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移動
倉庫の中に入った瞬間、奏多ははっきりと分かった。
――桐谷さんがいない
その事実が、胸の奥をじわじわと冷やしていく。
翠が半歩前に立ち、奏多を庇うように視線を向ける先に、男はいた。
スーツ姿で、相変わらず柔らかい笑みを浮かべている。
「……来てくれはったんやな」
軽い口調。
けれど、倉庫の空気は重く張りつめたままだ。
「解毒剤は持っているんですか」
翠が静かに問いかける。
「持ってるで。嘘は言わん」
陵はそう言って、内ポケットを軽く叩いた。
奏多の喉が鳴る。
その小さな仕草ひとつに、命が握られている感覚がした。
「……解毒剤、ください…」
震えを抑えながら、奏多が口を開く。
陵は一瞬だけ真顔になり、すぐにまた笑った。
「無理やな。ここは人目につく。道具も足らん」
倉庫の奥をちらりと見回し、続ける。
「ちゃんと解毒するには、別の場所がいる」
翠の眉が、わずかに動く。
「場所を変える、ということですか」
「せや」
陵は迷いなく頷いた。
「車、外に停めてある。そこから少しのところや」
奏多の心臓が、嫌な音を立てて早まる。
(車に……乗る?)
逃げ場のない密室。
それを想像しただけで、息が詰まりそうになる。
「……断る選択肢は?」
翠の声は冷静だったが、わずかに硬い。
陵は笑ったまま、首を傾ける。
「あるにはあるで?」
「ただし、その場合は――解毒は間に合わんかもしれへんな」
奏多の視界が、ふっと暗くなる。
身体の奥で、熱が脈打つように広がった。
翠がすぐに奏多の肩を支える。
「奏多さん」
「……大丈夫」
そう言ったものの、足元は頼りなかった。
陵はそれを見て、ため息のように息を吐く。
「時間、あんまりないんや。無理させたいわけちゃう」
そして、穏やかな声で言った。
「来てほしーなあ。ちゃーんと助ける」
その言葉が、どこまで本当なのかは分からない。
けれど、他に選択肢がないことだけは、はっきりしていた。
翠は一瞬目を閉じ、決断するように頷いた。
「……分かりました。ただし、俺も一緒です」
「もちろんや」
「君にも大切な役割があるんやから。」
「???」
陵はあっさりと答え、背を向ける。
最後の言葉に違和感を覚えたものの、陵に奏多を支えながらついて行く。
「ほな、行こか」
倉庫の扉が開く。
冷たい夜風が吹き込み、奏多の体が小さく震えた。
外には黒い車が一台、エンジンをかけたまま待っている。
後部座席のドアが開き、暗い車内が口を開ける。
翠が先に乗り込み、奏多を支える。
「ゆっくりで大丈夫です」
「……うん」
奏多は歯を食いしばり、車に身を預けた。
ドアが閉まる音が、やけに大きく響く。
前の席に座った陵が、ミラー越しに二人を見る。
「心配せんでええ」
にこりと笑って、言った。
「ちゃんと、間に合わせたる」
エンジン音が高まり、車は闇の中へ走り出す。
その先に何が待っているのか――
奏多には、もう考える余裕すら残っていなかった。
****
車が走り出してしばらくすると、外の街灯が流れるたびに、奏多の視界が不規則に揺れ始めた。
光が線になり、闇が膨らむ。音だけが妙に近い。
「……っ」
小さく息を吸おうとして、うまくいかない。
胸の奥が詰まるようで、呼吸のリズムが乱れた。
隣の翠がすぐに気づく。
「奏多さん、呼吸を整えましょう。
俺の声、聞こえますか」
落ち着いた敬語。
その声だけが、現実に繋ぎ止める細い糸だった。
「……うん……」
答えはかすれる。
額にじわりと汗が浮かび、体の芯が熱いのに、指先は冷え切っている。
前の席から、陵がちらりとミラーを見る。
「しんどそうやな笑」
「あと少しや。はやく解毒したいやろ?」
(やっぱ、いい顔するわ…笑かわええなあ。)
奏多の視界に、ふっと影が差した。
何かが、車内の隅にいる――そんな感覚。
「……そこ……」
指先が宙をさす。
何もない空間を、確かに“見ている”ようだった。
翠が迷わず、奏多の手を包む。
「そこには何もありません。俺と一緒です。」
体温が伝わる。
それだけで、影は薄れるが、完全には消えない。
奏多は唇を噛み、必死に意識を保とうとする。
「……桐谷さん……」
名前が、無意識にこぼれた。
その瞬間、胸が締めつけられる。
ここにいない人の名を呼んだ事実が、不安を倍にする。
翠は一瞬だけ表情を曇らせ、それでも声色を崩さない。
「もうすぐです。到着したら、すぐ処置に入ります」
奏多の耳には、その言葉が遠く響いた。
代わりに、心臓の音だけがやけに大きい。
呼吸が浅くなり、視界が白く滲む。
「……眠い……」
意識が、ふっと落ちそうになる。
「奏多さん、今寝るのはマズイ気がするんで、もう少し、我慢してください。」
(意識離したら戻ってこない可能性があるから…)
翠の声が、少しだけ強くなる。
「俺の手、握れますか」
奏多は、かろうじて指を動かした。
握り返す力は弱いが、確かにそこにいる。
車は、暗い脇道へと入っていく。
街の気配が消え、静けさが濃くなる。
前方に、ぽつりと灯りが見えた。
「着いたで」
陵の声が、短く告げる。
その言葉と同時に、奏多の意識が大きく揺れた。
――ここから先は、もう後戻りできない。
翠は、奏多を支える腕に力を込める。
「大丈夫。俺が離れません」
車が止まる。
ドアが開く音が、やけに大きく響いた。
――桐谷さんがいない
その事実が、胸の奥をじわじわと冷やしていく。
翠が半歩前に立ち、奏多を庇うように視線を向ける先に、男はいた。
スーツ姿で、相変わらず柔らかい笑みを浮かべている。
「……来てくれはったんやな」
軽い口調。
けれど、倉庫の空気は重く張りつめたままだ。
「解毒剤は持っているんですか」
翠が静かに問いかける。
「持ってるで。嘘は言わん」
陵はそう言って、内ポケットを軽く叩いた。
奏多の喉が鳴る。
その小さな仕草ひとつに、命が握られている感覚がした。
「……解毒剤、ください…」
震えを抑えながら、奏多が口を開く。
陵は一瞬だけ真顔になり、すぐにまた笑った。
「無理やな。ここは人目につく。道具も足らん」
倉庫の奥をちらりと見回し、続ける。
「ちゃんと解毒するには、別の場所がいる」
翠の眉が、わずかに動く。
「場所を変える、ということですか」
「せや」
陵は迷いなく頷いた。
「車、外に停めてある。そこから少しのところや」
奏多の心臓が、嫌な音を立てて早まる。
(車に……乗る?)
逃げ場のない密室。
それを想像しただけで、息が詰まりそうになる。
「……断る選択肢は?」
翠の声は冷静だったが、わずかに硬い。
陵は笑ったまま、首を傾ける。
「あるにはあるで?」
「ただし、その場合は――解毒は間に合わんかもしれへんな」
奏多の視界が、ふっと暗くなる。
身体の奥で、熱が脈打つように広がった。
翠がすぐに奏多の肩を支える。
「奏多さん」
「……大丈夫」
そう言ったものの、足元は頼りなかった。
陵はそれを見て、ため息のように息を吐く。
「時間、あんまりないんや。無理させたいわけちゃう」
そして、穏やかな声で言った。
「来てほしーなあ。ちゃーんと助ける」
その言葉が、どこまで本当なのかは分からない。
けれど、他に選択肢がないことだけは、はっきりしていた。
翠は一瞬目を閉じ、決断するように頷いた。
「……分かりました。ただし、俺も一緒です」
「もちろんや」
「君にも大切な役割があるんやから。」
「???」
陵はあっさりと答え、背を向ける。
最後の言葉に違和感を覚えたものの、陵に奏多を支えながらついて行く。
「ほな、行こか」
倉庫の扉が開く。
冷たい夜風が吹き込み、奏多の体が小さく震えた。
外には黒い車が一台、エンジンをかけたまま待っている。
後部座席のドアが開き、暗い車内が口を開ける。
翠が先に乗り込み、奏多を支える。
「ゆっくりで大丈夫です」
「……うん」
奏多は歯を食いしばり、車に身を預けた。
ドアが閉まる音が、やけに大きく響く。
前の席に座った陵が、ミラー越しに二人を見る。
「心配せんでええ」
にこりと笑って、言った。
「ちゃんと、間に合わせたる」
エンジン音が高まり、車は闇の中へ走り出す。
その先に何が待っているのか――
奏多には、もう考える余裕すら残っていなかった。
****
車が走り出してしばらくすると、外の街灯が流れるたびに、奏多の視界が不規則に揺れ始めた。
光が線になり、闇が膨らむ。音だけが妙に近い。
「……っ」
小さく息を吸おうとして、うまくいかない。
胸の奥が詰まるようで、呼吸のリズムが乱れた。
隣の翠がすぐに気づく。
「奏多さん、呼吸を整えましょう。
俺の声、聞こえますか」
落ち着いた敬語。
その声だけが、現実に繋ぎ止める細い糸だった。
「……うん……」
答えはかすれる。
額にじわりと汗が浮かび、体の芯が熱いのに、指先は冷え切っている。
前の席から、陵がちらりとミラーを見る。
「しんどそうやな笑」
「あと少しや。はやく解毒したいやろ?」
(やっぱ、いい顔するわ…笑かわええなあ。)
奏多の視界に、ふっと影が差した。
何かが、車内の隅にいる――そんな感覚。
「……そこ……」
指先が宙をさす。
何もない空間を、確かに“見ている”ようだった。
翠が迷わず、奏多の手を包む。
「そこには何もありません。俺と一緒です。」
体温が伝わる。
それだけで、影は薄れるが、完全には消えない。
奏多は唇を噛み、必死に意識を保とうとする。
「……桐谷さん……」
名前が、無意識にこぼれた。
その瞬間、胸が締めつけられる。
ここにいない人の名を呼んだ事実が、不安を倍にする。
翠は一瞬だけ表情を曇らせ、それでも声色を崩さない。
「もうすぐです。到着したら、すぐ処置に入ります」
奏多の耳には、その言葉が遠く響いた。
代わりに、心臓の音だけがやけに大きい。
呼吸が浅くなり、視界が白く滲む。
「……眠い……」
意識が、ふっと落ちそうになる。
「奏多さん、今寝るのはマズイ気がするんで、もう少し、我慢してください。」
(意識離したら戻ってこない可能性があるから…)
翠の声が、少しだけ強くなる。
「俺の手、握れますか」
奏多は、かろうじて指を動かした。
握り返す力は弱いが、確かにそこにいる。
車は、暗い脇道へと入っていく。
街の気配が消え、静けさが濃くなる。
前方に、ぽつりと灯りが見えた。
「着いたで」
陵の声が、短く告げる。
その言葉と同時に、奏多の意識が大きく揺れた。
――ここから先は、もう後戻りできない。
翠は、奏多を支える腕に力を込める。
「大丈夫。俺が離れません」
車が止まる。
ドアが開く音が、やけに大きく響いた。
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