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第一話 琥珀色の目の少女

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——地獄に放り込まれたことがある。

 割れるような人々の悲鳴。建物の崩れる轟音。どこから出火したのか、ばちばちと燃え広がる真っ赤な炎。
 東北の沿岸部。今時珍しい地域同士の交流が盛んで自然豊かな地域の、昨日まで静かで穏やかな風景に満ちていたその町は、一夜にして混乱と死の海に沈む。
 坂水永一さかみずえいいちはそんな、誰もが予想しえなかった地獄の中で仰向けに倒れていた。

「——ぁ……、う」

 夜空に昇るいくつもの黒煙を見上げる。その先に佇むのは丸い月。
 じっとしていれば、ここもやがて火に呑まれるだろう。永一とて地獄の真ん中で寝そべる趣味はなかったが、かといって起き上がることもできなかった。
 胸から下に梁や天井の板のような、家の建材が乗っかっている。
 早い話が、自宅の崩落に巻き込まれ、永一はその下敷きになっていた。おそらく探せば似たような状況の人間は周りに何人もいるだろう。探すこともできまいが。

 頭が痛い。脳を揺らして、スプーンで中身をぐちゃぐちゃにかき混ぜたような感覚がする。一生分の痛みを注ぎ込まれたみたいだ。
 ふと、目に赤いものが被さってきた。自身の血液のようだった。天井が降ってくる時に額でもぶつけて出血したのだろう。
 それを拭いとる気力さえないというのに、どうして被さる建材をどけられよう。
 朦朧とした意識。助けて、と声を出すこともできないまま。ゆっくりと死が迫ってきているのを感じながらも、それを恐怖と思う判断力さえなく。
 ただ、呆然と煙の上がる先を見る。
 血に覆われた視界では、月は真っ赤な色をして永一を冷然と見下ろしていた。

「————アァァァァァァァァァァァァッッッ!!」

 遠く、人の叫びとも獣の鳴き声ともつかぬ咆哮が鼓膜を揺らす。地の底から轟くような、心を震えあがらせる響き。
 倒れたまま漫然と首を動かすと、赤い視界の向こうで、夜空に吠えながら町に対して暴虐の限りを尽くす、大きな翼を持つ竜の姿があった。
——怪獣。そう呼ばれるようになったのは、この一件の後からだ。
 そして、その赤い翼竜の影を視界に収め、永一の意識は闇に落ちた。



 穏やかな風が顔を撫でていく。どこか、そう遠くない場所から鳥のさえずりが響いている。
 永一は落ち着いた、とても安らかな気持ちでゆっくりとまどろみから意識を引きはがした。目を開き、ぼんやりとした視界で辺りを見渡す。

「……どこだ? ここ」

 寝起きの安らかな気分は、その一瞬で消し飛んでしまった。
 目に映るのは草木ばかり。ベッドで寝ていたわけでもなく、太い木の幹にもたれ掛かっていたようだ。服は部屋着そのもので財布もスマホも持っていない。
——どうしてオレはこんな場所に?
 幼いころ通っていた小学校の裏手を思い出す。あそこはちょうどこんな感じに開けていて、草がたくさん生えていた。だがそことも少し違う。
 永一は立ち上がり、寝る前のことを思い出そうとする。しかしおぼろげな記憶が像を結ぶより先に、衝撃が全身を襲った。

「ごがッ」

 体の内部がきしむ嫌な感触がして、永一は五メートルほど吹き飛ばされた。ごろごろと、青いにおいのする柔らかな草の上を無様に転がる。
 同時に喉奥から酸っぱいものが上がってくる。肋骨にひびが入ったかそれとも折れてしまったのか、脇腹できりきりと鋭い痛みが走った。

(なんだってんだ……なにがぶつかってきた!?)

