20 / 23
番外編
忘れ物①
しおりを挟む
「あら?」
ジョエルの執務室で花に水遣りをしていたところ、執務机に無造作に置かれている書類が目に留まった。躊躇いつつもざっと目を通した感じ、騎士団の予算管理表のようだった。
急ぐものか判断がつかないので、クルスに相談することにした。
「旦那様が忘れ物とは……珍しいですね」
「本当ね。これ、届けた方がいいのかしら?」
「ええ、目を通してそのまま忘れてしまったのでしょう。大事なものですので奥様、お願いしてもよろしいですか?」
「もちろんよ。ああそうだわ、差し入れなんかは迷惑かしら?」
「いえ、きっと喜ばれますよ。奥様がさしあげるものなら何でも……」
後半小声で聞き取れず首を傾げると、クルスはニッコリと微笑んだ。
「騎士団の方は割と甘党の方が多いようです」
「そう、なら途中で何か見繕って行くわ。クルス、ありがとう」
「いえ、どうぞお気をつけて」
私は見苦しくない程度に身支度を整え、マーサと共に馬車に乗り込んだ。
「マーサ、付き合わせてしまってごめんなさいね」
「いえ、奥様とご一緒できるなんて光栄です」
クルスが一人では心配だからと、マーサを連れて行くよう強く勧めてきたのだ。申し訳なく思いながらも、当のマーサは心なしか嬉しそうだ。たまにはこうして外出も気晴らしになって良いのかもしれない。
女二人楽しくおしゃべりをしながら、途中懇意にしているパティスリーに立ち寄る。そして軽くてつまみやすそうな焼き菓子を多めに購入して、その足で王宮に向かったのだけれど……
「困ったわ、まさか迷うだなんて……」
行ったことはないながら、ジョエルの執務室が王宮の西館にあると知ってはいた。だからきっと辿り着けると楽観していた。でも王宮はあまりに広い。私は西館に辿り着く前に、迷路のような庭園に迷い込んでしまった。
「奥様、ちょっと辺りを見てきますので、ここを動かないでいてください」
「分かったわ、マーサごめんなさいね」
マーサは私の手を握るとニッコリ笑った。
「奥様の憂いを取り除くのがわたくしの勤めです。当然ですわ」
「マーサ……ありがとう」
マーサの忠誠心が本物だと伝わってくる。彼女を私に付けてくれたヴァルク家に改めて心から感謝した。
マーサが去って手持無沙汰になり、改めてキョロキョロと辺りを見回す。ここの生垣はやけに背が高く、全体的に迷路のように入り組んだ造りになっている。不審者が入り込まないための防壁でも兼ねているのかしら、などと想像を巡らせていると、ふと生垣の下から足が突き出ているのが見えた。
「……っ!」
出かかった悲鳴を必死で押し殺す。誰か人が倒れているのかしら? こんな人気のない所で大変だと、私は勇気を出して近づいてみた。
「あの、大丈夫ですか? 具合でも悪いの?」
「ん……?」
声は男性のものだった。足しか見えないのでどんな人物かは分からない。けれど靴は使い古されたブーツのようだ。
「え? こんなとこに人?」
足が生垣の向こうに吸い込まれた後、枝葉を掻き分けるようにして、男性が現れた。ルビーのように真っ赤な目が印象的で、右頬にうっすら傷痕があるものの中々の美丈夫だ。彼は私を見るなり大きな声をあげた。
「わ! 凄い美人!」
「あの……ここで一体何を?」
「昼寝」
悪びれもせず男は笑った。
「君は……見たところ迷子?」
「え、ええその通りです。うっかり迷い込んで困っておりました」
「案内しようか?」
「まあ……願ってもないことですが、生憎連れがまだ戻っていなくて」
「ふぅん……連れって男?」
「いえ、女性です」
男はニコッと笑った。
「一緒に探しに行こう。すぐ見つかるよ、きっと」
差し出された手を、つい条件反射のように取ってしまった。直感的に男から悪意や害意は感じられなかったし、服装からも騎士だと分かる。ここはひとまず信じて頼ってみることにした。
マーサは本当にすぐに見つかった。男はかなり耳が良いようで、彼女の足音を頼りにマーサを探し当てたのだ。
「本当にありがとうございます、なんとお礼申し上げて良いやら……」
「大したことじゃないよ。あ、僕はゼフ。王宮の騎士だよ」
「私はエマと申します。こちらはマーサです」
「ゼフ様、主人を助けていただき感謝いたします」
「レディを助けるのは騎士の本分だからね、気にしない気にしない。ところでこんなとこにいるってことは、騎士団にでも用事?」
