天使は夜に微笑まない

彗星無視

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最終話 夏夜に虹が架かるまで

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 もうすぐ消えてしまうのだと言いながら、天使は夜闇に飛び立ってしまった。消えるところが見られたくないだなんて、ネコみたいなやつだと思う。

「これで終わりなんて、認められるか……!」

 こんな別れ方を受け入れられるはずがない。だってそもそも、あんな顔をしていた時点で、天使だって望んだ終わりじゃない。
 不服ならひっくり返せばいい。それができないわけではないと、僕にはわかっている。
 天使は純粋であらねばならない。
 ならば、純粋でなくては、天使は天使足り得ないはずだ。

「はぁ、はっ、はぁ——」

 夢中で自転車を漕ぐと、あの夜に二人で歩いた道程はずいぶん短く感じられた。
 夜明け前。湖の浜辺に、裸足の足を透明な水に浸す人影を認め、僕は自転車を降りる。
 湖水も透明なら、その脚も半ば透明になっていた。これでは天使ではなく幽霊だ。

「……天使。そのまま沈んでいくつもりか?」

 声を掛けると、彼女は吹き抜ける風に金の髪をなびかせながら振り向いた。

「おかしいね。ほかにも色んなものを見たいって思ってたはずなのに、気づいたらまたここに来ちゃった」

 朝が来れば、今度は石像になるのではなく、あるべき場所へ向かって消えてしまうのだろうか。
 その前に。そうなるくらいならば、彼女が背負うものをすべて取っ払ってやる。遠い世界の思惑なんて知るものか。

「せっかく綺麗なお別れになると思ったのに。なんで来たの?」
「決まってる。きみを忘却の死から連れ出すためにだ」
「そんなこと言ったって、もうどうすることもできないよ。わたしは消えてしまう。この世から体が消え、次に天界でわたしの記憶が損なわれ——そうしてわたしという個人はなくなるの」
「個人。そうだよな、きみは個人だ。名前がなくたって」

 天使はいつも笑っていた。でも、その表情の下には消えてしまうことへの恐れが張り付いていたように思う。
 僕は自分のことばかりで、天使の苦悩や葛藤になにも気付いてやれなかった。
 名前がなくたって、自己がなくなるわけではない。むしろ、名は後からついてくるものだ。名付けられなくとも——天界にあるなんらかの意思が彼女に識別子を割り振るまいとしていようとも、実存があれば自ずと名前も与えられるのだ。

 出会ってから今日まで僕は、彼女をなんと呼んでいた?
 天使——そうだ。役割があって名前がないのであれば、役割そのものが名前になるに決まっている。僕はずっと、その呼び方が強いる役割に気付かないまま、彼女のことを天使と呼称していた。

「帰りたくないのなら、僕の家に来ればいい。狭い押し入れじゃなく、母さんにも言って、きちんと家族として住めばいい」
「そんなのできるはずがない。わたしは天使だから、そんな勝手はできないよ。純粋でいられなくなる」
「もう六年も掟破りをしてきたんだろ。きみの言う純粋さとは、無知だ。それを捨てたいと思ってこの町に留まり続けたんじゃないのか」
「ハルさんのせいだよ……わたしは機械と同じで、ただ役目をこなすだけの存在でよかったのに。プリズムみたいに色んな感情を見せるハルさんは、純粋じゃなくて……でも素敵だった。わたしもそれにあてられた」
「じゃあ、天使なんてやめればいい。誰かに定められた名前が決める役割なんて捨ててしまえ!」
「やめるだなんて簡単に言わないで! わたしは天使、そう決められて生まれたの。天使でなくなれば、わたしは役目さえ失ってなんにもなくなるじゃない!」

 ただの人間である僕には、天界のことなんてなにもわからないけれど、僕にもできることがひとつだけある。
 誰も彼女にそうしなかったのなら。

「だったら僕がきみに名を授けよう。天使だなんて、役割の名称に固執しなくても済むように」
「ハルさん……が?」
「そうだ。嫌なら自分で付ければいい。とにかく、個人でありながら名前がないなんてのは間違ってる」

 頭の中で、彼女がぼうっと見ていたテレビ画面がよぎる。
 彼女を縛る役割の名称さえ解くことができれば、なんだってよかったのかもしれない。でもせめて、自分なりに心を込めた名前をあげたいと願った。

「ユミ。天弓てんきゅう……つまりは虹の意だ。どうかな」
「どう、って言われても」
「きみは、虹のようになればいいと思う。虹は複雑で、見る人によって何色かさえバラバラだけど、美しいのは同じだよ。純粋でなくとも綺麗なもの、肯定されるべきものはたくさんある」
「ユミ……」

 感触を確かめるように、彼女は小さく呟く。柔らかな風が吹いて、彼女のワンピースの裾と金色の髪を撫でていった。

「なれるのかな、虹に。ハルさんみたいに。周囲にかき消されない自分があって、たまに悩んだりもして、思いっきり笑う。そんな誰かに」
「なれるさ。きっと、認識ひとつで誰だって変われるんだ」

 名前が変わるだけで、周囲の見方までもが変わってしまうように。名を持つだけで、ゆっくりだったものが早く進んだり、見えなかったものが見えるようになるはずだから。

「ハルさんは……どうしてそこまでしてくれるの? わたしなんかのために」
「きみは愛が視えるんだろう。それなら僕の気持ちもわかるはずた」
「あんなの嘘だよ。醜い嘘。初めから、わたしにはなんにも視えてなんかない。わたしは天使、奇跡も世界も知らないの。愛なんて、わかるはずがない」
「そっか。だったらわかってくれ、僕は、きみがいない夜は寂しいよ」

 波のない穏やかな水面へ踏み出すと、靴の隙間から冷たい水が入り込んでくる。濡れるのを厭わず、彼女のそばにまで進み、そっと手を伸ばした。

「この手を取れ、ユミ。天使として消えるくらいなら、人としてそばにいてくれ」
「嘘つきの、わたしでも?」
「それこそ人の証明だ」

 一筋だけ、青い瞳から涙が零れ落ちる。
 かすかに透けた腕がおずおずと伸ばされ、僕の手をつかむ。半透明であっても、感触は変わらず温かで、確かに彼女はそこにいた。

「……わかった。天使を堕落させちゃうなんて、悪いひと」

 風が止む。彼女が承諾を口にした瞬間、純白の翼がぶわりと膨らんだ。
 彼女の背から翼が離れ、ばらばらの細かな羽根になる。白い羽根たちは月光の輝きを浴びながら、周囲を舞い散っていく。
 少女の門出、巣立ちを祝うようだ。祝福とともに天使はその象徴を失い、後には人の形だけが残る。
 彼女は一度だけまぶたを閉じ、涙を拭ってからゆっくりと目を開けてはにかんだ。

「ねえ、ハルさん。ところで名前と言えばなんだけど」
「なんだ? ユミは嫌か?」
「そうじゃなくって。そういえばわたし、ハルさんの本名知らないよ。教えてほしいなあ」
「ああ……そんなことか。僕は——」

 この日、天使がひとりいなくなった。けれど昇天とは違い、空にも還らなかった。
 だけど六年も留まっていたのだから、今さらな話だろう? 僕は少なくともそう思う。



 ことの顛末をまとめると、天使は個人名を有することで純粋さをこれ以上なく毀損し、天使である資格を失って人間になった。
 天界の決まりなんて知らない。向こうからすればよくないことなのかもしれないが、天使は——ユミはあれからひと月余り経った今でも元気にしているのだし、これでよかったのではないだろうか。

 それに、こうも思う。名前はやはり後から付随してくるものであって、存在を決定づけるものではない。
 名前を得る得ないにかかわらず、ユミは天使の枠から逸脱していた。もともとそういうものだった誰かに、後から名前がついてきただけだ。
 名は体を表さない。僕も天使も、名が変わろうと名前を得ようと、本質的にはなにも変わらないのだ。
 ……というのはあくまで僕の考えだが。

 母さんが言うには、ユミが妹として家に来てから僕は前よりも素直になったとか。就籍周りの手続きをしてくれたり、ユミを受け入れることに積極的になってくれたのは嬉しかったが、いっしょになってからかってくるのはやめてほしい。
 ただ確かに、人付き合いはマシになったかもしれない。
 こうして机に座っていて、休み時間に誰かが寄ってくるなんてことは前まではなかった。

「なあハル、今日放課後ヒマ? ちょうど部活もないんで、何人かでカラオケでもって」
「……ああ。行こうかな、せっかくだし」
「お、いいね。よ、よし、どうせなら女子も誘って……」
「やめとけって。先週も先々週も無理に誘ってガチで引かれてただろ。そろそろ問題になるぞ」
「うぐッ、痛いところを……三度目の正直って言うだろが」
「二度あることは三度ある、とも言うぞ」
「そうだけどさァー! ちょっとくらい夢見たってよくねェー!?」
「ははっ」

 特段、友達百人できたなんてことはない。ただ、孤独に閉じていた輪を少し広げただけだ。その結果、物好きなやつとつるむようになっただけ。
 些細と言えば些細だが、変化と言えば変化だ。僕は僕でユミにあてられた、ということなのだろう。
 孤独であっても構わない。この考えを曲げるつもりはないが、孤独でない方が、より楽しいのは確かなようだった。



 学生らしく遊んで夜になって家に帰ると、玄関のドアを開けた途端にぱたぱたと忙しなく足音が響く。

「——おかえりなさい、ハルさん! もう、遅いよっ」
「ご飯の時間には間に合っただろ?」
「そうだけどっ。もうすぐできるから、早く上がって手洗っといて!」
「あ、待った」

 リビングから顔を覗かせたユミが、戻ってしまう前に呼び止める。ユミは青い瞳を丸くして、「?」と表情に疑問符を浮かべる。
 その顔に向けて、言うべきことがあった。ユミが来るまで何年も、言う機会を家庭の中で失ってしまっていた大切な言葉。

「ただいま」
「……うん!」

 翼を失った少女は、夜の中でも朗らかに笑っていた。
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