不死殺しのイドラ

彗星無視

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第3章 断裂眼球

第43話 赫赤眼球

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 今夜は月がよく見えた。
 冴え冴えと冷えた月光が夜の空気を引き締める。しかしそんな冷気をものともせずに、大通りではまだ祭りの余韻が色濃く、むしろここからが本番だと言わんばかりに店の中から外まで酒をかっ食らった者たちが陽気に騒いでいる。
 それを尻目にして、イドラとソニアは夜の街をこそりと駆け抜ける。

「司教室に忍び込む……うぅ、これってバレたらどうなっちゃうんでしょうか。もう牢屋は嫌ですよおっ」
「切実な願いだな……。怖いならソニアは宿で待っててもよかったんだぞ?」
「い、いえっ。イドラさんにだけそんな危ないことさせられません! ついワダツミを持ってきたのは余計だったかもしれませんけどっ」
「そっか。ま、大丈夫だよ。見つかったってなんとかなるさ」

 ごそり。イドラは足を緩めず、懐から一枚の小さな紙きれを取り出す。
 ミロウにもらった、聖堂内の簡単な見取り図のメモだ。聖堂に忍び込む前に今一度、司教室の位置とそこへの道のりを頭に叩き込む。
 イドラも二度訪れたことのある、あの大きなステンドグラスのある礼拝室は聖堂の中心にあった。建物の内部を取り囲むようにぐるりとロの字型の長い廊下が伸びている。昼間の書庫などは、それらの間にある形だ。

 喧噪の続く通りを外れ、聖堂にまでやってくると、そこいら一帯は静寂の海に沈んでいた。まるで世界から隔絶されたかのごとく、冷えた光に白い外壁を濡らして佇む。
 ためらわずイドラは建物の後ろへ回り、裏口の門から内部へと侵入した。ミロウは言った通り鍵を開けておいてくれたらしい。
 司教室は裏口からそう遠くない位置にあった。表の入り口から見て書庫のドアの奥、聖堂の端にその扉が壁に溶け込むかのように建て付けられている。
 中はもう、無人のはずだ。ノックもせず、音を殺した盗人ぬすっとの作法で部屋に入る。

「……狭いな。いや、清貧を謳う協会の司教の部屋が豪奢じゃ、周りに示しが付かないか」

 明かりは点けていなかったが、イドラたちの目も次第に暗闇に慣れてくる。部屋は今のイドラたちの宿のそれと大して変わらない広さで、調度もまた似たようなものだった。ひょっとすると質はやはりここの方がずっと上等なのかもしれないが、この薄闇の中ではそれも読み取れない。
 違うことと言えば、ロトコル教に関するものなのだろう本がいくつも収められた本棚と、意味ありげなさらに奥へと続く扉。それも分厚く冷たい、部屋の主以外を拒絶する金属の扉だ。

「いかにも秘密って感じですね。う……でもこの奥の扉、鍵が掛かってます」

 冷静に考えてみれば、ある種当然の話ではあった。
 協会にも機密は多いだろう。身近なところで言えば聖水の製法なんかも世には知れ渡らぬようにされている。魔物除けや天恵試験紙を扱うのは常に協会でなくてはならないからだ。誰もが同じことを行えるようになってしまえば協会——ひいてはロトコル教全体の利権が失われ、大きな損になる。
 それを守るためなら鍵の一つや二つ、掛けようというものだろう。

「どうしたものか。鍵……まさか部屋の中におきっぱなんて不用心なこともないだろうし。一応、探すだけ探してみるか?」
「それか、わたしが思いっきりぶつかれば無理やり開くかもしれませんっ」
「いやいや、鉄かなにかの重い扉だぞ? 流石にそれは無理が……え、もしかしていける?」
「試す価値は……あります!」

 ソニアはあのヴェートラルに力押しで勝ったことさえある。
 常識的に考えて人間が、それも少女が押し破るにはあまりに重厚な扉ではあったが、ソニアはその常識の外にいる。その肉体は既に不死に侵され、尋常のものではない。
——やるしかない。
 問題は開けた後だ。派手な音がするだろうから、人がやってくる可能性は十分考えられる。
 ならばスピード勝負。速攻で奥を漁り、ソニアのことを含む悪事の裏付けを見つけ、すぐに司教室を出て裏口から逃げ帰る。それしかない。

「よし……やるぞ」
「はいっ! いきます……!! いっ、せーの——」
「待て。部屋を壊されてはたまらない」
「——っわ!?」

 いきなり背後から声を掛けられ、イドラたちは肝を抜かす。振り向くと、本棚の陰から真っ白い外套の姿がぼうと浮かび上がった。
 男だ。黒髪の、イドラより背の高い、歳も少し上くらいかという男性。
 そして暗闇でもかすかに、男の左眼が不自然な赤い色をしていることが窺えた。イドラは反射的に、発作の時のソニアの黄金の瞳を思い出した。色は違えど光を帯びたような奇妙さにはどこか似通うものがある。

「不死殺し。それに不死宿し。私の身の回りをちょこまかと駆けまわり、どの程度調べが付いたのかと見ていたが……中を壊されては敵わん。人を入れたくない都合上、修理も面倒だ」
「その声……あんた、レツェリ司教、か?」
「——やっぱり、このひと」

 青ざめたソニアが後ずさり、しがみ付くようにイドラのそばに寄る。 
 地底を思わせる低い声。レツェリ司教は、その役職に似つかわしいとはとても言えない、まだ若い男の顔をしていた。

(なんだこの……眼は! これもギフトだって言うのか!?)

 面紗の向こうでは、いつもこの赤目が燃えていたのか。右目は珍しくもないイドラと同じ黒色だが、左目だけが異常とも言える赤の色を宿している。
 生まれつき、左右の目の色が違う人間はいる。実際に見たことはないが、知識としてオッドアイそういうものがあるとは聞いているし、ほかの大陸には元々赤い目を持つ人種もあるそうだ。
 だがレツェリの眼は、そういった類とは違う。輝くような鮮やかな赤は、ふつうの人体に宿るようなものではない。

 ならば——ギフト。考えられるのはそれしかない。
 この男は、赤い眼を天からの恵みとして受け取った。
 ギフトは基本的に武具の形をとる。ミロウの糸やベルチャーナの指輪は稀な例だ。
 そしてこの眼球こそ。数値化された中でもっとも稀な天恵……イドラのマイナスナイフと同様の希少性を持つ、百年に一度のレアリティ1。

「どうして……わたしたちが来ることを。まさか、ミロウさんが——」
「その通り。ミロウ君を信頼した君たちにとっては残酷な結果だがな」
「なんだと!?」

 侵入は初めから看過されていた。
 いや、それどころか、最初からミロウに誘導されていたと見るべきだ。イドラがこうして裏口から侵入し、司教室へ忍び込んだのを見咎められるところまで、あの書庫でやり取りをした時点で決まっていた。

「……そんなわけない! ミロウが僕たちを裏切っただなんて、信じられるか!」

 そのことを認められず、イドラは声を荒げる。
 決して長いとは言えない付き合いだが、ミロウが悪に加担し人を陥れるような人間でないとイドラは確信している。
 湿原へ向かう馬車の中で言い争いになりかけた時、彼女には誇りがあった。エクソシストとして災厄たるイモータルたちを葬送し、無辜の人々を守るという強いプライドが。
 聖殺作戦では信仰を寄る辺としないエクソシストたちをまとめ上げ、作戦の筋書きが瓦解しても諦めることなくヴェートラルに立ち向かった。ミロウやイドラたちがおめおめと逃げ帰れば、大蛇が襲うのは近隣の村々や町だとわかっていたからだ。

 どちらも間近で見てきたイドラにはわかる。
 ミロウには正義があった。正しさが芯として存在して、それこそが彼女の誇りだったはずだ。だからこそ馬車でソニアの境遇を聞いた時は、義憤に駆られもした。
 それが嘘だったとでも? 本当はそのソニアの人生を狂わせた大悪に与し、協力していた?

(また……また僕は、裏切られたのか?)

——あは、イドラくんにわかってもらわなくたって構いませんよぉ。どうせもう殺しちゃうんですし。
 頭の中で、耳の奥で、甘く冷えた声がする。
 同じ村で同じ時間を過ごしてきた、優しく穏やかで、でも少しだけ抜けたところのあるシスター。その仮面が剥がれ落ち、凍土の温度を秘めた緑の瞳が殺意を向けてきた、あの瞬間がイドラの中で蘇る。これまで信じてきたもの、積み上げてきた時間のすべてが跡形もなく崩れ、反転し、豹変する恐ろしさ。
 ミロウもまた、同じだったのだろうか?

「この奥が気になるのだろう? どれ、案内してやろう。構わないとも。その目で確かめてみるといい——私の悲願、大いなる事業の一端を」

 呆然と立ち尽くすイドラの横を抜け、レツェリは銀色の鍵を取り出しながら重厚な扉の方へ歩くと、あっさりと開錠した。

「ついてこい不死殺し。懐かしい相手と再開させてやろう」
「…………な、に?」

 片手で扉を押し開きながら、肩越しに振り返った眼がイドラを見る。深い、吸い込まれそうな、あるいは切り刻まれそうな赤色。
 懐かしい相手……不意に差し込まれた言葉に反応して、止まった思考がいくつかの個人を浮かび上がらせる。その中には、助けられなかった恩人の顔もあった。消えた死体。思い出すたび身を苛む、背を離さない罪。
 扉の奥は階段になっていた。下り始めた白いローブの背を、イドラは亡霊に導かれるようにゆっくりとした足取りで追いかける。
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