不死殺しのイドラ

彗星無視

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第2部1章プロローグ プライベート・オラトリオ

第76話 『廃教会のオーバチュア』

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 アマネに案内されたのは、山のふもとに広がる居住区……スラム街に似た風景のそこからやや外れた、まばらな雑木林の奥だった。
 くすんだ色の枯れ葉を踏み砕いて進み、夕焼けが灰の空を少しだけ赤く染めた頃、二人はそこへたどり着く。

「……ここは」
「とうちゃーく! どう? こんなところに建物があるなんて、ミンクツのみんなも知らないよ。だからわたしだけの秘密基地にしようと思ってたんだけど……おじさんにあげる! お家がないと大変だからね」
「——ふ、はは」

 人里離れた場所。隠れるかのごとく木々に埋もれて佇むのは、今となっては大昔の建築様式で造られた小ぶりの建物。長い年月を雨風に晒され、手入れする者も失せたくすんだ屋根から突き出た尖塔の頂上には、同じく薄汚れて元の輝きを損なって久しい十字架の意匠が取り付けられている。
 そこは小さな、町外れの教会だった。とうに機能を失った、その死骸。

「はっ、はは……くく、はははは」
「……? どうして笑ってるの? おじさん」
「いや。既に立場を失い、一時は囚徒にまで落ちぶれたものだが……どうにも私は、こういった場所につくづく縁があるらしい」

 まったく別の信仰体系であるため、教会の造りも同じではなかった。だいいち、地平世界のロトコル教ではあのような十字架のモチーフはまったく用いられない。
 けれど、そこが教会であることは疑いようもなかった。
 人間の造るものだ。歴史や信仰が違えど、根底に通ずる神聖さへの崇拝はなにも変わりはしない。
 不意に曇天が和らいだ。空に長くわだかまっていた雲の間から、わずかにだけ夕陽が差し込む。雲間から漏れたその光は、祝福のように廃教会を照らしていた。
 天使の梯子に導かれ、レツェリは長らく閉じられていたであろう、軋む扉を開け放つ。

「中は……案外無事のようだな」

 外側こそ薄汚れていたが、その内部は在りし日の姿をおおむね保っていると言ってよい。
 並べられた長椅子。布の敷かれた講壇。奇跡的にひび一つ入っていないステンドグラス。
 神の加護——などではなく。単に、元々ここを使っていた信仰者たちがいなくなった後、間借りするように別の宗教団体がそのまま利用していたためだ。
 またたく間に人類の数を減らし、殺戮の限りを尽くすその黒い王たちを崇めていた集団が、乱暴にも十字架をそのままにこの場所を継いでいた。だからその間は手入れもされていたのだ。
 もっとも彼らも、数十年前に彼ら自身が崇める『王』によって慈悲なく殺されたが。

「悪くなさそうだ。感謝しよう、アマネ」
「ほんと? えへ……ありがとう、おじさん。人に感謝されるの、久しぶり」
「おじさんと呼ぶなと何度言えば……まあいい」

 三度目の住居者を、この教会は歓迎した。
 長椅子に腰掛けると、そんなレツェリの前へとアマネは寄ってきて、なにかを期待するような表情で見つめてくる。
 なにを求めている?
 つながりを、だ。持続するなんらかの関係性。
 顔と態度を見れば、そのくらい簡単に読み取れた。長年——百年以上も人を見続けた経験があれば、児童の考えや欲求など容易くわかる。それよりもずっと狡猾に感情を隠す、老獪な輩や策略家を何人も相手にしてきたのだ。

「……」
「——」

 だがレツェリに、その人恋しさに応えてやる理由もなかった。
 当面の住処は確保できた。次点で必要なのは、水と食糧といった物資だ。
 奪えばよい。そうするだけの力がこの眼窩にはあるし、そうするための居住区はそう離れていない。

「ねえおじさん、なにかしてほしい?」
「……チッ」

 少し無視してやれば、どこかへ行く。そんなわけもなく。
 少女は無邪気ながらも媚びるような声色で尋ねてくる。
 舌を鳴らし、より殊更に無視をした。覗き込んでくる顔と、目も合わせないようにした。
 露悪的な態度にも気づかないふりをして、アマネは「ねえー?」と明るい声を出してきた。
 苛立ちを覚えてはいない。ただ、面倒なだけだ。
 レツェリにとってこの少女の利用価値はもうない。この廃教会を案内させた時点で、これ以上会話を交わし、交流を持つ意義は存在しなかった。
 しかしこのまま意固地に無視を続けても、その時間ずっとつきまとわれるだけだろう。はっきり言ってやることにした。

「失せろ。ミンクツとやらに戻れ。邪魔だ」
「どうしていきなり、そんなことを言うの?」
「案内は終わった。感謝も告げた。それで、私と貴様のつながりは終わりだ。そこまでの関係だ」
「そんなの……寂しい」
「冷静に考えろ、私はあの黒い異形……アンゴルモアをいとも容易く殺してみせたのだぞ。恐ろしくないのか、私が」

 レツェリがその気になれば、アマネのことなど瞬きひとつの労力で殺せる。赤い目の視界で箱をひとつ被せるだけで、首でも胴体でも手でも足でもちぎり飛ばせた。
——ミロウのように。
 あの青臭い正義を抱えた女の、内面を表したかのような美しい金の髪が記憶の水面に映し出された。
 優秀だが、愚直だった。
 惜しい女だった。いっそ悪党であればよかった。高潔さなど持たない私利私欲の徒であれば、片腕を損なわせることもなく、便利な駒として使い続けることができた。

「正直、ちょっぴり怖い、けど。寂しくは……ないから」
「……くだらん理由だ」
「いっしょなら、誰かがいれば、あったかいから」

 反吐が出るほどに弱い、甘えきった理由。 

「訊いてやる。家族はどうした」
「いない。生まれた時から、いなかった」
「そうか。予想通りの答えだ、特段同情もせん」

 珍しい話ではない。荒んだ場所など、どこにでもある。
 特に協会には、そうした境遇の人間も多くいた。ミロウは稀なタイプだが、ベルチャーナなどがいい例だろう。
 要するに、アマネは人恋しいのだ。
 この出会いに縋るほど。ひとりミンクツに戻り、家族もなく、また孤独に寝床で目を閉じるのが嫌で嫌で仕方がないから、レツェリといたがっている。
 子どもと言えど、レツェリの嫌悪する精神の惰弱さだった。

「ねえ、お願い、おじさん。いっしょに——」
「くどい」

『箱』を展開した。
 少女のすぐそば。頬の横に。

「——っ」

 ろくに手入れもされていない茶髪が、時間の境界面に巻き込まれて数本切断された。また、そばにあった長椅子の背もたれの一部も同じように切られ、床へ滑り落ちた。

(……そうだ、静止した物体も断裂してしまうのだったな。まったく失敗した)

 しかし椅子なら、同じものがまだいくつも並んである。替えが利くものならどうなろうが構わない。
 死にかけた少女は、驚愕に目を見開き、それからがくがくと細い脚を震わせた。
 展開位置が数センチズレていれば、頬や顎を抉られていただろう。より大きくズレれば、頭蓋ごと脳が裂けることになる。
 いかに鈍感な子どもでも——あるいは鈍感に振る舞う子どもでも、これほど鮮烈な死の気配は無視できまい。

「どうだ? みすぼらしくとも命は惜しかろう。早く失せろ」
「お、おじさんは……なにが好き? 追いかけっこ? なわとび? ……大人のひとってなにして遊ぶの?」
「——貴様、いい加減に」
「お歌、お歌は? ねえ、お歌は好き……? わたし歌えるよ! 寂しい時にいつも歌ってるんだ!」
「歌ァ……!?」

 自分が殺されかけたことに気づきながらも、アマネは逃げもせず、あまつさえ口を開けて歌おうとする。
 異常。精神の病に等しいと、レツェリは本気で思う。
 そして、その困惑を許諾だとでも勘違いしたのか、少女は口を大きく開いて歌いだした。

「ら——、ら————ら——っ、らら——」
「……」

 歌詞のない、もしかするとアマネが知らないだけかもしれない歌。調子も外れていたし、世辞にも上手とは言えない。
 わざわざ下手だと教えてくれるような、親切な知り合いもいないのだろう。

「ららら——、ら——っらら————」

 不出来な歌唱を聞いているうちに、レツェリはどうでもよくなった。
 呆れたのだ。
 どこへも行かないというなら、それでもいい。躍起になるのも馬鹿馬鹿しい。
 自らの意思で留まったのだから、この先なにかに巻き込まれて命を落とそうが自己責任というものだろう。
 そう決めると、レツェリは少しだけ休むことにした。目を閉じ、より深く長椅子に座り込む。
 それを見て、その場にいることが許されたのだと思ったのか、少女はよりいっそう調子外れの声を大きくした。

(……愚かな小娘だ。ほかに縋るものはなかったのか)

——なかったのだろう。
 家族もなく、頼れる相手などおらず。貧困に晒され、貧しい人間同士のコミュニティには悪意と欺瞞ばかりが蔓延り、かといって外へ出向けば黒い怪物が闊歩する。
 神に縋ろうにも教会は寂れ、腹の膨れぬ教えなど気休めでしかない。
 ここが神の国? まさか。どこに救いがあるというのか。

(あるいは、これが神の思し召しだというのなら——)

 やはり世界には、悲劇が満ちている。
 克服するだけの猶予を。見つけねばなるまい、この地で。

「ら——っ、らら——ら——らら————」

 決意は赤く、燃えるように。地平世界でも現実世界でも、レツェリという個人の在り方は微塵も揺らがなかった。
 アンゴルモア、コピーギフト、ノアの方舟……調べるべきことは山ほどある。イドラたちの動向も気がかりだ。
 方針を定める長時間の黙考の傍ら、下手くそな歌が廃教会に響く。聴衆はただひとりだけで、神に届くこともない。
 不出来なその歌唱こそ、この世界におけるレツェリにとっての序曲オーバチュアだった。


第二部一章プロローグ 『プライベート・オラトリオ』 了
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