「はい、ジ……団長様にお届け物がありまして」
途端にゼフが顔を顰めた。
「またか……」
「また?」
「そういう女性は本当に多いんだよ。団長はモテるから」
どうやら私はジョエルの追っかけと勘違いされたらしい。マーサが何か言いかけたのを目で制する。
この調子では妻と言ったところで相手にされそうもない。今ここで身分を証明するものは何もないのだから。
さてどうしようかと思案する。書類をゼフに渡しても良いのだけれど、誰に見られて良いものかも分からない。やっぱり直接ジョエルに手渡した方が無難だ。
ならば私の取るべき行動は一つ。
「どうかそんなことを仰らず……団長様が帰れと仰いましたらすぐに失礼するとお約束しますので、ゼフ様、どうか……」
瞳を潤ませながら上目遣いにゼフを見上げる。ゼフはぐっと喉を詰まらせながら泳ぐように目を逸らした。
「わ、分かったよ。約束、絶対守るんだよ? じゃないと僕が団長に殺されるから……」
殺されるとは穏やかじゃない。ジョエルは一体どれだけの女性を日々追い払っているというのか。
私の心中を察してか、マーサが困ったように微笑んだ。
「旦那様は……一途な方です」
小声で私にだけ聞こえるように囁く。私はマーサの手を握って、大丈夫と頷いた。
「うわ! ゼフまさか彼女⁉」
「凄い美人だ! うそだろ⁉」
私はどうやら騎士団の詰所の方に連れてこられたらしい。簡単にジョエルには会わせてもらえないようだ。
机や椅子が雑然と並ぶ広い詰所内には、休憩中らしい数人の騎士がカードゲームや談笑をしながら寛いでいた。
そこへ私達が入るなり、騒がしく騎士団員たちに取り囲まれ、ちょっとした騒ぎになってしまった。
「あの、団長様にお届け物に上がったのですが、こちらにはおられないのでしょうか?」
どうしたものかと困って首を傾げると、周囲にはあからさまな落胆ムードが漂った。
「なんだぁ団長狙いかー」
「団長は女嫌いだから、君みたいな美人でも相手してもらえないと思うよ。俺とかどう?」
「お前らやめろって。心配しなくても団長に振られたら僕が慰めるからさ」
ゼフは男達から庇うように私の前に立つと、パチリとウィンクした。
初心な娘だったなら心ときめかす場面なのかもしれない。前世の記憶がそれを許してくれないのが少しばかり残念だ。
「ありがとうございます。それで、団長様は……」
「うん、この時間なら休憩でそろそろ降りてくるはずだから、ちょっと待ってて」
ジョエルはよっぽどきつく団員達に言い含めているのかもしれない。無闇に女を近づけるなと。
まさか先触れなしにジョエルに会うことがこんなに大変だとは思わなかった。ただ書類と差し入れをジョエルに渡すだけで、長居するつもりなんて少しもなかったのに。
「あの、皆様お仕事の邪魔をして申し訳ありません。こちらで大人しくしておりますのでどうかお構いなく……」
「いやーこんな美人滅多にお目にかかれないしさー」
「そうそう、今度食事でも行かない?」
「名前教えてよ」
取り囲まれて質問攻めだ。騎士の一人が私の手を掴もうとした瞬間、マーサがピシャリと手で払った。
「どうか皆様その位に。後で後悔なさっても知りませんよ」
こんなに怒ったマーサの顔は初めてみた。騎士達もその気迫に押されているようだ。私は安心させるようにマーサの肩に手を置く。
「私は大丈夫よ、ありがとう」
マーサは静かに一礼すると一歩後ろに下がった。その瞬間、バターンと凄い音と共に扉が開く。
「あ、団長!」
突然現れたジョエルは私の姿を認めるなり、驚いたように目を見開くと、ツカツカと真っ直ぐにこちらへ向かってくる。
「え、エマさんもしかして本当に団長と知り合いなの?」
ゼフを見上げて微笑むと、次の瞬間私はジョエルの腕の中にいた。
「だ、団長?」
ジョエルはそのまま私を抱き上げると、脇目も振らずに詰所を後にした。
マーサと呆気にとられる団員達を残したまま──
ジョエルの執務室で花に水遣りをしていたところ、執務机に無造作に置かれている書類が目に留まった。躊躇いつつもざっと目を通した感じ、騎士団の予算管理表のようだった。
急ぐものか判断がつかないので、クルスに相談することにした。
「旦那様が忘れ物とは……珍しいですね」
「本当ね。これ、届けた方がいいのかしら?」