 喉から出たがる熱を耐え、地面に倒れたまま顔を上げる。そこには悠然と、目の前に黒い獣が立っていた。
 四足の、赤い眼をした狼。いや、狼と呼ぶには、異常に発達した爪と牙と、硬い黒毛に覆われた全身からほとばしらせる殺意がまっとうな生物の枠から外れすぎている。
——殺される。
 直感で理解する。目の前の生物は自分を殺そうとしている。
 逃げなくては。こんな場所で、なんの恩も返せないまま死ぬわけにはいかない。

「ガ——アァァッ!」
「く……」

 しかし先の衝撃で体は言うことを聞かず、永一は倒れて地面に手足をついた体勢のまま動けない。そうして、巨大な牙を覗かせた口が涎を垂らしながら大きく開き、飛び掛かってくるのをただ見ることしかできない——
 自分の喉からか細く、空気の抜けるような音が鳴ったのを永一は聞いた。獣は一瞬前に想像した通りの動きで永一の肩口に喰らい付いてきて、頸動脈が破られ、ぴゅうと水鉄砲みたいに赤い血が吹き出る。

「あ……!」

 血が止まらない。生命が流出する。止めどなく流れ落ち、ぼとぼとと音を立てて草の地面を濡らす。
 ふっと、意識が遠くなる。目の前の光景、口の周りを真っ赤な鮮血で濡らした狼の怪物の姿が、薄い膜を通したように見えてくる。
 死ぬ。血が出すぎた。助かることはまずないだろう。頭の片隅で、冷静な自分がそう分析をする。

 絶対の事実に心が凍りつきそうだった。
 いきなり、なにが起きたのかもわからず、化け物に喰い殺される。文句のひとつも言いたいが、その機会はもうないだろう。永遠に。
 死の闇はすぐそこにまで近づいてきていて、決定的な瞬間はもう間もなく訪れる。
 今度の眠りはきっと終わらない。あまりに突然で呆気ない最期に後悔と未練を抱きながら、意識のすべてが闇へと呑まれていき——



——目が覚めた。

「ガァ、ァァ——、ァ?」
「……え?」

 決定的な瞬間は、訪れなかった。
 ぼやけていた意識はこれ以上なくはっきりとしていた。視界も鮮明で、獣は喰い殺したはずの獲物が目を覚ましたことに困惑でも覚えたのか、ぴたと動きを止める。

(オレは……確かにいま、死……)

 永一は倒れたまま、呆然と手で首に触れる。鋭い牙に破られたはずのそこは、血がべっとりとついてはいたものの、傷はまるでなかった。
 気のせいだったとでも? まさか。

「『血を巡るもの——』」

 その時、背後から鈴を転がすような、澄んだ少女の声がした。

「『——循環するもの。留まらぬもの。調和を乱し、偏在せよ』」
「魔物……討ち取る……ッ!」

 誰何すいかするよりも振り向くよりも先に、別の声が間近で響く。
 眼前で、黒い一条の軌跡が流れた。横から割り込むように振り抜かれた艶のない黒色の刃先は容赦なく獣のくびを穿ち、あっさりと貫通して逆側から突き出てくる。槍の穂先にも似た形をするその細い手に握られた物は、俗に言うクナイ。明確な刃物であり、武器だ。
 断末魔も上げず獣は絶命し、どさりと倒れ込む。するとその死体はひとりでに細かい塵になって、瞬く間に消えてしまった。後には、ビー玉より一回り大きい程度の、曇り空を詰め込んだような黒い色の小石だけがぽつんと残った。

「なんだ……助けてくれた、のか?」

 まだ自身に起きた状況の整理がついていなかったが、生命を脅かす外敵はいなくなったようだ。永一は倒れた体を起こし、草の上に座り込みながら、自分を助けてくれた誰かの方へと振り向く。
 そこに立っていたのは銀の髪を肩の上で切りそろえた、琥珀色の目をした美麗な少女だった。
 歳は永一とそう変わらないだろう顔立ちだったが、女性らしさを多分に含んだ肢体と、それを見方によっては強調するような、スリットの入った着物に似た独特の衣装が艶やかさを印象付ける。
 少女は永一の顔を見ると息を呑み、宝石の瞳を丸くした。
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