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05 BLとアイスアメリカーノ
酒を飲んだわけでもないのに、あの後どうやってソヨンと別れたのかも映画のストーリーもうまく思い出せない。ただ、駅から自宅まで続く道の街路樹や家々の連なりが、いつもより一層鮮やかに見えたことだけを覚えている。
異性だろうが同性だろうが好きになったら仕方がないと頭では分かっているが、自身の恋愛遍歴を思い返せば自分から意中の人にアプローチしたことがない。
いきなりデートに誘って良いものか、お友達から始めるべきなのか。ぐるぐる考えながら教室の扉を開くと、毎回一番乗りのリナが読書中だった。
「こんにちは、先生」
「おう、今日も早いな」
「勉強熱心でしょ」
「読んでるのが漫画じゃなくて教科書ならな」
「日本の漫画で生きた日本語を学んでいるのです」
憎まれ口を叩き、リナは手元のコミックスに視線を戻した。カバーのかかっていない表紙には抱き合う男性二人が繊細なタッチのカラーで描かれている。しかも、一人は半裸で乳首まで生々しく描写されている。
「なあ、その二人って、どうやって付き合うようになるんだ?」
普段であれば「教室で卑猥な本を読むな」と叱る千早からの唐突な質問に、リナは一瞬きょとんとし、それから半目になった。
「この二人は、元々幼馴染で同居中の親友なんだけど、ある日、受けの子が別の男の人と付き合い始めたのをきっかけに、実は両片思いだったことが分かって気持ちを伝え合ってハピエンって話。おさななモノの鉄板王道ストーリーです」
「なんだか複雑だな」
そして、全く参考にならない。
よく考えれば、フィクションに答えを期待する方がどうかしている。
リナはコミックスを閉じると、千早を見上げた。
「先生、BLはファンタジーだよ。リアルの恋愛は、自分の気持ちと、何より相手の気持ちを大切にしないと」
全てを見透かすようなリナの指摘に、返す言葉もない千早である。
***
翌日のシフトは夜からだったので、自分でも若干気持ち悪いなと思いつつ、なんとなくソヨンが勤める警察署まで足を延ばしてしまった。
大勢の市民が行き交う街の一角に唐突に現れる鮮やかな青色の大門。その冠木には、権威を誇示するか如く立派なハングル文字で「ソウル銅雀警察署」と書かれている。その奥に続く緩やかな坂の向こうにはオレンジ色の庁舎が見えるが、大門の両脇には警備の警官が立っており、一般人は通り抜けられそうにない。
親交を深めるべく食事にでも誘いたいのだが、一緒にカフェに行った日以降、ソヨンはまた家を空けているようだった。
待ち伏せとかマジで気持ち悪いな俺、と自己嫌悪しつつも、大門のすぐ傍のビルにあるカフェの窓際に陣取って、アイスアメリカーノを啜る。時折窓の外に目を向けながら、請け負ったばかりの翻訳業務の下読みをしていると、資料に影が落ちた。
見上げると、黒髪の美女がコーヒーを片手に立っている。
何か武道を習得しているのだろう。音も気配もしなかった。
タンクトップにジーンズの私服姿だが、これほどの美人が記憶に残らないはずがない。ソヨンの同僚だ。
「その後、食い逃げはされていませんか?」
いたずらっぽく笑いかけてくるミン巡査に、千早は立ち上がって頭を下げた。
「その節はお世話になりました。ミン巡査」
「一度会っただけの警察官の名前を憶えているなんて、良い記憶力ですね」
「そっちこそ、事件関係者の顔は全員覚えてるのか?」
「勿論。警察官ですから」
頼もしく答えてから、ミン巡査は内緒話をするように手を口元にあてた。
「もしかして、イ部長と待ち合わせですか? お隣さんなんですよね」
「いや、待ち合わせというか、時間があれば一緒にメシでもと思って、俺が勝手に」
どうにも歯切れが悪くなる千早に、ミン巡査は大袈裟に片眉をあげた。
「一緒にお食事? イ部長とですか? あの人、誰かと食事をするのは苦手だって公言してて、署内でも大抵ぼっち飯なのに」
