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第1章:異世界来訪編

第0話:白い棺桶

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 長く続くその廊下ろうかを、僕はゆっくりと歩いていた。

 床も壁も天井も、一面白無垢しろむくだった。天井からつるされた蛍光灯けいこうとうの灯りもまっ白で、僕はその光に消毒されている気分になった。社会の隙間に落ち込んだ僕のようなクズには、きっと数多あまたの雑菌がこびりついていることだろう。

 どうしてこうも、卑屈ひくつになったかな。

 顔に出かけた苦笑を押しとどめ、僕は足を動かし続ける。

「急いで。時間がないの」

 前を歩く白衣の女が振り返った。顔立ちは整っているが、どこか冷たい印象がぬぐえない。八の字につり上がった眉尻まゆじりがナイフのように尖っている。

「すいません」

 別に、謝る必要なんてないだろ。
 そんな心の声は、空気に触れることなく僕の内側にため込まれた。今まで幾度いくどもこうして言葉を飲み込んできた。そろそろ、一年前の言葉など腐り始めている頃かもしれない。

 足早に引率する女に合わせて歩きながら、僕はそれとなく、壁に沿って並ぶいくつものドアに視線を走らせた。

 ドアは両脇の壁に等間隔で並んでいた。それぞれのドアの間隔はほとんどない。恐らく、僕の住んでいる家賃4万3千円のボロアパートよりも狭い。

 まるで刑務所だ。いや、広さだけで言えばそれ以下かも。

 ドアには表札が取り付けられている。アルファベットと数字の並びらしい。右側に並んでいるドアに目を凝らすと、白地のプレートに黒く印字された文字が読み取れた。

 M-4、M-5、M-6...

 左側のプレートも確認しようと一度顔を正面に持っていくと、いつの間にか振り返っていた白衣の女と目が合った。

「急いでとさっきお願いしたはずだけど」

 言葉の裏に、これ以上の詮索せんさくはするなという意思を読み取り、僕は目をそらすと小さくうなずいた。

 それから、どれほど歩いただろうか。どこまでも続く廊下に、僕の遠近感が麻痺し始めた頃、女はようやく立ち止まった。その脇にある右側のドアを開けると、彼女は僕に入るよううながした。

 案の定、部屋の中はひどく狭かった。
 シングルベッドが一脚、その脇に見たこともないような電子機器がえ付けられている。それだけの部屋だった。

 これじゃ刑務所というより、棺桶かんおけに近い。

 女に指示されるままにベッドに横たわると、意外なことに寝心地はひどく良かった。低反発素材と言うのだろうか。試しに手で押してみると、くっきりと手形の跡が残った。

 そんな他愛たあいないことで緊張をまぎらわせている間に、女は手際よく準備を進めていく。僕の体に様々なチューブやら何やらを取り付けて、時折モニタに映し出された数字やらグラフやらを確認している。

「怖い?」

 思いがけず優しい言葉が降ってきて、僕は女を見上げた。彼女は先ほどとは打って変わって柔和にゅうわな笑みを浮かべていた。

「...正直、不安です」
「でしょうね。でも大丈夫。事前に説明があった通りよ。安全だから」
「頭では分かってるつもりなんですが、身体が言うことを聞かないんです。今だって、ほら、こんなにも心臓がばくばくいってる」
「大丈夫。リラックスして。緊張してると、上手くいくものもいかなくなってしまう」

 女は何度も大丈夫とささやいたが、結局僕の心臓は最後まで鳴り止まなかった。

 そして、遂にその時がきた。

「じゃあ、いくわよ。目を閉じて、リラックスして」

 女がキーボードで何か打ち込むと、電子機器が静かにうなり始めた。僕は目を閉じて、大きく深呼吸をした。

 大丈夫だ。大丈夫。
 リラックスできる。落ち着いて。
 1ヶ月間、楽しい世界で遊ぶだけさ。

「それじゃ、良い旅を」

 その言葉は、果たして本当に女が漏らしたものだったのか。それとも、僕の頭が作り出した幻聴げんちょうだったのか。

 判然としないままに、僕の意識はふつりと途切れた。
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