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第2章:城塞都市「ナラキア」編

第13話:黒い意志

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 耳の奥で羽虫がぶんぶん羽ばたいている。
 その絶え間ない騒音が、豆腐のようにやわらかな脳をブルブルと揺らす。

 不快だ。もう、立っていられない。

 僕は膝をつくと、頭を抱えてうずくまった。
 視界の端に、半分を切りそうになっているHPバーが見える。これが、今の僕の血液の総量。0になったら、現実世界でも心臓は動きを止める。
 それが分かっているのに、落とした剣も盾も、拾うことができない。

 悪辣あくらつな酔いが思考を鈍らせ、身体をきしませる。

 動け。動け。
 動け動け動け動け!

 死ぬんだぞ。

 全て、終わるんだぞ。

「酔ってるのかい? その割には、チートを使った様子はないが……」
 
 ツカサが近づいてくる。一歩一歩を踏みしめるように、この距離を楽しむように。

「まあ良いさ。ちょうど良い。君にも、極上の愉悦ゆえつをくれてやるよ。
 と同じように」
「……寄るな」
「言われて聞く僕だとでも?」
「寄るなと、言ってるんだよ」

 無意識に、腕がツカサの方に差し出される。握手のように優しく差し出したその腕を、僕は地面に叩きつけた。

 まともに考えることができない。視界が歪み、ツカサの姿を視認することもままならない。膝は笑い、頭は割れそうだ。

 だが……だが、こいつは、こいつだけは、ここで止める。

ちろ、外道」

 地に触れていた掌から、感触が消えた。
 どこまでも沈む、仮想世界に生まれた底なし沼。

 こいつを、埋めてやる。二度と出られない暗闇の奥に。ミルゲの時のように、中途半端な真似はしない。地の底の牢獄への道を、僕が作ってやるのだ。
 
 地面に投影した液体のイメージはどこまでも広がっていく。生い茂る草を、そびえる樹々を、転がる石ころを飲み込んで、沼はツカサの足元へ――。

「なるほど――なかなかどうして、恐ろしいチートの使い方をする」

 沈めっ。

「でも、まだ『浅い』ね」

 ぼんやりと見えていたツカサの姿が、目の前から消える。一拍遅れて、鋭くがれた風が耳元をよぎっていく。
 
 やつは、どこへ――。

 次の言葉は、予想外の場所から聞こえてきた。
 頭を押さえたまま天を仰ぐと、月明かりを背に、躍動やくどうする男の影がくっきりと映った。

「ご要望に応えて、今落ちよう。君の下へ、真っ直ぐに」

 ツカサの身体が、青白い光に包まれる。バチバチと高圧的な音とともに、彼は一本の雷槍と化した。ピンと伸ばされた両脚が、うなりを上げながら脳天目がけて迫ってくる。

 避けられない。
 距離とスピード、それに自らの身体の反応から、それは明白だった。
 恐らく、一撃では死ぬことはない。ただ、再起不能なほどのダメージが蓄積されることは間違いない。

「だから、どうした」

 そのつぶやきは、自分の口から漏れていた。知らぬ間に、勝手にのどが動き、舌を上下させ、唇を介して、その言葉は飛び出した。

「『消して』やるよ」

 開いた掌てのひらを、真上に突き出す。
 自分の身体が、自分の身体ではないようだ。

 内に潜む黒い意志が、僕の身体を闇にひたしていく。
 邪悪な目玉が、内側でぎょろりとこちらを見た。

 ――支配されてはいけない。

「消えろ」

 ――使うべきじゃない。
 飲み込まれるぞ、そいつに。

「……消えろ」

 目前に迫るツカサに、意識を集中する。一本真っ直ぐに伸びたその身体の真ん中に、ぽっかりと空いた黒い穴。向こう側には虚無しかない、電子世界のブラックホール。

 飲み込んでやる。

 僕の意識に呼応して、野球ボールほどの小さな黒い球が空間から浮かび上がった。それはちょうど落ちてくるツカサの身体の中心あたりにぴたりと吸いつき、禍々まがまがしいオーラをあたり一面に垂れ流し始めた。