「ええ、目を通してそのまま忘れてしまったのでしょう。大事なものですので奥様、お願いしてもよろしいですか?」
「もちろんよ。ああそうだわ、差し入れなんかは迷惑かしら?」
「いえ、きっと喜ばれますよ。奥様がさしあげるものなら何でも……」
後半小声で聞き取れず首を傾げると、クルスはニッコリと微笑んだ。
「騎士団の方は割と甘党の方が多いようです」
「そう、なら途中で何か見繕って行くわ。クルス、ありがとう」
「いえ、どうぞお気をつけて」
私は見苦しくない程度に身支度を整え、マーサと共に馬車に乗り込んだ。
「マーサ、付き合わせてしまってごめんなさいね」
「いえ、奥様とご一緒できるなんて光栄です」
クルスが一人では心配だからと、マーサを連れて行くよう強く勧めてきたのだ。申し訳なく思いながらも、当のマーサは心なしか嬉しそうだ。たまにはこうして外出も気晴らしになって良いのかもしれない。
女二人楽しくおしゃべりをしながら、途中懇意にしているパティスリーに立ち寄る。そして軽くてつまみやすそうな焼き菓子を多めに購入して、その足で王宮に向かったのだけれど……
「困ったわ、まさか迷うだなんて……」
行ったことはないながら、ジョエルの執務室が王宮の西館にあると知ってはいた。だからきっと辿り着けると楽観していた。でも王宮はあまりに広い。私は西館に辿り着く前に、迷路のような庭園に迷い込んでしまった。
「奥様、ちょっと辺りを見てきますので、ここを動かないでいてください」
「分かったわ、マーサごめんなさいね」
マーサは私の手を握るとニッコリ笑った。
「奥様の憂いを取り除くのがわたくしの勤めです。当然ですわ」
「マーサ……ありがとう」
マーサの忠誠心が本物だと伝わってくる。彼女を私に付けてくれたヴァルク家に改めて心から感謝した。
マーサが去って手持無沙汰になり、改めてキョロキョロと辺りを見回す。ここの生垣はやけに背が高く、全体的に迷路のように入り組んだ造りになっている。不審者が入り込まないための防壁でも兼ねているのかしら、などと想像を巡らせていると、ふと生垣の下から足が突き出ているのが見えた。
「……っ!」
出かかった悲鳴を必死で押し殺す。誰か人が倒れているのかしら? こんな人気のない所で大変だと、私は勇気を出して近づいてみた。
「あの、大丈夫ですか? 具合でも悪いの?」
「ん……?」
声は男性のものだった。足しか見えないのでどんな人物かは分からない。けれど靴は使い古されたブーツのようだ。
「え? こんなとこに人?」
足が生垣の向こうに吸い込まれた後、枝葉を掻き分けるようにして、男性が現れた。ルビーのように真っ赤な目が印象的で、右頬にうっすら傷痕があるものの中々の美丈夫だ。彼は私を見るなり大きな声をあげた。
「わ! 凄い美人!」
「あの……ここで一体何を?」
「昼寝」
悪びれもせず男は笑った。
「君は……見たところ迷子?」
「え、ええその通りです。うっかり迷い込んで困っておりました」
「案内しようか?」
「まあ……願ってもないことですが、生憎連れがまだ戻っていなくて」
「ふぅん……連れって男?」
「いえ、女性です」
男はニコッと笑った。
「一緒に探しに行こう。すぐ見つかるよ、きっと」
差し出された手を、つい条件反射のように取ってしまった。直感的に男から悪意や害意は感じられなかったし、服装からも騎士だと分かる。ここはひとまず信じて頼ってみることにした。
マーサは本当にすぐに見つかった。男はかなり耳が良いようで、彼女の足音を頼りにマーサを探し当てたのだ。
「本当にありがとうございます、なんとお礼申し上げて良いやら……」
「大したことじゃないよ。あ、僕はゼフ。王宮の騎士だよ」
「私はエマと申します。こちらはマーサです」
「ゼフ様、主人を助けていただき感謝いたします」
「レディを助けるのは騎士の本分だからね、気にしない気にしない。ところでこんなとこにいるってことは、騎士団にでも用事?」
「はい、ジ……団長様にお届け物がありまして」
途端にゼフが顔を顰めた。
「またか……」
「また?」
「そういう女性は本当に多いんだよ。団長はモテるから」
どうやら私はジョエルの追っかけと勘違いされたらしい。マーサが何か言いかけたのを目で制する。
この調子では妻と言ったところで相手にされそうもない。今ここで身分を証明するものは何もないのだから。