「苦手っていうか、食うのが遅いのを気にしてるだけだろ。俺は別に食べるスピードとか気にしないし。この前も一緒にメシ食ったけど、普通に楽しそうにしてたぞ」
この前もというか、この前1回だけだが。そして食事ではなくカフェだが。
ミン巡査がいかにも親しげにソヨンのことを語るので対抗心を出してしまったが、ミン巡査は気にした様子もない。あらあらまあまあと田舎のおばちゃんのような感動詞を繰り返している。
「部長に仲良しの方ができて私も嬉しいです。部長はもうすぐ下番なので、千早さんがお見えになっている旨はお伝えしておきますね。私はこれから出勤なのでここで失礼します」
てきぱき話すと、こちらの返事を待たずに踵を返してしまった。
しかし結局何時間待っても、その日、ソヨンが現れることはなかった。
***
その夜のアジュンの店でのバイトは散々だった。グラスを割り、注文を間違え、お釣りを多めに渡してしまうという失敗の連続に、アジュンは「千早、こちとら給料払ってんだ。真面目に働かねえならクビにするぞ」と檄を飛ばしていたが、閉店時には「何があったか知らねえが、これでも食って元気だせ」と大量のフライドチキンを持たせてくれた。
カフェに3時間も居座り、アイスアメリカーノを3杯も飲んだせいで胃が気持ち悪いが、好意はありがたく受け取っておく。
いきなり職場に押し掛けられて待ち伏せされ、挙句の果てに同僚女子にそれを伝言されてしまうとか、流石に引かれるよな。自分が他人に同じことをされたら絶対に引くし、なんなら通報ものだ。
沈む気持ちを浮き立たせるように天を仰ぐが、空は千早の気持ちを代弁するかのような曇天で、月も星のひとつも見えない。
6月の最終日。夏に向けて気温も湿度も上がり始め、つい先日まで鮮やかに咲き誇っていた階段脇の紫陽花も白っぽく褪せている。枯れてしまった葉を後で取り除いてやろう。
重い足取りで螺旋階段を上がり、扉に鍵を差し込んで回した瞬間、どたばたと音がして、隣室の扉が勢いよく開いた。
「千早!」
部屋に強盗か幽霊でも現れたような慌てぶりで飛び出してきたソヨンは、千早の顔を見ると大きく息を吐いた。一体何事だ。
「どうした、茶色い虫でも出たのか?」
「虫は出ていない」
軽口に律儀に答えてから、ソヨンは思い切り頭を下げた。
「ごめん!」
「え、何が」
訳が分からない。
「あー、とりあえず靴くらい履けば」
土埃の舞う外廊下に裸足だと怪我をしそうだ。ソヨンは三和土に並んでいたビーチサンダルに足を突っ込むと、開け放したままだった扉を閉めた。
「今日、行けなくてごめん。勤務交代の時間だったんだけど、担当している事件の目撃情報が入って帰れなくなって」
「ソヨンが謝ることじゃないだろ。約束してもないのに、勝手に待ち伏せした俺が悪い。もうあんな気持ち悪い真似しねえから」
千早が詫びると、ソヨンは微妙な顔つきになり肩を落とした。
「その、気持ち悪いとは思っていない」
「フォローどうも」
居心地の悪い会話を切り上げたくて冗談めかしたが、ソヨンは何か言い足りないのか口をもごもごさせている。急かすでもなく待ってみると、やがてソヨンは視線を落としたままぽつりと言った。
「来てくれて、嬉しかった」
一瞬、耳を疑った。言われたことの意味を理解して、指先からビニール袋が滑り落ちる。反射的に膝を屈めて落下する袋を掴み直した。
先ほど、少しはにかんでいたように見えたソヨンの顔はすっかり真顔に戻り、「見事な反射神経だな。ロマンス詐欺師の時も思ったが、千早は目が良い」と感心している。
「そりゃどーも」
鼓動が早い。手の甲で頬に触れるといつもより熱くて、きっと顔が赤くなっている。
階下の部屋の扉が開く音がして、「ただいまー、遅くなってごめんね、飲みすぎちゃった」と上機嫌の女性の声が聞こえてきて、二人してアパートの廊下で長々と立ち話していたことに気づく。
「なあソヨン、今日はもう仕事はない?」
「ああ。流石に働き過ぎだって上司に怒られたから、明日も休みだよ」
「じゃあ、チメク付き合えよ」
