花鳥風月

ナムラケイ

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第2章:鳥の羽ばたく、海の彼方へ

Rainy Day

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 雨がざあざあ降っている。
 窓に打ち付ける雨を眺め、中弥は額をに手を当てた。
 雨の日は苦手だ。大雨が続くと頭が重たくなる。
 以前、水田みずた先生に相談したら、気圧の変化で体調を崩す人は少なくないのだという。特効薬があるわけではないが、濃い緑茶を飲むと痛みが和らぐよとアドバイスをくれた。

「中弥君、顔色が悪いけど、大丈夫?」

 この雨で今日は店も閑古鳥だ。客席でペーパーナプキンを折りたたんでいた梅子が気遣ってくれる。

「大丈夫だよ。いつものことだから」
「温かいお茶でも入れましょうか」
「うん、ありがとう」
「あ、そういえばお茶っ葉が少なくなってたかも。ストックを取ってくるわ」
「俺が取ってくるよ。梅子じゃ背が届かない」

 中弥は立ち上がり、補充する茶葉の種類を確認してから、店裏の納戸に向かった。何度の木棚にはオーナーである叔父が買い揃えた茶葉の箱や缶がぎっしりと並んでいる。

「ええと、宇治のかぶせ茶と加賀棒茶。一番上か、これは梅子じゃなくても届かないな」

 加賀棒茶の箱は木棚の最上段、天井のすぐ下だった。脚立を開いて箱を下ろし、茶葉の袋をひとつ取り出す。箱を戻そうと腕に力を入れて押し上げた時、こめかみがずきりと痛んだ。眩暈がして思わず目を閉じる。
 あ、まずい。
 思った時には体勢を崩し、脚立から足を滑らせていた。

「中弥君!?」

 余程大きな音がしたのだろう、飛び込んできた梅子は血相を変えている。

「大丈夫? 怪我は?」
「……おどろかせてごめん。大したことないよ」

 打撲も出血もなかったが、立ち上がろうとすると左足首に激痛が走った。

「痛っ……」
「足? ひねったの?」
「みたいだ。ごめん、肩を貸してくれるかな」

 梅子に支えられながら店内のカウチソファに移動してズボンの裾を捲ると、靴下の上からでも分かるほど左足首が腫れていた。

「捻挫したんだわ。ええと、確か、まずは冷やすのよね、たらいを持ってくるわ!」

 梅子が水を張ったたらいを用意してくれたが、真夏の水は生ぬるい。
 患部は腫れがひどくなっていくし色も赤みが増している。鼓動に合わせて痛みがじくじく伝わってきて、中弥は痛みをやり過ごそうと拳を握りしめた。 

「私、水田先生を呼んでくるわ」
「折れてはないだろうし、放っておけば治るよ」
「駄目よ! いいから大人しく待ってて」

 梅子は慌ただしくエプロンを外して靴を履き替えた。
 こんな雨の日に往診をお願いするのは気が引けたが、痛みは酷くなるばかりで、それ以上梅子と言い合うことさえ億劫だった。

「梅子。ついでに、グレナリー氏のお屋敷に行って、急用が出来たので今日の家庭教師は休ませてほしいと言付けてくれないか。怪我のことは言わないでくれ。心配をかけると悪いから」
「分かったわ、任せて」
「ありがとう。それが終わったら、今日は帰っていいよ。今日はもう店は閉めるから」

 そう言うと、梅子は表情を曇らせて、「一人で平気?」と訊いてくる。
「子供じゃないんだから、脚の捻挫くらいで別に困りはしないよ」

 肩をすくめて見せると、梅子は渋々頷いた。

「分かったわ。じゃあ、表に休業の札を出しておくわね」


 それからどれほど経ったのか、痛みで時間の感覚も意識も曖昧だった。
 到着した水田は丁寧に手を洗ってから、近くの椅子を引き寄せて座った。たらいから引き揚げた中弥の足を膝に乗せ、患部を観察する。
 ずくずくとうずく患部は軽く触れられるだけでも痛む。
 水田はたらいに指を浸して「ぬるいな」と眉をひそめた。水を汲みなおして持参した布袋から氷を流しいれた。水の温度が一気に下がり、幹部がじんと冷えていく。

「氷?」
「氷売りから買ってきたんだ。捻挫はまず冷やすのが大事だからね」
「冷たくて気持ちいいです」
「十分に冷えたら布で圧迫して固定するから」
「はい」
「靭帯が少し傷ついているが、骨は折れていないし、5日程度安静にしていれば大丈夫だよ」

 冷水につけるだけで痛みが随分和らいだ。
 クッションに背を預け、痛みを堪えるために全身に入れていた力を抜く。
 水田は中弥の首元を指さした。

「中弥君、ネクタイを取ってもいいかな?」
「タイですか?」
「楽な服装をした方がいいからね」

 水田の指がノックに入り込み、しゅるりとタイが引き抜かれる。次いで、シャツのボタンを2つ外された。
 確かに、首元に風が通って少し楽になる。

「それから、ズボンを脱げるかな。布で厚めに縛るから、後で脱ぎずらくなる」
「分かりました。あの、着物を取ってきてもいいですか?」
「今は動いてはいけないよ。場所を教えてくれれば、着物は後で僕が取ってくる」

 水田は中弥の足を水から上げると、丁寧に水分を拭きとった。
 雨音はどんどん強くなっていて、窓を割りそうな勢いで叩きつけている。まだ昼過ぎなのに外は日暮れのような薄暗さだ。
 ベルトを外して前をくつろげ、腰を浮かせる。脚を抜くのは水田が手伝ってくれた。
 男同士だがワイシャツ一枚はなんとなく気恥ずかしい。梅子を先に帰らせておいて正解だったと思う。嫁入り前の娘に見せられる格好ではない。
 水田は綿のさらしを取り出し、中弥の足首を強く巻いていく。

「強すぎないかい?」
「大丈夫です」

 巻き終わると、脚をカウチのひじ掛けに乗せる。

「眠る時も足を高く上げておいて。血液が溜まるとまた痛むから」
「はい」
「着物を取ってくるよ。部屋は上かな」
「いえ、やっぱり大丈夫です」

 裾の長いシャツだったが、膝上がすうすうする。
 着物か膝掛が欲しいが、水田といえど自室に入られるのは嫌だった。

「寒くないかい」
「平気です」

 水田は近くの椅子に腰かけると、さらしで巻いた患部の周辺をゆっくりと撫でた。

「先生?」
「人の手には治癒のエネルギーがあるからね。腹が痛い時なんか、手を置くと和らぐ気がしないかい?」

 そうは言うが、撫でられているのはあまり気持ちのいいものではない。
 なんとなく嫌悪感を感じて、どう言えば失礼にならずに止めてもらえるだろうかと思案していると、ドアがノックされた。梅子がクローズドの札をかけ忘れたのだろうか。

「すみません、代わりに出てもらえますか? 今日は休みだと伝えていただければ」
「いいよ」

 水田が立ち上がり入り口に向かう。

「なんであんたがいるんだよ」

 剣呑な声はセイジのものだった。
 セイジは水田越しに中弥の姿を認めると、足早に近づいてきてカウチの横に跪いた。
 ぐるぐる巻きにされた脚を見て、今にも泣きだしそうに顔を歪めた。

「先生、怪我したの? 大丈夫?」
「セイジ、どうしたんだ」
「痛い? 顔色、すごく悪い」

 そういうセイジの方が真っ青な顔をしている。中弥は彼を安心させようと、痛みを堪えて笑みを刻んだ。

「軽い捻挫だよ。先生に治療してもらったから平気だ。痛むけど、5日くらいで治るそうだ」

 説明するとセイジはようやく落ち着きを取り戻したようだった。ジャケットを脱いで、剥き出しだった中弥の脚にかけてくれる。

「先生。なんで服を脱いでるんですか」
「足を固定するのに邪魔だっただけだ」
「だからってこんな……いえ、すみません。喋るのしんどいですよね。休んでください」

 セイジは立ち上がると、傍観者と化していた水田に対峙した。

「水田先生。押領司先生を治療していただいてありがとうございました」

 丁重に礼を述べているが、声が固いしなんだか怖い。

「君に礼を言われることじゃないよ」
「後は俺が看病しますので、どうぞお引き取りください」
「君は前にもこの店にいたよね。居留地の人?」
「そうです。押領司先生に家庭教師をしてもらっています」
「そうですか。では、僕はこれで。中弥君、安静にするんだよ。3日後に経過を見にくる」
「ありがとうございました」

 水田は玄関先で蝙蝠傘を開くと、セイジにだけ聞こえるボリュウムで囁いた。

「親の脛を齧ってるガキが、大人ぶるもんじゃないよ」

 挑発には乗らず、セイジは無表情のまま機械的に答える。

「ご忠告ありがとうございます。ぬかるんでいますから、足元にお気をつけて」
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