GRAVITY OF LOVE

狗嵜ネムリ

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GRAVITY OF LOVE・11

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 三月――。
 あの夜から数日が経ち、卒業シーズンと春休みに期待を寄せる季節がやってきた。
 東楽通りは鮮やかな桜の花が咲き乱れ、行き交う人達の笑顔も、冬と比べると眩しいほどに輝いて見える。
 俺は床に落ちていたぬいぐるみを元のワゴンに戻し、小さく溜息をついた。
 通りが活気づいたからと言って、急に売上が跳ねるわけではない。前半はまだ中高生は学校があるし、春と言っても気温は低めだ。
 それに、依然として頭と体のだるさが続いている。
「政迩、そのゼブラ柄のパーカ売れてるぞ。お前が着てるからかな」
 脚立の上でディスプレイを替えていると、大和がやってきて言った。「さすがは俺のオシャレ番長」
 アニマル柄は毎年流行るし使い勝手が良いから、出せばある程度は売れる。だけど俺は別に売ろうと思って着ているわけじゃなかった。単純に俺は、シマウマというよりもホワイトタイガーを連想させる横縞の白黒柄が好きなだけだ。
「パーカならヒョウ柄の方が売れてるじゃん。別に俺が着てるからってわけじゃないと思うけど……」
「そんなことねえって。政迩、何でも似合うけどゼブラは特に似合うもん」
「大和はヒョウが似合う。お前自体がヒョウっぽいから」
「じゃあ今度、お揃いコーデで着て来ようぜ。俺、今日ヒョウ柄の方買うから」
「じゃあ俺はダルメシアン柄にしようかな」
 スタッフルームから出てきた白鷹が、ごく自然に俺達の会話に入ってきた。今月も白鷹はGヘブンの方に入るらしい。本人から直接聞いたわけじゃないが、Gヘルに新しいアルバイトが入ったとかで、店長のくせに居場所が無いのだそうだ。
「白鷹くんにダルメは似合わないでしょ。ていうかそもそも、サイズが合わねえし」
 からかうように笑ってから、大和が「そうだ」と白鷹に言った。
「裏にあるロゴ入りの半袖Tって、昨日入荷してきたんですか? 他のと比べたら在庫が大量にありますけど」
「ああ、カラー六色でサイズがMとL、それぞれ各四枚で入ってきた。しかも品番違いで三型あるからな。各二枚ずつで店内に出してるから、在庫は全部で幾つだ? ――チカちゃん」
「えっ? ええと……6×2で、⒓×4×3で……」
「五秒前」
「ちょ、ちょっと待って……」
 ディスプレイを弄りながら頭の中で計算していると、昔から数学の成績だけは良かった大和が「一二〇枚も在庫あって、大丈夫なんですか」と白鷹に訊いた。
「大丈夫だよ、今日いくつ売れた?」
「まだ一枚くらいしか。寒いし、半袖なんて買う気起きないじゃないですか」
「店頭のボディに着せて、上からパーカ羽織らせろ。それからチカ、いま着てるシャツ脱いでコレに着替えろ。俺が一枚買ってやる、何色がいい」
「おっ、良かったじゃん政迩。お前あのTシャツ可愛いって言ってたもんな」
 壁に顔を向けたまま「じゃあ、青で」と呟く。白鷹の強引さには、先月でもう慣れたつもりだ。
「政迩、赤の方がいいんじゃねえの? 赤好きじゃん、青でいいのか?」
「いい」
「俺も赤の方が似合うと思うけどまあいいか。大和、清算してくれ」
 レジに向かう二人の背中を見つめながら、俺はまた溜息を洩らした。
 普通に仕事をしたり、白鷹と大和が売場のことで話し合ったり、白鷹が売りたい服を俺に着せたり、大和に褒められて嬉しくなったり。
 Gヘブンでは、いつも通りの日常が繰り返されている。
「………」
 ――あんなことがあったというのに。
 どうして大和と白鷹は平然としていられるんだろう。俺はあのことを思い出すと未だに赤くなるし、意識してしまうと行動や言動もぎこちなくなるのに。三人揃って気まずい思いをしながら働くよりはずっとましだが、それでも疑問に思わずにはいられなかった。
 それから。
「大和、今日も終わったら裏のファミレス直行な」
「またファミレスですか。たまには居酒屋にしません?」
「飲み屋はうるせえから嫌いなんだよ。あそこは二十四時間営業だから、時間気にしねえで済むし」
「まぁ、いいですけど。……じゃあ政迩、終わったら悪いけど先に帰っててくれ」
「……分かった」
 ここ最近になって、大和と白鷹は閉店後に二人でミーティングをすることが多くなった。今まで一度だってそんなことしていなかったのに。あの一件があってから急に、だ。
「チカちゃん仲間外れにしちまって悪いな。でも売上とか数字の話が殆どだから、来てもつまらねえだろ」
 何をそんなに話しているのか、気にならないと言ったら嘘だ。だけど「仕事のことで」と言われてしまえば納得するしかない。何かを隠しているとしたら、それこそしつこく訊いたところで二人共白状しないだろう。
 隠し事……。一体二人は、何を隠しているというのか。以前の俺ならそんなこと考えもしなかっただろうけど、今はどうしてもあの一件がちらつき、変に勘繰ってしまう。
 ひょっとして、あれがあってから大和と白鷹の距離が再び縮まってしまったんじゃないか。
 たかがミーティングで何時間も、時には朝方近くになってから帰ってくるなんてどう考えてもおかしい。帰宅した大和が俺に対して毎回不自然なほど優しいのも、白鷹と後ろめたいことをしてきた後だからなのか。
 嫌な想像ばかりが膨らんでゆく。それと同時に、不満も。
「はいよ、チカちゃん。タグ取ったからすぐ着れるぞ」
「……休憩中に着替えてきます。裏に置いといてください」
「白鷹くん、政迩の生着替え見たいだけだろ。駄目っすよマジで」
 駄目というなら、ついでに白鷹に「チカ」の名前を呼ばせないでほしい。高校の頃に大和が考えてくれた呼び名なのに。四年間、大和にしか呼ばせてなかったのに。今更ながら、俺にとっての大事な思い出があっさりと捨てられたみたいで寂しくなった。
 大和と白鷹が良い関係を保ち、俺は店長として奮闘する大和をしっかりと支える――今のところ、俺達は上手く行っている。だけど今の俺には、それが表面上のことだけに思えて仕方ない。
 そう思っているのは俺だけだろうか。「以前」と「以後」で違う微妙なこの空気は、単なる俺の気のせいなのだろうか。
 大和と白鷹が心の中で何を考えているかは、俺には分からない。
 分からないから、自信がなくなる。
 自信がないから、泣きたくなる……。
「政迩」
 脚立をスタッフルームに戻しに行くと、大和がついてきて俺に言った。
「大丈夫か? なんか顔色良くないけど」
「………」
「具合悪いか? 遠慮しないで言えよ」
 大和が俺の額に触れ、もう片方の手を自分の額にあてた。
「熱はないみてえだな。最近、春物の大量入荷が多くて疲れちまったか」
「大和」
「ん?」
 俺は脚立を戻してから、じっと大和の足元を見つめて俯いた。自分でも何が言いたいのか分からない。何をそんなに不安がっているのか、どうして大和を疑っているのか。
 何も、分からない――。
「おいおい、どうした」
 赤くなった俺の顔を見た大和が、慌てて俺を抱きしめる。恐らく俺は泣きそうな顔になっていたんだろう。泣く気なんて少しもない。だけど大和の腕の温もりさえも以前と違う気がして、意思とは反対に涙が零れた。
「政迩。なんで泣く……」
「……分かんねえ。ちょっと具合悪いのかも」
 嘘をついて大和から離れ、俺はパーカの袖で頬を拭った。
「泣くくらい辛いなら早く言えよ。今日はもう早退して、部屋で寝てろ。どうせ暇だし、白鷹くんいるから帰っても大丈夫だぞ」
「平気。少し休めば治る……」
「お前が泣いてんの見て放っておけるかよ。それとも体調の他に、何か泣きたい理由があるのか?」
「平気だってば」
「意地っ張りだな。そういうところも可愛いけど」
 黙り込む俺に向かって、大和が手を伸ばした。咄嗟に身を引き、もう一度袖で涙を拭う。
「今日の政迩はご機嫌斜めか……しょうがねえなぁ」
「大和。……今日、白鷹さんとミーティング行かないでほしい」
「え?」
 やっとの思いで口にした俺の言葉に、大和の顔が強張った。
「……なんで?」
「別に。そろそろ一人で飯食うの、飽きたから」
「仕事の話なんだ、行かないわけにいかねえだろ?」
 それが本当の話なら素直に頷くしかない。店長同士の大事な話し合いに「寂しいから」なんて理由で口を挟んだら駄目だと、自分の台詞を反省すべきだ。
 だけど今の俺には、大和の言葉が本当なのか分からない。無理を言って大和を試すことなんてしたくないのに、他の方法が思い浮かばない。
「帰ったらちゃんと構ってやるって。いつもそうしてるだろ?」
「……そういうことを言ってるんじゃない」
「急にどうしたんだよ、政迩」
「政迩って呼ぶなっ……」
 大和が困ったように頭をかいて、スタッフルームのドアにちらりと視線を送った。そろそろ店内に戻らなければと思っている顔だ。
「参ったな。なんでそんなに気が立ってるのか、分からねえよ」
 その時、ふいにスタッフルームのドアがノックされ、店内から白鷹の声がした。
「オー、二人共何やってんだ。大和は春休み用商品の値下げチェック、チカちゃんは着替えてパーカのポップ描いてくれや」
「ああはい、すいません。今行きます」
「っ……」
 大和が踵を返して、ドアに向かおうとする。俺は伸ばした手で大和のシャツを引っ張り――その背中に、額を押し付けた。
「マサ、……チカ?」
「行くな」
「ど、どうしたんだよ」
「行くなよ。……大和、行かないで……」
 大和を困らせたくない。困らせて嫌われたくない。
 だけどそれ以上に、大和を失いたくない――。
「大丈夫だって。俺、いつもチカの傍にいるだろ。何を不安がってるのか知らねえけど、俺がチカを好きなのはこれからもずっと変わらねえから」
「………」
「二人で一緒に行こうぜ。なんだよ、俺がお前を置いて行くと思ってんのか?」
 大和の優しい言葉が、じんわりと心の中に沁み入ってくる。
 そうだ。俺は大和を失いたくないんだ。
 大和が俺から離れるかも……なんて、今まで一度たりとも思ったことはない。だから今の俺は、この例えようのない不安に心底怯えているんだ。
 白鷹に大和を奪われるんじゃないかと、思ってしまったから。
 白鷹は俺に気があるふりをして、本当の狙いは大和だったんじゃないかと、……ほんの少しでも、想像してしまったから。
 大和が誰と話していても、客や他店の女の容姿を褒めても、俺は多少不満に思うだけでちっとも嫉妬してこなかった。それがまさか、白鷹に嫉妬する日がくるなんて。
 今思えば、あの台詞。
 ――チカちゃんは大和の大事なお姫様だもんな。
 白鷹のあの台詞には、俺に対する敵意が込められていた。この前の一件の時だって、白鷹は俺の体を弄りながら大和ばかりを見ていた気がする。
 白鷹は未だに大和が好きなんじゃないのか。だから、俺の存在を大和から遠ざけようとしているんじゃないのか。
俺がこんなことを考えてしまうのも、寂しさや不安から大和を困らせようとしてしまうのも、全て白鷹の計画なんじゃないのか……。
「オッ、やっぱ青も似合うな。これでTシャツも売れるだろ。ありがとうな、チカ」
「……いえ」
 店内に戻った俺の頭に白鷹の手が乗り、慌てて大和が白鷹から俺を引き剥がした。
「気安く触んないでくださいって。俺達のことバレたからにはもう遠慮しませんよ」
「相変わらずつれねえなぁ、大和。じゃあお前でいいや」
「だから、尻を揉むなっての」
 白鷹の大和に対するセクハラも、そういう目で見ると本気でやっているんじゃないかと勘繰ってしまう。
「………」
「どうしたチカちゃん、大和の袖引いちゃって。可愛いことしてんじゃねえよ」
「白鷹くん、そろそろチカって呼ぶのやめてくださいって。今まで黙ってたけど、そう呼んでいいのは俺だけなんですから」
「そうなのか? それは悪かったな、マサチカ」
「だ、だから気安く撫でるなってば。全く、何回言えば……」
 ――俺、嫌な奴だ。
 大和に我儘言って気を遣わせて、もしかしたらこの不安も俺の勘違いかもしれないのに、二人を疑って。どうしてこんなに卑屈な男になってしまったんだろう。俺はいつだって大和を尻に敷いて、嫉妬する大和を軽く宥めていたはずなのに。
 白鷹に対する不満を大和に打ち明けることができるなら、まだ救われる。子供みたいに喚いて、白鷹に近付くなと言えたならどんなにいいか。
 それが出来ない俺は、勝手にむくれて大和を困らせるだけだ。
 そんな自分が、心底嫌になる。
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