あなたを狂わす甘い毒

アマイ

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1巻

1-1

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   プロローグ


「痛っ……!」

 不意に走った下腹部の痛みでハッと我に返った。
 ――ここは、どこ?
 状況が分からず視線を彷徨さまよわせると、私を冷ややかに見下ろす男と目が合った。途端にドクリと心臓が嫌な音を立てる。
 信じられない。二度と会いたくない、会うはずもなかった忌々しい存在が何故ここに?
 いぶかる心を必死に隠しながら、私は探るように男――ジョエル・ヴァルクを見つめた。
 薄暗がりの中、燭台の明かりに照らされた銀髪は赤みを帯び、あおいはずの瞳も禍々まがまがしい程に赤く輝いている。鍛え上げられた裸身はいましめるように私を組み敷き、更に視線を落とせば、私の下腹は彼の凶悪なものによって半ばほどまで刺し貫かれていた。
 まさか――
 鮮烈な既視感に、すうっと血の気がひく。
 記憶が確かなら、これは五年前の出来事だ。
 夢でも、みているの? まさか過去に戻ったとでも? ああ、分からない……何がどうなっているというの?

「う……んっ」

 ただ一つ確かなのは、この下腹の痛みだけは現実のもの、ということ。身をよじって逃れようとするけれど、ジョエルは容赦がない。ろくにほぐれてもいないそこに、なおもギチギチと自身をじ込もうとする。
 ああ、この痛み……忘れられるものか。これはこの男との最初で最後となった夫婦の営みだ。あのころの私は処女だったというのに、優しさの欠片かけらもなくなされた行為は痛いだけで酷く辛かった。
 ――憎たらしい男。
 本音を押し殺して、私はジョエルの広い背にそっと腕を回した。そしてゆっくりと息を吐いて力を抜く。すると痛みや恐怖でり固まっていたそこは、すんなりと彼を奥深くまで導いた。
 まだこれが夢か現実か分からないけれど、これまでつちかった知識や経験がこんなところで役に立った。

「ジョエ、ル……」

 ホッとして、思わずジョエルに微笑んでしまった。するとジョエルは驚いたように目を見開く。
 ――あら、そんな顔もできるのね。
 仏頂面以外のジョエルを初めて見た私は、ほんの少し興味をそそられた。
 もし私が彼の恋人のように甘く振る舞ったら、この忌々しい男は一体どんな顔をするだろう。以前とは趣向を変えてみるのも一興かもしれない。だって、前のように入れて出して終わり、なんてお互いつまらないでしょう?
 私はそんな期待を込めて笑みを深めた。

「あなたとやっと、一つになれて……嬉しいわ」

 私の言葉にジョエルは露骨に眉間にしわを寄せる。

「……戯言たわごとを」
「今まで素直になれなくてごめんなさい……本当はずっとあなたとこうなれる日を夢見ていたの。だから……本当に嬉しい……」

 躊躇ためらいがちに見えるようそっとジョエルの頬に触れると、意外にも拒絶されることはなかった。
 気を良くした私は、硬い表情で沈黙するジョエルに改めて微笑みかけて、そのまますがるように首筋に腕をからめる。そして熱い吐息と共に耳元で囁いた。

「ジョエル……あなたが好きよ」

 私の中のジョエルが一段と質量を増す。まさかあのジョエルが私に反応している? 予想以上の成果に何だかおかしさが込み上げて、仄暗い優越感を覚えた。
 どうせ彼とはこれが最初で最後のセックスだ、少しは楽しませてもらわなくては。
 甘えるようにジョエルのおとがいにちゅっと口付ける。

「あなたの好きにし……っ!」

 言い終わるのを待たずして、ジョエルは私の足を掴むとぐっと折り曲げ、更に奥をえぐった。

「んっ……ジョ、エル?」

 不意打ちの攻勢に息が詰まる。思いやりの欠片かけらもない行為に苛立つけれど、それを決して表には出さない。

「何を企んでいる」

 ジョエルは乱暴に私の乳房を掴んで不快げに眼をすがめた。私は痛みで顔が歪みそうになるのを必死でこらえる。私達のこれまでを思えば気持ちは分かるけれど、今はそんな不愉快な顔、見たくもない。
 私はジョエルの首にしがみついて目を閉じた。そうしてゆっくりと首を横に振って他意のないことを強調する。

「何も……私の気持ちを伝えたかっただけ……」

 ジョエルは舌打ちすると私の中に自身を叩きつけた。
 なんて激しさだろう。腰を打ちつけられるたび響く鈍い痛みをまぎらわせたくて、ジョエルの背にギリと爪を立てる。相変わらず憎たらしい男だ。処女を相手に慈悲も容赦もないなんて。
 それでも次第に体は昂ぶり、悦ぶ感覚がジワジワと湧き上がってきて愕然とする。
 信じられない……こんな乱暴で思いやりの欠片かけらもないセックスに私、感じているの?
 記憶や経験の為せるわざなのか、この体は確かに苦痛だけではない快感を拾いはじめていた。

「あっ! いヤっ……おか、しくなっ……!」

 ジョエルの激しい抽挿ちゅうそうに全身をガクガクと揺さぶられると、背筋に震えるようなうずきが走った。
 嫌だ、ジョエルなんかにかされたくない!
 私は咄嗟とっさに自身の腕を強く噛んで、迫りくる何かに必死で耐える。
 お願い、早く終わって――
 そんな願いが通じたのか、ジョエルの雄は一段と膨れ上がると私の最奥でぜた。下腹からはビクビクとジョエルの脈動が伝わってくる。心底ホッとした。やっと終わった最初で最後のセックス。
 そう思うと気持ちに余裕が生まれ、心にもないことまで言えてしまう。

「とても素敵だったわ、ジョエル……」

 背に腕を回してピッタリと体を合わせると、中のジョエルがグッと硬さを取り戻した。
 早くこれを抜いて目の前から消えてくれないかしら。そう思っていたのに、ジョエルは一旦引きかけた自身を再び奥まで突き入れた。

「……ああっ!」

 激しく前後に揺さぶられるたび、混じり合った体液がぐちゅりと卑猥ひわいな水音を響かせる。私はそれを信じられない思いで聞いていた。
 前回は一度きりで終わったはずなのに、一体どういうこと?
 戸惑う私など意に介さず、ジョエルはその後私の中で三度も果てた。


 翌日は全身の痛みで目が覚めた。部屋を見回すと既にジョエルは居ないようでホッとする。窓辺に差し込む日差しの様子から今は正午前ほどだろうか。随分ぐっすりと寝てしまったようだ。
 そこで昨晩の激しすぎる初夜を思い出して心がささくれ立つ。下腹にはまだ強烈な違和感があるし、腕一本持ち上げるのも億劫おっくうだ。
 ああ、腹が立つ。ジョエルへの恨みが沸々と湧き上がるけれど、まあいいわ。あんなことは最初で最後だ。今後ジョエルとは社交場以外で顔を合わせることもないはず。そんなことを考えながら私はふうっと深いため息をつく。
 目が覚めてもヴァルク家の屋敷にいるということは、やはりジョエルとの一夜は夢ではなかったらしい。信じ難いことだけれど、私の時は五年前に巻き戻ってしまったようだ。
 何故、どうして。
 考えても分からない、思い出せない。これから私は一体どうすべきなのだろう。
 理解し難い現状と先行きとに不安を感じながら、私は気怠い微睡まどろみに身をゆだねた。


 食事や入浴のため、時折起きては眠りを繰り返していたら、いつの間にか夜になっていたようだ。

「……ん」

 眼を開けると、薄暗がりの中私を見下ろすジョエルの姿が見えた。

「ジョ、エル?」

 ジョエルの表情は逆光でよく分からない。
 でも、今度こそこれはきっと夢だ。だって彼が私のもとへ訪れるのは初夜だけのはず。今は何だかフワフワと気分が良いから、嫌いなあなたでも特別に優しく甘やかしてあげるわ。