 初めて、ツカサの顔が大きく歪む。

「?! これは、貴様ッ……」

 やつは半ば叫ぶようにして言った。
 切迫した声。今までの、どこか余裕を感じさせる声音こわねはなりを潜めて、本気の危機感が顔を出している。

 ようやく自分のいる状況に気づいたか。
 でももう遅い。お前は消える。

 握った手に力を込める。
 キュクロプスの時のように、何も残さない。

 心に芽生えた黒い意志は、急速に成長を遂げていた。僕の恐怖、不安、怒りを喰らいながら、身体を内側から突き破らんばかりに膨れていく。
 これが自分の元々の感情なのか、チートによってもたらされたものなのか分からなくなってくる。だがそんなことはお構いなしに、身体はどんどん闇にひたされていく――いや、おかされていく。

 キュクロプスと違うのは、相手が血の通った「人間」であること。同じ"サンプル"として、この世界で「消え」れば、現実でも命の炎が消えるということ。
 

 人を、殺めるということ。

 
 一瞬、ためらいが黒い怪物を押しとどめる。自分がこれからなそうとしていることの結果が脳裏によぎると、思わず叫びだしたくなる。 

 ――関係ない。
 殺される前に。僕や、茜や、豪がほふられる前に。
 
 これは正当防衛だ。
 僕は悪くないんだ。あいつが悪い。目の前のあいつが。自業自得なんだ。何もかも。

 狂っているのは僕じゃない。
 狂っているのはこの世界と、あの殺人鬼の方だ。

 頭の中の叫び声が収まらない。頭蓋の中に油を注がれ、そこに火をつけられたような熱さ。目の奥で火花が散るような、激烈な衝撃。世界が回る。ぐるぐると、ジェットコースターに乗っているように。
 
 でろり、と鼻から何かが流れ出た気がしたが、この世界で鼻血など出るはずがない。

 消えろ。塵も残さずに。
 くらい声が、地の底から響く。

 それをかき消すように、ツカサの悲鳴が辺りに響き渡った。

「ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛……グゾがッ、きざま、ぞのぢからは……『地平線』の……向ごうへ……」

 キュクロプスと違い、ツカサはどのようにしてか、チートに対抗しているようだった。拳を強く握りしめているのに、どうしても潰しきることができない。

 あと、もう一押しだ。
 その醜い身体を折り紙のように何重にもたたんでどこかへ飛ばしてやる。

 僕がより一層、手に力を込めようとした時だった。

「やめろぉぉ!!!」

 聞き慣れた叫び声が、僕を現実に引き戻す。振り返ると、そこには顔を引きつらせた豪が立っていた。横に立つ茜も、口を掌で抑えている。

 闇に覆われた世界に、一筋の光が差しこんだ。

 復活したんだ。豪が、復活した。
 でも、なぜやめろだなんて言うんだろう。
 僕は、脅威を排除しようとしているだけだ。
 そう、キュクロプスと同じ。脅威は、消去デリートしないと。

 再び向き直ろうとした僕に、豪は怒鳴った。

「そいつとは、俺がカタをつける! だから、もうそんな力使うな、丈嗣たけつぐ!」

 ……情を感じているのか。かつて友人存在が亡き者にされることが恐ろしいのか。

 でもこの光はなんだろう。先ほど差し込んできた光が、どんどん強くなってくる。

「その力、間違いなく危険よ! 下手したら死ぬかもしれない。ここからは私たちが何とかするから、もうやめて!」

 声のした方に顔を向けると、茜は泣いていた。
 それは安堵の涙ではなく、恐怖と悲しみがつまった涙だった。その目は真っ直ぐに、僕と、僕の中の黒い歪みを見つめている。
 僕の内側でやつの死を願う昏いささやきが、彼女には見えている。

 くしゃくしゃになった彼女の顔を見て、僕は不意に恐ろしくなった。
 
 人を――人を殺す? ゲームの中だから? 襲われたから?
 戦闘不能にするんじゃなく、命を奪おうとしていた。
 相手は、AIのモンスターじゃない。どんなに野蛮でも、残虐でも――人間なんだ。

 誰だ。
 人を殺めても関係ないなんて、身の毛もよだつようなことを言ったやつは、誰だ。

 暗闇が晴れていく。僕を食い破らんとしていた黒い怪物は勢いを失い、ぐずぐずと端から崩れていった。

 いつの間にか、僕は力なくうなだれていた。
 ここにきて意識し始めた強烈な酔いと、自分がやろうとしたことの恐ろしさに、飲み込まれそうになる。今こうして踏ん張っているのは、気を許した途端、奈落の底まで落ちていってしまいそうな気がしたからだ。

「丈嗣君ッ!」

 茜が駆け寄ってきて、背中をさすってくれる。

「……止まらない」
「大丈夫だよ」
「止まらないんだ、震えが。止まらない……」
「頑張って、止めてくれたんだね。ありがとう。本当に、ありがとう」

 彼女の掌から、優しさが流れ込んでくる。温かい光が、身体に満ちていく。
 ああ、今僕は、ほっとしているんだ。心から、安心しきっているんだ。

 しかし、安らぎは長くは続かなかった。

 ねっとりとした湿り気を含んだ言葉が、僕たちに投げかけられる。

「……危なかった。いや、本当に危なかったよ。まさか、こんなところで死のふちに立つとはね」

 その声に含まれた負の感情に、僕は心の臓が鷲掴みにされたような恐怖を覚えた。

 ツカサは僕の顔をのぞきこむようにしながら、ぶつぶつと何事かつぶやいている。

「『転回者』候補か……いや、もしかしたらもう――」
「何をごちゃごちゃ言ってやがる、ツカサ」

 豪が僕たちとの間に入ると、ツカサはぎょろりと彼を見すえた。

「あれ、豪ちゃん。復活したんだね。良く立ち直ったよ、いや本当に。
 僕がを殺したことが、よっぽどショックだったんだねぇ」
「悪いが、もうそんな言葉じゃ俺は折れない」
「僕が殺したって言ったら君、それこそ死人みたいに顔青ざめてさせちゃって。信じていたかったんだね、君の中の僕の偶像アイドルを」

 ツカサの口ぶりはまるで相手の反応を楽しんでいるようだったが、豪は動揺した様子は見せなかった。
 彼は、静かな闘志をその身に湛えていた。目に見えない炎が、その周囲で渦を巻いている。

「どうやら、もう俺の知ってるツカサはいねぇみたいだ。お前とは、ここで一切合切カタをつける」
「そう本気マジにならないでよ。こんなの、ほんの退屈しのぎにすぎないってのに」

 うずくまった僕をかばうように、茜が立ち塞がる。その茜の前にいる豪は、今ゆっくりと、ツカサに向かって歩き始める。
 
 2人が再び向かい合い、互いの間合いがあと1歩のところまで迫った、まさにその時――。


 その異様な雰囲気に、全員が気づいた。


 姿は見えない。だが、得体の知れない何かが迫ってくる。
 それは危険で、異質で……本来ここに「いてはいけない」存在であることを、第六感が知らせている。

 気配の方に顔をめぐらすと、見晴らしの良い平原の向こう側に、影が見える。
 1つ、2つ、3つ……まるで獣のように、一心不乱に、殺気を垂れ流しながら突っ込んでくる。

 あれは、何だ。
 魔物、なのか。

 しかし、あの姿。
 あれはまるで――

「この臭い――あのジジイ、また堕としやがったのか」

 ツカサのつぶやきとほぼ同時に、前にいる茜の口からも言葉が漏れた。まるでおとぎ話に出てくる悪魔を見たように、その背中は怯え切っていた。

「嘘。あれは――」

 その響きは、怪しくも強烈に、耳の奥にこびりついた。



 “蟲堕ち”。
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