92 / 216
退院
しおりを挟む
病室の白い天井を、奏多はぼんやりと見つめていた。
もう術後三週間が経つ。掠れた声も、少しずつ形を取り戻してきた。
けれど喉の奥には、まだじんとした痛みが残っている。
体が落ち着いても、胸の奥のざわつきだけは消えなかった。
(桐谷さん……今、何してるんだろ)
あの日、怒鳴られて、背中を向けられて、ここを出ていかれた。
そのあと桐谷さんは――距離を置くように面会に来なかった。
そこから初めて“来た”のは、奏多が意識を取り戻した日だった。
〝家に帰らず、病室の前でずっと立っていた〟と看護師に後で聞いた。
謝ることもできなくて、なんとなく素直に目を合わせられないまま二週間が過ぎた。
――コンッ。
病室の扉が控えめに叩かれる。
胸が跳ねる。
声が出るか不安になりながらも、奏多は小さく返す。
奏多「……どうぞ……」
その瞬間、戸が静かに開いた。
桐谷「入るぞ」
桐谷さんの声だ。
いつもの落ち着いた低い声…だけど硬さが残っている。
一歩、また一歩と近づいて来る音がやけに大きい。
奏多は反射的に姿勢を正した。
胸が苦しくて仕方ない。
桐谷はベッドの横の椅子に腰を下ろす。
ひどく疲れた顔をしていた。
無理に整えたスーツの襟元は少し乱れている。
桐谷「……体調、どうだ?」
奏多「……だいじょう……ぶ、です」
掠れた声。
無理に出したせいで少し喉が痛む。
すると桐谷は眉を寄せた。
桐谷「無理すんな。まだ喉は完全じゃないだろ」
その言い方は、怒ってもいないし、冷たくもない。
どこか怯えたように感じられて、奏多の胸がぎゅっとなる。
しばらく沈黙が落ちた。
その静けさを破るように、桐谷がゆっくり続ける。
桐谷「……担当医から聞いた。もう退院の話が出てるって」
奏多はこくりと頷いた。
嬉しさと不安が入り混じる。
退院したら――またあの家に戻る。
また桐谷さんを傷つけてしまうのがこわい。
でも、離れて暮らすことなんてもっと無理だ。
奏多「……桐谷さん……」
奏多が口を開いた瞬間、桐谷はかすかに肩を揺らした。
奏多「怒って……ますか……まだ」
掠れた声で聞くと、桐谷は目を伏せた。
深く息を吐き、言葉を選ぶように口を開く。
桐谷「怒ってるわけじゃない。あの日…俺は、自分が怖かっただけだ」
奏多「こわ……?」
桐谷「お前を守れてると思ってたのに、結局追い詰めただけだった。だから……近くにいる資格がない、って勝手に思って……距離を置いた」
弱々しく笑って、桐谷は頭をかく。
桐谷「でも、離れてみて気づいた。ただ――俺のほうが、お前がいないとだめだった」
奏多は胸が熱くなるのを止められなかった。
喉の傷よりも、胸の真ん中がずっと痛い。
奏多「……桐谷さん……ぼく……帰って、いいですか……家に」
桐谷は驚いたように目を上げ、微かに笑った。
桐谷「当たり前だろ。あそこは、お前の家でもあるんだ。退院したら一緒に帰る」
奏多「……怒って……ない……?」
桐谷「怒ってない。あんな風に突き放したのは俺の間違いだ。すまない。…だから、帰ろう。ちゃんと話しながら」
その言葉に、奏多の目がじんと熱くなる。
奏多「……ありが、とう……」
掠れた声で言うと、桐谷はそっと手を伸ばしかけ――
けれど触れていいのか迷うように途中で止め、代わりに優しい声で言った。
桐谷「無理に喋るな。退院までゆっくりしてろ。帰ったら……またいっぱい話そう。」
その「帰ったら」が、
奏多にとって何よりの薬だった。
病室の空気が、少しだけ明るくなった気がした。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
退院許可が下りた朝、病室の空気はいつもと少しだけ違っていた。
窓から差し込む光は柔らかいのに、胸の奥はふわふわと落ち着かない。
看護師が入ってきて、点滴の最後の確認をしながら微笑む。
看護師「顔色もよくなりましたね。家に帰っても、無理しないでゆっくりね」
奏多はかすかに頷いた。
退院できることより、“桐谷と家に戻る” という事実のほうが胸をぎゅっと締めつけていた。
ーーコンッ。
控えめにノックが聞こえ、扉が開く。
桐谷「……準備、できたか?」
桐谷が立っていた。
昨日より少しだけ穏やかな顔。
だけどスーツの腕のところには、寝不足のしわがそのまま残っている。
奏多は小さく頷く。
奏多「……はい」
掠れた声に、桐谷はそっと近づき、荷物を肩にかけた。
桐谷「俺が全部持つ。歩けるか?」
奏多「はい。……たいじょうぶ」
そう言うと、桐谷は一瞬だけ不安そうに目を細めた。
でも、何も言わずにそっと手を腰に差し出す。
“触れていい?” と無言で聞くみたいな、慎重な手。
奏多は、その手に自分の指をそっと触れさせた。
桐谷はほっとしたように、だけど決して強く握らず、添えるだけの力で支えてくれる。
病室を出ると、見慣れた廊下が少し違って見えた。
点滴台の音も、車椅子のタイヤの音も、今日は遠く感じる。
エレベーターの前に着いた時、奏多はぽつりと言った。
奏多「……こわい」
その一言は、桐谷の胸に直接触れたようだった。
桐谷「なにが?」
奏多は喉に触れながら、うつむく。
奏多「帰って……また、桐谷さんを傷つけたら……どうしよう……って」
掠れて震える声。
胸にしまってた不安がこぼれる。
桐谷はすぐに返せなかった。
代わりに、深く息を吸い、いつもの低い声で、静かに言った。
桐谷「大丈夫だよ。あの日は……お前が心配すぎて、うまく言えなかっただけだ」
エレベーターの扉が開く。
桐谷は奏多の肩にそっと手を添えた。
桐谷「帰ったら、ちゃんと俺がお前のそばにいる。逃げないし離れない。」
その言葉に、奏多のまつげがかすかに揺れた。
外へ出ると、街の空気は冷たくて澄んでいた。
久しぶりの外の匂いに、奏多は胸の奥まで空気を吸い込む。
桐谷の車が見える。
助手席のドアを開け、シートベルトまでしてくれる。
桐谷「喉、まだ痛むだろ。無理に喋んな」
奏多は小さく頷いた。
エンジンがかかり、車はゆっくりと病院を離れていく。
窓の外の景色が流れ始めた瞬間、胸の奥で固まっていた不安が少しずつ解けていった。
(……帰れる)
(桐谷さんと……一緒に)
その安心につつまれたまま、奏多は静かに目を閉じた。
桐谷は横目でそれを見て、ほんの少しだけ口元を緩める。
桐谷「……大丈夫だ。お前の帰る場所は、ちゃんとある。」
その声は、奏多が眠りに落ちる直前の、優しい呼びかけだった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
玄関の鍵がまわる音がした瞬間、
奏多の胸がふっと強く締めつけられた。
病院では感じなかった種類の緊張。
ここは「自分の家」であり、「桐谷と過ごしてきた場所」であり、
同時に“あの日の後悔“が残る場所でもあった。
桐谷「靴、ゆっくりでいい。つかまってろ」
桐谷が手を差し伸べる。
奏多は少し迷ってから、その指先に触れる。
そっと、確かめるような柔らかい接触。
部屋をよく見ると空気清浄機が新しいものに変わっていて、棚には奏多が好きだった飲み物が並んでいた。
桐谷が、奏多の様子をちらりと伺いながら言う。
桐谷「……生活しやすく、ちょっとだけ変えた。嫌なら戻す」
奏多は首を横に振った。
奏多「……きれい。ありがと……」
掠れた声のまま言うと、桐谷の目が一瞬だけ柔らかく揺れた。
桐谷「奥の部屋、休めるように整えてある。横になろう」
奏多は歩き出すが、部屋の空気が落ち着きすぎていて逆に胸がざわつく。
懐かしい匂いと、失われていた時間の重み。
(……戻ってきたんだ)
(ほんとうに、ここでまた……暮らすんだ)
その実感と同時に、不安も強く浮かんでくる。
ベッドに腰を下ろした瞬間、奏多の肩がかすかに震えた。
桐谷は、すぐ気づく。
桐谷「どこか痛むか?」
首をふる。
奏多「……痛く、ない。けど……」
言葉が続かなくなる。
喉がつまって、胸がきゅっと縮こまる。
声を出そうとすると、色んなことが頭の片隅でちらついた。
奏多は反射的に身体を縮める。
桐谷の表情が、ゆっくり変わった。
怒らせたと誤解しているのではなく、
「怯え」が蘇っただけだと気づいた顔。
彼はゆっくり、ゆっくり距離を取りながら言った。
桐谷「……俺が近いと、怖いか?」
奏多はすぐには答えられなかった。
否定したいのに、身体が固まってしまう。
俯いたまま、小さく唇が震える。
奏多「……こわい、んじゃない……。でも……わかんない……」
掠れる声。
本人にも説明できないほど複雑な感情が胸の奥をしめつけていた。
桐谷は深く息を吸って、かすかに目を伏せた。
桐谷「……近くにいるだけだ。
だから……ここにいていいか?」
その言い方は、怒気も強さもなく、
ただただ奏多に選ばせるような、静かな声音だった。
奏多はほんの少しだけ顔を上げて、桐谷を見る。
奏多「……いて、ほしい……」
その言葉を聞いた瞬間、桐谷の緊張がふっと溶けた。
距離はとったまま、しかし確かに「そば」に腰を下ろす。
部屋の空気がゆっくり落ち着いていく。
奏多の胸のざわつきも、少しずつ静かになっていく。
桐谷の存在が、触れなくてもちゃんと“そばにある”と分かったから。
しばらく沈黙が続いた後、奏多がぽつりと呟いた。
奏多「……帰ってきて、よかった……?」
桐谷は迷わず答えた。
桐谷「……当然だ。
帰ってくる場所なんて、最初からここしかねぇよ」
その言葉に、奏多の喉がきゅっとつまる。
声は出せなかったけれど、胸の奥がじん、と熱く揺れた。
病院では感じなかった種類の涙がにじむ。
桐谷は、そっと目線をそらしながら言った。
桐谷「泣いてもいい。
泣いたって……責めたりしない」
奏多の涙は、ゆっくりと頬を伝い落ちた。
退院初日の夜は、静かに、でも確かにふたりの距離が縮まっていった。
もう術後三週間が経つ。掠れた声も、少しずつ形を取り戻してきた。
けれど喉の奥には、まだじんとした痛みが残っている。
体が落ち着いても、胸の奥のざわつきだけは消えなかった。
(桐谷さん……今、何してるんだろ)
あの日、怒鳴られて、背中を向けられて、ここを出ていかれた。
そのあと桐谷さんは――距離を置くように面会に来なかった。
そこから初めて“来た”のは、奏多が意識を取り戻した日だった。
〝家に帰らず、病室の前でずっと立っていた〟と看護師に後で聞いた。
謝ることもできなくて、なんとなく素直に目を合わせられないまま二週間が過ぎた。
――コンッ。
病室の扉が控えめに叩かれる。
胸が跳ねる。
声が出るか不安になりながらも、奏多は小さく返す。
奏多「……どうぞ……」
その瞬間、戸が静かに開いた。
桐谷「入るぞ」
桐谷さんの声だ。
いつもの落ち着いた低い声…だけど硬さが残っている。
一歩、また一歩と近づいて来る音がやけに大きい。
奏多は反射的に姿勢を正した。
胸が苦しくて仕方ない。
桐谷はベッドの横の椅子に腰を下ろす。
ひどく疲れた顔をしていた。
無理に整えたスーツの襟元は少し乱れている。
桐谷「……体調、どうだ?」
奏多「……だいじょう……ぶ、です」
掠れた声。
無理に出したせいで少し喉が痛む。
すると桐谷は眉を寄せた。
桐谷「無理すんな。まだ喉は完全じゃないだろ」
その言い方は、怒ってもいないし、冷たくもない。
どこか怯えたように感じられて、奏多の胸がぎゅっとなる。
しばらく沈黙が落ちた。
その静けさを破るように、桐谷がゆっくり続ける。
桐谷「……担当医から聞いた。もう退院の話が出てるって」
奏多はこくりと頷いた。
嬉しさと不安が入り混じる。
退院したら――またあの家に戻る。
また桐谷さんを傷つけてしまうのがこわい。
でも、離れて暮らすことなんてもっと無理だ。
奏多「……桐谷さん……」
奏多が口を開いた瞬間、桐谷はかすかに肩を揺らした。
奏多「怒って……ますか……まだ」
掠れた声で聞くと、桐谷は目を伏せた。
深く息を吐き、言葉を選ぶように口を開く。
桐谷「怒ってるわけじゃない。あの日…俺は、自分が怖かっただけだ」
奏多「こわ……?」
桐谷「お前を守れてると思ってたのに、結局追い詰めただけだった。だから……近くにいる資格がない、って勝手に思って……距離を置いた」
弱々しく笑って、桐谷は頭をかく。
桐谷「でも、離れてみて気づいた。ただ――俺のほうが、お前がいないとだめだった」
奏多は胸が熱くなるのを止められなかった。
喉の傷よりも、胸の真ん中がずっと痛い。
奏多「……桐谷さん……ぼく……帰って、いいですか……家に」
桐谷は驚いたように目を上げ、微かに笑った。
桐谷「当たり前だろ。あそこは、お前の家でもあるんだ。退院したら一緒に帰る」
奏多「……怒って……ない……?」
桐谷「怒ってない。あんな風に突き放したのは俺の間違いだ。すまない。…だから、帰ろう。ちゃんと話しながら」
その言葉に、奏多の目がじんと熱くなる。
奏多「……ありが、とう……」
掠れた声で言うと、桐谷はそっと手を伸ばしかけ――
けれど触れていいのか迷うように途中で止め、代わりに優しい声で言った。
桐谷「無理に喋るな。退院までゆっくりしてろ。帰ったら……またいっぱい話そう。」
その「帰ったら」が、
奏多にとって何よりの薬だった。
病室の空気が、少しだけ明るくなった気がした。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
退院許可が下りた朝、病室の空気はいつもと少しだけ違っていた。
窓から差し込む光は柔らかいのに、胸の奥はふわふわと落ち着かない。
看護師が入ってきて、点滴の最後の確認をしながら微笑む。
看護師「顔色もよくなりましたね。家に帰っても、無理しないでゆっくりね」
奏多はかすかに頷いた。
退院できることより、“桐谷と家に戻る” という事実のほうが胸をぎゅっと締めつけていた。
ーーコンッ。
控えめにノックが聞こえ、扉が開く。
桐谷「……準備、できたか?」
桐谷が立っていた。
昨日より少しだけ穏やかな顔。
だけどスーツの腕のところには、寝不足のしわがそのまま残っている。
奏多は小さく頷く。
奏多「……はい」
掠れた声に、桐谷はそっと近づき、荷物を肩にかけた。
桐谷「俺が全部持つ。歩けるか?」
奏多「はい。……たいじょうぶ」
そう言うと、桐谷は一瞬だけ不安そうに目を細めた。
でも、何も言わずにそっと手を腰に差し出す。
“触れていい?” と無言で聞くみたいな、慎重な手。
奏多は、その手に自分の指をそっと触れさせた。
桐谷はほっとしたように、だけど決して強く握らず、添えるだけの力で支えてくれる。
病室を出ると、見慣れた廊下が少し違って見えた。
点滴台の音も、車椅子のタイヤの音も、今日は遠く感じる。
エレベーターの前に着いた時、奏多はぽつりと言った。
奏多「……こわい」
その一言は、桐谷の胸に直接触れたようだった。
桐谷「なにが?」
奏多は喉に触れながら、うつむく。
奏多「帰って……また、桐谷さんを傷つけたら……どうしよう……って」
掠れて震える声。
胸にしまってた不安がこぼれる。
桐谷はすぐに返せなかった。
代わりに、深く息を吸い、いつもの低い声で、静かに言った。
桐谷「大丈夫だよ。あの日は……お前が心配すぎて、うまく言えなかっただけだ」
エレベーターの扉が開く。
桐谷は奏多の肩にそっと手を添えた。
桐谷「帰ったら、ちゃんと俺がお前のそばにいる。逃げないし離れない。」
その言葉に、奏多のまつげがかすかに揺れた。
外へ出ると、街の空気は冷たくて澄んでいた。
久しぶりの外の匂いに、奏多は胸の奥まで空気を吸い込む。
桐谷の車が見える。
助手席のドアを開け、シートベルトまでしてくれる。
桐谷「喉、まだ痛むだろ。無理に喋んな」
奏多は小さく頷いた。
エンジンがかかり、車はゆっくりと病院を離れていく。
窓の外の景色が流れ始めた瞬間、胸の奥で固まっていた不安が少しずつ解けていった。
(……帰れる)
(桐谷さんと……一緒に)
その安心につつまれたまま、奏多は静かに目を閉じた。
桐谷は横目でそれを見て、ほんの少しだけ口元を緩める。
桐谷「……大丈夫だ。お前の帰る場所は、ちゃんとある。」
その声は、奏多が眠りに落ちる直前の、優しい呼びかけだった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
玄関の鍵がまわる音がした瞬間、
奏多の胸がふっと強く締めつけられた。
病院では感じなかった種類の緊張。
ここは「自分の家」であり、「桐谷と過ごしてきた場所」であり、
同時に“あの日の後悔“が残る場所でもあった。
桐谷「靴、ゆっくりでいい。つかまってろ」
桐谷が手を差し伸べる。
奏多は少し迷ってから、その指先に触れる。
そっと、確かめるような柔らかい接触。
部屋をよく見ると空気清浄機が新しいものに変わっていて、棚には奏多が好きだった飲み物が並んでいた。
桐谷が、奏多の様子をちらりと伺いながら言う。
桐谷「……生活しやすく、ちょっとだけ変えた。嫌なら戻す」
奏多は首を横に振った。
奏多「……きれい。ありがと……」
掠れた声のまま言うと、桐谷の目が一瞬だけ柔らかく揺れた。
桐谷「奥の部屋、休めるように整えてある。横になろう」
奏多は歩き出すが、部屋の空気が落ち着きすぎていて逆に胸がざわつく。
懐かしい匂いと、失われていた時間の重み。
(……戻ってきたんだ)
(ほんとうに、ここでまた……暮らすんだ)
その実感と同時に、不安も強く浮かんでくる。
ベッドに腰を下ろした瞬間、奏多の肩がかすかに震えた。
桐谷は、すぐ気づく。
桐谷「どこか痛むか?」
首をふる。
奏多「……痛く、ない。けど……」
言葉が続かなくなる。
喉がつまって、胸がきゅっと縮こまる。
声を出そうとすると、色んなことが頭の片隅でちらついた。
奏多は反射的に身体を縮める。
桐谷の表情が、ゆっくり変わった。
怒らせたと誤解しているのではなく、
「怯え」が蘇っただけだと気づいた顔。
彼はゆっくり、ゆっくり距離を取りながら言った。
桐谷「……俺が近いと、怖いか?」
奏多はすぐには答えられなかった。
否定したいのに、身体が固まってしまう。
俯いたまま、小さく唇が震える。
奏多「……こわい、んじゃない……。でも……わかんない……」
掠れる声。
本人にも説明できないほど複雑な感情が胸の奥をしめつけていた。
桐谷は深く息を吸って、かすかに目を伏せた。
桐谷「……近くにいるだけだ。
だから……ここにいていいか?」
その言い方は、怒気も強さもなく、
ただただ奏多に選ばせるような、静かな声音だった。
奏多はほんの少しだけ顔を上げて、桐谷を見る。
奏多「……いて、ほしい……」
その言葉を聞いた瞬間、桐谷の緊張がふっと溶けた。
距離はとったまま、しかし確かに「そば」に腰を下ろす。
部屋の空気がゆっくり落ち着いていく。
奏多の胸のざわつきも、少しずつ静かになっていく。
桐谷の存在が、触れなくてもちゃんと“そばにある”と分かったから。
しばらく沈黙が続いた後、奏多がぽつりと呟いた。
奏多「……帰ってきて、よかった……?」
桐谷は迷わず答えた。
桐谷「……当然だ。
帰ってくる場所なんて、最初からここしかねぇよ」
その言葉に、奏多の喉がきゅっとつまる。
声は出せなかったけれど、胸の奥がじん、と熱く揺れた。
病院では感じなかった種類の涙がにじむ。
桐谷は、そっと目線をそらしながら言った。
桐谷「泣いてもいい。
泣いたって……責めたりしない」
奏多の涙は、ゆっくりと頬を伝い落ちた。
退院初日の夜は、静かに、でも確かにふたりの距離が縮まっていった。
49
あなたにおすすめの小説
番を拒み続けるΩと、執着を隠しきれないαが同じ学園で再会したら逃げ場がなくなった話 ――優等生αの過保護な束縛は恋か支配か
雪兎
BL
第二性が存在する世界。
Ωであることを隠し、平穏な学園生活を送ろうと決めていた転校生・湊。
しかし入学初日、彼の前に現れたのは――
幼い頃に「番になろう」と言ってきた幼馴染のα・蓮だった。
成績優秀、容姿端麗、生徒から絶大な信頼を集める完璧なα。
だが湊だけが知っている。
彼が異常なほど執着深いことを。
「大丈夫、全部管理してあげる」
