最期まで君を愛す。

ナムラケイ

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最期まで君を愛す。

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「帯方。やっぱりここにいたのね」

 諒子は台所の暖簾を手で押し上げ、夕餉の支度をしている帯方に声をかけた。
 帯方は包丁を置き、手を布巾で拭く。
 調理補佐をしていた若衆二人が挨拶をしてから席を外そうとしたので、諒子は片手の仕草でそれを無用とした。
 広い台所には新鮮な食材の詰まった段ボールが並び、調理台は仕込みの真っ最中だ。

「若頭補佐のあなたが料理なんて、示しがつかないんじゃないの?」
「趣味はやめられませんよ」

 着流しに前掛けをした帯方はそう言って、湯気が立つ雪平鍋からつやつやと光る山吹色の実を小皿にとりわけた。
 添えられた楊枝でその実を口に含んだ諒子は、懐かしい甘味と苦みに頬を押さえた。

「絶品っすよね、兄貴の金柑の蜜煮」
「馬鹿お前、お嬢に馴れ馴れしいだろうが」

 若衆の一人が嬉しそうに口走り、もう一人から拳固を食らっている。

「いいのよ。私はもう家を出たんだから、気を遣わないで」

 諒子は二人に微笑みかけ、帯方に向き直った。

「伯父様に挨拶をしたら、もう出かけるわ」
「お車は」
「散歩がてら電車で行くわ。お天気もいいし」
「夕食をご一緒できれば、和臣様がお喜びになるのですが」

 帯方の訴えに諒子は肩をすくめた。

「仕方ないじゃない。いくら実家があるとはいえ、社員旅行中に一人だけ別行動するわけにいかないわ」
「残念です」

 体格の良い帯方が肩を落とすと、諒子はなんだか自分がいじめているような気分になってしまう。

「明後日まではいるから、出来ればもう1度顔を出すわ」

 実家に所用があるからと、午後の数時間を別行動しているだけでも、先輩の女性や同期からの「親孝行ねー」「地元の男に会うんじゃないの?」「集団行動を乱さないでほしいわ」という嫌味や揶揄いを散々受ける羽目になったのだ。
 帯方にはそう言ったものの、今後の会社生活を考えると、二度目は難しいと分かっていた。
 会社勤めにおける、上司や先輩や同期や同僚との付き合いの面倒くささとそれを怠った時に起こる更なる面倒くささとそれを掌握した時の効果の高さというものを、この1年で諒子は嫌というほど体得している。
 極道の世界の方がよっぽど一本気が通ってさっぱりしているわと自分から捨てた世界と無意識に比較してしまい、諒子は度々自己嫌悪に陥るのだった。

「お願いします」

 諒子の心中を知ってか知らずか、帯方は丁寧に頭を下げた。

「近頃、和臣様は孤独を感じておられるようで。お嬢のお帰りを誰より楽しみにしていらっしゃいましたから」

 松枝の家を有能に取り仕切り、医師免許まで持つ男のその情緒的な言い回しに、諒子は眉を顰めた。
 孤独?
 あの傍若無人で尊大で、いつも人に囲まれている叔父様が?
 それに、諒子が大学卒業と同時に、家業には関わらずに家を出て一般の会社で働くと決めた時、叔父は引き止めもしなければ恨み言も言わず、「もし俺の名がおまえの人生に悪い影響を及ぼすようなら、いつでも縁を切ってやるからそう言え」と彼女の決断を容認したのだ。
 帯方はそれ以上そのことには触れず、諒子は台所を出た。


 長い廊下は色褪せているが、長年の手入れの賜物で美しい光沢を放っている。
 帯方の采配で手入れの行き届いた日本庭園―諒子は小学生の頃よくここで三下たちと遊んだ―を眺めながら、2度角を折れ、目的の部屋の前に立った。
 襖の和紙の匂いとその隙間から漏れ出る白檀の匂いが、まだそう古くはないのにとても昔のように感じる記憶を呼び覚ます。
 心臓が高鳴り腹の底に情念のようなもやもやとしたものが沸きあがる。
 襖の前で正座をし、「失礼します」と声をかけた。
 返事はないが、主人が中にいるのは気配で分かる。
 諒子は作法通り二度に分けて襖を開け、目を伏せたまま室内へ入り、静かに襖を閉めた。
 庭に面した広々とした和室の中心に、一枚板の机と座椅子が一脚置かれている。向かって右手の壁には掛け軸と一輪の椿が生けられた書院作りの棚があり、左手には書棚や書斎机が置かれた板張りのスペースがある。
 歴史を持つ家に沁みついた木や畳や墨の匂いは古く重たく、それでいていっそ清々しい。

「よう、来たか」

 書斎机に座っていた松枝和臣は、立ち上がると部屋の中央まで歩み寄り、いまだ襖の前で頭を垂れる諒子に声をかけた。

「座れよ」

 諒子は松枝が出してくれた座布団の横に膝をついた。

「ご無沙汰をしておりました」

 今一度頭を下げてから、諒子は松枝を正面から見た。
 ただ座椅子に座っているだけなのに、相手を圧倒する威厳と存在感を持つ男だ。
 彫りは深くはないのに、視線の鋭さや通った鼻筋、厚めの唇が濃い顔を形作っている。日本人離れした体格の身体に、濃紺の着流しが何故かしっくりと似合っている。
 小学生の頃に両親を亡くした諒子は、父親の弟である松枝和臣に引き取られ、大学を卒業するまでの十二年間を大勢の組員に囲まれて過ごした。
 血を分けた兄弟であるのに、家業を嫌い地方公務員となった穏和な父親と、今や四代目御景会の頂点となったこの男は容姿も性格も似ても似つかない。
 相変わらず偉そうな男と諒子は内心で毒づくが、長めの前髪の間から諒子を射抜く瞳にかつてと同じ優しさと残虐性を見つけ、ああやっぱり私はこの男には勝てないのだと悟ってしまう。

「たった一年で何を言っている。飲むか?」

 松枝は盆の上のウィスキーのボトルを持ち上げた。
 その長く節くれだった指に、諒子は腹部の情念が膨らむのを感じる。

「結構です」

 答えた声が震えていたのには気づかれただろうか。
 とろりとした液体がきらめくグラスに注がれた。松枝はそれを一度に飲み干し、さらに少しを注いだ。

「どうだ、調子は」
「おかげさまで。普通の生活を満喫してるわ」
「普通の生活ね。その割には、目つきは変わってないな」

 からかうような視線で覗き込んでくる。

「叔父様の前だから、こういう目をしているだけよ」

 姪らしく、拗ねた声がきちんと出た。

「俺へのあてつけか? この町に同僚なんざ連れてきやがって」
「普通に働いていれば、社員旅行にだって参加するし。行先がこの町だったのは、たまたまよ」

 課員たちは観光に精を出していて、夜の宴会のために先斗町で集合することになっている。実家に立ち寄っているのは諒子くらいのものだ。

「そう普通普通とムキになるな。まあ、おまえは真面目だし、働くのには向いているかもしれないな」
「叔父様の教育のおかげよ。私、きっと偉くなるわ」
「それは頼もしいな」

 松枝は満足そうに言うと、ウィスキーを口に含む。
 少しの間、二人は揃って庭園を眺めた。
 満開の時を終えたばかりの染井吉野の花びらが紙吹雪のように舞い落ち、庭に桜色の絨毯を織りなしている。部屋の空気がゆるゆるとほどけていく。
 松枝もそのゆるみを感じたのだろう。

「うちの奴らは、華がなくなって淋しがっているぞ」

 かつてこの手の駆け引きめいたやりとりを松枝と幾度も繰り返してきた諒子は、布石を打たれたことをすぐに察し、悪戯っぽく微笑んでみせた。

「叔父様も淋しかったの?」

 松枝が期待しているであろう言葉を返すと、男は答える代わりに、机を回り込んで諒子の横で片膝をついた。
 懐かしい男の匂いと気配に諒子は背筋の産毛がぞわりと逆立つを自覚する。

「なあに?」

 松枝を見ないように諒子はわざと顔を正面へ向けたまま問う。乾いた指先が顎を掴み、振り向かされた。

「顔、見せてみろ」

 横柄な口調に、諒子は至近距離で男を見返した。
 出来る限りの強い視線で。
 でも、すぐに負けてしまう。
 ああやっぱり。
 やっぱりこの男は魅力的で、私はこの男にだけは抗えないのだ。

「いい目だな。少し、剣が取れたか」

 松枝は面白そうに諒子を見ている。

「同僚と会うだけだろう。紅が濃すぎるんじゃないか」

 言うなり、左手でウィスキーのグラスを取り、一口含んだ。
 そのまま唇が諒子の唇に押し付けられる。生ぬるい液体が喉に流れ込み、腹に落ちてゆくのをありありと感じる。身体の中に火が灯った。
 抵抗しようと身体の前に出した手は、すぐに捕らえられた。よく知った厚い唇が思うままに諒子の口腔を蹂躙する。

「甘いな」

 少し唇を離した松枝がかすれ声で囁く。
 蜜煮を食べたからと言う隙もなく唇はまた塞がれた。
 松枝の右手が諒子の頭に挿してあるとんぼ玉の簪を引き抜いた。簪一本で結い上げていた髪は一瞬でほどけ、床に広がる。畳の床に押し倒された衝撃で、唇が離れた。

「何をしてほしい?」

 松枝が囁きながら、指先で脚をなぞってゆく。
 中心がどろどろに溶けているのは自覚していたが、あまりに容易く指がすべる様に答えられずに顔を背けた。
 松枝が音も立てずに意地悪く笑うのを気配で感じる。
 容易く指だけで終わらされた。
 昔からそうだ。叔父様は私を抱いたことは一度もない。
 服の乱れを直し、髪に手早く簪を指すと、諒子は抗議した。

「口紅なんかつけてないわ」

 松枝がくっと笑う。

「知ってるさ。本当に、お前はいい女だよ」

 諒子は深く辞儀をする。

「お邪魔しました。失礼します」

 顔を上げた時には既に松枝は諒子を見てはおらず、グラスを傾けている。その様子に諒子は特段傷つきもせずに、部屋を退出する。
 襖の前には案の定帯方が控えていた。

「やっぱり、車を出してちょうだい」

 紅潮しているであろう頬を隠すように俯いたまま命じる。返事をしない帯方を怪訝に思い見上げたとき、たんっと襖が開いた。

「俺が送ろう。たまには運転するのもいい」
 

「どういう気の吹き回し?」

 意外にも丁寧な加速と減速に身を委ねながら、諒子は少々意地の悪い口調で聞く。
 叔父が自分で車を運転するなど滅多にない。諒子の知る限り初めてのことだった。

「バケットリストってやつだ」

 その意味を解するのに一時を要した後、諒子は信じられない思いで松枝を見る。

「そう長くないそうだ」

 諒子はただ静かに頷いた。
 松枝が病を患っているなど知らなかったし気づきもしなかった。
 聞きたいことは山ほどあったが、この気高い男にそれらを質すことは憚られたし、その男の血縁として常に冷静に振る舞うことを教えられてきた諒子には取り乱すことも許されていない。
 ただ、帯方の「孤独」という言葉を思い出し、膝の上で拳を握りしめる諒子を気遣うように、松枝は言った。

「帯方の見立てだ。自分でもそう思う」
「そう」

 諒子はただ静かに頷いた。
 車は百万遍の交差点を曲がり、南へ下ってゆく。
 夕暮れが迫り、京の町は燃えるような橙色に包まれている。
 丸太町通りは学生で溢れ、車が行き交っているというのに、諒子の隣には、世界の境目に辛うじて立っている男がいる。
 諒子は松枝を見つめる。
 いくつもの修羅場と地獄を見てきた目は、今は穏やかに夕陽を反射している。
 ハンドルを掴む節くれだった長い指に、血管が走る筋肉質な腕、着物の袷から覗く胸板や、諒子を思うように蹂躙した唇。諒子が好きな低く脊髄に響くような声と、尊大さと優しさを併せ持つ魂。
 諒子の愛するものが、この美しい世界からなくなってしまう。


「ここでいいか」

 松枝は祇園四条の交差点で車を止めた。
 頷くと、松枝は先に車を降り助手席の扉を開いた。諒子は車から降り立つ。
 春の空気はまだ肌寒く、川を抜ける風が髪をなびかせる。
 夕方の四条大橋には着飾った男女がさざめくように行き交い、鴨川の川面には、迫る夜に備え灯り出した明かりがきらめいている。

「ねえ。リストには、他に何があるの?」

 諒子は努めて明るい声で訊いた。

「教えるわけないだろう、そんなもの」

 松枝はいつもの意地悪そうな笑みを刻む。

「まあでも、今日は2つを叶えたからな」
「運転と、なに?」
「聞くなよ」

 そういう松枝の笑みには照れのようなものが混じっていて。
 その瞬間。
 諒子は、この男は本当にもうそう遠くないうちに死ぬのだと思い知らされる。

「叔父様。私やっぱり」

 宴会なんて行くのをやめて、叔父様と一緒にいるわ。
 諒子が何を言おうとしているのか知っていて、それを拒絶するかのように、松枝は人差し指を立てて諒子の口を制した。子供を相手にしているように諭す。

「一度した約束は守りなさい」

 諒子は俯いた。
 でも。
 今夜はもうどこにも行きたくない。
 あの家で、みんなで帯方の作ったごはんを食べて。
 そして縁側で、叔父様とお酒を飲んで、たくさん話をして、それからもう一度キスをして、あなたの身体をこの世界に繋ぎとめておくから。

「諒子。ありがとう」

 何に対してなのか、松枝はそう言うと、祈るように胸の中で言葉を紡ぐ諒子の額にゆっくりと口づけた。
 おそらく今までで一番優しい仕草で。


 夏の光は明るく眩しく、その分地面に落ちる影は黒く重たい。
 お斎の席を中座した諒子は松枝の部屋に向かい、立ったまま障子を両手で一度に開いた。
 主を失った部屋は薄暗く、陽の光を受けて白く輝く庭との対比が眩しい。
 何か少しでも松枝の気配が残っていないかと、諒子は全身を研ぎ澄ませるが、部屋はただひんやりとした静寂を湛えているだけだ。
 松枝のいない部屋に入ることが恐ろしく、敷居の前で立ちすくんだ。

「お嬢」

 いつの間にか背後にいた帯方が、懐から取り出した一通の封筒を差し出した。

「これを」

 受け取ると、重みもなく薄っぺらい。

「和臣様の机の引き出しにあったものです。机の中のものは、誰にも見せずにすべて処分するようにとの指示でしたが、これは、あなたにお渡しするべきだと思いましたので」
「帯方も、叔父様の命に背くことがあるのね」
「最初で最後です」

 礼をして、帯方はまた宴へ戻ってゆく。組の今後が圧し掛かるその背中は、悲しみを背負う間もなく緊張を孕んでいる。
 封筒は封印されておらず、便箋が一枚だけ入っていた。
 三つ折りにされているそれを開き、中身を読む。

 諒子と手を繋いで街を歩く。
 諒子とドライブをする。
 諒子と詩仙堂に行く。
 諒子と大文字の送り火を見る。 
 諒子に簪を買う。
 諒子と酒を飲む。
 諒子とキスをする。
 諒子に感謝を伝える。
 諒子と

 思いつくままに書いたような走り書きは、しかし何本もの斜線で塗りつぶされている。
 書ききれなかった願いをすべて打ち消すかのように。
 あの叔父様が、こんな他愛もないことを望んでいたなんて。
 諒子は泣き笑いのような表情になり、松枝の思いを汲み取ろうと便箋を見つめる。ふと、裏側から文字が薄く透けていることに気づき、便箋を裏返した。
 丁寧な筆跡で記されたその一文を目にし、諒子はその場にくずおれた。
 沸騰するように胸が熱くなり、抑える間もなく視界が潤んだ。ぱたぱたと音を立てて便箋に落ちる涙が、ブルーブラックのインクに滲んでゆく。

 最期の時まで諒子を愛する。

 男が逝ってから初めて流すことができた涙は止まることを知らず、諒子は、男がただひとつ残した思いを何度も何度も読み返しながら、夜の闇が部屋を覆いつくすまで泣き続けた。(了)
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