「お帰りなさい」

 私は微笑みながらジョエルに向かって手を伸ばして、少し無精髭の生えた彼の頬を優しく撫でる。けれどジョエルは無言のまま私のネグリジェに手をかけると、一気に引き裂いた。
 全く夢でも無粋ぶすいな男だ。
 密かに気分を害する私などお構いなしに、ジョエルはあらわになった乳房にかぶりつく。

「あっ……痛っ!」

 歯形が付いているんじゃないかしら。更にじゅっとキツく吸い上げられて痛みが増す。
 その痛みではっと我に返った。
 痛い? これは夢じゃないの?
 頭を殴られたような衝撃に呆然とする。そんなまさか……どうしてジョエルがここに? しかも彼はいつの間にか服を脱ぎベッドに体を乗り上げていて、ももに押し付けられる雄は既に臨戦態勢だ。
 さあっと蒼褪あおざめる。まさかこの男、今日も私を抱く気? 一日だけと思うからこそ耐えられたのに、嘘でしょう?

「……あっ!」

 私の困惑など知る由もないジョエルは、ぐにゃりと私の乳房を掴んで荒々しく揉みしだいた。その痛みすら伴う乱暴な前戯に涙がにじむ。そしてもう一方の手は下肢を割り開いて敏感な芽をまんだ。指先でスリスリと擦られ続けると軽くってしまう。なんて屈辱……こんなおざなりな愛撫で容易たやすかされるだなんて。
 息を弾ませ、うるんだ瞳で見上げれば、ジョエルは馬鹿にしたように笑っていた。

「俺も本意ではないがお前には子を産ませねばならない。はらむまで我慢しろ」

 その言葉に愕然とする。
 な、んですって――⁉
 かつてジョエルに抱かれたのはただ一度きりだったはず。はらむまで? 嘘でしょう? あんなに嫌っていた私をはらむまで抱けるというの?
 ただ時が戻っただけだと思っていたけれど、今のジョエルは微妙に記憶とは異なり様子がおかしい。得体の知れない恐怖に呑まれそうになりながら、懸命に自身を叱咤する。だめだ、こんな時こそ冷静にならなければ。以前の私はジョエルを否定し続けた結果、落ちるところまで落ちたのだ。
 同じ過ちを繰り返してなるものか。今度こそ上手く立ち回ってみせる。

「嬉しいわジョエル……あなたの子が産めるだなんて」

 束の間の沈黙をごまかすように、私はジョエルの胸にしなだれかかり顔を埋めた。今彼がどんな顔をしているかなんて知りたくもない。
 するとジョエルは私の腰を掴み、自身を一息に奥まで突き入れた。まだ少しヒリヒリするけれど、幸い痛みはない。こんな身勝手で乱暴な愛撫で濡れるだなんて私の体も大概だ。本音を押し隠しながら、私はジョエルの顔を下から覗き込む。

「ジョエル、お願いゆっくり、して? できるだけ長くあなたと繋がっていたいの……」

 耳元で囁くと、私の中のジョエルが応えるようにビクリと震えた。どうせ抱かれるのなら少しでも苦痛は取り除きたい。
 けれど、私の目論見もくろみは失敗に終わった。結局この日も怒りをぶつけるような激しさで抱かれた。
 何故なの? 以前は私を避けるよう、ろくに屋敷にも寄り付かなかったくせに。
 こんな乱暴にするほど私が嫌いなら触れなければいい。それでもなお子が必要というなら最低限で済ますべきだ。なのにジョエルは果ててもすぐには離れてくれない。硬度を保ったまま、抜かずに何度も何度も中に吐き出すのだ。
 はらませるため――本当に、それだけのために?
 それ以外の理由で、私を嫌っていたジョエルが私を抱くはずがないとは思いつつ、何か違和感もある。でもそれが何なのかが良く分からない。当たり前のように隣で寝入るジョエルの背を眺めながら、私の心は重く暗く沈んでいった。


 ★


 私――エマ・ドゥ・カレンガは隣国のラン王家に連なる侯爵家の娘で、元はジョエルの兄、エリック・ヴァルクの婚約者だった。十も年の離れたエリックとの間に恋のような感情はなかったけれど、優しく聡明な彼を私は兄のように慕っていた。

