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シュヴァルツ・シュテルン《ゲルハルト・アベル》
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「フォーゲル店長!」
俺達が『フライハイト』に入ると、フォーゲルが一番信頼を寄せているベテランスタッフのツィーゲが青ざめた顔で駆けてきた。
「どうした? 何があった」
「奥のテーブルで飲んでたお客さんが、急にビーネに手を出してきて……」
「分かった、俺が行く」
それだけの説明でフォーゲルには理解できたらしかった。つかつかと店の奥へ進んで行くその後ろ姿には躊躇いなど微塵も感じられない。
俺はカウンター席に腰掛け、そのやり取りを遠巻きに見物することにした。
「ツィーゲ、ウイスキーくれ。ハーフロックでな」
「え? あ、ああ……はい。ゲルハルトさん、店長の助っ人に行かないんですか? そのために来てくれたんじゃ……」
「いや、ただ飲みに来ただけ」
「そうなんですか……」
広い店内には見た顔も知らない顔もいる。仕事終わりの息抜きに酒を飲んでいた男、硬派なバーを気に入って通っている老人、フォーゲル目当てにやって来る近場のクラブのボーイ達。
全員の目が、フロア最奥に向けられている。
「フォーゲル店長……!」
奥のテーブル席に座っていたのは、明らかに柄の良くない、そして明らかに泥酔している大柄な男だった。自分の隣に従業員のビーネを座らせ、肩に腕を回している。
「お客様、うちのスタッフが何か?」
ビーネの目には涙すら浮かんでいた。若くても自分の体を売ることなく地道に稼ぐ仕事を選んだ青年だ。従業員の中では最年少で、この街で生きて行くには少し気弱な性格でもある。だからこうして酔っ払った客に絡まれることが多い。ビーネの美しさは客を呼ぶが、同時に、タチの悪い泥酔客をつけあがらせる。
「俺はこの兄ちゃんに酌を頼んだだけだぜ。何が悪いんだ、この野郎」
「申し訳ありませんが、うちの店ではそういったサービスはしていませんので」
「金なら払うっつってんだろ。てめえ、文句あんのか」
阿呆だな、とやり取りを眺めながら思わず笑ってしまう。
「分かりました。他のお客様の迷惑になりますから奥でお話しましょう」
「話すことなんかねえんだよ。金ならあるんだ、俺が目障りだって言うなら、この兄ちゃんを一晩買わせろや」
「フォーゲル店長……」
縋るようなビーネの視線を受けても、フォーゲルの無表情は変わらない。
「分かったらとっとと失せろ、でないと……」
瞬間、フォーゲルの右手が男の視界を塞いだ。文字通り、手のひらで男の両目を覆ったのだ。
「な、何の真似だてめぇ……」
男の耳元で、フォーゲルが低く囁く。
「これ以上俺をイラつかせるなら、このまま目ん玉ぶっ壊してやろうか?」
「何言ってやが、……あ、ぁあっ、あぁ……!」
フォーゲルの右手の裏側で──男の両目がパキ、パキ、と音を立て始めた。それは冷凍庫に入れられた水が氷に変化してゆく時の音だった。男の眼球に含まれている全ての水分は今、フォーゲルの『能力』によって急速に冷やされているのだ。
「やめ、やめろっ。やめてくれ……! 痛てえ! 目が痛てえよお!」
「やめろと言うなら俺はやめるが。お前はどうする」
男にはフォーゲルの低い声よりも、自身の目玉がひび割れる音の方が何倍も大きく聞こえているだろう。眼球が割れる恐怖から体を動かすこともできず、ただ口をぱくぱくさせて泣いている──しかし涙もまた瞬時に凍り、真冬の氷柱のように割れて床へ落ちてゆくのだ。
「す、すまなかった……! もう二度とアンタの前には現れねえ、店も来ねえ。悪かった、許してくれ……お、お願いします……」
傍若無人に振舞っていた男の屈服する瞬間というのは、いつ見ても滑稽で感動すら覚える。
フォーゲルは普段なら迷惑客を相手に能力を使わない。そもそもフォーゲルに限らずこの街で飲み屋を経営している時点で、楯突く者など滅多にいないのだ。それこそ泥酔して訳が分からなくなっている客が絡んでくる程度のちんけなハプニングが起こるくらいで、そんなことではいちいち能力など使わない。
すなわちこの男は、フォーゲルの地雷ワードを踏んだのだ。男の発した言葉──「ビーネを一晩買わせろ」。過去に何があったか知らないが、フォーゲルはこの街では珍しくない性犯罪を心の底から嫌悪していた。
「そうか。──ツィーゲ、お客様がお帰りのようだ。伝票持って来てくれ」
「は、はいっ!」
結局その男は飲み代の他に迷惑料だと自ら有り金を全て置いて行き、凍った目元に熱いおしぼりをあてながら這う這うの体で『フライハイト』を飛び出して行った。
「店長、ありがとうございましたっ……」
ビーネの肩に軽く手をおいて微笑するフォーゲルは俺の目から見ても男前だった。奇抜なのは髪型だけで中身は硬派そのものであり、仲間想いで仕事熱心――だからこそファンは多いが、性欲が殆どない。フォーゲルはまるで俺と真逆の男なのだ。
「終わったか? 相変わらず大変だな店長さんはよ」
「悪いなゲルハルト、待っててくれたのか」
「店長があの客をシメてる間に、ゲルハルトさん随分と飲んでましたよ。しかも店長の奢りだって……」
カウンターに頬杖をついて苦笑するツィーゲに言われて、フォーゲルが眉を顰める。
「お前、あの短い間でどんだけ飲んだんだ?」
「そんなに飲んでねえよ、ウイスキー三杯くらい」
「それとブレイブ、タランチュラ・レッド、シュヴァルツ・シュテルンも飲んでましたよ」
「ツィーゲ、お前は何でそう馬鹿正直に報告するんだ。そんなモン黙ってればバレねえのによ」
「お、俺はフォーゲル店長を裏切りたくないんです」
「裏切ったところで気付きゃしねえよ、この天然男は」
「分かったからここで喧嘩するな。行くぞゲルハルト。ツィーゲは仕事に戻ってくれ」
ともあれ、満足できるだけの酒は飲めた。あとはもう帰って寝るだけだ。腹立つことが起きても、寝ればすぐに忘れられる。
しかし店を出て地上に上がったところで、再び俺達は足を止めることとなる。
「少し時間をくれないか?」
俺達の後を追うように出てきた一人の男に、背後から呼び止められたからだ。長身だが細身で白髪の、スーツにハットを被った男。老人と呼ぶにはまだ若いが、脚が悪いのか杖をついている。
確かフォーゲルが泥酔男とやり取りしているのを、一番近い席から見ていた客だ。
「おっさん、何か用か? 俺達もう帰って寝るとこなんだけど」
「すまない、少しだけ話をさせてくれ。……先程は非常に見事だった、フォーゲル殿」
「どうも」
「ゲルハルト殿も、……見事な飲みっぷりでしたな」
「いいよ別に、無理矢理褒めなくてもよ」
男は一見すると紳士風だが油断はならない。この街では見かけによる判断など何の役にも立たないからだ。組織の幹部でも表向きの仕事をしている者が多く、そういう場合は到底裏社会とは無縁と思えるような外見の男が殆どなのだ。現にフォーゲルも、「表向きはバーテンダー」なのだから。
「何者だアンタ」
俺が問うと、男がスーツの内ポケットから名刺を取り出し、言った。
「私の名はファルターという。フォーゲル殿と同じように、この街で何軒かの店を経営している者だ。今日は折り入ってお二人にお願いしたいことがあって、声をかけさせて頂いた」
俺とフォーゲルは顔を見合わせ、小さく頷いた。
「仕事の依頼か」
「その通り。貴方達お二人を見込んで依頼させて頂きたい。──シュヴァルツ・シュテルンのゲルハルト殿」
俺達が『フライハイト』に入ると、フォーゲルが一番信頼を寄せているベテランスタッフのツィーゲが青ざめた顔で駆けてきた。
「どうした? 何があった」
「奥のテーブルで飲んでたお客さんが、急にビーネに手を出してきて……」
「分かった、俺が行く」
それだけの説明でフォーゲルには理解できたらしかった。つかつかと店の奥へ進んで行くその後ろ姿には躊躇いなど微塵も感じられない。
俺はカウンター席に腰掛け、そのやり取りを遠巻きに見物することにした。
「ツィーゲ、ウイスキーくれ。ハーフロックでな」
「え? あ、ああ……はい。ゲルハルトさん、店長の助っ人に行かないんですか? そのために来てくれたんじゃ……」
「いや、ただ飲みに来ただけ」
「そうなんですか……」
広い店内には見た顔も知らない顔もいる。仕事終わりの息抜きに酒を飲んでいた男、硬派なバーを気に入って通っている老人、フォーゲル目当てにやって来る近場のクラブのボーイ達。
全員の目が、フロア最奥に向けられている。
「フォーゲル店長……!」
奥のテーブル席に座っていたのは、明らかに柄の良くない、そして明らかに泥酔している大柄な男だった。自分の隣に従業員のビーネを座らせ、肩に腕を回している。
「お客様、うちのスタッフが何か?」
ビーネの目には涙すら浮かんでいた。若くても自分の体を売ることなく地道に稼ぐ仕事を選んだ青年だ。従業員の中では最年少で、この街で生きて行くには少し気弱な性格でもある。だからこうして酔っ払った客に絡まれることが多い。ビーネの美しさは客を呼ぶが、同時に、タチの悪い泥酔客をつけあがらせる。
「俺はこの兄ちゃんに酌を頼んだだけだぜ。何が悪いんだ、この野郎」
「申し訳ありませんが、うちの店ではそういったサービスはしていませんので」
「金なら払うっつってんだろ。てめえ、文句あんのか」
阿呆だな、とやり取りを眺めながら思わず笑ってしまう。
「分かりました。他のお客様の迷惑になりますから奥でお話しましょう」
「話すことなんかねえんだよ。金ならあるんだ、俺が目障りだって言うなら、この兄ちゃんを一晩買わせろや」
「フォーゲル店長……」
縋るようなビーネの視線を受けても、フォーゲルの無表情は変わらない。
「分かったらとっとと失せろ、でないと……」
瞬間、フォーゲルの右手が男の視界を塞いだ。文字通り、手のひらで男の両目を覆ったのだ。
「な、何の真似だてめぇ……」
男の耳元で、フォーゲルが低く囁く。
「これ以上俺をイラつかせるなら、このまま目ん玉ぶっ壊してやろうか?」
「何言ってやが、……あ、ぁあっ、あぁ……!」
フォーゲルの右手の裏側で──男の両目がパキ、パキ、と音を立て始めた。それは冷凍庫に入れられた水が氷に変化してゆく時の音だった。男の眼球に含まれている全ての水分は今、フォーゲルの『能力』によって急速に冷やされているのだ。
「やめ、やめろっ。やめてくれ……! 痛てえ! 目が痛てえよお!」
「やめろと言うなら俺はやめるが。お前はどうする」
男にはフォーゲルの低い声よりも、自身の目玉がひび割れる音の方が何倍も大きく聞こえているだろう。眼球が割れる恐怖から体を動かすこともできず、ただ口をぱくぱくさせて泣いている──しかし涙もまた瞬時に凍り、真冬の氷柱のように割れて床へ落ちてゆくのだ。
「す、すまなかった……! もう二度とアンタの前には現れねえ、店も来ねえ。悪かった、許してくれ……お、お願いします……」
傍若無人に振舞っていた男の屈服する瞬間というのは、いつ見ても滑稽で感動すら覚える。
フォーゲルは普段なら迷惑客を相手に能力を使わない。そもそもフォーゲルに限らずこの街で飲み屋を経営している時点で、楯突く者など滅多にいないのだ。それこそ泥酔して訳が分からなくなっている客が絡んでくる程度のちんけなハプニングが起こるくらいで、そんなことではいちいち能力など使わない。
すなわちこの男は、フォーゲルの地雷ワードを踏んだのだ。男の発した言葉──「ビーネを一晩買わせろ」。過去に何があったか知らないが、フォーゲルはこの街では珍しくない性犯罪を心の底から嫌悪していた。
「そうか。──ツィーゲ、お客様がお帰りのようだ。伝票持って来てくれ」
「は、はいっ!」
結局その男は飲み代の他に迷惑料だと自ら有り金を全て置いて行き、凍った目元に熱いおしぼりをあてながら這う這うの体で『フライハイト』を飛び出して行った。
「店長、ありがとうございましたっ……」
ビーネの肩に軽く手をおいて微笑するフォーゲルは俺の目から見ても男前だった。奇抜なのは髪型だけで中身は硬派そのものであり、仲間想いで仕事熱心――だからこそファンは多いが、性欲が殆どない。フォーゲルはまるで俺と真逆の男なのだ。
「終わったか? 相変わらず大変だな店長さんはよ」
「悪いなゲルハルト、待っててくれたのか」
「店長があの客をシメてる間に、ゲルハルトさん随分と飲んでましたよ。しかも店長の奢りだって……」
カウンターに頬杖をついて苦笑するツィーゲに言われて、フォーゲルが眉を顰める。
「お前、あの短い間でどんだけ飲んだんだ?」
「そんなに飲んでねえよ、ウイスキー三杯くらい」
「それとブレイブ、タランチュラ・レッド、シュヴァルツ・シュテルンも飲んでましたよ」
「ツィーゲ、お前は何でそう馬鹿正直に報告するんだ。そんなモン黙ってればバレねえのによ」
「お、俺はフォーゲル店長を裏切りたくないんです」
「裏切ったところで気付きゃしねえよ、この天然男は」
「分かったからここで喧嘩するな。行くぞゲルハルト。ツィーゲは仕事に戻ってくれ」
ともあれ、満足できるだけの酒は飲めた。あとはもう帰って寝るだけだ。腹立つことが起きても、寝ればすぐに忘れられる。
しかし店を出て地上に上がったところで、再び俺達は足を止めることとなる。
「少し時間をくれないか?」
俺達の後を追うように出てきた一人の男に、背後から呼び止められたからだ。長身だが細身で白髪の、スーツにハットを被った男。老人と呼ぶにはまだ若いが、脚が悪いのか杖をついている。
確かフォーゲルが泥酔男とやり取りしているのを、一番近い席から見ていた客だ。
「おっさん、何か用か? 俺達もう帰って寝るとこなんだけど」
「すまない、少しだけ話をさせてくれ。……先程は非常に見事だった、フォーゲル殿」
「どうも」
「ゲルハルト殿も、……見事な飲みっぷりでしたな」
「いいよ別に、無理矢理褒めなくてもよ」
男は一見すると紳士風だが油断はならない。この街では見かけによる判断など何の役にも立たないからだ。組織の幹部でも表向きの仕事をしている者が多く、そういう場合は到底裏社会とは無縁と思えるような外見の男が殆どなのだ。現にフォーゲルも、「表向きはバーテンダー」なのだから。
「何者だアンタ」
俺が問うと、男がスーツの内ポケットから名刺を取り出し、言った。
「私の名はファルターという。フォーゲル殿と同じように、この街で何軒かの店を経営している者だ。今日は折り入ってお二人にお願いしたいことがあって、声をかけさせて頂いた」
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