千早はフライドチキンが詰まったビニール袋を掲げつつ、食事よりももっと重要なお願いをした。
「あと、連絡先を教えてほしい」
(注)チメク:韓国語でチキンとビール(麦酒:メクチュ)の組み合わせのこと。
異性だろうが同性だろうが好きになったら仕方がないと頭では分かっているが、自身の恋愛遍歴を思い返せば自分から意中の人にアプローチしたことがない。
いきなりデートに誘って良いものか、お友達から始めるべきなのか。ぐるぐる考えながら教室の扉を開くと、毎回一番乗りのリナが読書中だった。
「こんにちは、先生」
「おう、今日も早いな」
「勉強熱心でしょ」
「読んでるのが漫画じゃなくて教科書ならな」
「日本の漫画で生きた日本語を学んでいるのです」
憎まれ口を叩き、リナは手元のコミックスに視線を戻した。カバーのかかっていない表紙には抱き合う男性二人が繊細なタッチのカラーで描かれている。しかも、一人は半裸で乳首まで生々しく描写されている。
「なあ、その二人って、どうやって付き合うようになるんだ?」
普段であれば「教室で卑猥な本を読むな」と叱る千早からの唐突な質問に、リナは一瞬きょとんとし、それから半目になった。
「この二人は、元々幼馴染で同居中の親友なんだけど、ある日、受けの子が別の男の人と付き合い始めたのをきっかけに、実は両片思いだったことが分かって気持ちを伝え合ってハピエンって話。おさななモノの鉄板王道ストーリーです」
「なんだか複雑だな」
そして、全く参考にならない。
よく考えれば、フィクションに答えを期待する方がどうかしている。
リナはコミックスを閉じると、千早を見上げた。
「先生、BLはファンタジーだよ。リアルの恋愛は、自分の気持ちと、何より相手の気持ちを大切にしないと」
全てを見透かすようなリナの指摘に、返す言葉もない千早である。
***
翌日のシフトは夜からだったので、自分でも若干気持ち悪いなと思いつつ、なんとなくソヨンが勤める警察署まで足を延ばしてしまった。
大勢の市民が行き交う街の一角に唐突に現れる鮮やかな青色の大門。その冠木には、権威を誇示するか如く立派なハングル文字で「ソウル銅雀警察署」と書かれている。その奥に続く緩やかな坂の向こうにはオレンジ色の庁舎が見えるが、大門の両脇には警備の警官が立っており、一般人は通り抜けられそうにない。
親交を深めるべく食事にでも誘いたいのだが、一緒にカフェに行った日以降、ソヨンはまた家を空けているようだった。
待ち伏せとかマジで気持ち悪いな俺、と自己嫌悪しつつも、大門のすぐ傍のビルにあるカフェの窓際に陣取って、アイスアメリカーノを啜る。時折窓の外に目を向けながら、請け負ったばかりの翻訳業務の下読みをしていると、資料に影が落ちた。
見上げると、黒髪の美女がコーヒーを片手に立っている。
何か武道を習得しているのだろう。音も気配もしなかった。
タンクトップにジーンズの私服姿だが、これほどの美人が記憶に残らないはずがない。ソヨンの同僚だ。
「その後、食い逃げはされていませんか?」
いたずらっぽく笑いかけてくるミン巡査に、千早は立ち上がって頭を下げた。
「その節はお世話になりました。ミン巡査」
「一度会っただけの警察官の名前を憶えているなんて、良い記憶力ですね」
「そっちこそ、事件関係者の顔は全員覚えてるのか?」
「勿論。警察官ですから」
頼もしく答えてから、ミン巡査は内緒話をするように手を口元にあてた。
「もしかして、イ部長と待ち合わせですか? お隣さんなんですよね」
「いや、待ち合わせというか、時間があれば一緒にメシでもと思って、俺が勝手に」
どうにも歯切れが悪くなる千早に、ミン巡査は大袈裟に片眉をあげた。
「一緒にお食事? イ部長とですか? あの人、誰かと食事をするのは苦手だって公言してて、署内でも大抵ぼっち飯なのに」
「苦手っていうか、食うのが遅いのを気にしてるだけだろ。俺は別に食べるスピードとか気にしないし。この前も一緒にメシ食ったけど、普通に楽しそうにしてたぞ」
この前もというか、この前1回だけだが。そして食事ではなくカフェだが。
ミン巡査がいかにも親しげにソヨンのことを語るので対抗心を出してしまったが、ミン巡査は気にした様子もない。あらあらまあまあと田舎のおばちゃんのような感動詞を繰り返している。
「部長に仲良しの方ができて私も嬉しいです。部長はもうすぐ下番なので、千早さんがお見えになっている旨はお伝えしておきますね。私はこれから出勤なのでここで失礼します」
てきぱき話すと、こちらの返事を待たずに踵を返してしまった。
しかし結局何時間待っても、その日、ソヨンが現れることはなかった。
***
その夜のアジュンの店でのバイトは散々だった。グラスを割り、注文を間違え、お釣りを多めに渡してしまうという失敗の連続に、アジュンは「千早、こちとら給料払ってんだ。真面目に働かねえならクビにするぞ」と檄を飛ばしていたが、閉店時には「何があったか知らねえが、これでも食って元気だせ」と大量のフライドチキンを持たせてくれた。
カフェに3時間も居座り、アイスアメリカーノを3杯も飲んだせいで胃が気持ち悪いが、好意はありがたく受け取っておく。
いきなり職場に押し掛けられて待ち伏せされ、挙句の果てに同僚女子にそれを伝言されてしまうとか、流石に引かれるよな。自分が他人に同じことをされたら絶対に引くし、なんなら通報ものだ。
沈む気持ちを浮き立たせるように天を仰ぐが、空は千早の気持ちを代弁するかのような曇天で、月も星のひとつも見えない。
6月の最終日。夏に向けて気温も湿度も上がり始め、つい先日まで鮮やかに咲き誇っていた階段脇の紫陽花も白っぽく褪せている。枯れてしまった葉を後で取り除いてやろう。
重い足取りで螺旋階段を上がり、扉に鍵を差し込んで回した瞬間、どたばたと音がして、隣室の扉が勢いよく開いた。
「千早!」
部屋に強盗か幽霊でも現れたような慌てぶりで飛び出してきたソヨンは、千早の顔を見ると大きく息を吐いた。一体何事だ。
「どうした、茶色い虫でも出たのか?」
「虫は出ていない」
軽口に律儀に答えてから、ソヨンは思い切り頭を下げた。
「ごめん!」
「え、何が」
訳が分からない。
「あー、とりあえず靴くらい履けば」
土埃の舞う外廊下に裸足だと怪我をしそうだ。ソヨンは三和土に並んでいたビーチサンダルに足を突っ込むと、開け放したままだった扉を閉めた。
「今日、行けなくてごめん。勤務交代の時間だったんだけど、担当している事件の目撃情報が入って帰れなくなって」
「ソヨンが謝ることじゃないだろ。約束してもないのに、勝手に待ち伏せした俺が悪い。もうあんな気持ち悪い真似しねえから」
千早が詫びると、ソヨンは微妙な顔つきになり肩を落とした。
「その、気持ち悪いとは思っていない」
「フォローどうも」
居心地の悪い会話を切り上げたくて冗談めかしたが、ソヨンは何か言い足りないのか口をもごもごさせている。急かすでもなく待ってみると、やがてソヨンは視線を落としたままぽつりと言った。
「来てくれて、嬉しかった」
一瞬、耳を疑った。言われたことの意味を理解して、指先からビニール袋が滑り落ちる。反射的に膝を屈めて落下する袋を掴み直した。
先ほど、少しはにかんでいたように見えたソヨンの顔はすっかり真顔に戻り、「見事な反射神経だな。ロマンス詐欺師の時も思ったが、千早は目が良い」と感心している。
「そりゃどーも」
鼓動が早い。手の甲で頬に触れるといつもより熱くて、きっと顔が赤くなっている。
階下の部屋の扉が開く音がして、「ただいまー、遅くなってごめんね、飲みすぎちゃった」と上機嫌の女性の声が聞こえてきて、二人してアパートの廊下で長々と立ち話していたことに気づく。
「なあソヨン、今日はもう仕事はない?」
「ああ。流石に働き過ぎだって上司に怒られたから、明日も休みだよ」
「じゃあ、チメク付き合えよ」
千早はフライドチキンが詰まったビニール袋を掲げつつ、食事よりももっと重要なお願いをした。
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