25 / 53
25:緋沙子の見舞い
しおりを挟む
有馬静加はよく熱を出す子供だった。
あれは10歳くらいの時だっただろうか。
友達とはしゃいで雨の中を遊びまわり、熱を出したことがあった。
父と兄は体調管理ができていないと叱ったが、心配して何度も様子を見に来てくれた。
母は、生まれたばかりの妹の世話をしながらも、粥を作ったり額に濡れタオルを置いてくれた。
熱と薬に浮かされて、うとうとしていると、階下に来客の気配があった。
聞こえてきたのが大好きな緋沙子の声だったので、有馬はそっと起き上がって、扉の隙間から階下を覗き見た。
松濤の実家は玄関ホールと居間が吹き抜けになっていて、二階の回廊に各部屋の扉がある構造なので、声がよく通った。
モダンな服装を好む緋沙子が、その時は地味な紺色のワンピース姿だった。有馬は視線を送るが、緋沙子はこちらに気づかない。
「あら、こちらにいらっしゃるなんて珍しいですね」
有馬の母が緋沙子に応対している。両家の妻らしく丁寧で柔らかい物腰だが、その端々に拒絶が滲んでいる。
相手は義父の愛人で自分より年下の女。仲良くしている方が不自然な関係だ。
「お忙しいところ突然お邪魔して申し訳ありません。静加君が熱を出されていると伺いましたので、差し出がましい真似であることは重重承知しておりますが、お見舞いをお持ちしました」
普段家にいる時の緋沙子はあけすけな話し方をする。有馬にまで敬語を使う畏まった言葉遣いが緋沙子の立場を表しているようで、有馬は奥歯を噛んだ。
「それはお気遣いをありがとうございます。あら、何かしら」
「ミルクプリンを作って参りました。以前、お好きだと仰っていましたので」
「お手間をかけていただき申し訳ないですわ。よろしければ、お茶でもいかがですか?」
「いえ、こちらで失礼いたします」
社交辞令丸見えの母の誘いをすぱりと断り、緋沙子は帰って行った。有馬は急いでベッドに戻って寝たふりをする。
その後、粥を持って部屋に上がってきた母に、有馬は「プリン、食べたい」とねだった。
「緋沙子ちゃんの作った」とは言えなかった。
家族から使用人まで、この家の誰もが緋沙子のことを知っている。けれど、家の中でその名を口にすることはない。それが暗黙のルールだった。
母は階下へ降りると、綺麗な白い皿に乗せたプリンを持ってきた。
カスタードのプリンに、飴色のカラメルソースがかかっている。有馬家が贔屓にしている近所の洋菓子屋のものだ。
緋沙子のミルクプリンは捨てられるのだろうと幼心に分かった。
口に入れたプリンは甘すぎて、濃いカラメルソースが喉に引っかかる。
前に緋沙子の家で食べたミルクプリンはふるりとやわらかく、ほのかに甘かった。その味を思い出し、有馬は少し泣いた。
海外に行くのは、旅行でも出張でも大好きだ。
それでも、羽田空港に到着して日本語の文字と声に囲まれると、安心感を覚える。帰ってきたなあとしみじみしてしまう。
機材不良でシンガポール出発が遅れたので、予定より数時間遅れの到着だった。
入国を済ませ、全員分の荷物を受け取り、税関を通って、海上幕僚長を出迎えの車に乗せて見送り、ようやく一息ついた。
下っ端自衛官にハイヤーなど手配される訳がないので、重いスーツケースを引きずって自宅までは電車での帰宅だ。
家に着くのは昼前か。昼飯どうっすかな。
腕時計を確認し、スマホの航空機モードを解除して乗り継ぎ検索をする。飛行中に溜まっていたメッセージが立て続けに届くので、職場からの急ぎのメールだけ読んでいると、今度は未登録の番号から着信があった。
出ようか迷ったが、着信が長いので、ターミナルの中を邪魔にならない位置まで移動して通話ボタンをタップする。
出るなり、知らない男が話だした。
「ああ、やっと繋がった。十波航平さん? 有馬の彼氏さんの?」
同世代の軽い感じの声だった。有馬の名前を出されて胸がざわつく。
「どちらさまですか?」
「突然電話してすみません。俺は有馬の記者仲間で、時報通信社の藤井と言います」
簡潔な言葉で身分を明らかにすると、藤井は続けた。
「有馬ですが、今、熱を出しているので、時間があったら見舞いに行ってやってください」
「有馬が?」
見知らぬ男から伝えられる有馬の不調に肝が冷える。
搭乗前にラインのやりとりをした時は、体調のことなど全く触れられず、最後のメッセージは、「気を付けて帰ってきて。早く会いたいな」という甘いものだった。
「昨日、出張先で雨に降られたせいだと思います。帰りの飛行機で具合が悪そうだったので、一応家まで送って解熱剤は置いてきました。うわ言であなたの名前を呼んでいたので、やつのスマホの着信履歴からこの電話番号をメモさせてもらいました。個人情報を勝手に確認したことは謝ります。本人は、今日一日寝てれば治まると言っていましたし、ラインを送っても「大丈夫」としか返ってきませんが、あいつは辛苦を我慢してしまうタイプなので。老婆心ながら、一応あなたに連絡をと思いまして」
戸惑う航平に、藤井は丁寧に状況を教えてくれる。
職業柄か、筋の通った明瞭な説明だった。老婆心どころか、有難い気遣いだ。
「連絡ありがとうございました。行ってみます」
藤井との通話を終え、有馬に電話をかけるが応答がない。
「今からそっち行くけど、欲しいもんあるか?」
メッセージを送ると、今度は反応があった。
「ごめん。今日は忙しいから、お土産交換は今度でいいかな」
嘘に満ちた返信に思わず舌打ちが出た。
「藤井さんに聞いた。熱あんだろ?」
高速で返信すると、「大丈夫だから」の一言。
なんなんだ。有馬らしくない。
スマホを見るのもしんどいんだったら可哀そうだと思い、連絡は諦めた。
あれは10歳くらいの時だっただろうか。
友達とはしゃいで雨の中を遊びまわり、熱を出したことがあった。
父と兄は体調管理ができていないと叱ったが、心配して何度も様子を見に来てくれた。
母は、生まれたばかりの妹の世話をしながらも、粥を作ったり額に濡れタオルを置いてくれた。
熱と薬に浮かされて、うとうとしていると、階下に来客の気配があった。
聞こえてきたのが大好きな緋沙子の声だったので、有馬はそっと起き上がって、扉の隙間から階下を覗き見た。
松濤の実家は玄関ホールと居間が吹き抜けになっていて、二階の回廊に各部屋の扉がある構造なので、声がよく通った。
モダンな服装を好む緋沙子が、その時は地味な紺色のワンピース姿だった。有馬は視線を送るが、緋沙子はこちらに気づかない。
「あら、こちらにいらっしゃるなんて珍しいですね」
有馬の母が緋沙子に応対している。両家の妻らしく丁寧で柔らかい物腰だが、その端々に拒絶が滲んでいる。
相手は義父の愛人で自分より年下の女。仲良くしている方が不自然な関係だ。
「お忙しいところ突然お邪魔して申し訳ありません。静加君が熱を出されていると伺いましたので、差し出がましい真似であることは重重承知しておりますが、お見舞いをお持ちしました」
普段家にいる時の緋沙子はあけすけな話し方をする。有馬にまで敬語を使う畏まった言葉遣いが緋沙子の立場を表しているようで、有馬は奥歯を噛んだ。
「それはお気遣いをありがとうございます。あら、何かしら」
「ミルクプリンを作って参りました。以前、お好きだと仰っていましたので」
「お手間をかけていただき申し訳ないですわ。よろしければ、お茶でもいかがですか?」
「いえ、こちらで失礼いたします」
社交辞令丸見えの母の誘いをすぱりと断り、緋沙子は帰って行った。有馬は急いでベッドに戻って寝たふりをする。
その後、粥を持って部屋に上がってきた母に、有馬は「プリン、食べたい」とねだった。
「緋沙子ちゃんの作った」とは言えなかった。
家族から使用人まで、この家の誰もが緋沙子のことを知っている。けれど、家の中でその名を口にすることはない。それが暗黙のルールだった。
母は階下へ降りると、綺麗な白い皿に乗せたプリンを持ってきた。
カスタードのプリンに、飴色のカラメルソースがかかっている。有馬家が贔屓にしている近所の洋菓子屋のものだ。
緋沙子のミルクプリンは捨てられるのだろうと幼心に分かった。
口に入れたプリンは甘すぎて、濃いカラメルソースが喉に引っかかる。
前に緋沙子の家で食べたミルクプリンはふるりとやわらかく、ほのかに甘かった。その味を思い出し、有馬は少し泣いた。
海外に行くのは、旅行でも出張でも大好きだ。
それでも、羽田空港に到着して日本語の文字と声に囲まれると、安心感を覚える。帰ってきたなあとしみじみしてしまう。
機材不良でシンガポール出発が遅れたので、予定より数時間遅れの到着だった。
入国を済ませ、全員分の荷物を受け取り、税関を通って、海上幕僚長を出迎えの車に乗せて見送り、ようやく一息ついた。
下っ端自衛官にハイヤーなど手配される訳がないので、重いスーツケースを引きずって自宅までは電車での帰宅だ。
家に着くのは昼前か。昼飯どうっすかな。
腕時計を確認し、スマホの航空機モードを解除して乗り継ぎ検索をする。飛行中に溜まっていたメッセージが立て続けに届くので、職場からの急ぎのメールだけ読んでいると、今度は未登録の番号から着信があった。
出ようか迷ったが、着信が長いので、ターミナルの中を邪魔にならない位置まで移動して通話ボタンをタップする。
出るなり、知らない男が話だした。
「ああ、やっと繋がった。十波航平さん? 有馬の彼氏さんの?」
同世代の軽い感じの声だった。有馬の名前を出されて胸がざわつく。
「どちらさまですか?」
「突然電話してすみません。俺は有馬の記者仲間で、時報通信社の藤井と言います」
簡潔な言葉で身分を明らかにすると、藤井は続けた。
「有馬ですが、今、熱を出しているので、時間があったら見舞いに行ってやってください」
「有馬が?」
見知らぬ男から伝えられる有馬の不調に肝が冷える。
搭乗前にラインのやりとりをした時は、体調のことなど全く触れられず、最後のメッセージは、「気を付けて帰ってきて。早く会いたいな」という甘いものだった。
「昨日、出張先で雨に降られたせいだと思います。帰りの飛行機で具合が悪そうだったので、一応家まで送って解熱剤は置いてきました。うわ言であなたの名前を呼んでいたので、やつのスマホの着信履歴からこの電話番号をメモさせてもらいました。個人情報を勝手に確認したことは謝ります。本人は、今日一日寝てれば治まると言っていましたし、ラインを送っても「大丈夫」としか返ってきませんが、あいつは辛苦を我慢してしまうタイプなので。老婆心ながら、一応あなたに連絡をと思いまして」
戸惑う航平に、藤井は丁寧に状況を教えてくれる。
職業柄か、筋の通った明瞭な説明だった。老婆心どころか、有難い気遣いだ。
「連絡ありがとうございました。行ってみます」
藤井との通話を終え、有馬に電話をかけるが応答がない。
「今からそっち行くけど、欲しいもんあるか?」
メッセージを送ると、今度は反応があった。
「ごめん。今日は忙しいから、お土産交換は今度でいいかな」
嘘に満ちた返信に思わず舌打ちが出た。
「藤井さんに聞いた。熱あんだろ?」
高速で返信すると、「大丈夫だから」の一言。
なんなんだ。有馬らしくない。
スマホを見るのもしんどいんだったら可哀そうだと思い、連絡は諦めた。
4
あなたにおすすめの小説
鬼上司と秘密の同居
なの
BL
恋人に裏切られ弱っていた会社員の小沢 海斗(おざわ かいと)25歳
幼馴染の悠人に助けられ馴染みのBARへ…
そのまま酔い潰れて目が覚めたら鬼上司と呼ばれている浅井 透(あさい とおる)32歳の部屋にいた…
いったい?…どうして?…こうなった?
「お前は俺のそばに居ろ。黙って愛されてればいい」
スパダリ、イケメン鬼上司×裏切られた傷心海斗は幸せを掴むことができるのか…
性描写には※を付けております。
天の求婚
紅林
BL
太平天帝国では5年ほど前から第一天子と第二天子によって帝位継承争いが勃発していた。
主人公、新田大貴子爵は第二天子派として広く活動していた亡き父の跡を継いで一年前に子爵家を継いだ。しかし、フィラデルフィア合衆国との講和条約を取り付けた第一天子の功績が認められ次期帝位継承者は第一天子となり、派閥争いに負けた第二天子派は継承順位を下げられ、それに付き従った者の中には爵位剥奪のうえ、帝都江流波から追放された華族もいた
そして大貴もその例に漏れず、邸宅にて謹慎を申し付けられ現在は華族用の豪華な護送車で大天族の居城へと向かっていた
即位したての政権が安定していない君主と没落寸前の血筋だけは立派な純血華族の複雑な結婚事情を描いた物語
売れ残りオメガの従僕なる日々
灰鷹
BL
王弟騎士α(23才)× 地方貴族庶子Ω(18才)
※ 第12回BL大賞では、たくさんの応援をありがとうございました!
ユリウスが暮らすシャマラーン帝国では、平民のオメガは18才になると、宮廷で開かれる選定の儀に参加することが義務付けられている。王族の妾となるオメガを選ぶためのその儀式に参加し、誰にも選ばれずに売れ残ったユリウスは、国王陛下から「第3王弟に謀反の疑いがあるため、身辺を探るように」という密命を受け、オメガ嫌いと噂される第3王弟ラインハルトの従僕になった。
無口で無愛想な彼の優しい一面を知り、任務とは裏腹にラインハルトに惹かれていくユリウスであったが、働き始めて3カ月が過ぎたところで第3王弟殿下が辺境伯令嬢の婿養子になるという噂を聞き、従僕も解雇される。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる