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38:今日はキスだけ
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「ごめん。ちょっと集中したい仕事があるから、今日は会えそうにないんだ」
土曜日の朝。電話越しの有馬はそう言ったけれど、その声がひどく疲れていたので、メシだけ差し入れることにした。
「有馬さーん、お届け物でーす!」
昼飯の時間に合わせて航平が電撃訪問すると、玄関に出てきた有馬は廃人と化していた。
スウェットの上下。前髪はゴムで止めてちょんまげのようになっているし、うっすら無精髭も生えている。見事なくたびれようだ。
家でだけかける眼鏡のフレームの下には、濃いクマができている。
締め切り前の漫画家がこんな感じかもしれない。
冗談めかして宅配業者を装ったのだが、有馬は航平を見るなり、眼前で思いっきり引き戸を閉めた。
「え、おい!」
ドアの隙間に素早く手と足を差し込む。
無理矢理押し開こうとすると、有馬が抵抗する。男二人の力比べに古い引き戸はがたがたと鳴った。
しばしの攻防を最初に諦めたのは有馬だった。自衛官の腕力なめんなよ。
「メシ持ってきただけ。仕事の邪魔はしないし、すぐに帰るから」
また扉を閉められては叶わないので、早口で訪問目的を伝える。
有馬は扉で身を隠すようにして言った。
「嬉しいけど、今は駄目」
「なんでだよ」
「カッコ、ちゃんとしてないから」
思わぬ答えに航平は笑う。なんだそれ、女子か。
「別に気にしねえし。家いる時なんて、みんなこんなもんだろ」
「僕が気にする」
「あんたは、どんなカッコでも男前だろ」
「えっ」
動揺した隙をついて、引き戸を全開にして玄関に上がり込んだ。
諦めてくれたのか、有馬は鍵をかけると、航平を台所に通した。
「で、お届け物は?」
暗に偽称を非難する有馬に、エコバッグを開いて見せる。簡単に調理できる食材と保存食があれこれ。
「有馬。ちゃんと食ってないだろ」
「食べてるよ」
「見え透いた嘘つくな。頬こけてんぞ」
勝手知ったるなんとやら。さっさと台所に上がり込んで、仕入れてきた食材を整理する。
家事にまで手が回らないのか、家の中はどこもかしこもうっすらと埃が積もっていた。
散らかっているというより、廃墟のようだ。
掃除は出来ていないのにシンク周りは片付いているから、そもそもまともに食べていないのだろう。
働く航平の横で、有馬は手持無沙汰に突っ立っている。
「メシの支度も掃除もしとくから、仕事してていいぞ」
「いい。ちょっと休憩する」
「そうしろそうしろ。あ、葛湯買ってきたけど飲むか?」
「飲む」
インスタントのパッケージを空けて湯を注ぎ、ハチミツを垂らす。
有馬は立ったまま湯のみを啜った。一口二口で、青白かった頬に血色が戻ったことに安心する。
「あっちで飲んでろよ」
畳敷きの居間を指すが、有馬は「料理するところ見るの好きだから」と動かない。変な男だ。
航平も腹が減っているし、あまり時間をかけたくなかった。
炊飯器を高速炊きにセットし、味噌汁はインスタントだ。お高いやつなので、具がどっさりだし、下手な味噌を使うより断然美味い。
アジの開きをグリルに入れ、冷や奴にネギと鰹節を散らす。
出汁巻き卵は自分で作る。熱した玉子焼き器に卵4個分の卵液を流しいれる。熱い油に卵が触れ、じゅわっといい香りが立つ。
気泡を潰し、折りたたんで寄せて、卵液を追加する。有馬は無言で航平の手元を見ている。
「これ、見てて楽しいのか?」
「楽しいよ。航平は何をしててもカッコいいし可愛い」
「アホか」
焼きあがった出汁巻きに包丁を入れると、いかにも美味そうな湯気が立った。
覗き込む有馬の喉がごくりと鳴る。
仕方ないので、菜箸で一切れをつまみ、口元に差し出した。
「味見」
「いいの?」
「熱いから気をつけろよ」
有馬が顔を寄せてくる。開かれた唇の合間に箸を入れる。
箸を通して、唇と舌の柔らかさが指先に伝わる。
有馬が咀嚼し、嚥下する喉が動く。
なんだか妙に気恥しい。というか、なんかエロい気分になる。
「味、薄すぎなかったか?」
平静を装ったつもりだったが、そう聞いた声はかすれてしまった。
「自分で確かめれば?」
言うなり、有馬が口づけてくる。
触れ合う舌からは、一口分の卵の味なんて残っていなくて、葛と蜂蜜の甘い香りばかりがする。
有馬の両腕が腰に回される。後ろ手に菜箸をシンクに置き有馬の背に手を回した。
いつもきっちりした服装をしているので、スウェットの感触が新鮮だ。
無言のまま、貪るようにキスをした。古い台所に、炊飯とグリルと、キスの音だけがする。
舌がしびれそうだ。血の巡りが速くなり、腰が熱い。
有馬とのキスが好きだ。ハグよりも、もしかしたらセックスよりも、お互いを受け入れている感じがする。
キスの快感に、ぴたりと合わさった互いの体の中心が固くなる。ごりりとした感触に、航平は理性を総動員して身を離した。
「ストップ」
途端に有馬が不機嫌そうな顔になる。子供か。
「なんで」
「なんでって。アジが焦げる」
「火止めればいいでしょ」
「生焼けになるだろ。大体、俺はセックスしにきたんじゃなくて、メシ作りに来たんだよ」
「なにそれ。男の家に来てセックスするつもりなかったとか、どこの世間知らずの処女なの」
やさぐれる有馬の頭をぽんと叩いてから、航平は食事の準備に戻った。
卵焼きを盛りつけ、買ってきた茄子の漬物を切る。
「そりゃあさ、俺だってすげえしたいよ。有馬と」
「航平」
「けど、このまま流されたら、メシ抜きで倒れるまでセックスして。俺が寝てるまに、あんたはさぼった分の仕事を取り戻すために、徹夜で働くんだろ。それは、駄目だ。だから、今日はキスだけで我慢」
返事がないなと思って振り返ると、有馬は感極まった表情で口元を押さえている。
「何してんの」
「航平の優しさに感動してた」
「ははっ。なんだよ、それ。俺が普段優しくないみたいだろ」
「そうじゃないけど」
「ま、仕事が落ち着いたら、美味いもん食って酒飲んで、好きなだけやろうぜ。クリスマスも正月もあるしな」
「…うん。そうだね」
有馬の返事はどこか歯切れが悪かったが、やっぱり疲れてるんだろうなと思って、その時の航平は気にも留めなかった。
そうやって航平は、いくつものサインを見逃していたのだ。
土曜日の朝。電話越しの有馬はそう言ったけれど、その声がひどく疲れていたので、メシだけ差し入れることにした。
「有馬さーん、お届け物でーす!」
昼飯の時間に合わせて航平が電撃訪問すると、玄関に出てきた有馬は廃人と化していた。
スウェットの上下。前髪はゴムで止めてちょんまげのようになっているし、うっすら無精髭も生えている。見事なくたびれようだ。
家でだけかける眼鏡のフレームの下には、濃いクマができている。
締め切り前の漫画家がこんな感じかもしれない。
冗談めかして宅配業者を装ったのだが、有馬は航平を見るなり、眼前で思いっきり引き戸を閉めた。
「え、おい!」
ドアの隙間に素早く手と足を差し込む。
無理矢理押し開こうとすると、有馬が抵抗する。男二人の力比べに古い引き戸はがたがたと鳴った。
しばしの攻防を最初に諦めたのは有馬だった。自衛官の腕力なめんなよ。
「メシ持ってきただけ。仕事の邪魔はしないし、すぐに帰るから」
また扉を閉められては叶わないので、早口で訪問目的を伝える。
有馬は扉で身を隠すようにして言った。
「嬉しいけど、今は駄目」
「なんでだよ」
「カッコ、ちゃんとしてないから」
思わぬ答えに航平は笑う。なんだそれ、女子か。
「別に気にしねえし。家いる時なんて、みんなこんなもんだろ」
「僕が気にする」
「あんたは、どんなカッコでも男前だろ」
「えっ」
動揺した隙をついて、引き戸を全開にして玄関に上がり込んだ。
諦めてくれたのか、有馬は鍵をかけると、航平を台所に通した。
「で、お届け物は?」
暗に偽称を非難する有馬に、エコバッグを開いて見せる。簡単に調理できる食材と保存食があれこれ。
「有馬。ちゃんと食ってないだろ」
「食べてるよ」
「見え透いた嘘つくな。頬こけてんぞ」
勝手知ったるなんとやら。さっさと台所に上がり込んで、仕入れてきた食材を整理する。
家事にまで手が回らないのか、家の中はどこもかしこもうっすらと埃が積もっていた。
散らかっているというより、廃墟のようだ。
掃除は出来ていないのにシンク周りは片付いているから、そもそもまともに食べていないのだろう。
働く航平の横で、有馬は手持無沙汰に突っ立っている。
「メシの支度も掃除もしとくから、仕事してていいぞ」
「いい。ちょっと休憩する」
「そうしろそうしろ。あ、葛湯買ってきたけど飲むか?」
「飲む」
インスタントのパッケージを空けて湯を注ぎ、ハチミツを垂らす。
有馬は立ったまま湯のみを啜った。一口二口で、青白かった頬に血色が戻ったことに安心する。
「あっちで飲んでろよ」
畳敷きの居間を指すが、有馬は「料理するところ見るの好きだから」と動かない。変な男だ。
航平も腹が減っているし、あまり時間をかけたくなかった。
炊飯器を高速炊きにセットし、味噌汁はインスタントだ。お高いやつなので、具がどっさりだし、下手な味噌を使うより断然美味い。
アジの開きをグリルに入れ、冷や奴にネギと鰹節を散らす。
出汁巻き卵は自分で作る。熱した玉子焼き器に卵4個分の卵液を流しいれる。熱い油に卵が触れ、じゅわっといい香りが立つ。
気泡を潰し、折りたたんで寄せて、卵液を追加する。有馬は無言で航平の手元を見ている。
「これ、見てて楽しいのか?」
「楽しいよ。航平は何をしててもカッコいいし可愛い」
「アホか」
焼きあがった出汁巻きに包丁を入れると、いかにも美味そうな湯気が立った。
覗き込む有馬の喉がごくりと鳴る。
仕方ないので、菜箸で一切れをつまみ、口元に差し出した。
「味見」
「いいの?」
「熱いから気をつけろよ」
有馬が顔を寄せてくる。開かれた唇の合間に箸を入れる。
箸を通して、唇と舌の柔らかさが指先に伝わる。
有馬が咀嚼し、嚥下する喉が動く。
なんだか妙に気恥しい。というか、なんかエロい気分になる。
「味、薄すぎなかったか?」
平静を装ったつもりだったが、そう聞いた声はかすれてしまった。
「自分で確かめれば?」
言うなり、有馬が口づけてくる。
触れ合う舌からは、一口分の卵の味なんて残っていなくて、葛と蜂蜜の甘い香りばかりがする。
有馬の両腕が腰に回される。後ろ手に菜箸をシンクに置き有馬の背に手を回した。
いつもきっちりした服装をしているので、スウェットの感触が新鮮だ。
無言のまま、貪るようにキスをした。古い台所に、炊飯とグリルと、キスの音だけがする。
舌がしびれそうだ。血の巡りが速くなり、腰が熱い。
有馬とのキスが好きだ。ハグよりも、もしかしたらセックスよりも、お互いを受け入れている感じがする。
キスの快感に、ぴたりと合わさった互いの体の中心が固くなる。ごりりとした感触に、航平は理性を総動員して身を離した。
「ストップ」
途端に有馬が不機嫌そうな顔になる。子供か。
「なんで」
「なんでって。アジが焦げる」
「火止めればいいでしょ」
「生焼けになるだろ。大体、俺はセックスしにきたんじゃなくて、メシ作りに来たんだよ」
「なにそれ。男の家に来てセックスするつもりなかったとか、どこの世間知らずの処女なの」
やさぐれる有馬の頭をぽんと叩いてから、航平は食事の準備に戻った。
卵焼きを盛りつけ、買ってきた茄子の漬物を切る。
「そりゃあさ、俺だってすげえしたいよ。有馬と」
「航平」
「けど、このまま流されたら、メシ抜きで倒れるまでセックスして。俺が寝てるまに、あんたはさぼった分の仕事を取り戻すために、徹夜で働くんだろ。それは、駄目だ。だから、今日はキスだけで我慢」
返事がないなと思って振り返ると、有馬は感極まった表情で口元を押さえている。
「何してんの」
「航平の優しさに感動してた」
「ははっ。なんだよ、それ。俺が普段優しくないみたいだろ」
「そうじゃないけど」
「ま、仕事が落ち着いたら、美味いもん食って酒飲んで、好きなだけやろうぜ。クリスマスも正月もあるしな」
「…うん。そうだね」
有馬の返事はどこか歯切れが悪かったが、やっぱり疲れてるんだろうなと思って、その時の航平は気にも留めなかった。
そうやって航平は、いくつものサインを見逃していたのだ。
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