「小さな貴婦人」

 私が精いっぱい背伸びをするたび、エリックは揶揄からかうようにそう呼んだ。無理をして大人になる必要はない、エマはそのままで良いのだと優しくさとしてくれたエリック。私たちは政略上の婚約者とは思えないほど仲睦まじい間柄だったように思う。
 けれど彼は先の戦争で死んでしまった。その時私はまだ十歳。幼いなりに嘆き悲しみ、感情の折り合いをつけられないまま、ヴァルク家の次の嫡子ちゃくしとなったジョエルと私は当たり前のように婚約させられた。
 ジョエルの実母は元娼婦だった。その類稀たぐいまれな美貌に惚れ込んだジョエルの父が身請けして愛妾にしたのだ。
 私は、そんな母親の身分の低いジョエルとの婚約が嫌で堪らなかった。今にして思えばあまりに狭量で愚かだったけれど。

「汚らわしい」

 以前の私はジョエルとジョエルの母を心底そう思っていた。こんな血のいやしい男に嫁がねばならない我が身を不幸と本気で嘆いていた。
 けれど私がどう思おうと、ジョエル自身の資質は優れていた。
 彼は、ヴァルク公爵家を継いですぐにこの国、モンテアナ王国を守る騎士団に入団すると、数年であっという間に団長位まで上り詰めた。実力主義とされる騎士団でのその地位は真実、能力を認められた証といえる。
 彼の働きぶりは国王陛下の覚えもめでたく、ジョエルはその実力と母親譲りの華やかな容貌によって社交界を大いに賑わせていた。
 でも、どれだけジョエルの名声が高まろうと、汚らわしい娼婦の血を引いている――その一点がどこまでも私をかたくなにさせた。彼を見るたび嫌悪と怒りが湧きあがり、私はそれをそのまま彼にぶつけた。本当に愚かだった。
 ジョエルは元々気遣いのできる優しい青年だったように思う。はじめは私に歩み寄ろうと心を砕いてくれていた。でも私はその全てが卑屈なご機嫌とりのように思えて嫌で堪らなかった。
 そうしていつしかジョエルは諦めた。彼の心と瞳を凍らせたのは私だ。
 そんな私に触れるのもいとわしかっただろうに、彼は妻を抱く義務を一度きりでも果たした。
 初夜を終えると彼は屋敷へ戻ることもなく、やがて別の女性との愛にのめり込んだと聞いた。
 私は私で人妻という名の自由を得て、気ままに火遊びを楽しんでいた。人並みに貞操観念は持っていたはずなのに、きっかけは何だったのだろう。今となってはもう思い出せない。
 特定の愛人はいなかったけれど、気に入れば刹那せつなの情事を楽しむ、いつの間にかそんな女になっていた。
 でも、そんなただれた日々も二年程で呆気なく幕を下ろす。父と兄が程なくして逆賊の罪で処刑されたのだ。爵位を継いだばかりの兄は誰かにそそのかされでもしたのか、他家に嫁いだ私に多額の借金を残していた。
 借金を返すには家屋敷を手放しても足りず、残りはジョエルが肩代わりをしてくれた。私との離縁を条件に。
 そして離縁が成立した後、行くあてのない私をジョエルは有無を言わさず娼館送りにした。

淫売いんばいなお前には相応ふさわしいだろ。好きなだけくわえ込め」

 最後に見たジョエルは、美しい顔を忌々しげに歪めて笑っていた。
 当時打ちのめされ、抜け殻のようになっていた私は、その時彼になんと返したのか覚えていない。でもその時のジョエルの顔だけは、いつまでも脳裏に焼き付いて離れなかった――


 そうして私は、あんなにさげすんでいたジョエルの母と等しい身にまで落ちた。
 それから三年。
 何があっても負けたくない、死んでもジョエルを喜ばせてなるものか――
 その一心でジョエルへの借金返済を目標に私は娼館で必死に働いた。全てを失い、プライドも何もかもへし折られた私は、ここまで落ちてようやく生まれ変わったのだ。
 どんな客であってもどんな要望であっても嫌な顔一つせず笑顔で応えた。ただれた日々でつちかった性技や駆け引きがこんなところで役に立った。元貴族令嬢という肩書きも、高貴な女を汚せるという男達の嗜虐心しぎゃくしんを大いにあおったようで、日々訪れる客は途絶えず、気付けば私はあっという間に娼館の看板を背負うほどの娼婦になっていた。
 振り返るな、我が身を嘆くな。
 苦しいときほど何度も己に言い聞かせた。身も心も擦り切れようとも絶対に負けるものか。
 客の中にはこんな私を身請けしたいという物好きもいたけれど、私は頑として首を縦に振らなかった。誰の手も借りない。この身一つで稼がなければ意味がない。この手で必ずジョエルに借金を返し切る――それが私なりの意地でありプライドだった。
 そう思っていたのに――
 どうして時は巻き戻って、今再びジョエルと夫婦をやり直しているのだろう。
 隣で眠るジョエルの背を見つめながら、私は記憶にあるこれから起こるはずの未来に思いをせる。
 これは過去の過ちを正すまたとない好機なのかもしれない。以前の私は、実家の没落を前に為すすべもなく、ただ流され落ちてゆくだけだった。けれど今の私になら実家を、兄を救えるかもしれない。
 たとえこの身は無力でも、ジョエルには力がある。以前は忌み嫌って遠ざけるばかりだったけれど、味方に付ければこれ程心強い存在はないのではないか。幸い今のジョエルは私が嫌いでも、私の体までは嫌いではないらしい。
 ならば彼を客だと思えば良い。そう思えば、いつでもどんな要望にも笑顔で応えられる。その見返りとして活路が開くのならこれ以上のことはない。それにジョエルはいずれあの女性と愛し合うのだ。私はその時までジョエルの力添えを得て、破滅さえ回避できたらいい。あとは円満に離縁して、今度こそ平穏で安らかな生を歩みたい。再び父と兄をうしなうなど……罪人一族とさげすまれる人生など真っ平御免なのだから。
 今後の生きる指針が決まり、自然と笑みが零れる。
 ジョエル、今からあなたは私のお客様よ。別れの日まで精一杯おもてなしさせて頂くわ――
 ゆっくりと身を起こし、私に背を向けて眠るジョエルの横顔を見下ろした。本当に、憎らしいほど美しい男だ。なだらかな頬に口付けて、ひんやりとした耳朶をむ。

「愛してるわ、ジョエル……」

 ジョエルの背にピッタリと身を寄せて抱きついた。何も身につけていない素肌同士のぬくもりが妙に心地良い。あのジョエルが相手だというのに――
 苦い笑みを浮かべながら、私はそっと目を閉じた。



   第一章 破滅回避への道


 何かがおかしい。
 ジョエルを利用して破滅から抜け出そうと決めてから一週間、ジョエルは毎日のように私を抱く。客と見做みなして常に笑顔で応じるけれど、彼が満足するまで延々と抱かれるので、疲労やら節々の痛みやらで私はずっとベッドの住人だ。
 かつてのプロとしての矜持きょうじが許さないけれど、今日こそは言おう。体が辛いので休ませて欲しいと。
 このままでは兄を救うどころか、実家へ戻ることすらままならない。
 どんな手を使ってでも今日こそは休ませてもらう。そう固く心に誓った……のだけれど――

「奥様、本日旦那様は王宮での夜間警護のためお戻りになりません」
「そう……分かったわ、ありがとう」

 部屋を訪れうやうやしく礼をして去っていく家令のクルスを、私はホッとしたような、肩透かしを喰らったような、なんとも言えない心地で見送った。
 いずれにしても今夜この身は自由のようだ。やっと本当の休息が取れる。飛び上がりたいほど嬉しかった。今日一日ゆっくり休んで、明日起き上がれたら久々に街へ買い物にでも行こうかしら。そう思うと心が弾む。
 早々に入浴や食事を済ませ私は再びベッドに横になった。目を閉じると脳裏に浮かぶのは憎たらしいジョエルの顔。
 全くあの男……愛してもいない女を足腰立たなくなる程毎日抱き潰すなんて正気の沙汰じゃない。
 本当に子ができていたらどうしようか。まさかろせとは言われないだろうけれど、ジョエルは私の産んだ子など愛せるのかしら? でも子ができるまで抱くとはじめに宣言されている。一体どうしたものか――
 悶々もんもんと考え事をしている内に、いつしか深い眠りに誘われ、この日は久々に朝までぐっすりと寝入ることができた。