「君が困らないようにしてるだけだよ」
座席、時間割、交友関係、体調管理。
いつの間にか整えられていく環境。
逃げ場のない距離。
番を拒みたいΩと、手放す気のないα。
これは保護か、それとも束縛か。
閉じた学園の中で、二人の関係は静かに歪み始める――。
【柳原学園】いやいや、俺は『俺様生徒会長』だから
西園 斎
BL
家の都合で『俺様』を演じてる生徒会長が、生徒会やら風紀やら教師やらから好かれるお話。
演技俺様会長総受け(愛され)/後固定CP
*10年以上前の作品を、やや加筆修正していきます
たとえば、俺が幸せになってもいいのなら
夜月るな
BL
全てを1人で抱え込む高校生の少年が、誰かに頼り甘えることを覚えていくまでの物語―――
父を目の前で亡くし、母に突き放され、たった一人寄り添ってくれた兄もいなくなっていまった。
弟を守り、罪悪感も自責の念もたった1人で抱える新谷 律の心が、少しずつほぐれていく。
助けてほしいと言葉にする権利すらないと笑う少年が、救われるまでのお話。
氷の婚約者様に破談を申し出たら号泣された
楽矢
BL
目が覚めると、レースの牢獄のような天蓋付きベッドの上だった。
何も覚えていない出来損ない下級貴族ミラ。無能だクズだと冷酷な罵詈雑言を浴びせてくる氷の騎士セティアス。
記憶喪失から始まる、2人のファンタジー貴族ラブコメディ。
----------
※注)
かっこいい攻はいません。
タイトル通りそのうち号泣しますのでご注意!
貴族描写は緩い目で雰囲気だけお読みいただけると幸いです。
ハッピーエンドです。
激重感情をこじらせた攻→受な関係がお好きな同志の方、どうぞよろしくお願いします!
全16話 完結済み/現在毎日更新予定
他サイトにも同作品を投稿しています。
様子を見ながらそのうち統合するかもしれません。
初めての一次創作でまだよく分かっておらず、何かおかしなことをしでかしていたら申し訳ないです!
大嫌いなこの世界で
十時(如月皐)
BL
嫌いなもの。豪華な調度品、山のような美食、惜しげなく晒される媚態……そして、縋り甘えるしかできない弱さ。
豊かな国、ディーディアの王宮で働く凪は笑顔を見せることのない冷たい男だと言われていた。
昔は豊かな暮らしをしていて、傅かれる立場から傅く立場になったのが不満なのだろう、とか、
母親が王の寵妃となり、生まれた娘は王女として暮らしているのに、自分は使用人であるのが我慢ならないのだろうと人々は噂する。
そんな中、凪はひとつの事件に巻き込まれて……。
『定時後の偶然が多すぎる』
こさ
BL
定時後に残業をするたび、
なぜか必ず同じ上司が、同じフロアに残っている。
仕事ができて、無口で、社内でも一目置かれている存在。
必要以上に踏み込まず、距離を保つ人――
それが、彼の上司だった。
ただの偶然。
そう思っていたはずなのに、
声をかけられる回数が増え、
視線が重なる時間が長くなっていく。
「無理はするな」
それだけの言葉に、胸がざわつく理由を、
彼自身はまだ知らない。
これは、
気づかないふりをする上司と、
勘違いだと思い込もうとする部下が、
少しずつ“偶然”を積み重ねていく話。
静かで、逃げ場のない溺愛が、
定時後から始まる。
若頭の溺愛は、今日も平常運転です
なの
BL
『ヤクザの恋は重すぎて甘すぎる』続編!
過保護すぎる若頭・鷹臣との同棲生活にツッコミが追いつかない毎日を送る幼なじみの相良悠真。
ホットミルクに外出禁止、舎弟たちのニヤニヤ見守り付き(?)ラブコメ生活はいつだって騒がしく、でもどこかあったかい。
だけどそんな日常の中で、鷹臣の覚悟に触れ、悠真は気づく。
……俺も、ちゃんと応えたい。
笑って泣けて、めいっぱい甘い!
騒がしくて幸せすぎる、ヤクザとツッコミ男子の結婚一直線ラブストーリー!
※前作『ヤクザの恋は重すぎて甘すぎる』を読んでからの方が、より深く楽しめます。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる