」

 さらりと言ってのけるエドガーに、日向は深いため息を漏らした。

「それも文章さんの想像力で? どうして彼にはそんな力があるの?」

 すると、エドガーが素っ気なく答えた。

「それは文章様からでなければお話できません。美味しい料理に感動すれば教えてくださるかもしれませんよ」

「本当に? でも教えてくれる人がいるならありがたいわ」

 エドガーが「ふむ」と顎をさすった。

「秋沢篤蔵《あきざわとくぞう》さんも澪《みお》さんもインガルス一家の奥様もムーミンママもおりますからね。専門学校に行けなくなっても勉強は続けられますよ」

「ムーミンママには会ってみたいかも」

 エドガーが、思わず微笑んでいる日向に向き直った。

「で、何を作りますか?」

「何を作ろう……。第一、材料はどうすればいいの?」

「冷蔵庫を開けると、あなたの欲しいものが入っているはずです」

「私の欲しいものって何?」

「存じません」

「そりゃそうね」

 日向はふと、ピーターが退屈そうにぶらぶらしているのを見て声をかけた。

「ねぇ、ピーターはいつも何を食べているの?」

「僕? 蒸し焼きのパンの木の実、やまのいも、ココナツ、焼豚、マミーの実、それにタップのコッペとバナナ!」

「マミーの実もタップのコッペも知らないけれど、焼豚なら料理できるわ」

 日向が笑い、ピーターに微笑む。

「ピーターに焼豚を使った料理を用意するわ。食べてくれる? 今日のお礼がしたいの」

 彼女は厨房の戸棚を調べ、どこに何があるかを把握すると、しばらく何事かを思案していた。そして唇を結び、冷蔵庫を開ける。不思議なことに、中には彼女が思い描いたものが開けるたびにきちんと入っているのだった。
 やがて、包丁が何かを刻む音や、料理がぐつぐつと煮える音、そして空腹を刺激する匂いと湯気の湿り気で天井があふれていった。
 日向の手元を面白そうに見物していたピーターが鼻をすんと鳴らす。

「料理をする君の背中、とても素敵だね。僕、女の人の背中って好き」

 そう言ったあと、彼は「どうしてこんなに懐かしいんだろう」と口の中で呟く。だが、それは誰の耳にも届かず湯気にまぎれて消えていった。

 夕食が食卓に揃ったのは、漂流館が闇に呑まれた頃だった。
 文章は既にテーブルにつき、エドガーが運んでくる皿をじっと見つめている。その真向かいにはサロンをはずした日向とピーターが座っていた。

「あの……ピーターはわかるんですけれど、料理人と主が一緒に食事っておかしくないです?」

 真正面にあのすみれ色の瞳があると、少し空恐ろしい。しかも自分が作った料理を食べる様をまざまざと見せ付けられるのも緊張する。
 だが、彼は愉快そうに笑っているばかりだ。

「食事は一人より二人がいい。君も同じように感じるはずさ」

「それはわかる気がしますけど」

 日向も、真朝のいない食卓は嫌いだった。
 ふと母を思い出し、彼女は俯いた。沢山の管で繋がれたベッドの上の姿を思い出すたび、心がざわつくのだった。

「すごいねぇ。これは日本のご飯なの?」

 ピーターが隣で目を輝かせ、食卓を見回した。
 目の前にあるのは焼豚とネギの混ぜ御飯、わかめと豆腐の味噌汁、メインは鯖の味噌煮だ。他にもラー油の効いたもやしのナムルと、わかめとえのきの和え物、紅しょうが入りの卵巻きが並び、デザートにはバナナを入れた牛乳寒天が用意されている。そのすべてが、真朝の好物だった。

「あの……普通の家庭料理ですみません」

 蚊の鳴くような声で日向が呟く。

「もっと洒落た洋食のほうがこの館には似合うのかなって思ったんですけど、今日はあの、ピーターに焼豚を食べさせたいっていうか、日本の家庭の味のほうがかえって新鮮なのかなって思って、その……」

 我ながら言い訳がましいとは思いながらも、日向は喋らずにはいられなかった。ありふれた家庭料理しか思い浮かばない自分が惨めになる。
 正直、何を作っていいのかわからなかったのだ。文章が何を食べたいのか見当もつかない。料亭やレストランのような料理を期待されているのかもしれないと思うと、実力不足が悔しくてならなかった。
 おまけに母の顔がちらついて、エドガーに注意されなければ今頃は指を五箇所は切っていたはずだ。ピーターにお礼をしたい気持ちは本当だったが、彼女の脳裏に思い浮かんだ献立は真朝の好物ばかりだった。
 自分が母を恋しがるからだろうか? 本当は母を恋しいと思うピーターに自分の母の味を見せてあげたいからだろうか? 文章が日本は母の故郷だと言ったのを思い出したからか?
 いいや、おそらくは母に食べさせたかったのだと日向は心の中で自嘲した。いつものように「お腹すいたぁ」と呑気な声で箸を取り、うんうんと頷きながら満足そうに頬張る姿を一目でいいから見たいのだ。
 文章はそっと「いただきます」と唱えるように言い、箸をつけた。湯気のたつ味噌汁を含み、長い息を吐く。器用に箸で鯖の味噌煮をほぐしてゆっくりと味わった。

「……どう、ですか?」

 文章はそっと哀れみを浮かべた目で彼女を見つめ返した。

「君が一番わかっているはずだよ」

「え?」

「僕が美味しいと言っても、君は心苦しさから逃げられない」

 日向は俯いた。彼は自分のために作られた料理ではないとわかっているのだ。
 言いようのない罪悪感に襲われて隣のピーターを見ると、彼はスプーンでチャーハンと寒天を交互に頬張っていた。どうやらこの二つの料理を気に入ったらしい。

「ピーター、どう?」

 彼は何度も頷きながら、寒天を飲み下した。

「牛のお乳って美味しいね。僕のお母さんのお乳は塩っ辛かった気がするけど」

「砂糖が入っているもの。チャーハンは?」

「うん、美味しいよ。これがウララの国の味かぁ。面白いね」

 白い歯を見せて笑うピーターに、日向は思わず呟いた。

「……あなたは知っていたのね」

 ピーターは自分を決して『日向』とは呼ばない。彼は自分の絵本の中にいたピーターの記憶を持っているからだ。
 日向はあの思い出の欠片をのぞくことで、思い出してしまった。
 自分が日向ではないことを。