 翌朝、どうにか起き上がれるほどに回復したものの、外出するには少し辛いように感じた。そこで侍女の案内でゆっくりと庭園を散策することにする。
 広々とした庭園へ足を踏み入れた途端、ふわっと頬を撫でる風に、深く埋もれた記憶がぐらりと揺り起こされた。
 遠い昔、幼い私……まだエリックが生きていたころ、ヴァルク邸のどこかを誰かに案内してもらった……ような気がする。確か私は『とっておきの場所』へ案内してと強請ねだったのだ。そうして誘われたのはどこであったか……
 そもそも案内してくれたのが誰であったかも思い出せず頭をひねっていると、一歩先を歩く侍女のマーサがこちらを振り向いた。

「奥様、この先にある薔薇園が今は見頃ですよ」

 マーサがにこやかに前方を指差す。

「まあ、楽しみだわ」

 私はこの身一つで嫁いできたので、侍女は全て婚家であるヴァルク家の方で手配されていた。私の専属にと付けられたマーサは、鮮やかな赤毛の、性格も目鼻立ちもハッキリとした美人だ。
 前回の私は使用人の顔や名前など全く覚えていなかった。前回の人生では――破滅した記憶にある生を、私は仮に前世と呼ぶことにした――私は使用人の顔や名前など全く覚えていなかったので、前世でもマーサが私の側に居たのかどうか、残念ながら記憶が定かでない。
 とはいえまだ出会って日が浅いながら、有能でよく気の利く彼女を私はとても気に入っていた。
 マーサに導かれ白壁のアーチを潜った先には、一面真っ白な薔薇が咲き誇っていた。思わずため息が零れる。柔らかな日差しを浴びて、無垢むくな白はまばゆいほどに輝いて見えた。

「綺麗……」
「お気に召しましたか?」

 無防備に見とれていたところへ突然声を掛けられハッとする。振り返ると、見覚えのある青年がこちらを見て人懐っこく微笑んでいた。

「ええ、とても……とても美しいわ。ここはあなたが?」
「はい、庭師のロンと申します。以後お見知り置きを、奥様」

 本当は彼のことも良く知っている。以前の私は彼との情事も時折楽しんだのだから。でも今の私達は初対面だ。柔らかいロンの雰囲気につい気が緩みそうになるけれど、気を付けなければ。

「お気に召されたなら、薔薇をお持ちになりますか?」
「よろしいの?」
「ええ、勿論です。奥様のようなお美しい方にでられるなら、花も本望でしょう」
「まあ、ありがとう。遠慮なくお言葉に甘えようかしら」
「はい、よろこんで! 少々お待ちくださいね」

 ロンは嬉しそうに笑うと、軽快にパチパチと薔薇の茎にはさみを入れ、丁寧にとげを取り除く。そしてあっという間にひと抱えの花束を私に手渡した。

「ありがとうロン。とても綺麗……嬉しいわ」
「喜んで頂けて良かったです。御入り用の際は、いつでもお申し付けくださいね」
「ええ、そうさせてもらうわ」

 微笑むと、ロンはほんのりと頬を赤らめた。私に向けられる眼差しにああ、とかつてを思い出す。
 彼は良くこんな目で私を見ていた。そこにあるのは、ただひたむきで純粋な好意。多くの男たちと関わってきたけれど、こんな目で私を見る男は後にも先にも彼一人きりだったように思う。私はそんな彼のうぶな恋心をもてあそんだ。本当に地獄に落とされようと仕方のない女だった。
 もうあなたの純情を利用するような愚かな真似はしないわ。かつてバカな私との情事にのめり込んで本気で愛してしまったロン。今度こそ別の誰かと幸せになるのよ――
 私は胸にくすぶるほろ苦い感情と共に薔薇園を後にした。


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