さてどうしようかと思案する。書類をゼフに渡しても良いのだけれど、誰に見られて良いものかも分からない。やっぱり直接ジョエルに手渡した方が無難だ。
ならば私の取るべき行動は一つ。
「どうかそんなことを仰らず……団長様が帰れと仰いましたらすぐに失礼するとお約束しますので、ゼフ様、どうか……」
瞳を潤ませながら上目遣いにゼフを見上げる。ゼフはぐっと喉を詰まらせながら泳ぐように目を逸らした。
「わ、分かったよ。約束、絶対守るんだよ? じゃないと僕が団長に殺されるから……」
殺されるとは穏やかじゃない。ジョエルは一体どれだけの女性を日々追い払っているというのか。
私の心中を察してか、マーサが困ったように微笑んだ。
「旦那様は……一途な方です」
小声で私にだけ聞こえるように囁く。私はマーサの手を握って、大丈夫と頷いた。
「うわ! ゼフまさか彼女⁉」
「凄い美人だ! うそだろ⁉」
私はどうやら騎士団の詰所の方に連れてこられたらしい。簡単にジョエルには会わせてもらえないようだ。
机や椅子が雑然と並ぶ広い詰所内には、休憩中らしい数人の騎士がカードゲームや談笑をしながら寛いでいた。
そこへ私達が入るなり、騒がしく騎士団員たちに取り囲まれ、ちょっとした騒ぎになってしまった。
「あの、団長様にお届け物に上がったのですが、こちらにはおられないのでしょうか?」
どうしたものかと困って首を傾げると、周囲にはあからさまな落胆ムードが漂った。
「なんだぁ団長狙いかー」
「団長は女嫌いだから、君みたいな美人でも相手してもらえないと思うよ。俺とかどう?」
「お前らやめろって。心配しなくても団長に振られたら僕が慰めるからさ」
ゼフは男達から庇うように私の前に立つと、パチリとウィンクした。
初心な娘だったなら心ときめかす場面なのかもしれない。前世の記憶がそれを許してくれないのが少しばかり残念だ。
「ありがとうございます。それで、団長様は……」
「うん、この時間なら休憩でそろそろ降りてくるはずだから、ちょっと待ってて」
ジョエルはよっぽどきつく団員達に言い含めているのかもしれない。無闇に女を近づけるなと。
まさか先触れなしにジョエルに会うことがこんなに大変だとは思わなかった。ただ書類と差し入れをジョエルに渡すだけで、長居するつもりなんて少しもなかったのに。
「あの、皆様お仕事の邪魔をして申し訳ありません。こちらで大人しくしておりますのでどうかお構いなく……」
「いやーこんな美人滅多にお目にかかれないしさー」
「そうそう、今度食事でも行かない?」
「名前教えてよ」
取り囲まれて質問攻めだ。騎士の一人が私の手を掴もうとした瞬間、マーサがピシャリと手で払った。
「どうか皆様その位に。後で後悔なさっても知りませんよ」
こんなに怒ったマーサの顔は初めてみた。騎士達もその気迫に押されているようだ。私は安心させるようにマーサの肩に手を置く。
「私は大丈夫よ、ありがとう」
マーサは静かに一礼すると一歩後ろに下がった。その瞬間、バターンと凄い音と共に扉が開く。
「あ、団長!」
突然現れたジョエルは私の姿を認めるなり、驚いたように目を見開くと、ツカツカと真っ直ぐにこちらへ向かってくる。
「え、エマさんもしかして本当に団長と知り合いなの?」
ゼフを見上げて微笑むと、次の瞬間私はジョエルの腕の中にいた。
「だ、団長?」
ジョエルはそのまま私を抱き上げると、脇目も振らずに詰所を後にした。
マーサと呆気にとられる団員達を残したまま──
応援ありがとうございます!
30
お気に入りに追加
2,786
1 / 5
この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!
過去1ヶ月以内にノーチェの小説・漫画を1話以上レンタルしている
と、ノーチェのすべての番外編を読むことができます。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。
番外編を閲覧することが出来ません。
過去1ヶ月以内にノーチェの小説・漫画を1話以上レンタルしている
と、ノーチェのすべての番外編を読むことができます。
このユーザをミュートしますか?
※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。