「私、文章さんに嘘をつきました」

「なんだい?」



 ぴくりと彼の形のいい眉が上がり、料理から顔を上げた。少し躊躇してから、日向が思い切ってこう言った。

「本当はウララ。榊麗《さかきうらら》が私の名前です」

「君は、何かを思い出したんだね?」

「はい」

 彼女は拾い集めた思い出や、パトカーが駆けつけた店の様子、そして真朝の状況を話す。

「だけど、どうして自分が日向と呼ばれていたのかまでは思い出せません」

 彼女は膝の上でぐっと拳を握り締めた。

「けれど、確かに私は麗なんだと思います」

 その声が次第に震えていった。

「本当はお母さんに訊いたらすぐわかるんだけど……」

 そう口にして、すぐに俯いた。

「ううん、本当は名前なんてどっちでもいいの。お母さんに会いたいよ……」

 ピーターが小さなため息を漏らす。

「僕、お母さんが欲しい子はすぐわかるんだよ。麗って、見た目は大きくなったけど、心は小さい頃となんにも変わってないんだもの」

 ぽつりと、文章が言った。

「これは君がお母さんに食べて欲しかった味だろう?」

「……はい。ごめんなさい」

「どうして謝る?」

「あなたのために作ったものじゃないからです」

 ふっと彼が目を細めた。

「それをわかっているなら、うちの料理人の資格は充分あると思うよ」

 そして、今度はピーターをじっと見つめる。

「で、ピーター、君はティンクに真朝を探すように言ったんだね?」

「うん。それがどうしたの?」

「教えてくれるかな? どうして君たちは真朝を知っているの?」

「そりゃ、絵本を朗読してくれたからさ」

「ずいぶん顔も変わっているだろう? それなのにわかったのかい?」

「うん」

 しらばっくれているが、目はあさってのほうを向いていた。

「正直に言わないと、ウェンディーに言いつけるよ」

「ひどいや、文章」

 途端にふくれっ面になったピーターの周りをティンカー・ベルが飛び回り、何かを金切り声で喚いている。

「絵本のピーターが朗読してくれた顔を覚えていたし、それに……」

「それに?」

 そう促した文章に、男の子はつんと澄まして言った。

「口もとのキスがあの頃と変わってなかったんだ」

「他に僕に言うことはないかい?」

 文章が威圧的に、右の眉を上げる。ピーターはそれに応えるように降参のポーズをとった。

「もう、わかったよ。植物園の井戸に行けばわかるさ」

「そんなことだろうと思った。見に行こう」

 それを聞いた文章が颯爽と席を立ち、日向に声をかけた。

「……ええと、君はなんて呼ばれたいのかな?」

「え?」

「日向と麗。どちらの名前で呼ばれたいのか訊いているんだよ」

 彼女は俯いてじっと考えていたが、ふっと顔を上げて寂しそうに微笑んだ。

「私は、日向です」

「……そうかい。では行こう、日向」

 すみれ色の瞳に憐憫の光が浮かび、すぐに消えた。

 日向たちは隣の塔の一階から外に出ると、芝生の中にある小路を進んでいった。
 空を見上げると星空がある。だが、実際はこれもまた文章の想像の産物で、この館の外には白い靄しかないのかと思うと不思議だった。

「あの白い靄の中に潜ってしまったらどうなるの?」

 彼女の問いに、エドガーが答える。

「あなたが入ったら最後、どの時空に置いてきぼりになるかわかりません」

 日向は玄関から無理に出なくてよかったと今更ながら冷や汗をかいた。
 小路は様々な趣向の庭園を通り抜けていく。枯山水があれば薔薇園もあり、野菜畑もある。はるか向こうに温室の屋根も見えた。
 やがて石橋のかかった池が見えた。木製のベンチや蔦が絡まる東屋があり、煉瓦で縁取りされた花壇にはハーブや様々な花で埋め尽くされている。イギリス式庭園といった趣だなと思ったものの、日向はガーデニングには疎い。その辺りにある花で名前が言えるのはラベンダーと薔薇くらいだ。
 小路から枝分かれするように、芝生の中に丸石を敷き詰めた道が伸びている。エドガーはその先に進み、やがて振り向いた。

「井戸は、こちらです」

 丸石の道の先には古びて苔むした井戸があり、その周りをティンカー・ベルが飛び回っていた。そして、井戸のそばに血色が悪い女が一人、ぼうっと立っている。
 日向は息を呑んだ。彼女を驚かせたのは、その女の顔が土気色だったことでも、姿が半ば透けて見えることでもない。そこに立っていたのは、病院にいるはずの真朝だったのだ。

「お母さん! どうしてここに?」

 駆け寄った日向が真朝の肩を掴もうとする。だが、その手にはなんの感触もなかった。

「お母さん、何か言ってよ!」

 返事はない。それどころか真朝は目の前の日向すら見えていないようだった。ただただ、ぼうっとしているのだ。
 日向は思わず文章を仰ぎ見る。

「どうしてお母さんがここに?」

 彼は憐憫の目で彼女を見ていた。

「死ぬ一歩手前だね。君の状況と同じだけれど、違うのは肉体を現世に置いてきたことだ。本来ならまっすぐあの世行きだけれど、僕が呼んでもいないのに何故かこの館にひっかかってしまったんだね」

 文章は真朝の虚ろな目を指で示した。

「日向、ごらん。彼女は何も見ていない。何も伝わらないし、伝えられないんだよ。肉体のない死者とはそういうものだからね」

 そして、こう呟く。

「Dead men tell no tales」

 それは、『死者は語らず』という意味のことわざだった。だが、日向はその意味を知ることはなかった。なぜなら、そのまま気を失ってエドガーに支えられていたのだから。
 栞が真朝をじろじろ見ながら呟く。

「……似ていますね」

 文章がくすりと笑った。

「そうだね。さすが榊家の一員というべきかな。エドガー、日向を部屋に運んであげなさい」

 小さく頷くエドガーに、彼はこう続ける。

「僕は日向より、麗という名前のほうが似合うと思うんだがね。まったく、厄介なものだね、愛情というのは」

 そして、めいめいが館に向かって歩き出す。
 その後姿を見送ったピーターが、ティンカー・ベルとこそこそ言葉を交わしていた。

「……本当だね。ウララはどうしてこんな人が必要なんだろう? 僕らには理解できないね」

 そして真朝を振り返り、可愛らしい首をかしげた。

「でもほら、やっぱり口にたくさんのキスがある。あの頃より増えたかな? ウララは気づいてないけどね」

 ピーターはそう言うと、ひらりと飛んでいく。
 丸石の敷き詰められた井戸のほとりで、真朝だけがぽつんと取り残されたのだった。
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